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『世界哲学史7』

『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

一九世紀はその前の世紀とに満の意味で、世界の多くの場所で、大規模な変革へ向けた力が発揮された時代である。哲学はそうしたエネルギーを吸収しつつ、それまでの思想的な旧制度の種から、自らを解放しようともがいていた。哲学を近代的段階から現代的段階へと引き上げ、移行させようとしていた。

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代数方程式については見つかっていなかった。ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』(一七七〇)という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとするのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにおいて、代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。C・F・ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』(一八〇一年)において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・Hアーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニスト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジの方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せる。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入する。

4ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像)のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すなわち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、平方因子を含まない一次、または二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。また、平方因子を含まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。楕円曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。そして、楕円積分は、この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。この見方が、それまでの楕円積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス(一八一五~一八九七)のような厳密性を数学の基礎に据えようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべきでないと考える。そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である(ペー)関数と呼ばれる無限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学については、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマンは曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し始める「幾何学の基礎をなす仮説について」(一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念(現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六)も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃からガロア理論が数学界で受容され始める。デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで拡大体を生成することができるという考え方を表現した。そして、このような体の拡大(ガロア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群)が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアがその理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、それを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。デデキントとH・ウェーバー(一八四二~一九一三)は、それをさらに拡張して代数関数体の理論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このようにして、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。別の見方をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。そして、これらのことが大きな動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見える」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキントが代数的な方法でリーマン面を再構成した。それによって、リーマン面に内在する構造が顕わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察される。また、それはカント哲学内部での直示的構成>から〈記号的構成>へのフィヒテ哲学を介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、その見方において、代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結びついて楕円積分によって書ける。クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換)によるリーマン面を構成し、その中で双曲幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ(一八五四~一九一二)は、リーマン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九)は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかったが、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そして、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された微分幾何学を重要なものと認めなかった。しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン(一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像に用いられた。さらに、数学者Hワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくのである。

 209『世界の歴史⑧』

イスラーム世界の興隆

預言者ムハンマド

預言者のプロフィール

イスラームの預言者ムハンマドは、五七〇年ころ、メッカのクライシュ族に属するハシム家に生まれた。誕生のときに父のアブド・アッラーフはすでになく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アルムッタリブの保護にたよって、母親のアーミナの手ひとつで育てられた。ほかに兄弟や姉妹はなく、ムハンマドは母と二人だけの寂しい子供時代を送らなければならなかった。しかもムハンマドが六歳になったころに母親も世を去り、さらに二年後には、保護者のアブド・アルムッタリブが死没するという不運に見舞われた。アブド・アルムッタリブの死後、ハーシム家の家長となった叔父のアブー・ターリブは、孤児となったムハンマドを引き取り、この甥をたいせつに育てあげた。ムハンマドをシリアへの隊商に同行させたのは、この人物である。

ムハンマドの少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない。少年がおかれた環境はひどく苛酷であったが、近親者のあたたかい援助によって、何とかこの試練を乗り切ることができた。「コーラン」(第九三章)にいう。

彼(神)は孤児であるそなたを見出し、庇護を与えてくださらなかったか彼は迷っているそなたを見出し、正しい道に導いてくださらなかったか彼は貧しいそなたを見出し、富を与えてくださらなかったか

ムハンマドが二十五歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商をまかせた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディ―ジャは、人を介して結婚を申しこみ、その年から二人の結婚生活が開始された。伝承によれば、このときハディージャはすでに四十歳に達していたと伝えられる。二人のあいだには三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

アッバース朝時代の伝承学者イブン・サード(八四五年没)は、ムハンマドのプロフィ―ルをおよそ次のように伝えている。

ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方はまるで坂道を下るようであった。背丈は低くもなく、高くもない程度であった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常にやさしい言葉をかけるのを忘れなかった。(『大伝記集』)この伝承は、ムハンマドの没後二〇〇年以上をへてまとめられたものであり、預言者の実像をどれだけ正確に伝えているかとなると、いささか疑問である。没後になってから伝説化された部分も少なくないと思われる。しかし、後世のムスリムたちが、ムハンマドのプロフィールをこのように描いていたことは確かであり、その点に注目すれば、なかなか興味深い人物像であるといえよう。

最初の啓示

メッカのムハンマドは、毎年、ラマダーン月(第九月)になると、家族といっしょにヒラー山の洞窟にこもって祈り、集まってくる貧しい人びとに施しをするのを習慣にしていた。六一〇年、ムハンマドが四十歳になったころのラマダーン月、いつものようにヒラー山の洞窟にこもっていると、ある夜、うとうととまどろんでいたムハンマドのもとに大天使ガブリエルが現れ、次のような神(アッラーフ)の啓示をつたえた。

詠め、「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」

詠め、「汝の主はペンによって[書くことを教え給うたもっとも尊いお方]「人間に未知のことを教え給うたお方」であると(「コーラン」第九六章一~五節)

「詠め」とは、声に出して読むことである。コーラン、正しくはクルアーンも、元来は「声に出して読むもの」を意味している。このように最初から「読誦」を重視したのは、シリアのキリスト教会で聖書が読誦されていることを、ムハンマドがよく知っていたからであろうと推測されている。

いっぽう、最初に下された啓示は次の章句であるとする伝承も残されている。

マントにくるまる者よ

立て、そして警告せよ

汝の主をたたえよ

汝の衣を清めよ

不浄をさけよ

〔後で〕多くを得ようとして、施してはならない

汝の主のために堪え忍べ(「コーラン」第七四章一~七節)

現在のところ、どちらが最初の啓示であるのか、確かなことはわからない。いずれにせよ、最初の啓示をうけたムハンマドは、恐れおののき、マントにくるまって、ただふるえているだけであったという。これが神の言葉であることを信じることさえできず、何か悪い霊(ジン)にとりつかれたにちがいないと思いこんでいたのである。

預言者としての自覚

しかし、恐れおののくムハンマドをはげまし、断続的に下される言葉は神の啓示にほかならないと信じたのは、年上の妻ハディージャであった。彼女のはげましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物としてきわめて重要な役割を果たしたといえよう。もっとも、神への絶対的な帰依を意味する「イスラーム」が宗教の名称として確立するのは、アッバース朝時代になってからのことである。ムハンマドは、必要に応じて、神への服従(イスラーム)、信仰(イーマーン)、宗教(ディーン)などの言葉を自在に使っていたらしい。

それでは、最初のイスラーム教徒(ムスリム)となった男性は誰だったのだろうか。ムハンマドの庇護者であった叔父アブー・ターリブの息子アリー(後の正統カリフ)だとする説もあるが、当時、十歳に満たないアリーが神の言葉を十分に理解できたとは思われない。むしろ奴隷としてムハンマドに仕え、後に解放されたザイドこそ最初の男性ムスリムであるとする考えが有力である。ムハンマドは、この解放奴隷をことのほか可愛がり、早世した息子たちのかわりとして育てていたのである。

同じメッカで細々とした商売をいとなむアブー・バクルは、ムハンマドの古い友人のひとりであった。彼もまた、ムハンマドに下された言葉を神の啓示として理解し、ごく早い段階でイスラームに改宗した。このような共鳴者が増えるにつれて、ムハンマドは「神の使徒」(ラスール・アッラーフ)としての自覚を深めていったように思われる。

「創造主である神は、ラクダと天と大地をつくり、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えてくださった。また神は、最後の審判の日に、地獄へ落ちた人間には恐ろしい業火を用意し、善行ゆえに天国へ導かれた者には、従順にかしずく乙女と緑したたる楽園を準備してださる。地獄へ落ちるのは、他人の遺産をむさぼり、ただむやみに富を愛する者たちである」。つぎつぎと下される啓示によって、唯一なる創造主、最後の審判の主宰者、慈悲深い神と罰を下す恐ろしい神など、アッラーフについての具体的イメージがしだいに明らかにされていった。

こうして、ムハンマドがメッカの人びとに伝道をはじめるまでの間に、およそ五〇人ばかりがムスリムの仲間入りを果たした。彼らのなかには、有力な氏族に属する者もあれば、弱小の氏族に属する者もあったが、その多くが三十代半ばまでの若者であったことは注目に値する。また、ビザンツ帝国領やアビシニア(現在のエチオピア)生まれの奴隷、あるいは解放奴隷のほかに、同盟者(ハリーフ)として部族の保護下にあるよそ者も含まれていた。『ムハンマド』の著者ワットは、初期の改宗者はおちぶれ果てた人たちではなく、概して言えば、メッカ社会の最上層のちょうどひとつ下に属していたと述べている。これらの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドの教えに、おそらく新鮮な社会正義を見出したのであろうと思う。

伝道と迫害

「神の使徒」としての自信を深めたムハンマドは、六一四年ころから公の伝道を開始した。ムハンマドが活動の拠点に定めたのは、名門マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた大きな屋敷であった。昼間、ムハンマドと三九名の弟子たちはこの家に集まり、説教と礼拝のときを過ごした。青年たちのなかには、そのままここで夜を過ごす者もあったらしい。評判を聞いて、この家を訪ねる人の数も徐々に増大していった。

しかし、メッカの人びとの多くは、この「若者宿」での活動にさしたる関心を示さなかった。彼らは、「神は唯一である」という教えをいぶかしく思うだけで、これまでどおりの信仰に疑いを抱く者はほとんどなかったといってよい。新しい教えを説くムハンマドは、名門ではあるが、さほど実力のないハーシム家の一青年にすぎなかったからである。

だが、ムハンマドへの共鳴者が少しずつ増えるにつれて、クライシュ族の指導者たちの間に消しがたい疑惑が生じはじめた。このままムハンマドが若者たちを集めて、勢力を拡大していけば、メッカ社会の伝統的な権威はそこなわれ、やがてはこの男がメッカの支配者になってしまうのではないか。「コーラン」(第二五章七~八節)に、

彼ら(不信仰者)はいう。「これは何とした使徒だ。食べ物をとり、市場を歩きまわるとは。〔本物の使徒なら〕どうして天使が遣わされ、彼といっしょに警告者とならないのか」。

とあるのは、指導者たちの疑惑があからさまな形をとりはじめたことを示している。クライシュ族の各家の間には、商売上の利益をまもり、社会の不正を正すために「有徳者同盟」がむすばれ、この当時はハーシム家にその指導権が与えられていた。しかし、ムハンマドの行動に危機感をおぼえた同盟者たちは、使徒の属するハーシム家をこの同盟から除外する行為にでた。そのうえで、同盟していた家長たちはムハンマドと会見し、もし偶像崇拝への攻撃をやめれば、彼に富と権力を保証し、彼らもいっしょにアッラーフへの礼拝をおこなおうと提案した。

ムハンマドは、彼らとの妥協の誘惑にかられた。しかし、いちじの迷いからさめたムハンマドは、「おまえたちにはおまえたちの宗教が、そして私には私の宗教がある」として、毅然たる態度を示した。これをみたクライシュ族の大商人たちは、ムハンマドとその仲間にたいして公然の迫害を開始するにいたった。マフズーム家のアブー・ジャフルは、ムハンマドと同世代であったが、新しい改宗者が出ると、「おまえは先祖の宗教を捨ててしまった。われわれは、きっとおまえたちの名誉を傷つけてやるぞ」といって脅したという。

このような迫害に耐えかねたムハンマドは、いちじ信徒の一部をキリスト教徒の国アビシニアへ避難させなければならなかった。大商人たちは、共謀してムハンマドのハーシム家とアブー・バクルのタイム家に対し、ムスリムへの保護(ズィンマ)を取り消すように圧力をかけた。この当時、氏族の保護を失うことは、生命の安全すら保障されないことを意味していた。六一九年には、このような圧力にもかかわらず、ムハンマドを断固として守ってくれた叔父のアブー・ターリブと最愛の妻ハディージャがあいついで世を去った。ムハンマドは絶望の淵に沈みこみ、ここに誕生まもないイスラームは最大の危機を迎えたのである。

西方イスラーム世界の輝き―コルドバ

ジブラルタルを越えて

トゥール・ポワティエ間の戦い

七一一年の春、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した一万二〇〇〇のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード(七二〇年没)の指揮のもとに破竹の進撃をつづけた。同年七月、ロドリゴの率いる西ゴート王国軍を一蹴すると、未来の首都コルドバを二ヵ月の包囲の後に陥落させた。タホ川の北岸にある西ゴート王国の首都トレドも、一部ユダヤ人の裏切りによって十月にはターリクの前に開城し、王国は事実上崩壊した。

部下として派遣した将軍ターリクの成功を知ったアラブの将軍ムーサー・ブン・ヌサイル(六四〇~七一六七年)は、翌年、みずから一万の軍を率いてイベリア半島に押し渡った。彼は半島最大の都市であり、学術の中心地としても名高いセビリアを落とすと、進軍の停止命令を無視したターリクを鞭打ったうえで鎖に拘束した。しかし皮肉なことに、ムーサー自身もカリフの承認を得ることなく行動したと非難され、まもなくダマスクスへの召還命令が下された。

ところが七一五年、ムーサーが四〇〇名の西ゴート諸侯と奴隷と財宝をともなってダマスクスに帰還すると、彼の非をとがめるどころか、ウマイヤ・モスクでは凱旋の将軍をむかえて盛大な祝典が催された。ムーサーによるイベリア半島の征服は、サラゴサを越えてアラゴンやレオンの高地にまで及んだが、アラブ人は北部の山岳地帯を除く半島の支配領域をアンダルスと名づけた。現在、南スペインの一帯をさして用いられるアンダルシアは、このアラビア名に由来している。

七一七年ころ、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入すると、ナルボンヌを占領し、さらに北上して大西洋岸に近いボルドーを陥れた(七三二年)。アンダルス総督(アミール)のアブド・アッラフマーン(七三二年没)が率いるアラブ軍は、北進をつづけてトゥール近郊まで迫ったが、トゥールとポワティエの間でフランク王国の宰相カール・マルテル(六八九〜七四一年)の迎撃軍と遭遇した。七三二年十月、トゥール・ポワティエ間の戦いはフランク軍の勝利に帰し、戦闘で指揮官を失ったアラブ軍はピレネー山脈の南に引き返した。

しかし、この戦いの結果を過大に評価し、もしこのときアラブ・イスラーム軍が勝利を収めていたら、オックスフォード大学では聖書のかわりに「コーラン」が講義されていたであろうと考えるのはまちがっている。アラブ軍の補給路は伸びきっていたし、当時のアラブ軍にはヨーロッパ全土を征服するだけの士気の高さは残っていなかったからである。それにおおかたのアラブ人は、緑濃いオリーヴが繁らないような寒冷の土地には住むことができないと考えていた。彼らは、何よりもナツメヤシとオリーヴを好む民族であった。

後ウマイヤ朝の成立

七五〇年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、新政権の追及の手を辛くも逃れたウマイヤ家の青年がひとりいた。名前はアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウィヤ(七三一~七八八年)、俊敏で鷹のような風貌をもつ二十歳の若者であった。彼はユーフラテス川に飛び込んで追手をかわし、パレスティナで庇護者をみつけると、北アフリカに渡り、七五五年にはモロッコのセウタまでたどり着いた。

ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸したアブド・アッラフマーンを、当地のムスリムは熱烈に歓迎した。アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダルスは混沌とした状況におかれていた。これに引き替え、アブド・アッラフマーンはれっきとしたウマイヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物とみなされたのである。

支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、緑の旗を押し立ててコルドバへと進軍し、七五六年五月、アミール・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝五六~一〇三一年)の樹立を宣言した。しかし、このアブド・アッラフマーン一世(在位七五六~七八八年)がアンダルスを完全に平定するのには、さらに一〇年の歳月を必要とした。アッバース朝からは領内に騒乱を引き起こすための密使が送られてきたし、アラブ人が漁夫の利を得ることに不満なベルベル人は各地で反乱をくり返したからである。

アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカ―ル大帝(在位七六八〜八一四年)との軍事的対決も辞さなかった。七七八年、カール大帝が半島北東部のサラゴサへ進撃してくると、アブド・アッラフマーン一世はこれを迎え撃ち、ピレネー山脈の隘路を追撃してフランク軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いの模様を記した『ローランの歌』(十一~十二世紀ごろの成立)は、次のように歌いはじめる。

われらの大帝シャルル王は、
まる七年、スペインにありて、
高き土地を海まで征せり。
彼の前に支え得る城はなく、
城壁、城市、打ち毀つべきはのこらず。
ただサラゴスのみは、山上にありて、
マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。(有永弘人訳)

