山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ようやく春が

2011-04-08 01:26:40 | 宵宵妄話

   ホッと息抜きです。東日本大震災が発生以降暮らしのリズムが一変してしまい、なかなか元に戻るのが大変です。それでも突然家族を失われた方や避難所暮らしを余儀なくされている方々と比較することはできません。それはあまりにもおこがましいことです。今、これを書き始めていましたら、又かなりの大きな揺れに見舞われました。TVを見ましたら東北エリアでは震度6レベルの揺れがあり、津波警報が出されたとのニュースです。なにごともなければよいがと祈るのみです。

昨日は震災後初めてRVランドの農園に行ったのですが、いやあ驚きました。昨秋に植え付けた玉ねぎの畑が波打って歪んでいるのです。最初は気づかずに、どうしてこんなに表土が崩れて流されたのだろうと思ったのですが、大雨が降ったという記憶もなく、そうか、犯人は地震なのだと判りました。園主のお話ではもともとこの畑は竹林が広がっていたので、それを伐り倒し埋めて畑にするという大工事を行っており、地盤が固まっていないために何箇所か地震の影響をまともに受けたとのこと。入り口の通路部分は車の通行にも支障のあるほど凹凸の状態となったため、急遽補修工事をしたということです。身近な所でも相当に被害をこうむっていたのだと、改めて今回の地震の凄まじさを思い知らされました。びっくりしてしまって、写真を撮るのも忘れてきてしまいました。 

1泊して家に戻り、裏庭の野草たちを見てホッとしています。先日のホト発句のショウジョウバカマは二つの花だけですが、しっかり花を咲かせてくれています。又何年か前新潟県mの米山の道の駅で買ってきた三角(みすみ)草(売店のおばちゃんは雪割草といっていました)も花をつけていました。これらの花を眺めていると、なぜかホッとします。もう少し過ぎると碇草や春欄が個性ある花を見せてくれることでしょう。楽しみにしています。ホッとしたいときは、神さんの顔を見るよりもやっぱ、野草たちの笑顔ですね。

 

  

左はショウジョウバカマ。本当は冬の間雪の下などにあったらこれほどやつれはしなかったのだと思うけど、とにかく花を咲かせてくれたのでホッとしている。右は三角草。パッチリと花を咲かせてくれると嬉しいのだが、我が家のミスミ草は控えめでうつむいている時が多い。光っている大きな葉っぱは三角草ではなく一緒に植えているヤブコウジ(小低木)のものである。

 

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自衛隊の活躍に感謝する

2011-04-06 02:18:54 | その他

  昨日被災地の公務員の皆さまの無我の活躍に感謝と敬意のエールを送らせて頂いたのですが、もう一つ甚大災害時における自衛隊の皆さんの活躍を忘れることはできません。自衛隊員も紛れもないれっきとした国家公務員です。

 今回の東日本大震災では自衛隊からの派遣員数は10万人を超える規模となっているとのことですが、陸に海に空にと、その国と国民を守る働きは、どなたかがおっしゃるような暴力装置などとはとても思えません。もしこの国に自衛隊が無かったら、このような非常事態にどう対応するのか、政府は国としてどう責任をとるのか。国を守るための手段や組織を持たない平和などは、災害一つをとってみてもあり得ないということを思い知らされます。

 しかし私は戦争を肯定する者でも憲法における交戦権を認めるべきという立場でもありません。シビリアンコントロールの範囲の中で、国を守る強い力が無かったら、日本国は成り立ってゆくはずがないということを、国民の全てが強く認識すべと考える者です。確かに自衛隊が暴力装置だとしたら、これはかつての軍部のようなリーダーが輩出した時には危険な存在となると思いますが、そのこと以上に平和という名の無手勝流で、虚の安全を確保しうるという考え方の方がはるかに幼稚で危険だと思います。現実の自衛隊は、暴力装置などではなく、むしろかなり制限された条件の中で、国と国民を頑張って守っていると思います。

 さて、今日言いたいのは自衛隊のあり方などではなく、隊員として派遣されている人たちの寝食を忘れた働きに対する感謝と激励のエールです。津波の残した惨憺たる現地・現場の中で、がれきの中から手探りで行方不明の人を探し、その亡骸を見出しているのは、自衛隊の人たちの力に依存している部分が大きいのです。隊員といえども同じ人間です。民間人の心と何も変わらないのです。

