ACジャパンのCMで、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」が話題になっています。金子みすゞという人は、時々ブームを巻き起こす人のようです。その波がどんな時にやってくるのか判りませんが、人々の心が乱れ騒いで、何か原点に戻るのを欲している様な時に、この人のつぶやきが多くの人々の心に安堵感に似た、何かとても大切なものを届けてくれるようです。
私がこの詩人のことを知ったのは、20年以上も前のブームの起こった頃でした。童謡詩という紹介のされ方だったように思います。矢崎節夫さんという方が、埋もれかけていたこの人の作品を拾い出して世に紹介されたのがブームのきっかけだったと記憶しています。初めて作品を読んだときは、小さな驚きと共に感動が広がりました。何の飾りもなく、心に浮かび映ったことを素直に表現したことばの数々は、人生に相当くたびれかけていた自分には、真に新鮮なものでした。大人になって、なり過ぎて、いつか心の成長は止まり、止まり果てて、当たり前のことは当たり前として全て切り捨てて目を向けようともしない、そのような自分という者をハッとさせる力を持ったことばが幾つも書かれていました。
勿論その時は現役でした。結婚退職などで職場を離れる人(女性)がいたときには、この詩集を一冊プレゼントすることをしばらく続けました。家庭を持ち、子供が生まれ母親になった時には、この詩の持つ優しさを家族の皆に与えて欲しいなという思いからでした。いま、彼女たちはきっといいお母さんとなって子供たちを慈しんでくれているのではないかと思うことにしています。
金子みすゞの詩の中で私が最も好きなのは、「わたしと小鳥とすずと」に収められている「草の名」という一篇です。
草の名
人の知ってる草の名は、
わたしはちっとも知らないの。
人の知らない草の名を、
わたしはいくつも知ってるの、
それはわたしがつけたのよ、
すきな草にはすきな名を。
人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。
ほんとの名まえを知ってるは、
空のお日さまばかりなの。
だからわたしはよんでるの、
わたしばかりでよんでるの。
その頃、私は糖尿病になりたてで、運動療法としての歩きを開始し、毎日10km以上歩くことを目標としていましたが、その歩きの途中の退屈撃退法の一つとして、道端に生える草たちの名前を全部覚えてやろうと、図鑑と首っ引きの毎日でした。これは結構難しく、というよりも面倒で、面白さを感ずるようになるまでにかなり時間がかかりました。そんな時にこの詩に出会い、いやあ、一発パンチを食らわされたように思いました。この少女にはとてもかなわない、と。
明治の頃の少女は、図鑑などとは無縁だったと思います。そう、だから、正式の名前など知らなくても、自分で好きな名前を付けちゃえばいいのです。今の時代とは違った、ありのままの世界がそこに広がっているのにハッと気づかされました。そして自縄自縛で現代文明の灰汁(あく)にがんじがらめに固められている自分に気づいて驚き、やがて肩の荷が下りてゆくのを実感したのでした。そして、それからの方が草の名前を覚えるのが進んだような気がします。
金子みすゞという人は薄幸の方だったようです。でも30歳にも満たなかった生きていた時間のこの方の心の豊かさは、彼女と同じ年齢(明治36年生まれ)の今108歳の人よりも層倍以上のものだったのかも知れません。今なお多くの人々に心の原点のあり様を教えてくれるその力は、これから先も益々強さを保って発揮されて行くことだと思います。
間もなくやってくる孫娘に、この1冊をプレゼントしようと思って用意してあります。まだ、少し難しいかな。