山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

金村別雷神社に参拝する

2011-04-17 05:09:22 | くるま旅くらしの話

  このところ旅に出かけるのができなくなっています。旅車などで悠長に旅を楽しむなどというのは、非国民の為せる行いだと自分で決めてしまっています。普段通りの暮らしをしてくれないと被災地の経済が却って困難な状況に追い込まれるのだという話もありますが、その中にはくるま旅くらしなんぞという話が含まれるはずがありません。被災地に出かけて何か少しでもお手伝いができないかと思ったりもするのですが、避難所で苦労されている皆さんの前にキャンピングカーなどで行こうものなら、手伝いさせて頂ける前に、拒否や反感を頂戴するのは明らかです。自分が反対の立場に立てば、やはり同じような反発心を抱いてしまうに違いないからです。今回のような大災害時にキャンピングカーが役立つとすれば、それは個人ではなく、チームでの支援活動の際の自活の場としてくらいしかないと思います。それで、今年は長期間のくるま旅を自粛しようと考えています。唯一のチャンスは夏の間に計画停電や放射能等の汚染状況が問題化した場合には、関東の現地から立ち去り、北海道でひっそりと現地暮らしを送ることにでもしたいと考えています。

 で、今のところは、近場の気づかなかった歴史・観光・名所等のスポットへ出かけて見聞を高めようと考えています。それで、今日はその初めに隣の常総市にある吉野公園の桜を見がてら、その近くにある金村別雷神社というのを訪ねて見ようと思い立ちました。この神社のことは地図で見ているだけで、一度も行ったことがないのですが、その名称が珍しいのでどんなところなのか訪ねて見たいと予てから思っていたのでした。

 小貝川というのは、利根川の支流でその源は栃木県の那須エリアにあるようですが、この地域に大雨が降ると下流では洪水となり堤防が決壊するなどして、つくばみらい市や取手市などでは、その昔はかなりの被害を受けている暴れ川なのです。今は大分鎮まっていますが、過去から数多くの堤防工事などが行われており、その後に植えた桜の木々たちが今では幾つかの桜並木の名所をつくっています。吉野公園というのがあり、そこは小貝川が流れを変えてくびれたような形の池となって残った箇所に作られています。ここは川釣り公園として有名で、フナなどの釣り人が多い場所です。その釣堀公園にはたくさんの桜があって、この季節はそれを見に来る人も多いのです。ところが、公園に行く途中にある4kmに及ぶ桜並木のソメイヨシノは既に開花の峠を超えており、葉桜に近くなっているのも見受けられる状況でした。これじゃあ行っても仕方がないと、吉野公園に行くのを止め、そのまま金村別雷神社に向かったのでした。

 この神社が珍しいと思ったのは、その名称から推して祭神が雷ではないかと思ったからでした。雷を祭る神社というのは今まであまり聞いたことがありません。まず金村別雷神社を何と読むのかが判りませんでした。金村というのは文字通り「かなむら」であり、これはこの辺の昔からの地名でありましょう。さて、次の別という字ですが、これは「べつ」ではなく「わけ」ではないかと思いました。今は「わけ」という読み方は使われていないと思いますが、昔であればこの字はむしろ「わけ」と呼んで使っていたように思ったのです。それは奈良県の吉野に旅した時に「水分神社」というのがあり、これは「みずわけ」ではなく「みくまり」と読むのを知ったからです。今の当用漢字は底が浅いので、日本の歴史や伝統を正確に伝えないような文字ばかりとなっている感じがします。あとで神社の由来書きを見て「わけ」が正解であるのを知りちょっぴり嬉しくなりました。次の雷ですが、これはもう勿論「らい」や「かみなり」などではなく「いかずち」に決まっています。つまりこの神社の名称は、「かねむら・わけいかずち・じんじゃ」と読むことが正解となります。但し、「かねむら」か「かなむら」かは地名なので判りません。