さて、アブド・アッラフマーン一世は、アンダルスの平定後もアミール(総督、あるいは軍司令官)の称号に甘んじていたが、アッバース朝による内政の干渉には断固たる態度を示した。カリフ・マンスールから代わりのアンダルス総督が派遣されてくると、二年後にはその首を塩づけにして、メッカ巡礼の途上にあったマンスールに送り返したという。「クライシュ族の鷹」の異名はこのようにして生まれた。ヒッティの『アラブの歴史』によれば、マンスールは「余と、かような恐ろしい敵を、海でへだて給うた神に感謝し奉る」と叫んだと伝えられる。

名君アブド・アッラフマーン三世

賭博と酒におぼれたハカム(在位七九六~八二二年)の治世が、改宗した現地人ムスリムの反乱とそれへの苛酷な弾圧のうちに終わったあと、その子アブド・アッラフマーン二世(在位八二二~八五二年)がアミール位を継承した。

彼はマーリク派の法学に手厚い保護を与え、スンナ派による統治の実現をはかった。バグダードに対抗すべくイスラーム文化の振興にも熱心であったが、その治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラーム化とアラブ化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒は反発を強め、自発的な殉教者を出すまでにいたった。彼らはムハンマドとイスラームを公然とののしり、逮捕されてもひるまず、すすんで死の刑に服したのである。

しかも半島北部のキリスト教諸侯は次々とアミールに反旗を翻し、南部地方でも、八八〇年、西ゴート伯の子孫でイスラームに改宗したイブン・ハフスーンが、現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。イブン・ハフスーンは、ふたたびキリスト教に復帰し、北アフリカのアグラブ朝(八〇〇~九〇九年)と手を結んで、一時はコルドバを孤立化させるところまでアンダルス総督を追いつめた。

このような状況のなかで八代目のアミール位に就いたのが、二十三歳のアブド・アッラフマーン三世(在位九一二~九六一年)であった。キリスト教徒の奴隷を母にもつこの青年の君主は、まず全国に広まっていた反乱の鎮圧に着手する。手はじめにエルビラとセビリアを占領すると、九一七年には強敵イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、次いで九三二年、トレドを再征服してアンダルス全土の統一を回復した。北アフリカにおこったフアーティマ朝が秘密の宣教員をアンダルスに送り込み、アミール位を脅かしはじめたのを知ると、アブド・アッラフマーンは先手を打って対岸のマグリブ(モロッコ)に軍を進め、この地方を自国領に組み込むことに成功した。

九二九年一月、アブド・アッラフマーン三世は、みずから「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝にはこのカリフの名で説教をおこなうよう命令した。これによってイスラーム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが並び立つことになったのである。アッバース朝はあくまでも正統なカリフ位の継承権を主張したが、当時のアッバース朝カリフには、北アフリカのファーティマ朝やアンダルスの後ウマイヤ朝にその主張を認めさせるだけの実力はなかったといえよう。

アブド・アッラフマーン三世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えた。国内にイスラ―ム法による統治がゆきわたると、カリフは北の山岳地帯によるキリスト教国に対しても再三にわたって軍事的な圧力をくわえた。南方への略奪行為をくり返していたレオン王国に対してはみずから軍を率いて出陣し、キリスト教徒の連合軍に大きな打撃を与えた。コルドバの宮廷にはヨーロッパ諸国から次々と使節が送られてきたが、彼らは宮廷の豪華なたたずまいに驚異の目を見張ったことであろう。九六一年、半世紀におよぶ彼の長い治世は栄光のうちに幕を閉じたのである。

国家の運営

「アミール」は、東方イスラーム世界では、軍司令官や地方総督の意味に用いられた。しかし後ウマイヤ朝では、もっぱら国家の首長をしめす最高の称号であった。アブド・アッラフマーン三世がカリフを称してからも、公式の文書には「信徒の長」(アミール・アルムミニーン)と記したのは、東方イスラーム世界の場合と変わらない。「カリフ」(後継者)より「信徒の長」の方が、外部の異教徒に対して、より勇ましい響きをもつと考えられたのであろう。

事実、アミールあるいはカリフは、イスラーム法の執行に最後の責任をもち、軍隊の最高指揮権を有する国家の首長であった。カリフの第一の補佐役は侍従(ハージブ)であり、宮廷内の三官庁(ディーワーン・アッラサーイル)、租税庁(ディーワーン・文書庁アルハラージュ)、軍務庁(ディーワーン・アルジャイシュ)を統轄する宰相としての役割を果たした。アンダルスは、北部の辺境区をのぞいて二一余りの行政区(クーラ)に分割され、各行政区には中央官庁の支所がおかれていた。キリスト教徒やユダヤ教徒の庇護民(ズィンミー)が、人頭税の支払いを条件に信教の自由と一定の自治を与えられたことも、イスラーム国家に共通の特徴であった。

軍隊の主力はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、九世紀初頭からマムル―ク(奴隷軍人)の採用がはじまった。アブド・アッラフマーン三世の時代になると、ユダヤ商人の手をへて多数のフランク人、ブルガール人、あるいはスラヴ人奴隷が購入され、彼らの一部は宮殿を警護するエリートの護衛兵に抜擢された。こうして西方イスラーム世界は、東方イスラーム世界と同様に、奴隷出身のマムルークが軍事力を独占する時代を迎えたのである。

モンゴメリー・ワットは、「イスラーム・スペイン史」のなかで、ムスリムの君主は、「事実上、支配機構の面で西ゴートの伝統に範を求めることは何一つなかった」と述べている。後ウマイヤ朝は、政治的には東方のアッバース朝と対抗したが、官庁(ディーワーン)による行政機構をとり入れ、さらに古代イランの伝統をひくバグダードの宮廷儀式を採用した。後述するように、アンダルスのムスリムたちは東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロやバグダード、あるいはダマスクスでイスラーム諸学を学び、その成果を故郷にもち帰った。そのなかには、当然、カリフ政治の理論と行政の実態についての情報も含まれていたとみなければならない。コルドバのムスリムたちの顔は、北方のヨーロッパではなく、東方のイスラーム世界へと向けられていたのである。

 クルアーンというのは憲法じゃなく 民法の詳細な部分 ここまで規定するか そして アラーの恩を売るか
 これぞ スーパーアイドル ショールームで5万人はすごい #池田瑛紗
 そして戦いの書でもある
 シリーズ 近現代ヨーロッパ 70年史『分断と統合への試練 1950-2017』にウクライナ 戦争の前半部分が記述されていた。
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『世界哲学史7』

『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

一九世紀はその前の世紀とに満の意味で、世界の多くの場所で、大規模な変革へ向けた力が発揮された時代である。哲学はそうしたエネルギーを吸収しつつ、それまでの思想的な旧制度の種から、自らを解放しようともがいていた。哲学を近代的段階から現代的段階へと引き上げ、移行させようとしていた。

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代数方程式については見つかっていなかった。ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』(一七七〇)という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとするのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにおいて、代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。C・F・ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』(一八〇一年)において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・Hアーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニスト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジの方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せる。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入する。

4ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像)のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すなわち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、平方因子を含まない一次、または二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。また、平方因子を含まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。楕円曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。そして、楕円積分は、この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。この見方が、それまでの楕円積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス(一八一五~一八九七)のような厳密性を数学の基礎に据えようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべきでないと考える。そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である(ペー)関数と呼ばれる無限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学については、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマンは曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し始める「幾何学の基礎をなす仮説について」(一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念(現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六)も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃からガロア理論が数学界で受容され始める。デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで拡大体を生成することができるという考え方を表現した。そして、このような体の拡大(ガロア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群)が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアがその理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、それを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。デデキントとH・ウェーバー(一八四二~一九一三)は、それをさらに拡張して代数関数体の理論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このようにして、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。別の見方をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。そして、これらのことが大きな動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見える」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキントが代数的な方法でリーマン面を再構成した。それによって、リーマン面に内在する構造が顕わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察される。また、それはカント哲学内部での直示的構成>から〈記号的構成>へのフィヒテ哲学を介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、その見方において、代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結びついて楕円積分によって書ける。クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換)によるリーマン面を構成し、その中で双曲幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ(一八五四~一九一二)は、リーマン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九)は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかったが、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そして、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された微分幾何学を重要なものと認めなかった。しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン(一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像に用いられた。さらに、数学者Hワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくのである。

 209『世界の歴史⑧』

イスラーム世界の興隆

預言者ムハンマド

預言者のプロフィール

イスラームの預言者ムハンマドは、五七〇年ころ、メッカのクライシュ族に属するハシム家に生まれた。誕生のときに父のアブド・アッラーフはすでになく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アルムッタリブの保護にたよって、母親のアーミナの手ひとつで育てられた。ほかに兄弟や姉妹はなく、ムハンマドは母と二人だけの寂しい子供時代を送らなければならなかった。しかもムハンマドが六歳になったころに母親も世を去り、さらに二年後には、保護者のアブド・アルムッタリブが死没するという不運に見舞われた。アブド・アルムッタリブの死後、ハーシム家の家長となった叔父のアブー・ターリブは、孤児となったムハンマドを引き取り、この甥をたいせつに育てあげた。ムハンマドをシリアへの隊商に同行させたのは、この人物である。

ムハンマドの少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない。少年がおかれた環境はひどく苛酷であったが、近親者のあたたかい援助によって、何とかこの試練を乗り切ることができた。「コーラン」(第九三章)にいう。

彼(神)は孤児であるそなたを見出し、庇護を与えてくださらなかったか彼は迷っているそなたを見出し、正しい道に導いてくださらなかったか彼は貧しいそなたを見出し、富を与えてくださらなかったか

ムハンマドが二十五歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商をまかせた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディ―ジャは、人を介して結婚を申しこみ、その年から二人の結婚生活が開始された。伝承によれば、このときハディージャはすでに四十歳に達していたと伝えられる。二人のあいだには三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

アッバース朝時代の伝承学者イブン・サード(八四五年没)は、ムハンマドのプロフィ―ルをおよそ次のように伝えている。

ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方はまるで坂道を下るようであった。背丈は低くもなく、高くもない程度であった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常にやさしい言葉をかけるのを忘れなかった。(『大伝記集』)この伝承は、ムハンマドの没後二〇〇年以上をへてまとめられたものであり、預言者の実像をどれだけ正確に伝えているかとなると、いささか疑問である。没後になってから伝説化された部分も少なくないと思われる。しかし、後世のムスリムたちが、ムハンマドのプロフィールをこのように描いていたことは確かであり、その点に注目すれば、なかなか興味深い人物像であるといえよう。

最初の啓示

メッカのムハンマドは、毎年、ラマダーン月(第九月)になると、家族といっしょにヒラー山の洞窟にこもって祈り、集まってくる貧しい人びとに施しをするのを習慣にしていた。六一〇年、ムハンマドが四十歳になったころのラマダーン月、いつものようにヒラー山の洞窟にこもっていると、ある夜、うとうととまどろんでいたムハンマドのもとに大天使ガブリエルが現れ、次のような神(アッラーフ)の啓示をつたえた。

詠め、「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」

詠め、「汝の主はペンによって[書くことを教え給うたもっとも尊いお方]「人間に未知のことを教え給うたお方」であると(「コーラン」第九六章一~五節)

「詠め」とは、声に出して読むことである。コーラン、正しくはクルアーンも、元来は「声に出して読むもの」を意味している。このように最初から「読誦」を重視したのは、シリアのキリスト教会で聖書が読誦されていることを、ムハンマドがよく知っていたからであろうと推測されている。

いっぽう、最初に下された啓示は次の章句であるとする伝承も残されている。

マントにくるまる者よ

立て、そして警告せよ

汝の主をたたえよ

汝の衣を清めよ

不浄をさけよ

〔後で〕多くを得ようとして、施してはならない

汝の主のために堪え忍べ(「コーラン」第七四章一~七節)

現在のところ、どちらが最初の啓示であるのか、確かなことはわからない。いずれにせよ、最初の啓示をうけたムハンマドは、恐れおののき、マントにくるまって、ただふるえているだけであったという。これが神の言葉であることを信じることさえできず、何か悪い霊(ジン)にとりつかれたにちがいないと思いこんでいたのである。

預言者としての自覚

しかし、恐れおののくムハンマドをはげまし、断続的に下される言葉は神の啓示にほかならないと信じたのは、年上の妻ハディージャであった。彼女のはげましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物としてきわめて重要な役割を果たしたといえよう。もっとも、神への絶対的な帰依を意味する「イスラーム」が宗教の名称として確立するのは、アッバース朝時代になってからのことである。ムハンマドは、必要に応じて、神への服従(イスラーム)、信仰(イーマーン)、宗教(ディーン)などの言葉を自在に使っていたらしい。

それでは、最初のイスラーム教徒(ムスリム)となった男性は誰だったのだろうか。ムハンマドの庇護者であった叔父アブー・ターリブの息子アリー(後の正統カリフ)だとする説もあるが、当時、十歳に満たないアリーが神の言葉を十分に理解できたとは思われない。むしろ奴隷としてムハンマドに仕え、後に解放されたザイドこそ最初の男性ムスリムであるとする考えが有力である。ムハンマドは、この解放奴隷をことのほか可愛がり、早世した息子たちのかわりとして育てていたのである。

同じメッカで細々とした商売をいとなむアブー・バクルは、ムハンマドの古い友人のひとりであった。彼もまた、ムハンマドに下された言葉を神の啓示として理解し、ごく早い段階でイスラームに改宗した。このような共鳴者が増えるにつれて、ムハンマドは「神の使徒」(ラスール・アッラーフ)としての自覚を深めていったように思われる。

「創造主である神は、ラクダと天と大地をつくり、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えてくださった。また神は、最後の審判の日に、地獄へ落ちた人間には恐ろしい業火を用意し、善行ゆえに天国へ導かれた者には、従順にかしずく乙女と緑したたる楽園を準備してださる。地獄へ落ちるのは、他人の遺産をむさぼり、ただむやみに富を愛する者たちである」。つぎつぎと下される啓示によって、唯一なる創造主、最後の審判の主宰者、慈悲深い神と罰を下す恐ろしい神など、アッラーフについての具体的イメージがしだいに明らかにされていった。

こうして、ムハンマドがメッカの人びとに伝道をはじめるまでの間に、およそ五〇人ばかりがムスリムの仲間入りを果たした。彼らのなかには、有力な氏族に属する者もあれば、弱小の氏族に属する者もあったが、その多くが三十代半ばまでの若者であったことは注目に値する。また、ビザンツ帝国領やアビシニア(現在のエチオピア)生まれの奴隷、あるいは解放奴隷のほかに、同盟者(ハリーフ)として部族の保護下にあるよそ者も含まれていた。『ムハンマド』の著者ワットは、初期の改宗者はおちぶれ果てた人たちではなく、概して言えば、メッカ社会の最上層のちょうどひとつ下に属していたと述べている。これらの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドの教えに、おそらく新鮮な社会正義を見出したのであろうと思う。

伝道と迫害

「神の使徒」としての自信を深めたムハンマドは、六一四年ころから公の伝道を開始した。ムハンマドが活動の拠点に定めたのは、名門マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた大きな屋敷であった。昼間、ムハンマドと三九名の弟子たちはこの家に集まり、説教と礼拝のときを過ごした。青年たちのなかには、そのままここで夜を過ごす者もあったらしい。評判を聞いて、この家を訪ねる人の数も徐々に増大していった。

しかし、メッカの人びとの多くは、この「若者宿」での活動にさしたる関心を示さなかった。彼らは、「神は唯一である」という教えをいぶかしく思うだけで、これまでどおりの信仰に疑いを抱く者はほとんどなかったといってよい。新しい教えを説くムハンマドは、名門ではあるが、さほど実力のないハーシム家の一青年にすぎなかったからである。

だが、ムハンマドへの共鳴者が少しずつ増えるにつれて、クライシュ族の指導者たちの間に消しがたい疑惑が生じはじめた。このままムハンマドが若者たちを集めて、勢力を拡大していけば、メッカ社会の伝統的な権威はそこなわれ、やがてはこの男がメッカの支配者になってしまうのではないか。「コーラン」(第二五章七~八節)に、

彼ら(不信仰者)はいう。「これは何とした使徒だ。食べ物をとり、市場を歩きまわるとは。〔本物の使徒なら〕どうして天使が遣わされ、彼といっしょに警告者とならないのか」。