新聞の報道によれば、若い隊員が遺体で見つかった母親とその子を収容するのに、泣きながら取り組んでいる姿が載っていました。自分の親兄弟姉妹のことを思えば、仕事とはいえどんなに辛いことなのだろうかと、その気持ちが分ります。過酷な環境の中で、様々な悲しい事態にぶつかりながらも、懸命に世の中人のために働いているのです。

現地の混乱状態の中で、被災された人々が最も心強く頼みにしたのは、自衛隊の活動ではなかったかと思います。政府の指令を受けて、現地で活動するのは当たり前のことかもしれませんが、そこで働く第一線の隊員たちは、現地被災者と同じ気持ちになって、政府関係者が考えている以上のことを使命として果たしているに違いないと私は思っています。

私の知り合いにも何人かの自衛官の人がおりますが、昔の軍人のような人は一人もおりません。皆さん謙虚な平和論者です。平和を唱えながら暴力に訴えるような悪辣な思想の持ち主など一人もいません。私は日本の自衛官というのは、健康な人達の集まりだと思っています。だから今回のような非常時に本物の力を発揮できるのだと思います。

それでもなお批判などをしたがる人もいるのかもしれません。そういう人間の多くは、現場を知らない、本当の姿を知らない、人間の本当の心や気持ちを知らない、ただの観念論者に違いありません。観念だけで世の中が動くなどということはあり得ません。どんなに理屈やアイデアを振り回しても、被災現地の救援や復興は現実の心のこもった行動・実践が無ければ寸歩も前進することはできないのです。

その意味において、私は過酷な現場第一線で懸命に汗を流して仕事を続けておられる自衛隊の隊員の皆さまに敬意を表すると共に、大きなエールを送りたいと思います。

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尊敬される公務員

2011-04-05 06:07:09 | その他

 

 被災地における公務員の皆さまのお働きを(たた)え、心からエールを送ります。本当にお疲れ様です。

私は今までどちらかといえば公務員と呼ばれる方たちに対してはあまり好意的な考え方を持っていなかったと思います。勿論これはお互いが個々人として役所業務にどうかかわり、触れ合うかという問題であり、一括して良いの悪いのなどという話でないことは当然です。それにも拘らずあまり好意的でないという偏見が生まれていたのは、たとえば旅をしていると、小さな村や町でも立派な庁舎が目立ち、貧しい農漁村に何故こんな立派すぎる建物が出来上がっているのだという疑問が頭をかすめていたからなのでした。冷房設備の整った立派な建物の中で涼しい顔をしながら、猛暑の中で懸命に働いている市民・町民・村民のためにどれほどの仕事をしているのかが良く見えず、訪ねてゆけば細かい手続きばかりを強要するといったような構図がイメージされていたのです。

しかし、今回の大震災においては、私のそのような安易な見方は一挙に吹っ飛びました。自らも被災され、家族を失い、住まいを失いながらも、まさに寝食を忘れて市民・町民・村民のために、ご自身の生命維持の限界近い状況の中でも、懸命に公務を果たしておられるのを聞く度に、そのご尽力に敬意を表さずには居られません。滅私奉公とは公務員に課せられた使命であることは解っていても、このような極限状態ともいえる中でそれを実践するというのは、並大抵のことではないと思います。

いざという時にこそ人間の真価が(あらわ)れるというのが私の考え方ですが、今回の大地震の被災はまさに寝耳に水の突然の出来事でした。逃げるのが精一杯の極限状況の中で、逃げるというそのことも忘れて多くの人たちの命を救った消防・防災に係わる人たち、警察の人たち、或いは地域の中で防災に係わってきた人たち、そして被災後の住民の安全と健康の維持に懸命の努力を払って今日までそれぞれの役割を果たし、努めてこられた役所の皆さまの働きは、見事にその真価を発揮し証明されていると思います。

