池田光政公は岡山藩主として藩政に敏腕をふるった人物です。
儒教を信奉し、陽明学者・熊沢蕃山を招聘しました。
さらに、寛文10年(1670年)には、
日本最古の庶民の学校として閑谷学校を開きました。
池田光政公は、八歳で家督を継いだため、
その重圧に夜も眠れなかったそうです。
しかし、「君子の儒」(孔孟の教えを奉ずる学者)として、
家臣・良民を教え導くことが大切だと言うことに気づき、
人としての道を学ぶ学問に打ち込むようになってからは、
くっすりと眠れるようになったそうです。
閑谷学校に行って見た、
光政公が筆で歌を書いた扇子には、
次のような一首が記されていました。
心だに誠の道にかなひなば
祈らずとても神や護らん
自分自身を磨くことを怠って、
いくら神仏に祈ったところで、
道が開けるはずはありません。
しかし、
人として真心を尽くし、
誠実に努め励んでいれば、
祈らなくても神仏のご加護はきっとあるだろう。
現代に生きる私たちにも通じる
不易の真理が詠み込まれた歌だと思います。
儒教を信奉し、陽明学者・熊沢蕃山を招聘しました。
さらに、寛文10年(1670年)には、
日本最古の庶民の学校として閑谷学校を開きました。
池田光政公は、八歳で家督を継いだため、
その重圧に夜も眠れなかったそうです。
しかし、「君子の儒」(孔孟の教えを奉ずる学者)として、
家臣・良民を教え導くことが大切だと言うことに気づき、
人としての道を学ぶ学問に打ち込むようになってからは、
くっすりと眠れるようになったそうです。
閑谷学校に行って見た、
光政公が筆で歌を書いた扇子には、
次のような一首が記されていました。
心だに誠の道にかなひなば
祈らずとても神や護らん
自分自身を磨くことを怠って、
いくら神仏に祈ったところで、
道が開けるはずはありません。
しかし、
人として真心を尽くし、
誠実に努め励んでいれば、
祈らなくても神仏のご加護はきっとあるだろう。
現代に生きる私たちにも通じる
不易の真理が詠み込まれた歌だと思います。