とあるのは、指導者たちの疑惑があからさまな形をとりはじめたことを示している。クライシュ族の各家の間には、商売上の利益をまもり、社会の不正を正すために「有徳者同盟」がむすばれ、この当時はハーシム家にその指導権が与えられていた。しかし、ムハンマドの行動に危機感をおぼえた同盟者たちは、使徒の属するハーシム家をこの同盟から除外する行為にでた。そのうえで、同盟していた家長たちはムハンマドと会見し、もし偶像崇拝への攻撃をやめれば、彼に富と権力を保証し、彼らもいっしょにアッラーフへの礼拝をおこなおうと提案した。

ムハンマドは、彼らとの妥協の誘惑にかられた。しかし、いちじの迷いからさめたムハンマドは、「おまえたちにはおまえたちの宗教が、そして私には私の宗教がある」として、毅然たる態度を示した。これをみたクライシュ族の大商人たちは、ムハンマドとその仲間にたいして公然の迫害を開始するにいたった。マフズーム家のアブー・ジャフルは、ムハンマドと同世代であったが、新しい改宗者が出ると、「おまえは先祖の宗教を捨ててしまった。われわれは、きっとおまえたちの名誉を傷つけてやるぞ」といって脅したという。

このような迫害に耐えかねたムハンマドは、いちじ信徒の一部をキリスト教徒の国アビシニアへ避難させなければならなかった。大商人たちは、共謀してムハンマドのハーシム家とアブー・バクルのタイム家に対し、ムスリムへの保護(ズィンマ)を取り消すように圧力をかけた。この当時、氏族の保護を失うことは、生命の安全すら保障されないことを意味していた。六一九年には、このような圧力にもかかわらず、ムハンマドを断固として守ってくれた叔父のアブー・ターリブと最愛の妻ハディージャがあいついで世を去った。ムハンマドは絶望の淵に沈みこみ、ここに誕生まもないイスラームは最大の危機を迎えたのである。

西方イスラーム世界の輝き―コルドバ

ジブラルタルを越えて

トゥール・ポワティエ間の戦い

七一一年の春、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した一万二〇〇〇のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード(七二〇年没)の指揮のもとに破竹の進撃をつづけた。同年七月、ロドリゴの率いる西ゴート王国軍を一蹴すると、未来の首都コルドバを二ヵ月の包囲の後に陥落させた。タホ川の北岸にある西ゴート王国の首都トレドも、一部ユダヤ人の裏切りによって十月にはターリクの前に開城し、王国は事実上崩壊した。

部下として派遣した将軍ターリクの成功を知ったアラブの将軍ムーサー・ブン・ヌサイル(六四〇~七一六七年)は、翌年、みずから一万の軍を率いてイベリア半島に押し渡った。彼は半島最大の都市であり、学術の中心地としても名高いセビリアを落とすと、進軍の停止命令を無視したターリクを鞭打ったうえで鎖に拘束した。しかし皮肉なことに、ムーサー自身もカリフの承認を得ることなく行動したと非難され、まもなくダマスクスへの召還命令が下された。

ところが七一五年、ムーサーが四〇〇名の西ゴート諸侯と奴隷と財宝をともなってダマスクスに帰還すると、彼の非をとがめるどころか、ウマイヤ・モスクでは凱旋の将軍をむかえて盛大な祝典が催された。ムーサーによるイベリア半島の征服は、サラゴサを越えてアラゴンやレオンの高地にまで及んだが、アラブ人は北部の山岳地帯を除く半島の支配領域をアンダルスと名づけた。現在、南スペインの一帯をさして用いられるアンダルシアは、このアラビア名に由来している。

七一七年ころ、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入すると、ナルボンヌを占領し、さらに北上して大西洋岸に近いボルドーを陥れた(七三二年)。アンダルス総督(アミール)のアブド・アッラフマーン(七三二年没)が率いるアラブ軍は、北進をつづけてトゥール近郊まで迫ったが、トゥールとポワティエの間でフランク王国の宰相カール・マルテル(六八九〜七四一年)の迎撃軍と遭遇した。七三二年十月、トゥール・ポワティエ間の戦いはフランク軍の勝利に帰し、戦闘で指揮官を失ったアラブ軍はピレネー山脈の南に引き返した。

しかし、この戦いの結果を過大に評価し、もしこのときアラブ・イスラーム軍が勝利を収めていたら、オックスフォード大学では聖書のかわりに「コーラン」が講義されていたであろうと考えるのはまちがっている。アラブ軍の補給路は伸びきっていたし、当時のアラブ軍にはヨーロッパ全土を征服するだけの士気の高さは残っていなかったからである。それにおおかたのアラブ人は、緑濃いオリーヴが繁らないような寒冷の土地には住むことができないと考えていた。彼らは、何よりもナツメヤシとオリーヴを好む民族であった。

後ウマイヤ朝の成立

七五〇年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、新政権の追及の手を辛くも逃れたウマイヤ家の青年がひとりいた。名前はアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウィヤ(七三一~七八八年)、俊敏で鷹のような風貌をもつ二十歳の若者であった。彼はユーフラテス川に飛び込んで追手をかわし、パレスティナで庇護者をみつけると、北アフリカに渡り、七五五年にはモロッコのセウタまでたどり着いた。

ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸したアブド・アッラフマーンを、当地のムスリムは熱烈に歓迎した。アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダルスは混沌とした状況におかれていた。これに引き替え、アブド・アッラフマーンはれっきとしたウマイヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物とみなされたのである。

支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、緑の旗を押し立ててコルドバへと進軍し、七五六年五月、アミール・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝五六~一〇三一年)の樹立を宣言した。しかし、このアブド・アッラフマーン一世(在位七五六~七八八年)がアンダルスを完全に平定するのには、さらに一〇年の歳月を必要とした。アッバース朝からは領内に騒乱を引き起こすための密使が送られてきたし、アラブ人が漁夫の利を得ることに不満なベルベル人は各地で反乱をくり返したからである。

アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカ―ル大帝(在位七六八〜八一四年)との軍事的対決も辞さなかった。七七八年、カール大帝が半島北東部のサラゴサへ進撃してくると、アブド・アッラフマーン一世はこれを迎え撃ち、ピレネー山脈の隘路を追撃してフランク軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いの模様を記した『ローランの歌』(十一~十二世紀ごろの成立)は、次のように歌いはじめる。

われらの大帝シャルル王は、
まる七年、スペインにありて、
高き土地を海まで征せり。
彼の前に支え得る城はなく、
城壁、城市、打ち毀つべきはのこらず。
ただサラゴスのみは、山上にありて、
マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。(有永弘人訳)

さて、アブド・アッラフマーン一世は、アンダルスの平定後もアミール(総督、あるいは軍司令官)の称号に甘んじていたが、アッバース朝による内政の干渉には断固たる態度を示した。カリフ・マンスールから代わりのアンダルス総督が派遣されてくると、二年後にはその首を塩づけにして、メッカ巡礼の途上にあったマンスールに送り返したという。「クライシュ族の鷹」の異名はこのようにして生まれた。ヒッティの『アラブの歴史』によれば、マンスールは「余と、かような恐ろしい敵を、海でへだて給うた神に感謝し奉る」と叫んだと伝えられる。

名君アブド・アッラフマーン三世

賭博と酒におぼれたハカム(在位七九六~八二二年)の治世が、改宗した現地人ムスリムの反乱とそれへの苛酷な弾圧のうちに終わったあと、その子アブド・アッラフマーン二世(在位八二二~八五二年)がアミール位を継承した。

彼はマーリク派の法学に手厚い保護を与え、スンナ派による統治の実現をはかった。バグダードに対抗すべくイスラーム文化の振興にも熱心であったが、その治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラーム化とアラブ化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒は反発を強め、自発的な殉教者を出すまでにいたった。彼らはムハンマドとイスラームを公然とののしり、逮捕されてもひるまず、すすんで死の刑に服したのである。

しかも半島北部のキリスト教諸侯は次々とアミールに反旗を翻し、南部地方でも、八八〇年、西ゴート伯の子孫でイスラームに改宗したイブン・ハフスーンが、現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。イブン・ハフスーンは、ふたたびキリスト教に復帰し、北アフリカのアグラブ朝(八〇〇~九〇九年)と手を結んで、一時はコルドバを孤立化させるところまでアンダルス総督を追いつめた。

このような状況のなかで八代目のアミール位に就いたのが、二十三歳のアブド・アッラフマーン三世(在位九一二~九六一年)であった。キリスト教徒の奴隷を母にもつこの青年の君主は、まず全国に広まっていた反乱の鎮圧に着手する。手はじめにエルビラとセビリアを占領すると、九一七年には強敵イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、次いで九三二年、トレドを再征服してアンダルス全土の統一を回復した。北アフリカにおこったフアーティマ朝が秘密の宣教員をアンダルスに送り込み、アミール位を脅かしはじめたのを知ると、アブド・アッラフマーンは先手を打って対岸のマグリブ(モロッコ)に軍を進め、この地方を自国領に組み込むことに成功した。

九二九年一月、アブド・アッラフマーン三世は、みずから「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝にはこのカリフの名で説教をおこなうよう命令した。これによってイスラーム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが並び立つことになったのである。アッバース朝はあくまでも正統なカリフ位の継承権を主張したが、当時のアッバース朝カリフには、北アフリカのファーティマ朝やアンダルスの後ウマイヤ朝にその主張を認めさせるだけの実力はなかったといえよう。

アブド・アッラフマーン三世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えた。国内にイスラ―ム法による統治がゆきわたると、カリフは北の山岳地帯によるキリスト教国に対しても再三にわたって軍事的な圧力をくわえた。南方への略奪行為をくり返していたレオン王国に対してはみずから軍を率いて出陣し、キリスト教徒の連合軍に大きな打撃を与えた。コルドバの宮廷にはヨーロッパ諸国から次々と使節が送られてきたが、彼らは宮廷の豪華なたたずまいに驚異の目を見張ったことであろう。九六一年、半世紀におよぶ彼の長い治世は栄光のうちに幕を閉じたのである。

国家の運営

「アミール」は、東方イスラーム世界では、軍司令官や地方総督の意味に用いられた。しかし後ウマイヤ朝では、もっぱら国家の首長をしめす最高の称号であった。アブド・アッラフマーン三世がカリフを称してからも、公式の文書には「信徒の長」(アミール・アルムミニーン)と記したのは、東方イスラーム世界の場合と変わらない。「カリフ」(後継者)より「信徒の長」の方が、外部の異教徒に対して、より勇ましい響きをもつと考えられたのであろう。

事実、アミールあるいはカリフは、イスラーム法の執行に最後の責任をもち、軍隊の最高指揮権を有する国家の首長であった。カリフの第一の補佐役は侍従(ハージブ)であり、宮廷内の三官庁(ディーワーン・アッラサーイル)、租税庁(ディーワーン・文書庁アルハラージュ)、軍務庁(ディーワーン・アルジャイシュ)を統轄する宰相としての役割を果たした。アンダルスは、北部の辺境区をのぞいて二一余りの行政区(クーラ)に分割され、各行政区には中央官庁の支所がおかれていた。キリスト教徒やユダヤ教徒の庇護民(ズィンミー)が、人頭税の支払いを条件に信教の自由と一定の自治を与えられたことも、イスラーム国家に共通の特徴であった。

軍隊の主力はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、九世紀初頭からマムル―ク(奴隷軍人)の採用がはじまった。アブド・アッラフマーン三世の時代になると、ユダヤ商人の手をへて多数のフランク人、ブルガール人、あるいはスラヴ人奴隷が購入され、彼らの一部は宮殿を警護するエリートの護衛兵に抜擢された。こうして西方イスラーム世界は、東方イスラーム世界と同様に、奴隷出身のマムルークが軍事力を独占する時代を迎えたのである。

モンゴメリー・ワットは、「イスラーム・スペイン史」のなかで、ムスリムの君主は、「事実上、支配機構の面で西ゴートの伝統に範を求めることは何一つなかった」と述べている。後ウマイヤ朝は、政治的には東方のアッバース朝と対抗したが、官庁(ディーワーン)による行政機構をとり入れ、さらに古代イランの伝統をひくバグダードの宮廷儀式を採用した。後述するように、アンダルスのムスリムたちは東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロやバグダード、あるいはダマスクスでイスラーム諸学を学び、その成果を故郷にもち帰った。そのなかには、当然、カリフ政治の理論と行政の実態についての情報も含まれていたとみなければならない。コルドバのムスリムたちの顔は、北方のヨーロッパではなく、東方のイスラーム世界へと向けられていたのである。

 クルアーンというのは憲法じゃなく 民法の詳細な部分 ここまで規定するか そして アラーの恩を売るか
 これぞ スーパーアイドル ショールームで5万人はすごい #池田瑛紗
 そして戦いの書でもある
 シリーズ 近現代ヨーロッパ 70年史『分断と統合への試練 1950-2017』にウクライナ 戦争の前半部分が記述されていた。
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『世界哲学史8』

『世界哲学史8』現代グローバル時代の知
「グローバルな哲学的知」とは何か

このように、この哲学史のシリーズはこれまでの巻で、東西思想世界の古代から中世、近世、近代と時代を追って進行してきたが、最後には地球規模の現代の思想情況を、逆に空間的な観点からパノラミックに展望させているともいえる。それゆえ、私たちの世界哲学史は最終的に、時間的な軸と空間的な軸の両方からなる世界哲学の広がりを縦横に提示してきたことになるが、こうした歴史的かつ地理的な知識の集積は、世界哲学という真にグローバルな哲学の形成のために、はたして積極的な役割を果たすことができるのかどうか。私たちの哲学史の旅は、世界哲学という新たな学問的企てにたいして、どのような教訓を与えることができるのか――。この終章では総論として、この問題をさらに少しだけ考えてみることにしよう。

ここで、現代におけるグローバル化ということを、もう一度哲学的な思索という側面から考え直してみよう。哲学のグローバル化ということはいうまでもなく、交通手段や経済活動の世界的な規模での共有ということとは、まったく別のことである。哲学のグローバル化とは何なのか。このことは当然、哲学とは何かということと結びついており、この問いはこのシリーズの全体で、繰り返し問われたことである。しかし、ここではとりあえず、私たちがとりわけシリーズ第1巻で、哲学の誕生の模様を確かめる際に、さまざまな文明における「世界と魂」への問いかけの様子を確かめることを通じて、世界における哲学の誕生を理解しようとしたことを思い起こしてみよう。

哲学とは古き古代の時代から現代まで、何よりもまず、世界ないし宇宙という存在者の包括的全体と、その中で生きて考える人間の魂とを、根本から問い直す作業として存在してきた。そうだとするならば、現代というグローバル時代において、世界規模での哲学が可能なのかと問うことは、まさしく、世界規模での「世界と魂」への問いはいかにして可能なのか、という問題になるはずである。

現代という時代において、世界規模で共有されている世界についての共通の理解や、人間の精神についての有力な見方とはどのようなものであろうか。このような問いは、ある意味では、現代における科学的知識として、世界や宇宙はどのように理解されているか、あるいは、人間精神の神経的メカニズムとその情報の伝達はどのように機能しているのか、という形でも説明できるであろう。しかし、これらは天文学や生理学、心理学や言語学という「世界に共通の学問的知識」のレベルでの説明であって、けっして、世界と魂とをめぐる「グローバルな哲学的世界哲学史1古代―知恵から愛知へ

・私たちに共通の基盤となっている西洋哲学を介して、それに対抗し、別の可能性を開く諸々の哲学を視野に収めることで、初めて世界哲学への可能性が開かれると考えている。世界哲学と世界哲学史の試みが今後どのような役割を果たすのか、本「世界哲学史」シリーズはその出発点となるはずである。

数学から哲学へという物語

ホメロスやヘシオドスを哲学者から除外し、初期ギリシアの哲学者を哲学者と見なせる理由は何か。初期ギリシアの哲学者の共通点を別の側面から見てみよう。

彼らの主張に着目する限り、彼らの語った内容は多様であり、探究の対象も多様である。それを見る限り、彼らが共有する特定の信念があるようには感じられない。しかし、彼らの伝記には数学や天文学上の業績が少なくないことは注目に値する。たとえば、タレスには「タレスの定理」というまさにその名を冠した定理が残っている。おそらく実際に発見したのはタレスではなかったであろうが、ピラミッドの高さを測定したエピソードや、天文観察をしていて井戸に落ちたエピソードは、彼に数学と天文学の素養があったことを示している。彼に続くミレトス派も、タレスから何らかの教授を受けたのであれば、その中に数学と天文学があったことは想像に難くない。実際に、タレスの弟子とされるアナクシマンドロスは日時計を発明して、夏至や冬至、春分や秋分を発見したと伝えられている。