そして願うのは、現場から遠い個所で、より高い位置から被災状況を見ている高級官僚や政治家といわれる同じ公務員の方たちの働きです。この方たちが公務員であることを忘れていないのならば、現場・現地の状況・情報を逸早く生かした、的確でスピーディな対応を望みます。現場第一線で死に物狂いで働いておられる公務員の方たちの努力を見殺しにするようなことが絶対あってはならないと思います。高級公務員と呼ばれる、その証を示して欲しいと思います。高い立場からは大局は見渡せるはずであり、次に打つ手が何なのかも自ずと見えるはずです。そしてその判断と決断にはスピードが不可欠です。非常時にスピードを欠くような対応は許されないことを肝に銘ずべきと思います。今までの印象としては残念ながら遅いと言わざるをえません。具体的に誰がどこで判断や決断のスピードを遮っているのか判りませんが、現場第一線での公務員の皆様の働きを無駄にしないようにして欲しいものです。

今回の大事件で、発生以来の報道の主な情報を集めていますが、そのストックはトレイ一杯を埋めるほどになっています。その中で高級公務員と呼ばれる方たちの働きぶりを示すものは殆んど見当たりません。内閣等の特定の役割の人たちの報道ばかりが目立つのは当然としても、それ以外の人たちの動きはさっぱり判りません。ま、報道とはそのようなものであり、目立たない個所には光を当てない不公平さを常に内包するという宿命を抱えたものなのでありましょう。無いもの強請(ねだ)(せん)ないん。は、現地・現場懸命公務員っかてい無名もいえ高級官僚政治家というす。

尊敬される公務員とは、自分の立身出世とか名誉とかのために働くのではなく、世の中人のために本気で役立とうと我を忘れて働く人なのだと思います。今回の大震災で、そのようなお人が数多くおられることに感動し、被災地の、この国の復興は必ず成るに違いないと確信しています。

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土壌汚染を恐れる

2011-04-04 02:30:46 | その他

  原発事故の収拾が覚束ない状況が続いています。全く不安は募るばかりです。この事故については楽観は禁物と思っています。原子力危険不安院の発表などでは、危険とか危ないとか恐ろしいとかなど言うことばは禁句のようで、わけのわからない基準値や数字を挙げて何やらまだ大丈夫というようなことばかりを言っていますが、それを口にされればされるほど、疑念は膨らむばかりです。風評被害の根源はすべて東狂電力や政府関係者の説明の仕方にあり、本当の加害者は、危ない野菜類を買うのを避けている大衆でないことは明らかです。安心だから食べろというのなら、最初から安全基準などの話を出さなければいいわけですが、それを出している以上は、何をどうしたって放射能を出さないように事故の終息をさせない限りは、大衆の心理を変えることなどできるはずがありません。

今日もいわき産の露地栽培のシイタケから基準値を超える放射能が測定されたという話が出ています。福島県は生産者に対して出荷を自粛しろとの指示を出したとのことですが、これから先この種の問題は益々増えてゆくに違いありません。海水の汚染も相当酷いようですから、沿岸の漁業は大打撃を受けるのは必然でしょう。専門家や政府関係者がどんなに安全だと叫んでも、東日本太平洋沿岸の魚に対する大衆の心配を拭い去ることは不可能ではないかと思うのです。真に困った処置なしの問題です。

なるべく風評の加害者にならないようにしようとは心がけていますが、食べ物に慎重を期すのは主婦である相棒の元々の信条なので、私が勝手に大丈夫と決めて買ってきた野菜類を使ってくれるかといえば、これは疑問です。ほうれん草でもキャベツでも結果的には全部自分で食べることになってしまいそうです。恐らく大半の家庭では、主婦の考えは我が家と同じではないかと思います。よほどに野菜に飢えるという状態に追いつめられない限り、どこの家でも知らず風評の加害者になってしまうのでしょう。とくに自分で野菜などを栽培したことのない人は、農家の人たちの苦労や思いを汲むことはできないように思います。

