山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

日本的思考は日本人のもの

2011-04-09 05:43:55 | 宵宵妄話

  ブログを書いているといろいろな方からコメントを頂戴することがあります。その方々がどのような人物なのか判らないので、コメントを頂いて気にするのは、せいぜい私に対して好意的なのか悪意なのか、はたまたまともではない別世界の変人なのかと判断するしかないわけです。その中でも、どう受け止めていいのか判らない方に時々出会うことがあります。出会うといっても直接お会いしていないので、その真意は勘ぐるほかありません。そのお一人に「noga」というハンドルネームの方がおられます。このお方には2度コメントを頂戴しました。

私のブログは、もともとくるま旅くらしのあり様を綴ろうと始めたものなのですが、今は家内の体調のことなどもあって旅が自在にはできないため在宅がほとんどで、身近の出来事や世間のありようなどの感想を書き綴っていることが多いのですが、それらの出来事に心を共振したり反発したりすることがあり、時々我ながら少し度を越したかなと思うことを書くことがあります。たとえばこの国の在り様とか、あるいは今回の東日本大地震では、様々の驚きとともに心を揺すぶられる報道などにぶつかってその思いなどを書いています。その時にこのnogaという方からの言葉を頂いています。それがどうもよく分らないのです。

多分に私のものの考え方に対する批判なのだと思いますが、それはどうやら私が日本人的な曖昧な発想でものごとを述べていることに対するご批判のようなのです。この方の日本人に対するご意見は厳しく、日本人の使っている日本語には時制というものが無く、未来も過去も皆それらを一緒くたにして現在で括って表現し、思考しているということのようです。時制を大切にする(というよりも当たり前とする)国においては、ものごとの真実がクリアーに見える生き方が可能となるけど、日本語に埋没している日本人にはそれができないようだという様にも聞こえます。それが本当なのかどうか私には解りません。日本語に時制が無いということは明らかですから、そうなのかもしれません。

今の世界は英語が中心となっており、真の開国のためには英語を身につけ英語圏での発想を理解し、英語を通して日本人というものを理解してもらわなければならないというご意見です。それはそうかもしれません。また、時制を持つ言葉であれば、英語以外の国でも良いということなのかも知れません。とにかく日本語ではだめなのだということのようです。

私は外国語のさっぱり判らない生粋の日本人の田舎者ですから、この方(nogaさんというのは寺島眞一というお名前らしい)の理解では、どうやら得体の知れない意思のない恣意ばかりの人間となるようです。そしてブログに書いていることは大方(あるいは全部)単なる愚痴のようなものに過ぎないということになるようです。これは的を射ていますね。宵々妄話として括ってあるのは、もともと自分でもこれらの話は妄話なのだと、そう思っているのですから。くるま旅くらしの話だって、その他の話だってブログなどというものは、せいぜい妄話の類に過ぎないものでしょう。

一国の言語がその国の国民性とか精神性を表すというのは当然のことだと思います。開国のためにはそれらを捨てて世界に共通する言語を身につけ、それに基づく新たな国民性と精神性を作りなおさなければならないというのならば、私は鎖国を選びます。今も現実に鎖国を続けているのかもしれません。子供のような日本人で良いと思っています。英語を話すことによって、日本人のメンタリティや国民性が英語圏に同化し、彼らと同じような発想、思考体系を持たなければならないとしたら、日本人はどこへ行ってしまうのか。日本語はアイヌ語と同じように地名くらいでしか残らなくなってしまうのではないか。そして同じように日本の文化なども観光用に残るだけのものとなってしまうのではないか。日本人の田舎者には、そのような開国の条件はとても飲めるものではありません。

私は英語が我が国の第2公用語として取り上げられることに反対するものではありませんが、それが日本人の国民性や精神性をなくすためのものであるならば、反対せざるをえません。日本語が日本人の曖昧思考と行動を生み出しているとしても、それは日本人の一面を観念的に強調しているだけであって、日本語しか話せない日本人にも意思はあり、意思決定もあり、他力本願や神頼みではない現実の暮らしがあると思っています。効率的、合理的な生き方に慣れると、それが至上の生き方なのだと思うのが人間の常だと思いますが、得体の知れない生き方の中にも過去、現在、未来につながる筋道はあるのであり、時制の言語とは違う良さもあるのだと思うのです。私は日本人の田舎者として日本語に基づく曖昧思考をこれからも生きている間は図々しく続けてゆくつもりです。

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