ピュタゴラスとピュタゴラス派が数学を重視したことは言うまでもない。象徴的なことに、「数学」を意味する英語のマスマティックス(mathematics)は、「学ぶ」を意味する動詞マンタノーに由来する「学識」という語であり、ピュタゴラスを継承した一派はマテーマティコイ(学識派)と呼ばれていた。

また、パルメニデスがピュタゴラス派の人物と親交があったという伝承を信じるならば、彼にも数学の素養があったであろう。それを示すように、その弟子ゼノンが提示したパラドクスは無限分割など、数学に関わる。エンペドクレスもピュタゴラス派の一員とされ、アナクサゴラスも獄中で円の正方形化(円と同じ面積の正方形を作図すること)を達成したという逸話が伝わっている。

もちろん、この中には信憑性が薄い報告もある。また、そもそも数学は哲学と区分すべきであろう。しかし、数学や幾何学の実践を通じて、思考の方法を自らのものとすることは、哲学者と見なされるための必須の素養であったのではなかろうか。このことは、プラトンが『ポリティア(国家)』第七巻の哲学者の育成カリキュラムを数学的学科で構成していることにも示唆される。

ただし、哲学者には数学的素養という共通点があったというだけでは、ギリシア哲学の展開を説明できないだろう。そもそも、もし数学が哲学の基盤となっているのであれば、ギリシアの植民地よりはるかに発展していたメソポタミア地域やエジプトにおいて哲学が萌芽してもよかったはずである。事実、少なくない初期ギリシアの哲学者たちが数学を学ぶためにエジプトに赴いていると伝わっている。

この問いに関しては、これらの地域の数学には証明がなかったのではないかという、いささか衝撃的な事実が手がかりになる。つまり、すでに知られた公理や定理から、新たな数学的事実を発見する営みは、古代ギリシアに独自のものだった、ということである。このようにみれば、哲学者として持つべき数学的素養とは、単純な前提から別の事柄を導き出すことや、その導出のプロセスを検証する、というわれわれがよく知る数学的思考のプロセスであったと考えられる。

民主政ポリスの哲学者ソクラテス

+ソクラテスのセミパブリックな生き方

本章の主人公であるソクラテスはそんな時代に生きた。石工の父と助産師の母の子と伝わるソクラテスは、貧乏ゆえに友人らの世話になりながらも、上層市民として一応は食うに困らない生活をしていたと想像される。政治的には、彼は壮年期に三度重装歩兵として国外に出征したことと、前四〇六五年に一度だけ民会の準備機関である評議会の議員を務めたこと以外、公的仕事に積極的な姿勢を示さなかった。とは言え、政治嫌いの人に見られるように、私的世界である自分の「家」を豊かにすべく経済活動に精を出したわけでもない。彼は、自身が訴えられた裁判の冒頭で弁明するように、政治的な公的空間でも経済的な私的空間でもない、半公的、つまり「セミパブリック」とも言うべき公共広場の「アゴラ」で専ら話をして時を過ごしていたのである(ブラトン『ソクラテスの弁明』一七C、以下『弁明』と略)。ソクラテスは通常二分法的に理解される公と私の間に政治と生活が接して混じり合う閾的空間を見出し、そこを哲学の舞台としたと言える。では、ソクラテスが生きたセミパブリック世界・アゴラとはどのような空間だったのか。アクロポリスの麓にあるアゴラは、人々が集まって商取引したり議論に興じたりする開かれた世界だった。ソクラテスはそこで「年少でも年長でも、外国人でも町の者でも」、「金持ちでも貧乏人でも」構わず、「一人一人」と対話を繰り広げる。こうした一対一の対話活動がきわめて政治的意味をもつことは明らかだろう。一人が多くの人に向けて説得を試みる民会・法廷・劇場といった公的世界では、市民なら自由に登壇して言葉を発する平等は保たれていても、現実には、説得の言葉をもつか否かで能力差が存在し、説得力を欠く意見は受け入れられない。文化の担い手という「知者」が大衆に教えを垂れるという一対多の人間関係が支配する世界だった。

それに対して、アゴラでは年齢も国籍も経済状態も問われない。そこでは、商品が通貨と引き換えられるように、当人に備わる属性とは無関係に交わる言葉と意見の交換のみに価値があり、一方的に注入するのではない言葉・意見のやり取りが新たに自由と平等を定義する。ソクラテスが作りあげる一対一の人間関係は、対話者の身分や属性を参加資格としないという意味で平等であり、自分の意見や思想、つまりはドクサの表明に制限がないという意味で自由(パレーシア)なのである。民主政の原理である自由と平等はアゴラという政治空間において真に実現する。

だが、なぜソクラテスは自由で平等な対話を実践したのか。彼は政治家としてポリスの変革を企てたわけでは決してない。否、哲学に徹したことが、彼を民主政の哲学者かつ政治家にしたのだ。前三九九年に不敬神の罪状で訴えられた裁判で彼が語る言葉に耳を傾けることで、その次第を明らかにしよう。

+「デルフォイの神託事件」と不知の自覚

プラトンがソクラテス裁判を主題にして著した『ソクラテスの弁明』の記述(二〇C~二三C)に従いたい。ソクラテス自身はなにも書き著さず、弟子たちの作品で言行が伝えられるからである。

アゴラでのソクラテスの対話はなぜか彼に「知者」との評判をもたらした。友人の一人カイレフォンがその真偽を確かめるべくデルフォイへ赴き、かの地で祀られている神アポロンから「ソクラテスより知恵ある者はいない」との神託を授かると、ソクラテスはそれに驚きいぶかしみ、神の言葉を「謎」として受けとめる。神託によれば、ソクラテスは人々の間で最高の知者となるが、彼は自分が知恵をもつなどちっとも思っていないからである。知者でないと自覚する彼が、信頼する神から知者であると認定される。ここに自己のアイデンティティをめぐる問いが生じる。「私は何者か。知者なのか、知者でないのか」――この問いとの格闘が彼を哲学者にする。「汝自身を知れ」という箴言と通ずる、デルフォイの神託との出会いは、彼にとって決定的な「事件」となったのだ。

ソクラテスの場合、「私は何者か」という問いは決して人間に備わる年齢、国籍、経済状態などを問題としない。性差もディオティマやアスパシアといった女性に学ぶ彼はこだわらない。自由と平等の世界アゴラでの対話はそうした属性をすべて無化する。むしろ、諸属性が備わる自己自身、すなわち、魂において「私とはそもそも誰なのか」が、知恵をめぐって問われているのである。魂の同一性を保証し「私が私である」と言える根拠となる知恵とは何なのか。

ソクラテスは知者を探してアテナイ中を歩き回る。知恵があると自他共に認める人々と対話をして、より知恵のある人を発見できたなら、神に反例を突きつけ、自身が最高の知者ではないと回答できると考えたからだ。だが知者とはいったい誰か。彼は、公的なドクサの世界で知者との評判を得る政治家や悲劇詩人をセミパブリック世界へと導き入れ、一対一の対話を試みる。判明したのは、皮肉にも神託のただしさだった。

文化の担い手が知者だと思われる理由は、善や美といった大切なことについて知っているからだろう。知っているなら、善とは何か、美とは何かについて説明できるはずだ。ところがどうだ。政治家はポリスのための善である国益を口にし、詩人は美しい詩句を紡ぎ出すが、どちらもその政策がなぜよいのか、その詩句がなぜ美しいのかを、善や美の定義まで加えて説明することができず、自身の矛盾した信念を露呈する始末だった。善や美について、彼らは公的世界では大衆を説得し意見を注入することで知者の評判を得ても、ソクラテスの吟味により自らの不知を曝け出したのである。

一方、ソクラテスはどうか。彼自身、善・美について知らないことは認めており、不知という点で文化の担い手と大差ない。しかし重大な違いが存在する。文化の担い手は、知らないのに知っていると思っているのに対し、自分は知らないから、その通り知らないと思っている、言い換えれば、自己のあり方について、彼らは知者でないのに知者だと間違った思いをもっているのに対し、ソクラテスの方は自分が知者でないから知者でないとただしい思いをもっている、という一点で大いに異なっているのだ。ソクラテスは「不知の自覚」(一般に「無知の知」という表現が流布するが誤り)、より厳密には「知者でない」とのただしい自己理解をもつ点で、誰よりもまさって知恵があると言えるのである。

知恵と哲学(愛知)

ソクラテスは、善・美についての知、つまりは真の意味での「知恵」を神のみに可能とする一方で、知者でないとの自己理解を「人間並みの知恵」と呼ぶ。こうして、彼のアイデンティティをめぐる謎は、真の知恵に関して「知者ではない」が、人間並みの知恵に関して「知者である」と矛盾のない形で解き明かされた。確かに、この世に専門家は数多く、専門領域に属する大切なことを知ってはいるが、善・美という重大事を知る者は誰一人おらず、オピニオンリ―ダーと大衆にもてはやされる文化の担い手とその例外ではない。人は皆、神の知恵をもたない点で平等なのだ。アゴラでの対話の平等性は、神の知恵という絶対的基準と比べると人間の意見・ドクサは知恵でない点でどれも変わりがないという事実による。善・美の対話をめぐっては、語り手の属性がどうであれ、意見の多様性が尊重されねばならない。

しかし、このことは知に関して人間の生き方に差異がないことを意味しない。「知者であるない」との自己理解は魂のあり方として常に人生全体につきまとう。知者でないのに知者だと勘違いして生きる人は、明らかに、人間並みの知恵の観点から、知者でないことを自覚している人よりも劣った生き方をしている。自らが知者だと誤った思いをもつ文化の担い手はその思いが妨げとなって真の知恵を愛し求めず、知恵に背を向けた学びのない人生を送るだろう。学びを欠く状態を単なる不知と区別して「無知」と呼べば、無知からの解放が惹起する学びは、真の知恵に接近するだけ、人生の価値をリアルに高めていく。そして神のような知者ではないが無知でもない、知恵と無知の中間にいる人が、知ることを愛し求める愛知者、つまり哲学者となって、学びに生きる道を歩み続けるのだ。

ソクラテスが身をもって示した哲学者の生は多くの若者を惹きつけた。彼への告訴状の一部に「若者を堕落させた」とあるが、これは、よく指摘されるように、若い頃に彼と交わり政治家に成長したクリティアスやアルキビアデスがポリスを崩壊寸前に導いたためだろう。残念ながら、彼らはソクラテスと哲学から離れて無知にまみれた人生を送ったが、アテナイの公的世界で文化の担い手と大衆が演じるドクサの猿芝居に嫌気がさした若者が、風通しのよいアゴラで神ならぬ人間の自覚をもち、善とは何か、美とは何かといった大切なことを自由に語り合う生き方に新鮮な魅力を覚えたのは十分ありそうだ。知識注入的ではない何か新しい教育と文化の香りがするからだ。常識ある大人からは、政治を軽視した「堕落」した生き方と断罪されても、哲学はソクラテスの生と死を介して民主政下での人間の一つの生き方として誕生したのである。

 209『世界の歴史⑥』

ギリシアとローマ

ギリシアはなぜ勝ったのか

ペルシアから見たギリシアの特性

ふりかえって見れば、ギリシア人が自分たちの築いた世界に外敵の侵入を受けたのは、これが初めてであった。たしかに、ミケーネ時代の末に外敵の襲撃を受けた可能性はある。しかし、それは一過性の海賊の襲来のようなものだったようだ。ギリシア人にとっては先進の地であるオリエントの大国が侵攻してくるという事態は、この前五世紀初めまでなかった。ギリシア世界は遠征してまで支配下におさめようとするほど、魅力に富む地域ではなかったのだろう。なにしろ土地が肥沃ではない。とくに、穀物栽培に適していない。資源が乏しく、広大な平野もないから、大規模な農業経営もありえない。

そのようなギリシアがペルシアの遠征の目標となったのは、ひとつには、ペルシア帝国のいまだ衰えない支配欲のため、イオニア反乱の際にアテナイとエレトリアがイオニア諸国を支援したことへの報復として、ということもあっただろうが、やはりギリシアの評価が高まり、征服するだけの、大軍を派遣するだけの価値ある地域と思われはじめたからなのであろう。ギリシア人はそれだけ、この地域の価値を高めたのである。

ギリシア人は土地を開墾し、雨水で表土が流されやすい斜面を段々畑状に整備して農地にし、また、穀物栽培に不適な土地をオリーブやブドウの果樹園に開発する、など勤勉な労働によって痩せた土地を可能なかぎり効率よい農業用地にした。人口増加による必要に迫られてのことであったにしても、それはギリシア人の勤勉さを物語るものである。また、すぐれた形状の土器とそれに描いた創造性豊かな図像、巧妙に精緻な金細工、優美で堅固な神殿などの建造物をあげることもできよう。それらの多くはオリエントに学びながら、しかもギリシアの独自性を開花させた成果である。さらに、ホメロスの叙事詩をはじめとする詩歌を生み出し、しかも、祭典や集会においてそれらを披露し、競い合う慣習もある。競い合いを通して自己を高めていく様子を見れば、貧弱な土壌の上に豊かな社会生活を営む才覚をもった人間像が鮮明に浮かび上がってくる。アゴーン好きの、対等な立場で多様な能力を競い合うことの好きな人間たちが築き上げたギリシアの社会は、オリエントの支配者の目にもとても興味ある社会として映ったのであろう。

ペルシアの王がギリシアをどのように見ていたかについては、ヘロドトスが語っている。話は前五四六年、キュロス大王がリュディアを征服したときに戻る。スパルタはサルディスのペルシア王のもとに自国の使節を送り、ギリシア領土内のいかなる町にも手を出すな、という決議をキュロスに伝えた。キュロスは側近のギリシア人からスパルタについて情報を得ると、こう言ったという。

町の真中に場所を設け、そこへ集まって誓言しながらだまし合うような人間どもを、わしは今まで恐ろしいと思ったことなどないのだ。もしわしに寿命があったら、イオニア人どもの受けた苦しみ(ペルシアの攻撃を受け、服属した苦しみ)を、あの奴ばら(スパルタ人)の暇つぶしの談義のたねなどにせず、あいつら自身そのような目に遭わしてやろう。

ヘロドトスはこのエピソードに解説を加えて、こう述べている。

キュロスのこの言葉はギリシア人全体にあてていったもので、ギリシア人が市を立てて売買することによるのである。実際ペルシア人自身は市を立てて売り買いする習慣をもたず、第一市場なるものがペルシアには全くないのである。

このような記述は、ヘロドトスの考えるギリシアとペルシアの違いを明示することにより、ペルシア戦争のもつ意味を作品の冒頭において暗示する、という意図に基づくものであるのかもしれない。それでも、ペルシアから見たギリシアの特徴あるいは特異性がどのようなものだったのかを、ここから推し量ることができる。アゴラでの政治的議論や商取引は、ギリシア独自のもので、相互に相手の独立を尊重してこそ成り立つものであった。キュロス大王のもとにはすでにギリシア人の側近がいて、彼らからも情報が入ってきていた。ペルシアにとっては異質でありながら、独自の世界を構築しているギリシア人に関心を向けた結果が、ダレイオス、クセルクセスによるギリシアへの遠征となったのであろう。

アテナイ民主政と海軍力

ペルシアと戦ったギリシア人中のギリシア人として、アテナイルテミストクレスの場合を次にとりあげておこう。テミストクレスは前四八〇年のペルシア大軍襲来の際、サラミスの海戦でギリシア側に勝利をもたらした立て役者というべき男である。

前五二四年ごろの生まれのテミストクレスは、前四九三/二年に行政職としてもっとも重要な筆頭のアルコンを務めているが、このとき彼はアテナイの外港ペイライエウスの建設工事を始めている。ペイライエウス港工事は、ペルシア軍のギリシア侵攻で中断されながらも、前四七七年に完成した。のちにペイライエウスは、商港も整備され、首都アテナイと二つの長城壁で結ばれもして、アテナイの外港としてその繁栄に大きく寄与した。そう考えれば、テミストクレスが始めたペイライエウス港開発がアテナイの将来に与えた影響ははかりしれないほど大きい。