少し横に逸れますが、TPPなどの加入を安易に肯定するような人たちは、食料は何でも金を出しさえすれば手に入ると思っている人たちです。日本の野菜が汚染されて食べられないのなら、アメリカやオーストラリアから安い野菜をどんどん輸入すればいいじゃないかと、恰もそれが合理的で当然だというような発想です。(ポストハーベストの問題なんか何にも知らないのです)こういう人たちはワールドワイドだとかグローバルだとかいう世界観を至上のものと考えているようですが、その正体は、自分の国の文化と歴史を忘れた浮草のようなものであり、忘国の輩ではないかと思っています。亡国と言わないのは我慢しているからです。世界の現状は日本人が考えているほど平和でも安全でもなく、過去100年の歴史を振り返っても尚それ以上に緊張した国際関係の中にあるように思います。国が、国家がしっかりしていて初めてグローバルなどいうセリフが生きてくるのです。自国の農業がGDPの数%にも満たないから潰しても良いなどという発想は国家の基盤を危うくするに決まっています。農業は人が生きてゆく基盤なのです。津波で崩壊した都市に必要なのは、水であり食料なのです。工業製品や金銭ではないのです。合理主義だけでは説明できない力を農業は持っているように思います。この力を弱めても工業製品の稼ぎを増大させようという考え方が国家の基盤を本当に強くするとは、安定させるとは思えません。TPPに反対する理由は他にもありますが、何よりも人間が生きるための基盤を支えるのが農業であり、その殆どを輸入に依存するなどという考え方はとんでもないことです。断固反対です。(話はずれましたが、少しすっきりしました)

閑話休題。自分の作っている畑の話です。現在私は守谷市の菜園を30㎡ほど賃借しています。これでは少ないので、以前借りていたもう一つの菜園を借りようとその申し込みをしていたのですが、そこは借り手が多いため抽選で決めるということになっています。ところがその抽せん日の前に今回の東日本大震災が起こってしまい、別の日に延期するという連絡が市の方からありました。その日を待っていましたら、もう一度連絡があって、今度は無期限に延期するという話です。どうしてなのか理由は判りません。やむを得ず新しい畑での作付けは諦めることにしました。

それで、今日(4/3)は今借りている畑に昨秋に植えたサヤエンドウの棚を結ってきました。現在植えてあるのは、サヤエンドウの他に玉ねぎと食用菊とジャガイモです。食用菊はまだ株から芽が出たばかりです。ジャガイモは先週に種イモを植えたばかりですから、芽が出るまでには2週間以上かかることでしょう。この3種類の野菜で半分くらいの面積を占めており、残りの半分に何を植えるのか今迷っています。本当なら真っ先にラデッシュでも作ってみるところなのですが、心配なのは放射能です。守谷市でもほうれん草などは暫定基準値を超えるものが出ており、例によって大丈夫というお墨付き(?)ですが、恐らく農家以外の人で食べるのは菜園などでほうれん草を作っている人くらいかもしれません。そのようなことですから、葉物の栽培はしばらく控えた方がいいのかなと迷っています。もし作っても食べるのは自分ひとりとなってしまうのは確実で、それこそ毎日ラディシュばかりを食べる羽目になるからです。

とにかくしばらくは様子を見る必要があるようです。原発事故の汚染に関して、様々な情報を目に耳にしていますが、原発事故の先進国(?)であるロシアの専門家の話やIAEAの人の話では、この事故で最も恐ろしいのが土壌汚染だということのようです。土中に埋もれた汚染物質は長い間放射能を出し続け、もはやその土地には人間は住めないはおろか作物も作れないという話でした。チェルノブイリの事故でもそれが最大の問題だったというようなことを話していました。今回の事故はチェルノブイリとは違うのだと学者や解説者は盛んに話しますが、事態は限りなくチェルノブイリのレベル7に近づいている感じがします。これから先一体どのような事態が出来するのか見当もつきませんが、仮に土壌汚染が問題となるようなことになったなら、もはや菜園などは諦めなければならなくなるに違いありません。土壌汚染は万遍なく行き渡って広がるものなのかどうか判りませんが、これ又風評が広まれば菜園の賃貸にも影響が出るのかもしれません。今回守谷市が抽選を控えたのも、勘ぐれば別の筋から何か情報が入って、貸し出しを控えた方が良いという判断に至ったのかもしれません。(まさにこのような勘ぐりこそが風評のネタとなるのでしょうが)

そんなこんなで、しばらくは様子見の事態が続きそうです。でも今作っているサヤエンドウは、たとえ暫定基準値を超えるようなことがあっても、決して食べることをためらったりはしません。昨秋からこの寒い冬を乗り越えて育んだ生命の結晶を決して無駄にはしないつもりです。

 

   

