山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

植生の外来種に思う

2011-05-13 02:01:23 | 宵宵妄話

 日本という国が、そのらしさを失いつつあることは、植生のあり方を見ていても首肯出来ることだなと実感しています。そのことについて感じていることを少し書いてみたいと思います。

私は糖尿病の宣告を受けて以来歩くことを日課の一つとしていますが、もうこれを始めてから20年以上が経過しています。歩き始めた頃、如何にこれを楽しく継続させるかということで、いろいろと工夫をしたのですが、その一つに植物の観察というのを取り入れました。道端に生えている雑草を含めた草木の名前や特徴を全部覚えてやろうという目論見です。このために何冊か図鑑を用意し、毎日出会った草や木の名前を覚えることに努めました。最初は図鑑を見てもなかなか見つからず、覚えるのが難しかった名前も、馴れるにつれてそのレパートリーが広がってゆきました。こうなってくると毎日の草木たちとの出会いが楽しみになり出し、歩くことなど何の苦も覚えなくなりました。

現役を引退した後も、歩きと草木の観察は続いていますが、この頃は忘れることも多く、その昔の全部覚えてやろうなどという勇ましさは消え果て、草木たちとの出会いをゆっくりと楽しむことが主流となっています。そして時々珍しい草木に出会った時には、写真を撮り図鑑を開いて調べるのを楽しみにしています。

先日金子みすゞの「草の名」という詩のことを書きましたが、私が懸命に草の名前を覚えようとしたのに対して、この詩人は自分で好きな名前をつけて呼べばいいという、私には思いもつかなかった方法で自在に草との絆を作って行くという、その発想に驚かされ圧倒されたのでした。そして思ったのは、この詩人がこの詩を書いた頃の野の草はどのようなものだったのかな、ということでした。恐らく今とは少し違っていたように想像します。

というのも、現在の日本の野草の生態はこの詩人が生まれ育った明治から大正時代辺りと比べて、いわゆる外来種の植物がかなり幅を利かせているからです。外来種というのは、元々は日本国内には生育していなかったもので、外国から持ち込まれたというものであり、帰化植物とも呼ばれています。タンポポ一つとっても、恐らく大正時代に野に生えていたタンポポの花は、今我々が見ているタンポポとは違っていたはずです。花の姿は良く似ていますが、外来種は在来の日本タンポポ(関東タンポポ)とは少し違うのです。黄色い花のタンポポでは、総苞片の部分がそっくりかえっているのが外来種の西洋タンポポであり、そうなっていないのが日本在来のタンポポだという見分け方は、周知のことでしょう。

一般的に日本に昔から生育していた植物に対して、外来種のそれは生命力が旺盛という感じがします。形振(なりふ)り構わずに土地を占有し、己の子孫を増やしてゆくという植物が多いように思います。アキノキリンソウの仲間の外来種のセイタカアワダチソウなどを見ていると、アキノキリンソウという在来の植物の存在を忘れさせてしまうほどの勢いです。その他、ハルジオンやヒメジオンなども今では日本中を席巻してしまっているようです。

私が思うのは、日本の在来の植物たちの多くは、限られている土地を、その範囲や順番を決めて穏やかに使い分けをしながら生きて来たのではないかということです。今流で言うならば、土地の持つ空間と時間をシェアリングしながら活用してきたように思うのです。これは以前通勤時に玉川上水の側道を何年か歩き通った時に気付いたことですが、道端に生育する様々な植物たちは、どれかある種だけが一気に他を駆逐して蔓延(はびこ)るというものは少なく、それぞれが毎年同じ時期に、同じ場所で穏やかに芽を出し、茎や葉を伸ばし、花を咲かせることを繰り返しているように思いました。しかし中には蔦(つた)類のヤブカラシのようなヤクザな植物もあるようですが、概してそのような輩は少ないようです。

ところが、多くの外来種は、可愛い花を咲かせる奴もそうでない奴も、生き残って子孫を増やすことに貪欲のようです。他のものを押しのけても我先にと土地を占有し、活動の時間を独り占めしようとしているかのようです。タンポポなどを見ていても、関東タンポポの活動期間や生育範囲に比べて西洋タンポポは期間も範囲も倍以上の感じがするのです。外来種の植物というのは、日本の植物の生態系を明らかに壊しているように思えてなりません。

今、一番気になっているのはブタナという植物です。これはヨーロッパ原産の植物で、タンポポを小型にしたような花を咲かせますが、葉の形がタンポポとは違って細く厚ぼったい感じの野草です。夏に北海道を旅する度に、この草の広がりが増え続けている感じがしており、最近では我家の近くの小貝川の堤防辺りでも時々出会うことがあります。相当に生命力の強そうな感じがしますので、やがてはタンポポなどを駆逐して、この花ばかりになってしまうのではないかと思ったりしてしまいます。人間も植物も生きものとしては皆同じであり、何か一つが地球を独占してしまうというのは、不気味なことであり、明らかに間違いのような気がするのです。

日本はより世界に開かれた国となり、国民の多くが英語を話し、中国語を使い回して、国際人(?)としてこれからの時代を生きてゆかなければならない、などという考え方が次第に一般化してきているようですが、そのことに真っ向反対はしないものの、己の足元である日本というものを忘れ果てた上での発想であるならば、私はそのような根なし草のグローバリズムには反対せざるをえません。様々な国の、様々な民族の、様々な文化がそれぞれ独立し、尊重し合って、認め合った上で本物のグローバリズムというのが成り立つのではないかと思うのです。

今の日本国には、もしかしたら国を忘れた或いは民族を忘れた国民が多いのではないかと思ったりしてしまいます。この度の大震災では、そうではないということが判ってホッとした部分がありますが、これから先もこの日本人らしさを維持し続けることが大切ではないかと思っています。

道端の野草たちの世界を垣間見て歩きながら、植物たちのグローバリズムのあり方に大いなる疑問を感じつつ、最近の世の中が日本という国の、民族の大切なものを忘れた根なし草のような動きとなってはいないか、ふと危うさを思ったのでした。植物たちはそれこそ野生のありのままの姿の世界ですが、人間としての日本人は、日本人らしさを生かしたより賢い世界を作って行くべきではないかと思ったのでした。

コメント
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