だが、テミストクレスの政治家としての最大の功績はアテナイ海軍の拡充だった。前四八三/二年にアッティカのラウレイオン銀山で豊かな鉱脈が発見され、その使用法をめぐって議論が生じたとき、彼は軍船の建造に充当するよう提案し、その提案が民会を通って、アテナイの軍船は七〇隻から二〇〇隻に増加した。その軍船によってアテナイは前四八〇年にアルテミシオンで、つづいてサラミスでペルシア海軍と対決するとき、ギリシア連合艦隊の主力となり、ペルシアを敗退させている。

ここで、その軍船について説明しておこう。それは三段櫂船というもので、乗員二〇〇名中一八〇名までが上下三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂を漕いだ。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民でも漕ぎ手として戦争に参加し、勝利を国にもたらすことができる。

軍船についてこのような理解を得たうえでマラトンの戦いとサラミスの海戦とを比較するならば、二つの戦闘はその主要な担い手にずれがあったことが見えてくる。マラトンの戦いは重装歩兵の密集隊戦術によって戦われたから、戦闘の中心にいたのは武器・武具を自分で調達できる程度の経済力のある市民たちである。ところが、サラミスの海戦では貧しい市民でも健康ならば漕ぎ手として戦闘に参加し、ペルシア海軍撃退に貢献できた。海戦を勝利に導くにあたって、漕ぎ手として軍船に乗り込んだ下層市民の功績は大きかった。二〇〇隻の三段櫂船に必要なのは四万人であるが、それはアテナイの市民全員が乗り組んでも欠員が出る数だった。アテナイ居住の外人(メトイコイと呼ばれた)や他国からの応援で、全船が充当されたのだろう。

以後のアテナイがギリシア世界の覇者となるのは、の海軍があってこそ可能だった。その海軍は、漕ぎ手である下層市民なくしては成り立たない。こうして下層市民の発言権も高まったのである。アテナイ民主政は、前五世紀の半ばまでには市民であれば誰でもほとんどの要職に就けるような徹底的な民主政へと移行していくが、それは、このような軍事力の主体の変化と関連があったのである。また、アテナイの前五、四世紀の経済的繁栄は、ペイライエウス港がエーゲ海交易の中心として機能したことにも困っている。このように見てくると、テミストクレスの功績が甚大であったことがよくわかる。

時代が躍進するときの人間

さらに、前四八〇年のペルシア軍侵攻に対し、第一次防衛線での応戦、つづくサラミス海峡での海戦の作戦もテミストクレスが立案し、婦女子のトロイゼンへの疎開も彼の提案によるものであった。彼はまた、ペルシア軍撤退後、アテナイ市の城壁再建を警戒するスパルタに乗り込んで、言を左右にして時間稼ぎをした。その間に本国アテナイで工事は急ピッチで進み、城壁再建は完了したのだった。このときの急ごしらえの城壁の一部は、いまも見ることができる。

それほどの功績をあげたテミストクレスであったが、前四七〇年代末には陶片追放に処せられてしまう。ペロポネソス半島から西部ギリシア、マケドニアを経て小アジアへと移り、前四六五年に即位したペルシア王アルタクセルクセスによってマグネシア長官に任命され、その地で波乱に満ちた一生を終えたらしい。

『対比列伝』のなかでテミストクレス伝を著したプルタルコスは、テミストクレスを生まれつき競争心の強い人だった、と述べ、関連するいくつかのエピソードを紹介している。そのひとつはこうである。

(ペルシア軍の)死体が海辺に打ち上げられたのを検分した折には、それらが黄金の腕輪や首飾りをつけているのを見ると、自分はそのまま通り過ぎたが、後に従う友人にはそれを指し示して、「くすねておき給え。きみはテミストクレスではないのだから」と言った。

テミストクレスはつねに他者に優越することを目指し、栄誉を尊ぶ人物であったらしい。そのような、国の存立と繁栄に貢献したテミストクレスが、権力を掌握するおそれがあるからと陶片追放された事実は、当時、アテナイ国内で有力者たちの勢力が拮抗していたことを示している。さらに、クレイステネスの改革により成立した民主政の効果を、マラトンの戦いとサラミスの海戦で身をもって具体的に証明してみせた市民たちが、たとえ慧眼をもって国に多大の貢献をした人物であっても、突出した存在に対してはこれを容認しようとしなかったわけで、そこに時代の熱気をはらんだ潮流に乗った市民全体の、意識的な決意を感じとることもできるだろう。

なお、テミストクレスが陶片追放に遭うと、ペルシア遠征軍を撃退するにもっとも功績のあった彼を受け入れたのがペルシアであったことも、注目に値する。ペルシア帝国の寛大さ、懐の深さをそこに見ることができるからである。実際、政争に敗れてペルシアへ身を寄せた者は少なくない。前六世紀末のアテナイの僭主ヒッピアス、スパルタ王デマラトス、前五世紀末のアルキビアデスらの名が浮かぶ。ペルシアは再びギリシア本土への遠征を企てることはなかったが、以後、前四世紀の後半までギリシア世界の動静に応じて陰に陽に介入しつづける。

テミストクレスの去った後のアテナイには、彼の政策を支持し協力していたアリスティデスやキモンがいて、アテナイの発展のために個人の利害を超えて尽力した。当時のアテナイがすぐれた人材に恵まれていたというよりも、時代が大きく躍進するとき、普通であれば潜在したままの個性も開花するということなのかもしれない。

アレクサンドロスの夢

マケドニアの台頭

ギリシア北部ピエリア山脈の山麓ヴェルギナは、古代マケドニア王国の古都アイガイがあったところと推定されているが、そのヴェルギナで一九七六年に発見された墳墓から見事な黄金の副葬品が多数出土して、世界をわかせた。副葬品のなかの陶器から墳墓の年代は前四世紀半ばとみられる。被葬者はフィリッポス二世であろうと推定されていて、この推定を疑問視する見解もあるが、それを否定する材料はいまのところ現れていない。

フィリッポス二世は前三五九年に即位したマケドニア王国の名君で、かのアレクサンドロス大王の父である。前三三六年に暗殺されるまでの二十数年のあいだに、ギリシア北部の後進国であったマケドニア王国をギリシア世界に君臨する大国にしてしまった。

ここでマケドニア王国について少し説明しておこう。前五、四世紀のギリシア人にはマケドニアの生活習慣は粗野で遅れていると見えたようだが、このマケドニア人がドーリス系ギリシア人であったことは、ほぼまちがいない。前二〇〇〇年前後からの原ギリシア人の移動の過程で北部山岳地帯に定住した一派だったのだろう。以来、北方のイリュリア人、トラキア人との接触が多かったマケドニア人は、バルカン半島を南下していち早く先進文明に出会ったドーリス人とは異質の社会を形成していた。

残存する文献史料のなかで、ギリシア人と交渉のあったマケドニア王として最初に言及されているのは、アミュンタス王である。彼は、前五一〇年に僭主政倒壊とともにアテナイを離れて国外にいたペイシストラトスの子ヒッピアスに、アンテムスという町を提供すると申し出たと、ヘロドトスは伝えている。この話が事実とすれば、前六世紀後半にペイシストラトスがエーゲ海北岸パンガイオン山付近とストリュモン川流域に亡命し、金・銀を豊富に産出するこの地域の権益を獲得したころに、マケドニア王家と接触したことがあったのかもしれない。

アミュンタスの後を襲った息子のアレクサンドロス一世は、オリュンピアの競技への参加を希望した。他の参加者から異邦人であるアレクサンドロスに参加資格はないという反対意見が出されると、アレクサンドロスは自分がアルゴスの名家の出身であることを証明してみせたため、ギリシア人と判定され参加を認められたと、これもヘロドトスが伝えている。マケドニア王家がアルゴス出身であるというのは神話にすぎない。だが、これ以後、マケドニア王家一族はギリシア人として容認されることとなった。

王国の首都をアイガイからペラに移したのは、前四一三年に即位したアルケラオスだった。彼は歴代の王のなかでもとりわけギリシアの文化を愛好し、その宮廷に多くの芸術家を招いたが、なかでも有名なのがあの大悲劇詩人エウリピデスで、彼は前四〇六年に世を去るまで、晩年の一、二年をマケドニアで過ごし、名作『バッカイ(バッコスの信女たち)』を完成させている。さらにまた、エウリピデスはパトロンである王のために『アルケラオス』という芝居を書いたが、これは現存していない。

フィリッポス二世の進撃

アルケラオスの死(前三九九年)後、マケドニアはスパルタ、テーベ、アテナイなどのあいだの錯綜した対立抗争のなかに参入し、また、国内でも内乱のすえの王位をめぐる争いが展開する。そのなかでのちにマケドニア王となるフィリッポス二世は、前三六九年から約二年間、人質としてテーベに滞在した。テーベを勃興させたペロビダスとエバミノンダスに身近に接触できたことは、十三、四歳のフィリッポスにとって幸運このうえないことだった。彼はこの二人から政治について、軍事について多くを学びとったにちがいない。前三五九年に二十三歳の若さで王位に就いたフィリッボス二世は、財政を整備し、軍制改革に成功した。農民・遊牧民を動員して強力な歩兵軍を作り上げ、マケドニアの国力を高めたが、やはりもっとも戦力として頼りになったのは、ヘタイロイ(仲間という意味)と呼ばれるマケドニア貴族出身の騎兵だった。即位するとただちに北方のイリュリア人を平定したフィリッポスが、次に目指すはギリシアへの進出だった。

彼は前三五七年にアンフィポリスを攻撃する。アンフィポリスは前五世紀にアテナイが中心になって建設した植民市で、戦略的にも、トラキアなど後背地の物資の集散地としても重要な都市だったため、アテナイはフィリッポスに宣戦するが、ちょうど「同盟市戦争」が起こっていて、ケルソネソスやビザンティオン、キオス方面での軍事活動に専念せざるをえなかったため、実際の行動に出ることができず、フィリッポスは難なくアンフィポリスを、ついでピュドナを掌握した。

フィリッポスの進撃はとどまるところを知らない。ポテイダイアを占領し、メトネを掌握する。獲得した土地は、これを支給するという条件で広くギリシア各地から新貴族をリクルートするために用いられた。こうしてクレタのネアルコス、ミュティレネのラオメドン、タソスのアンドロステネスがフィリッポスの臣下となり、アンフィポリスに居を構えた。三人はのちにフィリッポスの子アレクサンドロスの戦友としてその東征を援けることになる。フィリッポスはまたパンガイオン山西麓のトラキア人居住地クレニデスを占領し、その名をフィリッピと改めた。周辺から産出する大量の金が以後、フィリッポスの大事な軍資金となったのだから、マケドニア王国におけるフィリッピの意義は大きい。いまその地を訪ねれば、遺跡を見ながらいかにも壮麗な町だったろうと納得できるのである。

フィリッポス二世を攻撃するデモステネス

フィリッポスによってアンフィポリスが占領されるのをアテナイは阻止できず、また「同盟市戦争」でビザンティオンやキオスなどがつぎつぎに離反していくのを防ぐこともできず、第二海上同盟は解体同然となった。このような事態にいたったアテナイは、対外的にいったん平和政策をとり、国内政策として財政の再建をはかった。祭祀財務委員になったエウブロスが国の全財政を管掌し、傭兵への支出削減、ラウレイオン銀山の再開発、国内居住の外人(メトイコイ)数を増加させるための優遇策、公共建造物建築計画の推進などを実施した。こうして、エウブロスは前三五四年から二期八年のあいだに歳入の増大に成功した。

アテナイ国内はこのようにひとまず安定したが、目をギリシア全体に向けるならば、中央ギリシアでもペロポネソス半島でも諸国間の対立抗争は繰り返されている。フィリッポスは、前三五六年から始まったデルフォイの管理をめぐる周辺諸国の長期にわたる争い(第三次神聖戦争)への救援要請をテッサリアから受けたのを契機に、ギリシア内部の問題に介入しはじめる。他方で、前三五一年にはエーゲ海北部やプロポンティスに遠征し、ビザンティオンやペリントスなどと友好関係を結び、この方面への影響力を強めていた。これを脅威と感じたのがアテナイのデモステネスである。前四世紀ギリシアを代表する弁論作者であるデモステネスは、フィリッポスを攻撃する多数の弁論を残しているが、その最初の弁論『フィリッポス攻撃弁論』第一番を弁じたのはこのときであった。彼はアテナイ市民にこう呼びかける。

あの男(フィリッポスのこと)とても神ならぬ身であります。現在の順調さがいつまでも変わらないでいるなどと考えてやる必要はありません。それどころか、アテナイ人諸君、現在ではきわめて彼に友好的であると見える者たちのなかにさえ、彼を憎み、恐れ、嫉視する者は多いのであります。そして、彼の側についている者たちのなかにも、他の者たちにあるのと同じこれらの感情のすべてが存在するものと思わねばなりません。ただ、そのすべてが、いまは逃げ場を持たないためにちぢこまっているだけであります――これも諸君の怠慢と投げやりとのせいにほかなりません。そして、そういう態度を、いますぐ捨て去るべきであるとわたくしは言いたいのであります。この弁論からは、フィリッポスの破竹の勢いにアテナイ市民が恐れをなしている様子がうかがえる。はたしてこの時点でフィリッポスがギリシア世界制圧を考えていたのかどうか疑わしいが、デモステネスは以後、つぎつぎにフィリッポスを攻撃し、アテナイ市民に奮起を促す弁論を発表する。前三四八年にはカルキディケ半島のオリュントスがフィリッボスによって徹底的に破壊され、市民たちが奴隷化された。デモステネスはこのとき、オリュントス救援の派兵を民会で提案したが、アテナイ市民は動かなかった。

その後もアテナイ国内では、アイスキネスのようにマケドニアとの共存を現実的と考える立場とデモステネスらのようにマケドニアをあくまでも敵と見る立場とのあいだの論争が続いた。前三四六年に九十歳のイソクラテスはフィリッポスへの手紙を発表し、ギリシア諸国を結集させて共通の敵ペルシアを討伐するよう進言する。自分の国アテナイにギリシアをまとめるだけの力量がもはやないと判断し、また、ギリシア諸国のあいだの対立抗争の連続に絶望したイソクラテスの進言だった。
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『ケンブリッジ世界近現代史事典』

第一次世界大戦(1914~1918) WorldWarl

第一次世界大戦と知られるようになった大戦争は、1914年7月のバルカン半島危機で始まってヨーロッパ全土を巻き込む軍事紛争となり、1918年11月11日に連合国(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ)と同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー)との休戦が成立して終結した。この紛争は西ヨーロッパおよび中央ヨーロッパを徹底的に破壊し、オスマン帝国とロシア帝国とオーストリア帝国の崩壊に手を貸し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリスでの大量動員とインフレと政治変動によって社会と経済革命を生み出した。そのせいでイギリスは債権国から債務国となってイギリス帝国の崩壊が始まり、ロシア内戦(そして間接的にソ連)を作り出した。動員され計6500万人の兵のうち戦闘で850万人が命を落とし、2500万人が負傷または行方不明となり、アメリカが経済と文化の世界大国として表舞台に登場した。

戦後の和平交渉ではドイツ代表団は戦争を始めた責任を認めることを要求されたが、紛争の真の原因は1914年からずっと物議をかもしている。直接の原因は、サラエボでセルビア人民族主義者によってセルビアの皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公とその妻が暗殺され、その後オーストリアがセルビアに最後通告し、ヨーロッパの同盟システムが発動したことだった。ロシアはセルビアを支持し、オーストリアとその同盟国のドイツに対する戦争準備を始め、これによってフランスは同盟国のロシア支援のために戦争準備にかかった。イギリスもフランスとロシアの同盟国であるため、イギリス政府が戦争に関与した1914年8月4日にヨーロッパは戦争へ邁進した。イタリアは同盟国のドイツとオーストリアに加わらず、1915年に忠誠先を切り替えて対オーストリア作戦を開始し、それを1918年まで続けた。同様にルーマニア、日本、ギリシア、1917年にアメリカが連合国に加わり、ブルガリアとオスマン帝国がドイツ率いる連合の支援にまわった。

1890年代終わりから顕著になってきたヨーロッパの同盟システムの致命的な不安定さは、戦争開始へと流れる他の理由と並行している。例えば、海軍の軍備増強におけるイギリスとドイツの対抗意識、いったん始まれば戦闘計画を撤回できない無能な国家、ドイツの皇帝の性格ドイツとロシアの経済的な対抗意識、オーストリア=ハンガリーの不安定性などを主な戦争開始の原因として歴史研究が行なわれてきた。ほかに、ドイツの卓越した戦争準備(近代史上ロシアを破った最初で最後の国)、近代的プロパガンダの効果、動員の技術と技巧がもたらす偽りの希望、どちらの側も西部戦線で決定的な勝利を収められなかったことなどの理由も考えられる。これらの説明だけでは歴史家は満足しなかった。だがドイツが近代技術を駆使した帝国建設と搾取の世界でより大きな役割を求めたこと、制度的社会的に不安定なドイツ帝国、ドイツ皇帝およびプロイセン人の幕僚たちの性格という理由はいうならばかなり筋道が通っていた。