現在の菜園の様子。真ん中の棚を結ったのがサヤエンドウ。1畝しかないけど一家で食べるのには余るほど。今は小さいけどこれから暖かくなると、一気にこの柵の高さを超えるくらいに育つ。左は玉ねぎ。30本ほど苗を植えたが、順調に育ってくれている。右奥の柵は食用菊用に昨年作ったもの。柵と柵の間の2畝がジャガイモを植えた所。水はけが悪いので高畝にしている。作物はものを言わないけど人の気持ちを汲んで育っていると思っている。放射能などクソ喰らえ!である。

 

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大事時のリーダー

2011-04-03 08:10:10 | その他

  世の中にはリーダーという存在があります。一般的にはリーダーというのは統率者とか指導者とか言われていますが、この存在には二面的なものがあって、形式的なリーダーと実質的なリーダーとの二つがあると考えられます。リーダーの備え持つべき要件としてリーダーシップというものがありますが、この本質は影響力と考えるのが普通のようです。統率力というのは影響力の一部と考えられます。一般の企業でリーダーというのは、そのセクション(=部署)のトップを指しており、これは勿論形式的な立場ですが、同時に実質的にもそのセクションにおいて最も影響力のある人物が選ばれるのがふさわしいというのが常識であり、且つ多くの企業ではそのような配置がなされていると思われます。

ところが、まま人事のミスマッチがあることがあり、悲劇が起こることがあります。それは形式的なトップの立場になった人物に影響力が不足している場合です。笛吹けど踊らずという現象が出来(しゅったい)します。部長が幾ら叱咤激励(しったげきれい)しても課長以下の部下たち一向に動かなかったり、さっぱりやる気を起こしてくれないというような状況です。これはどのような組織においても致命的な欠陥だと言えると思います。このミスマッチは、組織の上部に行けば行くほど傷は深くなり、組織の破壊や崩壊に繋がってゆきます。

ま、このようなことを偉そうに解説するまでも無く、誰だってそんなことは判っていると考えるのだと思いますが、私の人生経験では、世の中の組織と呼ばれる人間の集まりの半分くらいはこの種のミスマッチをどこかに抱えて動いているように感じています。それでも世の中がどうにか動いてゆけるのは、組織の多くの成員が寛大であるか、ずぼらなのか、諦めているのか、余りつべこべ言わないでマイペースを通しているからなのかもしれません。本当のところは良く判りませんが。

ところで、このリーダーとリーダーシップの問題ですが、私は平時と非常時(=大事時)とでは違うように思っています。本物のリーダーシップというのは、大事のときこそ発揮されなければならないと考えています。平時は特別に判断を誤りさえしなければ、リーダーが事業の成り行きを揺さぶるような結果を招来することなどありえません。良識あると思われる普通の人物ならば、大きな組織でもほどほどの成果を生み出すことは十分に可能です。ところが非常時の大事の場面では、その判断や行動に過不足があれば、組織の将来を危うくすることにつながるのです。これはどのような組織、たとえば社会の最小単位である家庭においてさえも、或いは最大単位の国家においても同じことが言えます。

今、日本国は国難に遭遇しています。まさに今その渦中にあります。いろいろな意味でリーダーの存在と力量が試される時なのだと思います。未だ国のトップにおられる人たちのことをあれこれコメントするのは早すぎるように思いますが、この国を動かすべき立場にある人たちの動きについては、これからもしっかり見守ってゆく必要があると思います。

でも一つだけ許し難いリーダーの存在を感じているのは、原発事故の当事者である東京電力という会社のトップの人たちです。この会社には5万人を超えるという大勢の人たちが働いているわけですが、命を懸けて事故を食い止めようとしている現場第一線の人たちに比べて、トップのリーダーと呼ばれる人たちの影の薄さは、あまりにもお粗末すぎると思わざるをえません。恐らくこの人たちは平時であれば、穏やかで優しい理解ある上司でありトップであるに違いありません。皆良い人たちなのだと思います。しかし、非常時の今、彼らが対峙するのは、社内や関係役所ではなく、世の中の人々でありこの国の未来なのです。そのことに思いが全くといってよいほど至っていないリーダーばかりのように思えます。

