山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第21日)

2009-03-24 00:26:06 | くるま旅くらしの話

第21日 <5月14日()

道の駅:路田里はなやま→イオンタウン<買物他>(宮城県金成町) →(陸羽街道・一関経由)→道の駅:巌美渓→道の駅:川崎(宮城県川崎村)→道の駅:水沢(岩手県水沢市)→道の駅:種山が原(岩手県住田町)→(荷沢峠経由)→道の駅:宮守(岩手県宮守村)→ (釜石街道)→道の駅:東和(岩手県東和町)(泊)<202km>

今日も雲の多い天気だ。太平洋側を目指すが、ついでにまだスタンプを押していない道の駅にもなるべく多く立寄ることにして出発する。先ずは国道457号線で隣の鴬沢町を通過。この初めて聞く優雅な名前の町は、昔何を掘ったのか知らないけど細倉という名の鉱山があったらしい。資料館などがあった。栗駒町から県道に入り陸羽街道(国道4号線)に出て、金成町のイオンタウンで小休止。ここから再び北上して岩手県に入り、一関市郊外にある巌美渓の道の駅を目指す。晴れ間もあるが雨が降り出しそうな天気だ。巌美渓という景勝地には立寄らず、道の駅で昼食をして再び宮城県に戻り川崎村の道の駅へ。スタンプを押した後、水沢市郊外にある道の駅水沢へ。ここの道の駅は小さくて、北上川に架かる藤橋の直ぐ側にあった。移動ばかりで忙しい。

次は種山高原にある道の駅種山ヶ原へ。国道397号線の姥石峠の下を走るトンネルを抜けると直ぐに道の駅があった。この辺りは未だかなり冬が残っている感じだ。その昔、宮沢賢治がこの辺の山の鉱山調査に来た時、高原の素晴らしさを絶賛したとか。今日は少しガスっていて寒いが、晴れれば素晴らしい高原の春の広がりが展望できるに違いない。

スタンプを押して山を下り、そのまま行けば太平洋側に出られるが、あまり泊まりに適した道の駅はないので、ここまで来たら少し距離があるけどもう一度東和町の道の駅に行って泊まろうと考え、国道107号線を北上する。この道には荷沢、糠森という二つの峠があって、その辺りの景観は北の山国の春を味わうには充分過ぎるほどのものだった。

今回3度目となる宮守村(今では遠野市)の道の駅に立寄る。ここの駅の直ぐ側に釜石線の陸橋があり、それは石で出来ためがね橋になっている。宮沢賢治のかの銀河鉄道のモデルになっているとか。そこを渡る列車の写真を撮ることにして、しばし待機。30分ほど待ってどうにかそれらしき写真を邦子どのは撮ったようだった。

   

道の駅:みやもり(宮守)近くにある、銀河ドリームライン釜石線のめがね橋。この景観が宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」のモデルとなったとか。確かに想像を豊かに膨らませれば、宇宙につながる鉄道となるような気もする。

東和の道の駅には「日高見の霊湯」というのが併設されており、少し料金が高いのが珠に瑕だが、もう旅も終りに近づいているので、2度目の湯をじっくりと味わって、山を走った疲れを癒す。

   *   *   *   *   *   *

<旅のエッセー>

          

       尻 屋 崎 の 寒 立 馬(かんだちめ)

下北半島の最北端大間崎の反対側、即ち東側の最北部にあるのが尻屋崎である。大間崎は北海道の最南端よりも遥かに北に位置しているのだが、この尻屋崎もわずかながら道南最南端よりも北に位置しているようである。一般には北海道は本州よりも全て北にあると思っている人の方が多いのではないか。斯く言う自分も何年か前、北海道は松前の白神岬に行く前まではそう思っていた。

岬というのは日本、いや世界の至る所にあるが、その全てに何か心惹かれるものがあるのは、人はそこへ行くと何かを思い出したり、見つけたり出来るような錯覚にとらわれるからなのかもしれない。遠い国の岬に立ってみたいような気持ちに時々なることがあるのは、自分ひとりだけの想いではないような気がする。