大戦争は19世紀以降に発展してきた戦争に多数の流行をもたらした。塹壕、ライフル、機関銃、海上兵器、毒ガス、有刺鉄線、民間人への航空攻撃、戦車といった近代的方式の利用である。後半の4件は西部戦線での最初の軍事作戦の失敗に対して生じたものだった。例えば、フランスとドイツが戦略的および戦術的計画をいくつも用意して戦争に突入したことは広く知られているが、そうした努力が一貫して統一して行なわれていたとは思われていなかった。ドイツはベルギーを抜けてフランスへ迅速に部隊を展開し、パリを包囲する必要があったドイツに対し、フランスはドイツに攻撃をしかけることをもくろんでいた。ドイツはこれを予想し、フランス軍をアルザス=ロレーヌ地方へおびき出し、そこで叩きのめす計画を立てていた。それは現実とならず、その後ドイツ軍をモンスで食い止めるために北部戦線のフランス軍にイギリス軍が合流したことで列強間の「海へのレース」が発生して膠着状態となって終わり、イギリス海峡と大西洋沿岸をイギリスとフランスが支配し続けたことが戦争を長引かせた。連合国も同盟国も西部戦線で敵を圧倒することができないまま塹壕戦は北東フランスに広がった。長大につながる塹壕と入り組んだ地下トンネルに隠れて発砲し、ときには大規模な戦闘が行なわれた。そうした戦闘は普通は大量の死以外のものをもたらさなかった。ここから技術を基本として勝利する方法の考案に拍車がかかった。

西部戦線の状態は東部戦線の機動戦と対照的である。1914年、ドイツとオーストリアの部隊は、優位に見えていた敵軍のまずい組織編成と非効率な動きのおかげで大きな成功を収めた。タンネンベルクの戦いとマズーリ湖の戦いでの圧倒的な勝利は1917年のロシアの偶発的な敗北と1918年のブレスト=リトフスク条約による戦争終結の前兆だったかもしれない。この東部戦線の状況はおおむね忘れられてしまった。だがマルヌ、モンス、第1次と第2次のイーペルの戦い(1914~15)ヴェルダンの戦い(1916)、「ヨー「ロッパの自殺」と呼ばれイギリスだけで50万人の死傷者を出した1916年夏と秋の壊滅的なソンムの戦い、アラスとパシャンデールの戦(1917)、失敗に終わったガリポリ上陸作戦(1915)は当時の敵国の人々の記憶に残っている。

世界大戦と名がついており、多くの植民地部隊(インド軍が有名)が参戦したが、第一次世界大戦はおおむね西ユーラシア大陸だけで行なわれた。イギリスとドイツの大艦隊はユトランド沖海戦の1度を除いて互いを避け、ヨーロッパ以外での交戦はほとんどなかった。ドイツ軍は南西アフリカと西アフリカ、ベルギー領コンゴと太平洋の島で戦闘したが死傷者はわずかで、イギリスとフランスの植民地軍に簡単に抑えられた。

だが戦争は様々な国で大きな変化をもたらした。例えば、男性が戦争に行き女性が工場や畑で働いたので社会における女性の地位は後戻りできないほど様変わりした。産業は国有化され、国家に従属した。インフレと家族の死によりイギリスとドイツでヨーロッパの貴族社会の根本が崩れた。ドイツやハンガリーやロシアや東ヨーロッパで古い帝国が崩壊し、共和国か革命会議が取って代わった。中東の国境線が書き換えられた。イギリスはアイルランドの大半を失い(アイルランド共和国の独立により)、世界を支配していた経済大国という地位をアメリカに明け渡した。1917年に参戦したアメリカは1919年のパリ講和会議で国際連盟や新しい経済秩序を始めとする自身の希望する解決案を押しつけようとした。その会議からヴェルサイユ条約も生まれた。戦争の後には答えのない疑問が数多く残った。そしてヨーロッパ人は政治形態として自由主義とファシズムと共産主義からどれを選ぶかという厳しい選択に迫られた。戦争が生み出した混乱と苦しみという遺産はその後21年間消えずに残り、第二次世界大戦が勃発した。

第一次世界大戦中のアラブ反乱Arabrevolt(WorldWarl)

いわゆるアラブ反乱はメッカのシャリーフであるフサイン・イブン・アリーとイギリス駐エジプト高等弁務官のサー・ヘンリー・マクマホンの交渉の成果であった。のちにフサイン=マクマホン書簡と呼ばれるこの交渉でシャリーフとイギリスの同盟関係の基礎が築かれ、「アラブ反乱」を条件にした第一次世界大戦後のアラブの独立支持が約束された。オスマン帝国の有力者でオスマン・トルコ語にも堪能な野心家のフサイン・イブン・アリーは、この交渉をイギリスから与えられたアラブ王国実現の可能性と見なした。一方のイギリスはフサインがカリフの名のもとにイスラム世界の指導権を主張するオスマン帝国を倒す鍵、ダーダネルス海峡攻撃作戦の失敗による行き詰まりの打開策、オスマン帝国支配に対する大衆の抵抗運動をアラブ諸州で呼び起こす希望、そしてイギリスが戦後にアラブ世界の「保護者」になるための手段と考えた。イギリスとフサインのあいだで交わされたこの約束と、イギリスがフランスと結んだサイクス=ピコ協定(1916)、シオニストに向けたバルフォア宣言(1917)の内容が明らかに矛盾するという議論は戦後の外交論争の原因となった。

イギリスの旗のもとに集まりエドモンド・アレンビーの指揮下で戦ったアラブ兵もいたが、その大半はフサインの息子ファイサルが率いる非正規軍として戦闘に加わった。非正規軍の訓練と反乱の戦略指揮にはイギリスとフランスの軍事顧問が協力した。なかでももっとも有名なのがT.E.ロレンスで、彼は1916年10月に反乱に加わった。戦闘を通してアラブ軍はオスマン帝国軍の護衛艦、前哨地、とくにヒジャーズ鉄道を集中的に攻撃した。戦況が大詰めを迎える頃にはオスマン帝国は統制力を失い、一方の反乱軍は軍勢を増やし、ますます果敢に標的を攻め、1917年にアカバを占領し、1918年にダマスカスへ入城した。しかしイギリスの戦争努力にもっとも貢献したのは、反乱軍がオスマン帝国の供給路を断ち、情報を提供し、オスマン軍の動きを封じたことだった。

伝承に反し、アラブ反乱はオスマン帝国に対するアラブ人の大衆蜂起ではなく、それどころかほとんどのアラブ人は帝国の敗戦が明白になるまで帝国に忠実だったようだ。アラブ反乱は大戦の結果や戦後の中東の構造を劇的に変えることはなかった。しかしその真の意義はいたるところに見受けられる。まず、フサイン一族(ハーシム家)とイギリスのあいだに同盟が結ばれ、これにより戦後のイラクとヨルダンはハーシム家の王国となった。(イラクは1958年まで。ヨルダンは現在に至る)。しかしもっとも意義深いのは、創成期のアラブ諸国にオスマン帝国支配に抵抗したという記憶を授け、民族主義の観点からアラブの歴史を書き替えることが重要なのだと証明したことだろう。

第二次世界大戦(1939~1945)WorldWarII

1939年9月に始まり1945年8月に終わった世界的紛争。主な参戦国は枢軸国のドイツ、イタリア、日本とその同盟国と、「連合国」のイギリス帝国、アメリカ、フランス、中国、ソ連(1941から)だった。戦場はヨーロッパからユーラシア、北アフリカ、太平洋の島々、東南アジア、南北大西洋におよんだ。戦争では組織的な激しい航空爆撃、ホロコースト、核兵器の使用、社会全体の戦時動員が見られた。この戦争で1919年のパリ講和会議でまとまった国際連盟と世界秩序は実質的に崩壊した。

戦争の種はドイツの国家社会主義政権の拡張政策と、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーの戦略地政学に潜んでいた。ヴェルサイユ条約のくびきからドイツを解放する決心をして1933年に政権の座についたヒトラーの目的は、ドイツ語を話す人々全員を経済的に自立した帝国(ドイツの歴史では3つめ)でまとめ、ソ連に侵攻し分割して世界の共産主義を破壊すると同時に「生活圏」を獲得することだった。そのためには、イギリスとフランスその他の国で約束された第一次世界大戦後のヨーロッパの国境線を帳消しにしなければならない。1935年から1939年にかけてはイギリスとフランスの「宥和政策」とアメリカの無関心のおかげでヒトラーはこの計画を進めることができた。1939年からイギリスとフランスがヒトラーの思うようにはさせないと決断したことから世界戦争に発展し、少なくとも6千万人が死んだ(ソ連だけで2千万人、ホロコーストで600万人、他の戦域で3400万人)。戦争に向かうヒトラーとナチスと希望を共にするベニート・ムッソリーニ率いるイタリアのファシスト党が、1940年に対フランス作戦に勝利してドイツの仲間に加わった。だがスペインとポルトガルは参加しなかった。それとは別に、1941年に大日本帝国がアメリカ攻撃を決断したことと、その後日本を支援するドイツの動きが、大西洋沿岸諸国の自由民主主義の伝統と、既存のヨーロッパの帝国全体に対する世界的挑戦となった。

戦争の直接の原因は1938〜39年のチェコとポーランドの危機にあった。チェコスロバキアは第一次世界大戦後に安定した民主主義の国となり、国内にチェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ユダヤ系その他の民族が共存していた。ヒトラーはオーストリアの併合に成功したのち、チェコのドイツ系が住む地域を合併しようともくろんだ。ミュヘン会談でイギリスとフランスとイタリアはチェコスロバキアの分割に同意した。抵抗勢力がドイツ軍で反ヒトラーのクーデターを起こすことも、ヒトラーが勝つとは限らない困難な冬の戦争になることも考慮された結果だった。この交渉に成功したヒトラー(と次の年にヒトラーと邪な同盟を結んだソ連)の民主主義に対する軽蔑は深まり、1939年には残りのチェコとポーランドの大半の併合にいたった。イギリスとフランスはそれを見過ごすことはできず、ポーランドの国境を守る決意を表明したが、同様にソ連がドイツと連携してポーランドの侵攻を決めていたため、守るためには戦争も辞さないと脅すしかなかった。ヒトラーはその脅しをはったりと解釈したが、それは1939年9月に表明されたものだった。

イギリスとフランスの側から見ればほとんど何も起きなかったように見える「偽りの戦争」は1940年まで続いた。実はポーランド侵攻作戦で、軍馬に引かせるドイツ軍部隊の弱点とスペイン内戦以降改良が重ねられてきた電撃戦と戦術的展開計画が未完成だったことが明らかになった。ポーランドでドイツ軍は4万9千人の死傷者を出し、ソ連は8千人を失ったが、100万人近いポーランド人が犠牲になった。ポーランドを吸収したのち、西部戦線の戦闘は1940年に本格化した。激戦が続き、フランスは5月に敗北した。空権をかけたバトル・オブ・ブリテンがあった。フランスの残党がヴィシーに臨時政府を設立した。同じ頃、イギリス軍とフランス軍は敗戦を喫したダンケルクから撤退し、首相になったばかりのウィンストン・チャーチルの弁舌の才のおかげでその作戦は「圧倒的な勝利」とされた。翌年はギリシアと北アフリカで軍事作戦が行なわれ、ブリッツと呼ばれるイギリスの都市空襲が続いた。ヒトラーがソ連に攻撃をしかけてほぼ勝利を収めたのもその年だっ12月には大日本帝国が太平洋上の真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃した。1941年はドイツでヨーロッパのユダヤ人とロマ、同性愛者と共産主義者を特殊な大量処理機構によって虐殺する計画が持ち上がった年でもあった。この計画は、ラインハルト・ハイドリヒ主導のヴァンゼー会議で「最終的解決」として改良され、ヒトラーの様々な部隊によって推し進められ、ホロコーストと呼ばれるようになった。

それまで優勢だった日本とドイツに1942年には逆風が吹きはじめた。スターリングラード攻防戦とエルアラメインの戦いでドイツ軍の前進は止まり、日本はその年前半にシンガポールで勝ちはしたがミッドウェー海戦で太平洋地域での衰退を決定づけられた。1942年から連合軍は兵力、テクノロジー、国内組織、経済力の優位が「連合国」の勢いをさらに後押しした。さらなる激戦が続いたのち1943年にイタリアが降伏した。1944年、連合軍はイタリアのアンツィオ上陸作戦ののち、ノルマンディー侵攻作戦いわゆるDデイを成功させた。ソ連の「バグラチオン」作戦でスターリンの部隊はベルリンに迫った。1945年ヒトラーは上級幕僚と一緒に自殺した。一方ソヴィエトの日本侵攻とアメリカ軍侵攻作戦で大勢の兵を失うことを恐れたアメリカは日本に原子爆弾2個を落とし、東アジアでの戦争は終結し

この戦争は矛盾した遺産を残した。アメリカとソ連はナチ指導部と戦争犯罪者のニュルンベルク裁判で協力関係にあったが、実際にはまもなく「植民地から独立」する人々にとって冷戦はすでに始まっていた。戦争はヨーロッバに残っていた植民地を持つ帝国に、また世界の大国としてのイギリスとフランスの権威に致命的な打撃となった。ドイツは東と西に45年間分断され、ヨーロッパと大西洋沿岸諸国の力関係に支配された。他方で、人類史上最悪の紛争は国連と世界人権宣言、ブレトンウッズ体制を生みだした。それらは第一次世界大戦後に設立された機関よりは長く続いている。

探検exploration

18世紀の探検は本質的には、1492年のコロンブスの新大陸発見、1519年のフェルディナンド・マゼランの世界周航に激発された16世紀と17世紀の探検の延長にあった。第一の目的は完全なる略奪であれ、不平等を常とする貿易であれ、富の追求である。それと密接に関連していたのは、新たに発見された土地が発見国の統治下に置かれて国力の証になるという想定であった。探検は20世紀まで帝国主義の重要な側面を維持した。第二は安住の地の探索であり、そのほとんどがアメリカ大陸に限られていた。オランダ人によって発見されたオーストラリアは、1786~87年にイギリスの流刑地に指定された。シベリアも近傍のロシア政府に同様の目的で利用された。第三はキリスト教信仰を広めたいという衝動で、これはヨーロッパの一方のスペインとポルトガルの場合であり、他方のロシアの場合、つまるところ以前は優勢を誇っていたイスラム教との闘いにほかならない。第四の、そして依然として強力な動機は、飽くなき好奇心である。16世紀前半にスペインがメキシコとペルーに侵入したことにより、ヨーロッパにとっては未知の文明の全貌が明らかになった。

南極と北極を除く大陸の全体像は、18世紀初頭までにヨーロッパ人に知れ渡った。ポルトガル人のバルトロメウディアスは、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見よりきぼうほうも早く、1488年に喜望峰を回って東アフリカの海岸に到達した。しかし得られた知識は主に沿岸地帯に限定されており、新しい国の潜在的可能性(現実に存在するにしろ想像にしろ)を活用するには探検が不可欠であった。ところが探検活動のバランスは変化していく。先駆であるスペインは探検を南アメリカの広大な土地に制限していたが、ほどなくのちのアメリカ合衆国の太平洋沿岸を包含した。一方ポルトガルは、1497年にヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊がインド遠征に乗り出し、1557年に中国沿岸のマカオに居留地を確立したが、17世紀には東洋貿易の支配権争いでオランダに敗れた。