幾ら(なじ)ってみたところで、今更どうにもなりせんが、現役のトップであ社長は入院してお詫びもできず、引退しかかった会長もことばを慎重に選びながらお詫びを述べ、他のエライ人たちは一緒に頭を下げるだけの記者会見でした。これを聞いていて、納得したというよう人物は、東電の社内にだって少ないのではないかと思います。第一線で放射能まみれで仕事している人たちには碌に満足な飯も睡眠もとらせず、少しばかり日当の額を上げてやればそれで済むなどと思っているのかと、あまりにも太平楽のおぼっちゃま経営者の立ち居振る舞いに腹立しさを通り越して唖然とするばかりです。今は我慢するしかありませんが、この大事が収まった暁には、断乎としてこの会社のあり方を、とくにトップのあり方を糾明すべきだと思っています。

このようなリーダーのあり様を見ていて思うのは、「事上磨」という王陽明の言葉です。このブログでも書いたように記憶していますが、中国は明の時代の実践行動の思想家の王陽明は、人はすべからく事上にあって磨くべしと諭しています。事上というのは、事(=大事、普通でない問題状況)の中でということであり、人間の精神というのはそのような困難・苦難の中で鍛えられるということを意味しているのです。東京電力という会社は、今、まさに国難を引き起こしている現状にあるのであり、本来リーダーと呼ばれる人間ならば、このような時にこそ自分の全能力を大事に捧げるべきと考えます。それができないのは、平時での効率ばかりを追い掛ける思考に馴れて非常時対応の精神の練磨を忘れていた明らかな証拠です。もう手遅れだと思います。

現在の大事時の中で最大限の汗をかいた人物が、次のトップに就くことを切望します。電力はもはや国の公器事業そのものなのです。会社をつぶせば済むという話ではありません。電力なしではこの世は現在も未来も無くなってしまうのですから。今までと同じように、順送りに善人ぶった効率追求者が次のトップに選ばれるようなことが絶対にあってはならないと思います。

大震災の恐るべき二次災害の震源地である企業のトップのあり様と(国の所轄庁たる経済産業省原子力安全保安院の存在についても大いなる疑念を禁じ得ませんが)そのこれからについて、同じ過ちが繰り返されることがないよう厳しく願っています。もし電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門さんがご存命であったら、この事態をどう受け止められたのだろうかと、ふと思ったりしています。電力を得るためには手段を選ばないのか、それとも最終的な電力使用者すべての安全と幸福を最優先されてどのような判断をされるのか、その人物の本物度が問われる電力事業界の未曽有の大事件だと思うからです。

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「新・御宿かわせみ」始まる

2011-04-01 23:08:01 | 宵宵妄話

  私的に実に楽しみな話です。先日つくば市へ出かけた時、本屋に立ち寄り何気なく文庫の新刊コーナーを見ていましたら、「新・御宿かわせみ」というのが置かれているのに気付きました。私は平岩弓枝先生のファンで、数多い作品の中でも特に「御宿かわせみ」というシリーズものを愛読させて頂いています。江戸の武家社会と下町社会が入り組んだ舞台の中で、市民の暮らしの断片を適確にとらえた描写には、女性ならではの優しい視点に溢れたものがあり、何度も繰り返し読みの中にたくさんの感動を頂いています。何しろ全34冊(除く読本)もあるものですから、読み始めるとどうしても2カ月くらいはかかってしまいます。1年に1回くらいはと思っているのですが、このほかにも幾つか読みたいシリーズものがあるので、この頃は2年に1回くらいとなってしまっているようです。

御宿かわせみは、描かれている時代が幕末近くの黒船来航よりも少し前の頃から、尊皇攘夷で世の中が一挙に騒がしくなり出す頃までとなっています。本を読まれた方は勿論ですが、TVや舞台などで何度も上演・放映されていますので、物語の登場人物はご存じの方も多いのではないかと思います。念のために主な登場人物を紹介しますと、主人公に宿屋かわせみの女主人の神林るい、その夫の神林東吾、東吾の兄の八丁堀奉行所与力の神林通之進、東吾の親友の奉行所同心の畝源三郎とその家族、神林通之進の妻の実家に婿入りした東吾の親友の麻生宗太郎とその家族等々と書いているうちに、これはきりがないなと思いました。町奉行所と下町の暮らしとは密接につながっているわけですが、それは何らかの事件と呼ばれるものを通して中身の濃いものとなります。この本の中では、いわば町の直接行政と司法に係わる人たちと市井の小さな旅館業を営む人たちのくらしの周辺の出来事を結びつけた世界を描いているわけですが、そこには江戸時代の終わりの頃の情景が見事に描かれており、物語は一話完結の形をとりながら実はずっとつながっているようになっていますので、その時代の流れというか、移り変わりがそれとなく判るのです。たとえば、神林東吾が自家の部屋住み居候からかわせみの亭主に収まり、その後お上に召されて講武所の教授になったり、さらに軍艦操練所の教授並になるプロセスは、黒船来航で不穏感が漂う江戸末期の時代背景そのものを意味しており、そこに描かれる世界を通して往時の人々の暮らしを思い浮かべることができます。

