Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

伝える難しさ

2024年10月10日 | Weblog

教育者というのは、誰かに何かを伝える存在ですが、伝えること一つをとってみても簡単なことではありません。1.シナリオスキル、2.デリバリースキル、といったスキルの問題もありますが、3.プレゼンスの問題も大きく存在しています。

そもそも伝えたいことは本当にあるのか。そこに自分の思いや信念といったものはあるのか。語り得るだけの経験をしてきたのか。そうしたことが問われてしまいますし、それは、誤魔化しようもなく、他人に伝わっていくものです。

「わかること」と「できること」は違います。そして、「できること」と「伝えること」も違います。話がわかったからといって、それが出来るかどうかは別の次元の問題です。出来たからといって、そのことを第三者に分かり易く伝えられるかというと、それもまた別次元の問題です。

この三者の間には、いくつものハードルが存在していると感じます。

そう難しいことは考えなくとも良いのかも知れませんが、伝わるように伝えたいという意志がある限り、この問題には真剣に向き合わざるを得ないのだと思います。

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教育改革

2024年10月10日 | Weblog

教育を変革していくためには、ものすごい勉強量が必要だと思います。それは、世界の中の日本に生きる子どもたちをどう育てるかということにならざるを得ないから、世界という空間について、また、日本という空間について、色々なことを学ぶ必要があるからです。また、私たちは現在を生きていますが、子どもたちは未来を生きます。過去は現在につながり、現在は未来に繋がっていますから、過去を学ぶことも大切ですし、未来を考えていくことも大切です。この空間軸と時間軸を意識して学び、教育を考えて、実践にまで落とし込んでいくとすれば、日々、必死の努力が必要になります。

しかし、目先の利益、自分の豊かな生活しか考えなければ、誰もそんなところまで極めていこうとは思わないでしょう。それでなくとも、日々の生活や子育てなどにも追われていくこととなりますから大変です。しかし、だからこそ、教育関係者は敬意を得られなくなっているのかもしれません。しかし、教育は本来「国家百年の計」として大切なものです。

教育に対する敬意の低さは、先生方の処遇の低さに表れていますし、国家予算・自治体予算の少なさにも表れています。教員をやめた私は教育界に特有の様々な制約からはことごとく解放されています。これは予想以上に大きなものがありました。しかし、教育に対する敬意の低さからは逃れることが出来ません。

それを如何にして突破できるか。私一人の力では無理な話です。だから、ごまめの歯ぎしりと知りつつも、本当のことを全力で語り続けます。本当のことを言うと差し障りのある人も多いと思います。そうした人たちがあらゆる業界に蔓延しているのが、今の日本の姿を作っているのだと感じます。

それぞれが頑張っているという言葉に逃げ込むのは容易なことです。他人に頑張りが足りないと言うことは、自らに刃を突きつけ、頑張り続けることにもなりますから。言いたくもないことです。しかし、老い先短い爺が言わなくてはとも思います。

私を励ましてくれるのは、先人の言葉たちです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」「我に七難八苦を与え給え」「斃れて後已む」「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」

人生は一度限り。私は好きに生きようと思います。

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