18世紀

今や北アメリカと太平洋沿岸の探検を主導しているのはイギリスとフランスであった。イギリス人のキャプテン・ジェームズ・クック(172879)は、ニュージーランドとオーストラリアに加えてカナダのニューファンドランド海岸を探検し、1773年には史上初めて南極圏の南を航海し、南極大陸を迂回しながら大浮氷群の端まで到達した。しかしカナダの北側に北西航路を見つける本格的な探検は、それ以来行なわれなかった。1611年の試みではヘンリー・ハドソンに死をもたらした。探検が危険であることは今も昔も変わらない。キャプテン・クック自身はハワイの敵対心を持った島民に殺された。海洋列強国が権力を保持するために探検を行なったのは理の当然である。中央ヨーロッパ、オーストリア、プロイセンは探検に参加せず、ロシアはまだ海を越えておらず、農民移住をカザフスタンからシベリアへと拡大していたにすぎない。それでもロシアの船員は18世紀にシベリアの北海岸の大半を探検した。動物的好奇心による動機も洗練と区別化の度合いを高め、何より科学的になりつつあった。キャプテン・クックはオーストラリアの入り江で興味深い植物を見つけたため、ボタニー湾と名づけた。

しかし18世紀は異文化現象の始まりを目の当たりにした時代でもあり、未知の国あるいはほとんど知られていなかった国が、ヨーロッパ人の趣味嗜好に少なからぬ影響を与えた。シノワズリが大流行して食器や家具さらには建築にまで用いられ、ケンブリッジシャーのゴッドマンチェスターにある中国式の橋や、ウィリアム・チェンバーズが1761年に設計したロンドン南西部のキューガーデンのパゴダなどは今も残存している。別の観点からは、コーヒーの物珍しさがロンドンの有名な18世紀のコーヒーハウスを生み、そこが知的生活の中心になる一方、フランスの〈カフェ〉はヨーロッパの共通言語であるかのように定着した。アステカ族の言語の〈ショコラトル〉に由来するチョコレートも、スペインの飲み物として定着した。さらに別の観点で見ると、探検航海の困難さは、遭難した水夫アンドリュー・セルカークの実話に基づいたダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』(1719)によって大衆の想像力を刺激した。ロビンソンの従僕のフライデーは、おそらくヨーロッパ文学初の「高「貴な野蛮人」であろう。その後そうした文化的影響はますます増え、その意義も大きくなったが、当時は政治的影響によって影が薄くなっていた。前述のように事情や動機は何であれ、探検には遅かれ早かれ領土権の主張や、少なくとも排他的権利または特権の主張が続くのが常であった。要するに、1770年代までに植民地化と帝国間の競争がヨーロッパの政治の主力になっていたのである。フランスのカナダとインドおよびナポレオン戦争での敗北によってイギリスの優位が確立し、それは1860年代と1870年代まで疑問視されなかった。

19世紀

キャプテン・クックの史上初の南極圏突入に続いて、1820年には南極大陸が初めて目撃されたが、その功績は同じ年に別々の航海を行なった3人の男ロシア帝国海軍士官ファビアン・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍士官エドワード・ブランズフィールド、アメリカのアザラシ猟師ナタニエル・ブラウン・パーマーが分け合っている。フランス人のジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルは、1840年に初めて南極大陸に足を踏み入れた人物になった。しかし、総じて19世紀の探検のスタイルは植民地化を伴うものだったが、重要な発展がいくつかあった。好奇心はますます科学的になっていた。おそらくそのもっとも有名な例はイギ

リスの自然科学者チャールズ・ダーウィンであり、著書の『種の起源』(1859)は自然科学者として乗船したビーグル号の世界航海(1831~36)の後で出版された。科学的好奇心は考古学や文化史全般などの分野を受け入れるためにますます多様化していった。この多様化により、探検は海洋権力の保持というよりもヨーロッパの一大事業となった。この探検の新分野で名高いのはドイツの学者たちで、ハインリヒ・シュリーマン(1822~90)はいずれも伝説の都市だと思われていたミケーネとトロイアを発掘した。しかしながら最も有名な業績は、おそらくロゼッタストーンの発見を受けてフランスの古代エジプト学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)が始めたヒエログリフの解読であろう。これらの新しい形態の探検は地理的な焦点も広げた。イギリスのサー・オーレルスタイン(1862~1943)などの考古学者は、ゴビ砂漠周辺でヨーロッパと中国を結ぶシルクロードを探検しチベットに至った。この種の探検には領土的な含みはなかったが、やたらにたくさんの発見物がヨーロッパへ移送された。ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館、ベルリンのペルガモン博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館のコレクションを見れば事の次第は明々白々である。

しかし従来の形態の探検は基本的ににアフリカに焦点を当てており、イギリス人を先頭に、19世紀半ばからフランス人、ベルギー人、ポルトガル人、しんがりにドイツ人が続いた。これらの探検家のなかでもっとも有名なのはおそらくデイヴィッド・リヴィングストン(1813~73)で、ザンベジ川、ヴィクトリアの滝、ニアサ湖(マラウイ)を発見した。死亡したと思われていた彼は、1871年11月10日にウジジでサー・ヘンリー・スタンリーに発見され、そのときに有名な「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」という言葉が発せられた。その後2人はタンガニーカ湖を探検した。このヨーロッパの探検家によるサハラ以南のアフリカへの進出に商人や入植者がすぐ続き、たちまち「アフリカ分割」と呼ばれる植民地獲得競争が引き起こされ、1884年の国際ベルリン会議においてある程度秩序らしきものがもたらされた。一番の受益者はイギリスで、1890年にはアンゴラとモザンビークを横断しようとするポルトガルの植民地計画を、フランスとドイツが承認していたにもかかわらず迷わず阻止した。

探検は同時に、16世紀にスペインが南北アメリカを征服してから後景に退いていた感覚も取り戻していた。鉱物資源―主として金とダイヤモンドだが、それだけでなく他の貴金属、そして急激に需要を増しつつある石油の探求である。ここでも主導者となったのはイギリスで、金やダイヤモンドを探す人たちが南アフリカのケープ植民地に押し寄せ、オランダ系入植者(ボーア人)とのあいだに軋轢が生じ、彼らを北へ追いやった。

18世紀と同じように探検と発見は、とりわけ文学の面で本国の文化に大きな影響を及ぼした。冒険物語が盛んに綴られ、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』(1883)やロバート・マイケル・バランタインの『サンゴ島』(1857)などの児童文学の名作を生み出した。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)は想像力において他の作家と同等だとすればやや科学的な傾向があり、『地底旅行』(1864)や『海底二万里』(1872)などの作品を発表した。影響はスイスにもおよび、ヨハン・ダビット・ウィースの『スイスのロビンソン』が1812~13年にドイツ語で出版された。おそらくもっとも注目すべきはイギリスの作家サー・ヘンリー・ライダー・ハガード(1856~1925)尊敬すべき農業研究家、アフリカの行政官にして入植者であり探検家にしてやや神秘主義者でもあっで、もっとも有名な作品『ソロモン王の洞窟』(1885)は冒険小説の古典だが、『洞窟の女王』(1887)とその続編の『女王の復活』(190)ザンジバルからチベットや中央アジアの僧院や山奥への旅に誘う息を呑むようなファンタジーである。

しかし19世紀末から20世紀初頭の現実の探検は、ファンタジーとは反対にますます科学と技術が駆使され、地球上でもっとも近づきがたかった北極・南極を目指した。これにはスカンジナビア人が大きな役割を果たした。ノルウェーの探検家で科学者のフリチョフ・ナンセン(18611930)は1888年にグリーンランドの氷原を横断し、1893~96年の北極探検で極氷の動きを研究したが、彼の乗った〈フラム〉号はロシアの北の流氷群をほぼ3年間漂流した。スウェーデン人のアドルフ・エリク・ノルデンショルドは、1879年に〈ヴェガ〉号で北東航路の通航に初めて成功した。もうひとりのノルウェー人口アール・アムンセン(1872~1928)は、190305年に〈ヨーア〉号でカナダ沿岸を周って北西航路横断に初めて成功した。そこはヘンリー・ハドソンと、のちの1845年に軍艦〈エレバス〉と〈テラー>を指揮したサー・ジョン・フランクリンが、遠征に失敗して命を落とした場所であった。

20世紀

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけては引き続き極地に焦点が当てられ、南極に対する関心が新たになった。1890年に国際的な調査計画が作成され、ノルウェーのカルステン・ボルクグレヴィンクは、1898~1900年に初めて南極で越冬し棚氷を旅した。フランス人のジョゼフ・デ・ジェルラシュ・デ・ゴメリは、1897年に南極の最初の写真を持ち帰った。1901~04年ロバート・ファルコン・スコット隊長(1868~1912)率いるイギリス遠征隊は棚氷を越え、南緯82度17分の最南端に達した。その遠征隊のメンバーであっ(サー)アーネスト・シャクルトン(1874~1922)は、1907~09年のイギリスの南極(ニムロド)遠征隊を指揮し、南極点の156キロメートル(97マイル)以内まで接近した。しかし名高いのはアムンセンの綿密に計画された遠征で、1911年には史上初の南極点到達を成し遂げた。さらには、アメリカの探検家リンカーン・エルズワースとイタリアの航空技術者ウンベルト・ノビレの協力を得て、1926年に飛行船で初めて北極点を通過した。ナンセンとスコット大佐--1912年にアムンセンのあとに南極点に到達した不運なイギリス遠征隊のリーダー――は2人とも探検家であると同時に科学者であった。スコット隊の遠征を後援した王立地理学会も「第一の目的は科学であり、探検や極地到達は二次的な目的になる」ことを明らかにしたほどだ。証明はできないものの、35ポンドもの重さの貴重な地質標本の負担がなかったら、彼の遠征隊は無事到達したかもしれないと推測されている。しかしスコットと彼の仲間の死に対する世論の反応は、探検が冒険ロマン、英雄的行為、犠牲、国の威信と離れがたく結びついている大衆の心を反映していた。国威の要素は無視

できないシャクルトンが1908年にヴィクトリアランド高原をイギリス領として宣言したのはその典型で、イギリス領南極地域は南極大陸におけるもっとも古い領有宣言となった。南極大陸はかつてアフリカ、アジア、アメリカ大陸がそうであったように、その後影響力のある国に分割されることになった。イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェー、アルゼンチン、チリが揃って領土を主張した。住みにくい地形や気象条件の困難さのため開拓に二の足を踏んでいるうち、1959年に南極条約が締結された。

極地探検を実行可能にした技術の進歩は、新次元の海底探検でさらにその真価を発揮した。大がかりな海底調査が最初に実施されたのは1872~76年のイギリスの軍艦〈チャレンジャー〉による学際的な遠征だが、スイス生まれのベルギー人物理学者オーギュスト・ピカール(18841962)とその息子ジャック・ピカール(1922~2008)は、バチスカーフ型として知られる深海探査艇を共同で設計した。同じ名を持つ都市で建造された彼らのトリエステ号は、1953年に3150メートル(10330フィート)の深さまで潜水した。1960年1月、ジャック・ピカールはドン・ウォルシュ海軍中尉を伴い、アメリカ海軍に買い上げられた〈トリエステ〉号で太平洋マリアナ海溝の最深部1万912メートル(35800フィート)に到達し、潜航深度の世界記録を更新した。ジャック・ピカールはほかにも1960年代初頭に父親と共同で中深海探検用メソスカーフを設計した。観測用の舷窓を持つこの潜水艇は40人の観光客を乗せることができ、約80年前にジュール・ヴェルヌが空想科学小説『海底二万里』で創造した潜水艦〈ノーチラス>号を彷彿させる。

それに対し、陸地の探検はほぼ限界に達していた。おそらく最後のロマンティックな探検家フォーセット大佐は、失われた文明を求めて1930年代初頭にアマゾン奥地に姿を消した。一方、科学に関する考古学的探検では目覚ましい発見が相次いだ。もっとも有名なのは1922年にカーナヴォン卿の援助を受けたハワード・カーターが、上エジプトのルクソール近くの王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したことである。それに勝るとも劣らないのは、1920年代後半から1930年代初頭にかみかけてサー・レオナード・ウーリーがイラク南部で行なった古代都市ウルの発掘であり、思いもよらぬ文明とその芸術的功績が明らかになった。同様の偉業としては、主にアメリカおよび自国の考古学者によって、ラテンアメリカの砂漠やジャングルで目覚ましい発見があった。しかし目覚ましい発見のためとはいえ、わざわざ辺鄙な地域を探検するには及ばない。1939年にイギリスのサフォーク州ウッドブリッジ近くのサットンフーでアングロサクソンの船葬墓が発掘されたことで、歴史家がそれまで「暗黒時代」として顧みなかった時代の認識を一転させた。

文化的影響

しかしながら、20世紀にヨーロッパの文化に大きな影響を与えたのは、現代のアフリカとオセアニアの探検であった。例えばベニン王国の高度な青銅器文化は1897年までヨーロッパ人に知られていなかった。さらにその影響は、冒険、文学、装飾の趣味だけではなく、おそらく初めて芸術の本流にまで及んだ。1907年にスペイン人パブロ・ピカソ(1891~1973)が描いた画期的な『アヴィニョンの娘たち』には、アフリカやオセアニアの仮面の影響がはっきり表われている。フランスの画家アンリ・マティス(1869~1954)の『マティス夫人の肖像』(1913)などの有名な絵画にも同じことが言える。イギリスの彫刻家へンリー・ムーア(1898~1986)の屋外展示用の巨大な石像は、太平洋のイースター島の石像の影響が明確に示されている。「プリミティブ」アートと「モダン」アートは手をつないだのである。先コロンブス期の中央アメリカの階段状建築までもが、20世紀の無線機器用の木製キャビネットに反映された。考古学、人類学、人の移動の研究、純粋な探検的冒険の要素を組み合わせて世界的な注目を集めた偉業は、ノルウェーのトール・ヘイエルダールとその仲間が1950年代に行なったコンティキ号探検であり、アンデス山脈の湖では今でも見かける古いタイプの帆のある筏を複製し、古代人が太平洋を横断できることを証明した。

20世紀半ばはまた極地探検の飛躍的な進歩が続き、1969年には(サー)ウォーリー・ハーバートが初めて北極海を横断した。アメリカの原子力潜水艦〈ノーチラス〉は、1958年に初めて潜航状態で北極点を通過した。南極点を経由した南極大陸の最初の横断は1957~58年の99日間に、ヴィヴィアン・フックス率いるイギリス連邦南極横断遠征隊によって達成された。その後1994年にノルウェーのリブ・アーネセンが女性初の南極点単独到達に成功した。これらは注目に値する偉業であったため、きわめて重要な政治的展開を伴ったことはほぼ間違いない。南極条約は1959年に南極大陸およびその周辺に科学者を派遣していた12カ国により採択され、1961年に効力を発した。その後1991年にそれら12カ国は他の34カ国とともに、環境保護に関する南極条約議定書に署名した。同条約は従来の領土権の主張の有効性については判断を保留し、南極大陸を「平和と科学に捧げられた自然保護区」と定義した。非科学的目的での天然資源の開発は、2048年まで全会一致で禁止された。遺憾ながら、議定書への署名は国家間の競争の終わりを意味しなかった。イギリスは南極大陸において自国の領土を50パーセント拡張する計画を国連に申請することを明らかにした。領有主張地から海底に延びる約38万6千平方マイルを

加えるというのである。アルゼンチンとチリは反訴する構えを明らかにした。あらゆる申し立てを提出する期限は2009年であった。こうした主張の背後には国家の威信ばかりでなく、地球温暖化が石油やその他の鉱物の探査およびその利用を可能にするという目論見もあった。

それでも、20世紀から21世紀にかけての探検の中心は地球ではなかった。それは高層大気であり、宇宙であった。ここでもオーギュスト・ピカールが先鞭をつけた。一種の気密式与圧キャビンその後すべての高空飛行機の標準になった――を備えた新型の気球を設計し、ベルギーで資金を調達すると、1931年5月27日にポール・キプファーを伴って高度1万5781メートル(51762フィート)まで上昇した。1932年にもキャビンを改良した気球で1万6940メートル(55563フィート)まで達し、高度記録を更新した。翌年ソヴィエトおよびアメリカの気球操縦士が1万8500メートル(60700フィート)と1万8665メートル(61221フィート)まで上昇し、さらに記録を更新した。しかし、これは来るべき劇的な変化の予兆に過ぎなかった。1961年4月12日ロシアのユーリイ・ガガーリン(193468)は人類初の宇宙飛行士として〈ボストーク1>号に乗り込み、毎時27万4千キロ(毎時17万マイル)の速さで90分かけて地球を一周し、最高高度327キロメートルに達した。ソ連はそれまでにもすでに地球を周回する世界初の人工衛星〈スプートニク1>号を1957年に打ち上げており、同年に〈ルナ2号を月面に衝突させていた。50年後にロンドンに建立されたガガーリンの記念像は、キャプテン・クックの像と微笑ましく向かいあっている。宇宙飛行に対する反応は、探検における国家主義および政治的特質を強調した。そこには人類の偉大な功績―大勢が夢見たが実際に目撃するとは予想だにしなかったことに対するありふれた喜びに加えて、宇宙工学におけるソ連の大きな勝利であるという認識があった。ソ連はそのプロパガンダ価値を百も承知しており、ソ連以外の国ワルシャワ条約機構同盟国が望ましいがそれに限定されない今後から宇宙飛行士を招いて、の宇宙開発計画に参加させようとした。一方アメリカは、冷戦時代の敵が最大の宣伝価値だけでなく、莫大な軍事的可能性のある技術を習得していたことに危機感を抱いた。ケネディ大統領は「60年代の終わりまでに」アメリカの有人宇宙船を月に着陸させるため、予算を節約するなと要求した。このプロパガンダによって、アメリカのニール・アームストロング(1930~2012)は1969年7月21日に人類で初めて月面に降り立った男になった。世間にあまり知られていない宇宙開発の先駆けは、第二次世界大戦後期にV1およびV2兵器に取り組んだドイツのロケット科学者たちであり、終戦直前にソ連やアメリカに連れて行かれた。アメリカに亡命したヴェルナー・フォン・ブラウンなどはその代表例と言える。

