Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

言葉への敬意

2012年11月29日 | Weblog
言語全般への軽視が、
人間の精神の劣化をもたらすのかもしれません。

感情にせよ、思考にせよ、行動にせよ、
やはり、全ては「言語」と結びついています。

戦後の教育の中で、
国語教育は「わかりやすさ」を
希求しなければならなくなりました。

そして、
子どもには難解なものを与えてはならない。
わかりやすいことが大切なのだ。
そんな風潮が蔓延してしまいました。

しかし、本当にそうでしょうか。

分からないことがあるから知りたいと思うし、
できないことがあるからできるようになりたいと思うのも、
私は、人間の本質の一つだと思います。

人間の精神の美しさ、醜さ、
愛と憎しみ、喜怒哀楽の感情は、
どこから来て、どこへ行くのかをも知りたい。

人間存在の難解さを、
人間の行動や言語の蓄積を通して知りたい。

そうした精神性への欲求が、
以前は強かったように思います。
だから「哲学」がある種の敬意をもって人々に迎えられた。

代わりに、人間の臓器や精神を
科学技術で分析していく手法が重宝されるようになってきました。

それはそれで、素晴らしいことなのでしょうが、
私には、経験則の積み重ね、
つまりは、歴史や文化や言語活動の蓄積に目を向けることの方が、
「教育」という営みにとっては大切な気がします。
所詮は、人づてにしかできない、ぬくもりのある営みだと思うのです。

別の観点で言えば、
科学技術の発達した平成の人作りが、
江戸や明治の人作りに勝っている気がどうもしないのです。

それは人間存在の複雑さを
心の目で見ようとしなくなったからではないでしょうか。
心の目では無く、科学の目で見ようとしている。

複雑な感情には、対応する複雑な言語が必要です。
複雑な思考には、対応する複雑な言語が必要です。

文明の発達と共に、
新たに生み出された「物」や「概念」に対応して、
言葉の数は確実に増えているはずです。

しかし、感情や思考を表現する言葉は、
あまりに「平板」になりはしなかったでしょうか。

言葉の衰退によって、
人間の行動までもが幼稚になっていくのは、
言語によって思考し行動する人間の宿命だと言えます。

だから、私は言葉への敬意を取り戻していきたいと思います。

コメント
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