このような形式の、というか時代が大きく変化する時間帯を背景にした長編小説は、英雄ものとしては幾つかありますが、近世のしかも庶民のくらしを一話完結でつないで語るというものは、この本くらいしかないように思います。というのも「新御宿かわせみ」は幕末を経て明治時代に入ってからの、いわば前期主役の子供たちの世界を描いているからです。まだほんの少ししか書かれていないので、これから何が描かれるのかがとても楽しみです。

新御宿かわせみは、雑誌オール読物に掲載されているのを知ってはいましたが、いずれは文庫本になると思い、雑誌を買って読むのを控えていました。守谷に越してからは、なかなか目当ての本が入手しにくいものですから、出向く回数も減るようになり、本屋さんとは何となく疎遠になりがちでした。文庫本などはめったに覗かなくなり、今回の発見はラッキーでした。どうやら未だ1巻しか出ていないようですから、これからは本屋に行った時には、必ず文庫本の売り場を覗くようにしたいと思っています。

新御宿かわせみの第1巻をわくわくしながら読んだのですが、いやあ、ショックを受けました。何といっても前期の主役の東吾さんが幕末の戦乱に巻きこまれ、榎本武揚の率いる戦艦で函館に向かう途中の房総沖で遭難し生死不明となっているというのが一番です。それから畝源三郎が凶弾に倒れたこと、さらには麻生家が幕末の混乱に紛れた強盗に襲われ宗太郎の妻、長男、養父が一挙に命を落としたこと、前期の御宿かわせみの中では、平和な暮らしの日々を送っていた人たちの世界が一変していることに驚きを禁じ得ませんでした。そして大きく成長した子どもたちが中心の世界は、新しい時代を迎えた中で、逞しく展開されていました。これらの大きな変動・変化は、まさに幕末から明治維新を迎える時代の、江戸に住む人たちの暮らしぶりそのもののように感じます。

丁度今「会津士魂」(早乙女貢著 集英社文庫)を読んでいますが、この中にも幕末の江戸の混乱の状況が描かれており、官軍と彰義隊の戦いなどを読むと、その凄まじさが胸を打つのですが、恐らく御宿かわせみに係わる人たちも、この時代を必死に乗り越えて生きて来たのだと思います。

さて、これからどのような話が展開されてゆくのか実に楽しみです。平岩先生には、益々お元気でこの続きのお話を前期の御宿かわせみ以上に会を重ねて、私どもを楽しませて下さいますよう、ご健康とご健筆を祈っています。

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いのちの花

2011-04-01 02:51:39 | ホト発句

                                                          

 

              

 

      襤褸(らんる)の身 なれど灯さん 我がいのち

                  多苦難を 越えていのちの 花は咲く

 

コメント:

 

我が家の野草園にあるショウジョウバカマ(=猩猩袴)の一つです。花を開かせるときをじっと待っています。

昨年の夏はとてつもない猛暑でした。株分けして4つに増えたはずの一つは、辛うじて夏を乗り切ったのですが、短い秋が終わると、今度は思いもかけない寒さに襲われ、とうとう消え去ってしまいました。他の3株も相当に痛めつけられて、息も絶え絶えの様子でしたが、どうにか花を咲かせるところまで辿り着いてくれたようでホッとしています。これはその一つですが、葉が痛めつけられてボロボロになっています。頑張った痕が紫がかって残っています。厳しかったその分まで美しい花を咲かせてくれることでしょう。

東北関東大震災の災禍に見舞われた方々にもこの花のいのちの元気が届くことを願っています。

 

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