政治については言及したくないのですが、
言葉の問題として、文化の問題として、
違和感を覚えたことに触れておきたいと思います。
今日、【ワシントン時事】ニュースで、次のように報じられていました。
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は9日、東日本大震災から1年を迎えるのを前に、野田佳彦首相の寄稿文を掲載した。首相は「われわれの目標は、単に震災前の姿を取り戻すことではなく、新生日本を建設することだ」と復興に向けた決意を示している。
首相は「日本は戦後の廃虚と荒廃から急速に経済発展を遂げ、オイルショック後に世界で最もエネルギー効率性の高い経済を打ち立てた」と指摘。現在も同様に厳しい時代にあるとしながらも、「われわれはこの歴史的な困難を乗り越える決心だ」と表明した。また、大震災を通じて「想定外だったという言い訳はもはや通用しないことを学んだ」と強調。日本は災害リスクの低減や震災への対処方法など、今回得た教訓を国際社会と共有する責務を負っていると述べた。
想定外とおっしゃいますが、想定はありました。
ただ、私たちが、先人の知恵や、子孫への思いを
軽んじて粗末に扱ってきただけではないのでしょうか。
2011年3月30日07時22分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm
の報じた記事でそれはわかります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「此処ここより下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫じそんの和楽わらく 想おもへ惨禍の大津浪おおつなみ」
本州最東端の●ヶ埼とどがさき灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは近代科学技術文明の恩恵を無数に受けています。
それはそれで、素晴らしいことだと思います。
しかし、一方で、父祖の世代から受け継いできた、
知恵と文化とをあまりに軽んじているのではないかと思うのです。
「新しい日本を作る」と声高に言うのも良いとは思いますが、
大切なものを受け継ぐ覚悟もまた大切なのではないでしょうか。
文化を受け継ぐと言うことは、
父祖の世代の苦労に頭を垂れる謙虚さを持つことに他ならないと私は思います。
自然の脅威の前に近代科学技術は無力であるということが、
今回の震災で得られた大きな教訓であるのならば、
私たちが第一に為すべき事は、
自然に対する畏敬の念を取り戻し、
父祖の世代から受け継がれてきた文化を尊重していくことだと思います。
それを土台とした国作りをしていかなければ、
結局は、同じ過ちを繰り返すに過ぎないことになるだろうと私は思います。
哲学不在の時代とは言うものの、
そうした意識が少しも感じられない言論に、
私は何とも言えない寂しさを感じるのです。
言葉の問題として、文化の問題として、
違和感を覚えたことに触れておきたいと思います。
今日、【ワシントン時事】ニュースで、次のように報じられていました。
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は9日、東日本大震災から1年を迎えるのを前に、野田佳彦首相の寄稿文を掲載した。首相は「われわれの目標は、単に震災前の姿を取り戻すことではなく、新生日本を建設することだ」と復興に向けた決意を示している。
首相は「日本は戦後の廃虚と荒廃から急速に経済発展を遂げ、オイルショック後に世界で最もエネルギー効率性の高い経済を打ち立てた」と指摘。現在も同様に厳しい時代にあるとしながらも、「われわれはこの歴史的な困難を乗り越える決心だ」と表明した。また、大震災を通じて「想定外だったという言い訳はもはや通用しないことを学んだ」と強調。日本は災害リスクの低減や震災への対処方法など、今回得た教訓を国際社会と共有する責務を負っていると述べた。
想定外とおっしゃいますが、想定はありました。
ただ、私たちが、先人の知恵や、子孫への思いを
軽んじて粗末に扱ってきただけではないのでしょうか。
2011年3月30日07時22分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm
の報じた記事でそれはわかります。
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「此処ここより下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫じそんの和楽わらく 想おもへ惨禍の大津浪おおつなみ」
本州最東端の●ヶ埼とどがさき灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
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私たちは近代科学技術文明の恩恵を無数に受けています。
それはそれで、素晴らしいことだと思います。
しかし、一方で、父祖の世代から受け継いできた、
知恵と文化とをあまりに軽んじているのではないかと思うのです。
「新しい日本を作る」と声高に言うのも良いとは思いますが、
大切なものを受け継ぐ覚悟もまた大切なのではないでしょうか。
文化を受け継ぐと言うことは、
父祖の世代の苦労に頭を垂れる謙虚さを持つことに他ならないと私は思います。
自然の脅威の前に近代科学技術は無力であるということが、
今回の震災で得られた大きな教訓であるのならば、
私たちが第一に為すべき事は、
自然に対する畏敬の念を取り戻し、
父祖の世代から受け継がれてきた文化を尊重していくことだと思います。
それを土台とした国作りをしていかなければ、
結局は、同じ過ちを繰り返すに過ぎないことになるだろうと私は思います。
哲学不在の時代とは言うものの、
そうした意識が少しも感じられない言論に、
私は何とも言えない寂しさを感じるのです。