山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

子供に生肉を食べさせるなんて!?

2011-05-07 08:24:58 | 宵宵妄話

 このところ大震災に関するニュースを超えるほどの勢いでO111とかいう大腸菌による食中毒事件が取り沙汰されています。肉などをあまり好まない私から見れば、ましてや生の肉などを食べるなど絶対にあり得ない私から見れば、この事件は全く違う世界の出来事のようにも思えます。しかし、現実には4人もの人たちが亡くなり、かなりの数の人が危険な状態にあると聞くと、これは違う世界の出来事などと看過するわけにはゆきません。自分の身近な所にも同じ食事をしている者がいるのかもしれないのですから。

 私が何故肉を好まないのかといえば、美味い不味いということからではなく、肉というのは横着な、短絡的な食べ物だと思い込んでいるからです。何故そうなのかというと、肉というのは牛であれ、豚であれ、鶏であれ、皆彼らは植物を食べて肉を作っています。その彼らが作った肉を食べるのはいわゆる肉食獣といわれる動物と人間だけでしょう。肉を食べる動物は、食物連鎖の上では頂点にいるのかもしれませんが、本来自分が植物を食べて作るべき身体を、手抜きして他の動物に依存しているのです。これは横着であり手抜きというものでしょう。ずるいといってもいいのかもしれません。ライオンやトラなどは植物を食べられるように身体が出来ていないので、他の動物を食べないと生きてゆけないという切実な問題がありますが、人間は肉など食べなくても植物だけでも生きて行けるのです。しかも科学の解析するところによれば、植物よりも動物性の食料の方が身体の健康管理上問題が多いというのが判っているのです。このような理屈からは、肉が好ましい食料とは到底思えません。

 かつて江戸時代までは、日本人の多くは(けだもの)と呼んその肉を食するという考えがありませんでした。それが牛や豚の肉を食べるのが当たり前となったのはわずかここ140~50年前のころからです。明治の文明開花と共に欧米の食習慣が持ち込まれ、肉を用いた様々なメニューが開発され、戦後は益々そのレパートリーは広がり、現在は肉類のかなりの部分を輸入に頼るほどとなっています。食卓にはなくてはならない食材になっていることは周知のとおりです。

 肉を食べないと元気が出ない、肉を食べないと身体が大きく強くなれないという考え方は、今では当たり前のこととなっていますが、それが本当かどうかは疑問の残るところです。欧米人の体格が良いのは、肉類を中心とする食事の摂取にあるのか無関係ではないような気もしますが、肉なしの食事でも体格の立派な人はいくらでもいますから、もはや体格などにあまり興味のない私としては肉食のメリットよりもデメリットの方に視点が行ってしまいます。つまり、肉を好んでたくさん食べる弊害の方がはるかに多いと思えるのです。

ま、肉を食べる食べないは嗜好(しこう)の問題でもあり、食事の価値の問題ではないと考えることもできますから、つべこべコメントするのはナンセンスなのかもしれません。話が何だか(かたよ)り出しました。要するに私の食肉に対する考え方はこのようなものだということなのです。

さて、本題に戻っての食中毒の話ですが、ニュースなど見ていると若い世代の人を中心に生の肉を好んで食べる割合がかなり多くなっているというのに驚かされます。欧米の人々も生の肉を好んで食べるのか良く判りませんが、魚肉と同じような感覚で獣肉を考えているのだとしたら、これはもう、老化が始まった日本人としての私には驚きです。食生活から世の中の成り立ちや文化などを考えるというのは興味ある研究分野だと思いますが、若い世代のこの嗜好の傾向は、一体何を意味しているのか、専門家がおられれば話を聞いてみたいものです。

好むものを食べたがるのは動物の本性であり、人間も又同じです。ですからそれを止めるのは無理というものかもしれません。しかしこの頃は気が付いたら好きな食べ物にさせられてしまったというような現象がかなり起こっていますので、何だか怪しいような気もするのです。食肉業者や販売店がファミレスや居酒屋チエーンなどと組んでメニューの開発を行い、お客様の好物をつくり出すというビジネススタイルが溢れており、それに乗ってしまって気づいたら好物となってしまっていたという話は無数にあることだと思います。それが一概に悪いなどとは勿論言えませんし、むしろ顧客が気づかなかった新たな嗜好の需要を掘りだすという点では、世の中人のためになっているという評価すら出来るのかもしれません。

しかし、それはいいとしても食材やメニューの健康性、すなわち安全性が保証されないものを提供するというのは大問題だと思います。今回のユッケとかいう生肉料理では、その仕入れや調理に係わる関係者やそれらを管理する厚労省などのあり様をめぐって、不明確な論議が横行しているようですが、食中毒の事件が起こる度にいつも同じような対応が繰り返されているようで、どうも腑に落ちません。

今回の事件の動きを見て思うのは、フグの中毒問題と同じ覚悟で消費者(=食べる人)はメニューを選ばなければならないのではないかということです。販売した居酒屋やその肉を卸した業者や或いは厚労省の管理の仕方にそれぞれの問題があることは明白ですが、私が思うのは、食事というのは基本的には自己選択であり、自己防衛なのだということです。フグの肝の場合は、(はな)からそこに猛毒があるということを知っており、まさかのことを覚悟の上で食べるわけですから、事故にあっても自己責任となります。私は全ての食事というのは基本的このフグの肝を食べるのと同じ考えで摂らなければならないのではないかと思うのです。

毎日家で食べている食事だって、いつ中毒に出会うか判りません。安全だと考えて食べ続けていたものが長い時間をかけて身体を侵し続け、大病につながる(たとえば糖尿病など)こともあるのです。ですから食事というのは常時自己責任で選択し、その結果を受け止めるという覚悟が必要だと思うのです。生の肉を食べるということがどのような結果を招来するかは、たとえそれが調理業者が安全を保証するものであっても、自分の命の保証には至らないのだという覚悟を持ったオーダーが必要ではないかということです。安易にものを食べるという考えは危険のような気がします。

言いたいのは、食中毒の話を聞く度に、そのようなものを食べなければいいのにという思いにとらわれることが多いということなのです。飽食の時代といわれますが、私たちは食べるということの意味をあまりにも軽視し、思い上がって食べているように思うのです。美味いものを食べたいというのは本能なのかもしれませんが、もともと何故食事が必要なのかを考えると、食の嗜好を楽しむというのは浮かれたままでいいのかという自省が私にはあります。だから深刻な顔をして美味いものを喰えとは言いませんが、特に生のものを食べるときには選択の覚悟が必要と思うのです。

今回の食中毒事件では、親が子供に食べさせたというのですから驚きです。生肉を刻んだものの上に生卵がかかっているのがTVに映るのを見て、ぞっとするほど驚きました。獣や鳥だって自分の食べているものをそのまま子どもに食べさせないのが結構いるというのに、生肉を食べさせるなんて、迂闊・油断・無知もいいところではないかと思いました。子供を喜ばせるということと愛情や慈しみの行為とは必ずしも一致しないとは思いますが、これほど無知でかけ離れた親としての行為を見るのは信じられない気がします。大人も子供も人間として対等だなどといういい加減な思想に惑わされてなのか、或いは可愛いがり方を勘違いしたのか、子供に生肉を喰わせるなんて言語道断だ!というのが私の感想です。

しかし、最愛の子を亡くされた方には真にお気の毒で、何よりもそのご冥福をお祈りいたします。そして、この後は二度と同じような事件が起こらないように、世の中の小さい子を持つ親御さんには、もっともっとしっかりして欲しいと願わずにはいられません。

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