安芸高田市の市長が投じている一石は、一市を超えた大きなものであると思います。日本人の言語力の低さ、志操の低さ、論理性の低さというものが、如実にあぶり出されているからです。
政界での言語空間が、いかに低レベルであるのかが、白日の下に曝け出されました。マスコミも同様でした。問題の本質は、日本人の言語力の低さ、志操の低さ、論理性の低さだったのです。
であるならば、私は、子どもたちの教育改革に向かいたいと思います。そうした力は子どもの頃に養われるものだからです。
教員のなり手がなくなっていることを耳にします。教員という仕事に魅力が無いとか、待遇が悪いとか、様々に理由は語られています。
私が思うのは、使命感の欠如と言うことです。これは、教育に使命感を持ちましょうなどと言う話ではありません。能力あるリーダーたちが、本気で子どもたちと関わり合って、日本の未来に責任を持ち、それを果たすかどうかと言う話です。
安芸高田市の市長と市民のミーティングの最後に主催者の方が、声を詰まらせ、涙ながらに「安芸高田市を何とかして未来の子どもたちに残したい」という言葉を語られていました。
今、同じように、「日本を何とかして未来の子どもたちに残したい」と本気で語る人がどれだけいるのでしょうか。そして、そのための行動を起こす人がどれだけいるのでしょうか。
東大や京大を卒業した人たちは優秀です。だから、とても教員の待遇や地位に甘んじられないと思います。どれだけ綺麗事を言おうと、骨を埋める覚悟で、自分が学校現場に行って、汗を掻くことはない。それが現実です。
勿論、学歴だけが大切なのではありません。しかし、前述の、言語力や論理力については、学力との相関は当然あるでしょう。その力の無さが、政治を含め、全ての問題の本質だとすれば、日本の力を低下させている根本原因だわかったのであれば、誰かがそこに立ち向かわなくてはならないのです。
佐賀出身の下村湖人は、小説『次郎物語』を書き、多くの教育的資産を遺して下さいました。彼は校長先生を務めていましたが、私の知る、数少ない東大出身の教育実践家の1人です。素晴らしい人生であったと思います。
そんな教育者が出てくることを望みます。
私も頑張りますが、残念ながら、それほど能力がありません。ただし、能力が低いことを重々自覚しつつも、結果が出ている限り、教育実践をやり続けます。
更に覚悟を固めていこうと思います。