山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

孫と携帯電話

2011-05-05 06:34:48 | 宵宵妄話

 一晩泊まりで、二人の孫娘たちが久しぶりにやって来てくれました。前に来た時からもう一年以上も時間が経っており、気がつけば(?)上の子は中学一年生に、下の子は小学五年生となっていました。真に迂闊(うかつ)なジサマであります。ちょっとの間だと思っていたのに、二人ともちょっぴり大人になっていて、その分こちらは老化が進んだわけで、自分も孫たちも加齢の時間は同じでも、中身の方は大分にギャップが大きくなったようです。

 その一つに携帯電話の扱いがあります。親たちとの相互連絡のためになのか、孫たちには携帯電話を持たせてあるようで、それならばその中に我々も加えてもらおうと、メールアドレスの交換をしました。その作業は当然大人であるジサマの役割だろうと思っていたのですが、「わたしがやる」と姉の方の分まで係わりあいながら登録をしてくれたのは妹の小学生の方でした。‥‥登録というのはどうやればいいのだったかな‥‥、などと思い巡らせていた私の目の前で、あっという間にその作業をやり終えて、「ハイ、これ」と電話器を戻してくれました。絵文字入りの通信文が書かれていて、ちゃんと登録がされておりました。化石に近づいているジサマとは別の世界がそこにあることを改めて認識させられた感じです。バサマの方もあっけにとられた顔でした。

 先日大学受験の際に試験中の会場で、携帯電話で解答についてのネット情報のやり取りをしたとかいう、高度のカンニング事件の話がありましたが、あれなどはケシカランと腹を立てるよりも、大したもんだと呆れかえって感心する方が大きいというのが実感でした。携帯電話の功罪については、自動車電話の普及が始まった頃から理屈的にはあれこれ思いめぐらしてはいましたが、個人に行き渡った現状では、往時の思惑をはるかに超えた否応なしの普及ぶりで、もはや功罪を論ずるなどの余裕がないほど当たり前の、世界中の人類の殆どに密着したコミュニケーションツールとなってしまったようです。小学生の孫が鮮やかに機器を操るのを見ながら、少し複雑な気持ちになりました。

70歳を超えた世代では、未だに携帯電話をモシモシ、ハイハイの通信手段だとしか考えられず、若者たちが何故自転車に乗りながら危険をも顧みずに、無言で画面を見ながら走っているのかが判らない人が多いのではないかと思います。電話器に文字や画像が自在に加わって情報を伝えるという世界は、化石化の進んだ老人には理解し得ないものであり、それはもはや遠い無関事なのかもしれません。本物の老人には好奇心を全く失っているという特徴があるように思いますが、携帯電話に何の関心も示さない人は、もしかしたら老人度の極めて高い人といえるのかもしれません。この世代間ギャップは、もはや埋めようもないものだと思いますが、老人が社会のお荷物となる時代がいつになったら終焉するのか、己もその一人となりつつあるのを実感しながら、やっぱりあれこれ考えてしまいます。

孫たちの世代では、コミュニケーションの社会的基本ツールとして、携帯電話やパソコンが位置づけられるのは確実です。今だって現役世界ではその意識が当然化していると思います。これらを使うことを規制することは不可能でしょう。社会的基本ツールを規制したなら、社会は成り立たなくなり、革命が起こるかもしれません。このところの中東イスラム社会の事件の数々は、そのことを立証している感じがします。人はコミュニケーションを持つことによって生きており、それによって社会が成り立っているわけですから、その基本ツールを排除したり規制したりは出来ないのです。携帯電話は、もはや確実にそのポジションを獲得してしまったのだと思います。ですから孫娘たちがそれを鮮やかに操作できるというのは、これからの世の中を生きてゆくための基本技術・技能を身につけ出しているということで、喜ばなければならないことなのかもしれません。

しかし、心配もあります。携帯電話の持つ機能に対する恐怖もあります。それは何かといえば、使い方、使われ方によって毒にも薬にもなる、中毒性も持ち合わせたツールであるということです。携帯電話の持つ機能が、多くの人の力となっていることは自明のことですが、反面多くの犯罪を発生させてもいます。心配するのは、やはり負の世界の方です。孫娘たちが未だ自分というものも覚束ないままに、悪意や興味本位のバカなオトナの仕掛けた罠や網に(はま)ってよいってまうす。携帯電話操作と、情報どう使というす。問題情報取り方使い方つい本人意図す。世の中基本姿勢社会的社会的ないん。

2003年発行の中公新書の中に、京大の正高教授著の「ケータイを持ったサル」という一冊があります。正高教授は京大の霊長類研究所で、比較行動学がご専門ですが、人間の思考・行動に係わる本質的な研究をされておられる方で多くの著作があります。この本を読んだときはショックを受けました。ある程度予想はしていたものの、専門家の見解に深く首肯できるものがあると同時に、これは相当に危険なツールだなと思ったのでした。危険というのは、ケータイを人間として使うほどには使う人の精神世界が出来上がっておらず、むしろ退化すらしているということでしたから、そう思ったのでした。そして、それを示す事実や出来事が無数に現出しているからです。大人ですらそうなのですから、子供にとっては、なお一層危険性は高まると感じたのです。正高教授はそのような状況に警告を発する意味で「ケータイを持ったサル」というショッキングなタイトルをつけられたのだと思います。

その後の世の中の現実は、ケータイの機能は益々進化し、若い世代では100%近くの所有率となっているに違いありません。けれどもそれを使う人の精神世界は、殆ど進化などしてはおらず、むしろ退化の度合いを強めているようにも見えます。精神世界のことは何が進化で何が退化なのか良く解りませんが、ツールを使った結果が世の中人のために役立ち、且つ自分自身の存在の確立にも役立つというようなことであれば、少なくとも退化ではなく前進につながっていると考えてよいと思います。今回の東日本大震災という大事件の中で、様々な出来事、人間模様が報道されていますが、たとえば「(きずな)というクローズアップは、サルないった日本人っか存在という意味で、しいた。よう保持は、ケータイ悪用心配無用す。そうあって欲しいと願っています。

思わず長くなってしまいましたが、かわいい孫娘たちには、決して、決してケータイを持ったサルにはなって欲しくないと思います。それは偏に彼女たちを育てる環境にある大人という世代の人たちの責任であり、義務であると思います。そして、このジサマもバサマも及ばずながらその一員としての役割を果たすべく見守って行きたいと思います。

コメント
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