山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大事時のリーダー

2011-04-03 08:10:10 | その他

  世の中にはリーダーという存在があります。一般的にはリーダーというのは統率者とか指導者とか言われていますが、この存在には二面的なものがあって、形式的なリーダーと実質的なリーダーとの二つがあると考えられます。リーダーの備え持つべき要件としてリーダーシップというものがありますが、この本質は影響力と考えるのが普通のようです。統率力というのは影響力の一部と考えられます。一般の企業でリーダーというのは、そのセクション(=部署)のトップを指しており、これは勿論形式的な立場ですが、同時に実質的にもそのセクションにおいて最も影響力のある人物が選ばれるのがふさわしいというのが常識であり、且つ多くの企業ではそのような配置がなされていると思われます。

ところが、まま人事のミスマッチがあることがあり、悲劇が起こることがあります。それは形式的なトップの立場になった人物に影響力が不足している場合です。笛吹けど踊らずという現象が出来(しゅったい)します。部長が幾ら叱咤激励(しったげきれい)しても課長以下の部下たち一向に動かなかったり、さっぱりやる気を起こしてくれないというような状況です。これはどのような組織においても致命的な欠陥だと言えると思います。このミスマッチは、組織の上部に行けば行くほど傷は深くなり、組織の破壊や崩壊に繋がってゆきます。

ま、このようなことを偉そうに解説するまでも無く、誰だってそんなことは判っていると考えるのだと思いますが、私の人生経験では、世の中の組織と呼ばれる人間の集まりの半分くらいはこの種のミスマッチをどこかに抱えて動いているように感じています。それでも世の中がどうにか動いてゆけるのは、組織の多くの成員が寛大であるか、ずぼらなのか、諦めているのか、余りつべこべ言わないでマイペースを通しているからなのかもしれません。本当のところは良く判りませんが。

ところで、このリーダーとリーダーシップの問題ですが、私は平時と非常時(=大事時)とでは違うように思っています。本物のリーダーシップというのは、大事のときこそ発揮されなければならないと考えています。平時は特別に判断を誤りさえしなければ、リーダーが事業の成り行きを揺さぶるような結果を招来することなどありえません。良識あると思われる普通の人物ならば、大きな組織でもほどほどの成果を生み出すことは十分に可能です。ところが非常時の大事の場面では、その判断や行動に過不足があれば、組織の将来を危うくすることにつながるのです。これはどのような組織、たとえば社会の最小単位である家庭においてさえも、或いは最大単位の国家においても同じことが言えます。

今、日本国は国難に遭遇しています。まさに今その渦中にあります。いろいろな意味でリーダーの存在と力量が試される時なのだと思います。未だ国のトップにおられる人たちのことをあれこれコメントするのは早すぎるように思いますが、この国を動かすべき立場にある人たちの動きについては、これからもしっかり見守ってゆく必要があると思います。

でも一つだけ許し難いリーダーの存在を感じているのは、原発事故の当事者である東京電力という会社のトップの人たちです。この会社には5万人を超えるという大勢の人たちが働いているわけですが、命を懸けて事故を食い止めようとしている現場第一線の人たちに比べて、トップのリーダーと呼ばれる人たちの影の薄さは、あまりにもお粗末すぎると思わざるをえません。恐らくこの人たちは平時であれば、穏やかで優しい理解ある上司でありトップであるに違いありません。皆良い人たちなのだと思います。しかし、非常時の今、彼らが対峙するのは、社内や関係役所ではなく、世の中の人々でありこの国の未来なのです。そのことに思いが全くといってよいほど至っていないリーダーばかりのように思えます。

幾ら(なじ)ってみたところで、今更どうにもなりせんが、現役のトップであ社長は入院してお詫びもできず、引退しかかった会長もことばを慎重に選びながらお詫びを述べ、他のエライ人たちは一緒に頭を下げるだけの記者会見でした。これを聞いていて、納得したというよう人物は、東電の社内にだって少ないのではないかと思います。第一線で放射能まみれで仕事している人たちには碌に満足な飯も睡眠もとらせず、少しばかり日当の額を上げてやればそれで済むなどと思っているのかと、あまりにも太平楽のおぼっちゃま経営者の立ち居振る舞いに腹立しさを通り越して唖然とするばかりです。今は我慢するしかありませんが、この大事が収まった暁には、断乎としてこの会社のあり方を、とくにトップのあり方を糾明すべきだと思っています。

このようなリーダーのあり様を見ていて思うのは、「事上磨」という王陽明の言葉です。このブログでも書いたように記憶していますが、中国は明の時代の実践行動の思想家の王陽明は、人はすべからく事上にあって磨くべしと諭しています。事上というのは、事(=大事、普通でない問題状況)の中でということであり、人間の精神というのはそのような困難・苦難の中で鍛えられるということを意味しているのです。東京電力という会社は、今、まさに国難を引き起こしている現状にあるのであり、本来リーダーと呼ばれる人間ならば、このような時にこそ自分の全能力を大事に捧げるべきと考えます。それができないのは、平時での効率ばかりを追い掛ける思考に馴れて非常時対応の精神の練磨を忘れていた明らかな証拠です。もう手遅れだと思います。

現在の大事時の中で最大限の汗をかいた人物が、次のトップに就くことを切望します。電力はもはや国の公器事業そのものなのです。会社をつぶせば済むという話ではありません。電力なしではこの世は現在も未来も無くなってしまうのですから。今までと同じように、順送りに善人ぶった効率追求者が次のトップに選ばれるようなことが絶対にあってはならないと思います。

大震災の恐るべき二次災害の震源地である企業のトップのあり様と(国の所轄庁たる経済産業省原子力安全保安院の存在についても大いなる疑念を禁じ得ませんが)そのこれからについて、同じ過ちが繰り返されることがないよう厳しく願っています。もし電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門さんがご存命であったら、この事態をどう受け止められたのだろうかと、ふと思ったりしています。電力を得るためには手段を選ばないのか、それとも最終的な電力使用者すべての安全と幸福を最優先されてどのような判断をされるのか、その人物の本物度が問われる電力事業界の未曽有の大事件だと思うからです。

コメント
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