 というわけで、その神社に向かったのですが、何と小貝川の土手をあがると、古い橋があって神社はその橋を渡った小貝川の川原と思しき場所にあるのです。しかもその橋は先日の大地震で橋げたの一部が損傷したらしく、通行止めとなっていました。幸い人の通行は大丈夫ということでしたので、歩いての参拝には支障はありませんでした。

 

  

神社に向かう橋。この橋を渡った左手に鳥居があって参道が続いているのだが、この橋は車の通行が禁止されていた。大地震で橋の左のコンクリートの端が傾いているほか、道の舗装にもひび割れが走っていた。

 

暴れ川と言われている川の川原の中に神社があるというのは不思議にして豪胆な考え方だなと思いました。熊野の熊野大社もその昔は熊野川の河原にあったようですが、洪水で流され、今は山の手の方に移されていると聞いています。祭神がよほど豪胆でないと、なかなかできない振る舞いだなと思いました。小貝川には小さな水神様は数多く祭られていますが、こんなに大きくてしかも雷を祭った神社というのは珍しいと思いました。恐らくここは洪水も恐れて避けて通るために、今日までその姿をとどめているのかもしれません。

鳥居をくぐってすぐ傍の左手にケヤキの大木が二本ありました。幹のふもとは(うろ)になっていて、この神社とともに歩んできたのを誇りに思っているよう空に聳えっていました。樹齢は五百年を越えているのではないかと思います。いつも思うのは、巨木というのは歴史の証言者なのだということです。

 

     

2本のケヤキの大木。神社の建物が造られた後の建て直しや大補修の後で一緒に植えられたに違いない、兄弟の樹だと思った。

   

100mほどの参道の両側は草地になっていてその中に何本かの桜が植えられていました。ソメイヨシノの他に大山桜に似たあでやかな色の花の桜の木も何本か混ざっていました。イチョウやケヤキの大木に取り巻かれて、古びた社殿がどっしりと落ち着いた構えを見せていました。

   

   

金村別雷神社の正面からの景観。規模は大きくないけど落ちついた歴史を感じさせる雰囲気に満ちた建物と空間がそこにあった。 

  

拝殿にて参拝を済ませ、社殿の周りをぐるっと見て回りました。大木に覆われた神社の空気というものは、真に清涼感に溢れており、何とも言えない落ちついた味わいがあります。何か珍しい野草はないかと探してみましたが、目ぼしいものは見当たらず、ヒメオドリコソウの群落が幾つかあった程度でした。社殿の裏側の方の土台の一部が崩れているのに気付きましたが、これは先日の大地震の被害に違いありません。そういえば、先ほど通ってきた参道の両側にある幾つかの石燈籠の上部が崩れ落ちていたり、ズレているものがあったのもやはり地震の仕業であり、千年に一度と言われる大地震は、千年以上の歴史を持つこの神社の境内を大揺すりして傷つけたということです。

由来書によれば、この神社の創設は932年といいますから既に千年以上を過ぎています。元々はこの地を領していた桓武天皇の孫である豊田氏が、京都の賀茂別雷大神の分霊を奉迎し、この地に鎮祭したとのことです。豊田氏のことは良く解りませんが、常総市の石下町にはその豊田氏の居城を模した豊田城が造られており、その緑青色の(たたず)まいは近くを通る時は目立った存在となっています。その豊田氏のご先祖がこの神社をつくられたのだということが解り、一つ又この地の歴史の一端に触れた思いがして嬉しい時間でした。

帰りの道の脇に淡い紫色のカキドオシの花の群落と関東では珍しい白花タンポポの群落を見つけて、更にここに参拝したことの満足が膨らみました。

 

  

関東には珍しい白花タンポポの花。関西以西の方から見れば、大して珍しくもない花だと思うけど、そのうちに見られなくなるかも。

 

と、ここで終われば良かったのですが、この後車に戻ろうと橋を渡り終えた途端に、ドーンという地鳴りと共にぐらっと一揺れきたのには驚かされました。震度5のレベルだったとのことです。橋が落ちなかったのは幸運でした。雷神の力で、この地震を何とか鎮めて頂きたいと切に思ったのでした。

コメント
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