むつ市郊外のキャンプ場で一夜を過ごしたとき、朝の散歩から戻られた同宿の夫妻から「尻屋崎に行きましたか?とってもいい所ですよね」と念を押すように話しかけられたが、その時はまだ行っておらず、尻屋崎という名もよくわからなかった。しかし、その方の話を聞いて、何が、どういいのかが気になっていて、今回の旅の中で機会があれば訪ねてみようと思ったのであった。それが、二度目の下北訪問で実現させることが出来たのである。

刃を左に向けた石斧のような形をしている下北半島の右上の天辺が尻屋崎であるが、そこは東通村に所属している。東通(ひがしどおり)村は、核燃料問題で有名になった六ヶ所村のさらに北に位置し、北海道を遠望できる海岸線を持っている。勿論初めて訪れるところであり、むつ市からの県道を岬に向かって走ったのだが、建物は点在していても人の姿は殆ど無く、この村の人たちは一体何処へ行ってしまっているのだろう?と不思議に思ったりした。尤も最近の旅くらしの経験からは、田舎を走っている時は何処へ行ってもそうなのだが、めったに人影を見ることが無い。

岬近くになって、坂道を曲がると、突然、巨大な工場・設備が現れた。石灰岩を切り出してセメントなどをつくっているらしい。もっとロマンチックな風景を思い浮かべながら来たのに、このグロテスクな自然破壊の機械・設備には驚き、がっかりした。これらの工場設備は、村の経済活動においては重要な役割を担っているのであろうが、気ままな旅くらしの人間には、野暮の骨頂の代物に見えた。

その施設を通過してしばらく行くと、灯台へ向かう道の入口があり、そこに「寒立馬(かんだちめ)」の案内板があった。どこかで聞いたことのあるような、ないような「寒立馬」という言葉である。道の付近は牧場のようになっていて、近くで馬が草を食んでいた。「あ、そうか。寒立馬というのは、ここだったのかと改めて記憶を手繰り寄せた。

日本には野生の馬が生息している場所が幾つかあり、その一つがここなのだと気がついた次第である。しかしその気づきは案内板を読んでいて間違っていたのを知った。寒立馬の由来は、昭和45年に地元尻屋小の岩佐校長先生がお正月の書初めに「東雲に 勇み嘶く寒立馬 筑紫ヶ原の 嵐ものかは」と詠まれたのが、その後詠まれた歌にある「寒立馬」が有名となって拡がったということである。そして、寒立馬は野生ではなく、南部藩時代から一年中冬の間も含めてここで半野生的に飼われているということであった。野生馬といえば直ぐに宮崎県の都井岬にいるのを思い出すが、あれも本当は野生ではなく、半野生ということなのかなと思ったりした。真偽はよくわからない。

馬が好きである。競馬のような博打要素のあるのは敬遠したいが、馬の走る姿は美しいし、動物の中で持続性のある美しい走り方が出来るのは馬ぐらいなのではないか。チーターやライオンなどは、瞬時のスピードでは勝っているかもしれないが、長距離は馬の方が上ではないかと勝手に思っている。でも自分の、馬が好きな最大の理由は走りではなく、その目(瞳と眼差し)にある。馬の目は、それがどのような馬であっても慈愛に満ちている。喜びも悲しみも全て包み込んでくれる優しい母親のような大きな目。或いは厳しいけれど信頼してやまない父親の目のようでもある。馬頭観音という観音さまの姿がある。これは人々の苦しみや悩みを、馬が草を食むようにたちどころに取り去ってくれるというものだが、その観音さまの目は、馬のそれと同じであるに違いないと思っている。馬が本当に好きな人は、あのなんとも言えない目に心惹かれるのではないか。

その寒立馬は、岬の灯台を中心に、近くの丘に三々五々屯して草を食んでいた。そばに行ってもびくともしない。マイペースだ。どの馬も実に逞しい、重厚な姿をしていた。競走馬のスマートさは全くない。走るのは下手かもしれないが、戦においては、南部の馬たちは、じわじわと勝利を確実にしてゆく底力を持っていたのではないか。ま、そのようなことはどうでもいい。すばらしいのは、やっぱりその目だった。脚や図体の逞しさとは無関係に、何と優しい目をしているのだろう。猿の目とは全く異なって、馬の目は善意の塊だ。しばしその目を見ながら、自分自身もこのような目を持ちたいものだと、しみじみと思った。

 光る海寒立馬らは春を喰む       馬骨

 嘶(いなな)きを凍てさせ立つや寒立馬  馬骨

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