Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

魯山人の言葉

2009年11月23日 | Weblog
「個性だとか創作だとか、
 口でいうのはやすいことだが、
 現実に表現が物をいうようなことは、
 なまやさしい作業ではないし得られるものではない。

 さあ自由なものを作って見ろと解放されたとしても、
 決して自由は出来ないものである。

 第一過去の人間が作った美術に十分心眼が開かなくては、
 かなわぬことである。

 過去といっても千年も二千年前からの
 美術、芸術に眼が利かなくては、かなわぬことである。

 食器師だからというので、
 陶器ばかり観ているくらいの注視力では、
 乙な器は生まれるものではない。

 三百年の茶碗が作りたければ、
 千年前の美術が解らなくてはかなわぬものである。

 料理なども細民の美食から大名の悪食までに通じていなくては、
 一人前の料理とはいい難い。

 それは恐ろしいまでの努力であって、
 調理場ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて
 料理を語るという段階には至らぬものである。

 乞食になってみるのもムダではない。
 虚飾でかたまっている大名料理を経験してみるのもムダではない。
 本格な床柱を背に大尽を決め込むようなこともたびたびあってよい。

 陶器する心も、ほぼ同じである。」     北大路魯山人の言葉




私の学びには、端から見ていると無駄が多いと思う。
しかし、私はそうした無駄を無駄とは思ってはいない。

だから、経済効率の視点からいけば、
極めて愚かしい道の歩き方をしていると思う。

だが、私は、教育者が様々な価値観や体験を効率よく身につけ、
効率よく伝えていこうとすることに、そもそも無理があると思っている。

教育は「全て」であり、善も悪も、美も醜も、
できるだけ知っておいた方が良いと思うからだ。

しかし、
悪を知って悪に染まってはならないし、
美を知って美に驕ってはならない。

北大路魯山人は、自ら作った星岡茶寮を追われた後、
星岡窯に隠棲し素晴らしい器を作り続けた。
それが天命だったのだろう。

人にはそれぞれ与えられた天命がある。
私もその天命に生き続けたい。




コメント
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