かなり意外なことに、アメリカとソ連の宇宙船事故があったにもかかわらず、宇宙探検は黎明期の探検よりも安全なようである。ガガーリンの〈ボストーク1>号での先駆的な宇宙飛行に続いて、1962年と1963年にも一連の宇宙飛行が行なわれ、後者には世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワも含まれる。ソ連は前進を続け、1964年10月に〈ボスホート1>号で3人飛行を成功させ、1965年3月の2人飛行ではアレクセイ・レオーノフが世界で初めて宇宙遊泳を行なった。1971年から82年のあいだに打ち上げられた〈サリュート>シリーズの宇宙ステーションは、搭乗員が長期間居住作業することが可能なため滞在日数211日の記録に達した。こうした長期にわたる滞在は、1978年の東ドイツのジークムント・イェーンをはじめとするワルシャワ条約機構同盟国の飛行士ばかりでなく、フランスとインドの飛行士とのランデブーも可能にした。ヘレン・シャーマンはこうしてイギリス人初の宇宙飛行士になった。ソ連は1986年についに、貨物輸送船用と有人宇宙船の訪問用の6つのドッキングポートと、最大6人のクルーを収容できる膨張式モジュールを備〈ミール〉宇宙ステーションを打ち上げた。米ソが唯一共同で行なった有人宇宙プロジェクトは1975年の〈アポロ・ソユーズ〉テスト計画で、アメリカの3人乗りの〈アポロ>とソ連の2人乗りの〈ソユーズ19>号が2日間軌道上でドッキングした。

こうした有人宇宙探査は当然アメリカも同様のことを行なっていたが無人飛行によって補完されており、アメリカとソ連(ロシア)は最初は月面を、次いで惑星間空間を探ろうとする宇宙開発計画を次々と実施した。アメリカの計画にはイギリスや西ドイツなどの西ヨーロッパ諸国との限定的な共同プロジェクトも含まれていた。ソ連の〈ルナ〉シリーズは1959年に〈ルナ3号で月の裏側を撮影することに成功し、1970年には〈ルナ16>号で月の土壌サンプルを地球に送り返した。ソ連が最初に成功した惑星間打ち上げは1967年のくべネラ4>号で、金星の大気層に探査用カプセルを送り込んだ。1975年の〈ベネラ9〉号と〈ベネラ10>号は、別の惑星の表面の画像を初めて提供した。1971年に火星に打ち上げられた探査機は限られた科学データしか提供できなかった。ロシアはまだソ連時代の宇宙調査における隆盛を取り戻すのが難しいと感じていた。1990年以来初めて2011年11月に火星探査機〈フォボスグルント〉を搭載したロケットを打ち上げたが、土壌サンプルを地球に持ち帰る計画は機器の故障により失敗した。将来の宇宙探査は想像を絶するほどの距離と時間を伴うため、無人探査になることは数十年前から明らかになっていた。無人探査機はすでに火星と金星に関する情報を提供していたが、アメリカの〈ボイジャー〉計画は太陽系の外惑星を調査していた。2015年7月、2006年に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズは冥王星を接近通過し、海王星軌道の外側にあるカイパーベルトへ向かった。衛星軌道上にある宇宙実験室は、探査というより研究と見なされるかもしれない。距離と時間の問題は、最初はアメリカが発見し、1946~47年にイングランドはチェシャー州のジョドレルバンク天文台で(サー)バーナード・ラヴェルらヨーロッパ勢が開拓した電波天文学が、今後も重要なツールであることを示唆している。電波天文学のおかげで、放射された電波が地球に到達するまでに数千万年かかるような遠い天体を観測することが可能になると同時に、おそらくは宇宙の始まりを探索することも可能になるであろう。

回想

そういったしだいで従来の探検家——冒険家、科学者、国民的英雄など――は、おそらく歴史となりつつある。登山は厳密には探検とは呼べなかったが、1923年に何故危険を冒してまでエベレストに登るのかと問われたジョージ・リー・マロリーの「そこに山がある「から」という簡潔な答えは、探検の精神の要点を押さえたものでもある。現在、地球の表面は探検するには知りつくされている。しかし科学の進歩は人類学および考古学的な探検を促しており、人類の進化と文明の出現についての物語を解き明かす様々な発見が期待されている。考古学的探検は18世紀後半に「ジェントルマン・アマチュア」から始まって徐々に職業化されていったが、金属探知機の開発によりその歴史は繰り返された。金属探知機を備えた週末のアマチュア探検家はイギリスで何度も「貴重な宝」を発掘しており、なかでも2009年にスタッフォードシャーで発見された金銀の財宝はおおいに注目を集めた。しかしながら、従来の探検形態の大半はつねに強力な戦略的側面があり、北極圏にふたたび注目が戻ることになった。ハドソンやフランクリンなどの探検家の死を引き起こした地域は、地球温暖化によって商業、戦略、輸送の機会を持つ地域に変わりつつある。さらに戦略的機会は、軍事的優位と同じくらい資源開発にも関連がある。例えば推定によれば、北極海の底には世界の埋蔵量の4分の1に当たる3750億バレルの石油と、3分の1に当たるガスが埋蔵されている。根拠は定かではないものの、北極の地球温暖化は世界のその他の地域の2倍の速さで進行しているようである。現在の速さで気温が上昇した場合、北極の氷は2070~80年の夏または一部の科学者の見解では2040年までに融けてしまうという。ロシアの調査船〈アカデミク・フョードロフ〉は2005年に砕氷船の先導なしで北極に到達した最初の船となり、2009年にはドイツ船籍の2隻のコンテナ船が開放水面を通って北東航路を通航した。北極に接する8カ国はそれぞれ大陸棚に独自の主張と反対要求を持っている。デンマークは北極がグリーンランドの大陸棚上にあるとして領有権を主張しているが、ロシアは2007年8月2日に正式に北極の領有権を主張した。2009年に採択されたロシアの新しい国家安全保障戦略は、10年以内の軍事的衝突の潜在的可能性として、国境周辺の未開発の石油およびガス埋蔵量の所有権をめぐる激しい戦いを特定している。しかしその後のロシアの外交的動きは、まさに冷戦という名がふさわしい新たな紛争のリスクを軽視したものだった。

 豊田市図書館の6冊
209.5クツ『ケンブリッジ世界近現代史事典 下』
311.8アレ『全体主義の起源 1』反ユダヤ主義
311.8アレ『全体主義の起源 3』全体主義
209マク『世界史(下)』
311.8『悪と全体主義』
104イケ『リマーク1997-2007』

 ブログのワード化完了 #早川聖来
 10時の開店待ちも含めてスタバは満席です #スタバ風景
 出会いを求めて 図書館へ 女性ではなく本ですけど
 vFlatは 心強い 軽く10冊ぐらいは処理できます
 過去に遡って コンテンツを探してきましよう
 6.3 個の覚醒:本はきっかけにすぎない 覚醒は存在を意識し、考えることから始まる
・数学は本質に迫る手段
・個の存在に気づいているはず
・内に答えを求めることが覚醒につながる
・他者の世界が自分のためにあることを知る
知のきっかけ:存在のなぞを求めるためのプロセス
考える:権威は不要 自分の内だけ答えを求める
社会を知る:知るためには一万冊の本が必要
存在している:存在の意味から答えのない問いを発する

 図書館があってよかった 図書館に出会えてよかった マルクスは図書館のために ロンドンを離れるとできなかった #図書館
 電子書籍化の時になぜハイブリッドを選ばなかったのか その時点でのリテラシー
 モーゼがエジプトを出た時に右に行かずに左に行ったのか アラブとの確執と石油の恩恵ではあまりも 差が大きい
 図書館の存在意味は国自体をサービス主体に変えていくための前衛
 革新とか保守との政治理念は必要ない 国民にサービスするかどうかです 役割を明確にすることだけ

豊田市図書館の6冊
209.5『ケンブリッジ世界近現代史事典 下:
311.8『全体主義の起源 1』反ユダヤ主義
311.8『全体主義の起源 3』全体主義
209『世界史(下)
311.8『悪と全体主義』
104『リマーク1997-2007』
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イスラムの勃興

 イスラムの勃興

六三六年、アラブ軍は、シリアとパレスティナに駐屯するローマ(ビザンティン)軍を打ち破り、この二地方からローマの勢力を永久に駆逐した。その少し後、別の遠征軍がメソポタミア(六四一年)とエジプト(六四二年)を平定した。そして六五一年までには、イランもまた、この数々の勝利によって形成されたイスラムの新帝国に併合された。預言者マホメット(六三二年没)に下った新しい天の啓示が、人々の熱情をよびおこし、この異常な連戦連勝の源となった。さらに驚くべきことは、マホメットが与えた宗教的確信のために、粗野なアラブの征服者とその後裔が、中東地方が文明のそもそもの発生期以来受けついできた、多種多様の、時には矛盾する諸要素を融合して、新しいそして明確にイスラム的なひとつの文明を作り上げることができたという事実である。

マホメットの生涯

マホメットの時代には、アラビアは数多くの好戦的な部族に分かれていた。そのある者は遊牧民で、ある者はオアシスの農耕地域や商業都市に定住していた。ユダヤ教とキリスト教はある程度アラビアにも浸透していたが、マホメットの生まれたメッカの町は土着の宗教が占めていた。若いころ、マホメットは隊商に加わって、パレスティナ周辺の町々へ旅をしていたらしい。四十歳位になると、彼はしばしば恍惚状態に陥り、虚空に声を聞いた。そして、すぐにこれが天使ジブリールの訪れであり、自分にアラーの神の意志への服従を命じる声であることを理解した。こうした体験に励まされて、マホメットは、アラーこそ一にして全智全能の神であること、審判の日が近づきつつあること、アラーの意志に完全に服従すべきことなどを説きはじめた。彼は「イスラム」の一語にその教えを要約したが、これはアラーへの「絶対帰依」を意味する言葉である。一日に五回の礼拝、喜捨、少なくとも生涯に一度メッカに巡礼すること、酒と豚肉を控えること、毎年一ヵ月を選んでその間日の出から日没まで断食することなどが、マホメットが信徒に課した戒律のおもなものであった。預言者が明かしたところによると、アラーへの服従の酬いには、死後天国に入ることを許される。それに反して偶像崇拝の徒やその他よこしまな行いの者は永遠の劫火に焼かれるだろう。「最後の日」における肉体の復活も、マホメットが大いに強調した点のひとつだった。

はじめのうち彼は、ユダヤ教徒やキリスト教徒も、彼の教えを神の意志の最後にして最も完全な啓示として認めることになろうと考えていた。なぜならアラーとは、マホメットの信じるところによれば、アブラハム、モーゼ、イエスその他あらゆるヘブライの預言者たちに語りかけたと同一の神格だからである。アラーが矛盾を示すことはあり得ないから、マホメットの啓示とむかしからの諸宗教の教理の間にある差異は、真正の神の教えを守り伝えてくる上での人間的な誤りとして簡単に説明された。

メッカの住民でマホメットの警告を聴き入れる者はわずかで、大部分は、マホメットが偶像崇拝だといって非難したむかしからの信仰を捨てなかった。六二二年、マホメットはメッカからメディナへ逃げた。このオアシス都市の相争う党派が、第三者に紛争の調停を依頼するため彼を招いたのである。この時以来、マホメットは政治指導者、立法者となった。メディナで、マホメットは、ユダヤ人とはじめてじかに衝突した。ユダヤ人たちは彼の権威を認めなかったからである。そこでマホメットは彼らを追い払い、その土地を奪って彼に付き従う信徒たちのものにした。その少し後で、やはりユダヤ人が住む別のオアシスを討ったが、こんどは住民に、そのままその土地を所有することを許し、その代わり彼らから人頭税を徴収することにした。ユダヤ人とのこれら初期の衝突は、守るべき先例として、後々まで支配者のモスレムと被支配者のユダヤ教徒(および後にはキリスト教徒)との関係を決定したから、重要な意味を持っている。

メディナでは、マホメットの教えを受け入れ、改宗して付き従う者は着々と数を増していった。その結果、信徒の共同体は、オアシス都市メディナの狭い境界内で、なんとか生計の途を講じる必要に迫られた。メッカの市民が所有する隊商を襲うのが手っとり早い解決策だった。最初の襲撃は成功だった。そこで直ちにくりかえし試みられ、いずれも勝利を収めたので、ついにメッカの抵抗も止むにいたった。マホメットは勝利者としてメッカに帰還し、引きつづき、アラビア全土をイスラムの旗のもとに統一する仕事に取りかかった。これは戦争によることもあったが、主として外交と談判によって進められた。

この事業が完成するかしないかのうちに、マホメットは死んだ(六三二年)。彼にはその後を継ぐ男の子がいなかったので、預言者の旧友で親しい同志の一人、アブー・バクルが、イスラム教徒の共同体を指導するカリフ(後継者の意)に選ばれた。彼はただちに、各地の族長があいついで彼に離反するという困難に直面した。彼らは、マホメットに服従を誓ったからといって、全体としての信徒の共同体に忠実でいなければならぬ義理はないと考えたのだ。だが戦いとなると、マホメットの信徒のかたく団結した中核部は、その熱情と信念によって再び敵を圧倒した。族長たちは今一度、結束して新しい信仰の旗の後に従うことになった。この危機が過ぎるとまもなくアブー・バクルは死に(六三四年)、指導者の任務はウマル(六三四―六四四年までカリフ)の手に移った。この男は敬虔で献身的な信徒であったばかりでなく、軍事指導者としても行政官としても卓抜な器量を備えていた。

アラブの征服事業とウマイヤ朝

全アラビアの統一は、アラビア人によるめざましい征服事業の端緒となった。小アジアを除く旧中東の全土、インダス下流の荒地(七一五年まで)、北アフリカ、さらにスペイン(七一一―七一五年)がイスラム教徒の支配下に入った。これらの勝利はなんら戦闘技術の変化によるものではなかった。アラブ軍は数において優れていたわけでもなく、特別に装備がよいというわけでもなかった。だが、神が自分たちと共に在すという信念、戦死は天国における至福の生を保証するという確信、さらにウマルの適切な指導、それだけでアラブ軍を無敵の勝者とするに充分だった。

しかし七一五年以後になると、易々たる勝利は見られなくなった。ビザンティウムの都は、きびしい長期の包囲戦に耐え抜いた(七一七七一八年)。この重大な挫折と時を同じくして中央アジアでも、一連の小会戦における敗北があった。ここでは、トルコ軍が、七一五年までにイスラム軍を東部イランから押し返した。さらにそのすぐ後で、フランク軍が、ガリア中央部のトゥールにおける会戦で、イスラム教徒の遠征軍を破った(七三二年)。

これらの敗戦は、最初の頃の宗教的情熱と信念の避けがたい衰えも手伝って、イスラム教徒の共同体の内部に種々の深刻な問題を生じさせた。最初の一、二世代の間は、アラブの戦士たちは、多かれ少なかれ被征服民から孤立していた。ウマルは特別の駐屯都市を設け、アラブ人はそれぞれ部族の長の指揮下にそこに住んだ。各戦士は、ローマやペルシャから引き継いだ官僚機構にもとづいて、一般民衆から徴収される税から給料を得ていた。このやり方は最初のうちはひじょうにうまくいった。そして、イスラム共同体の指導が、初期の二、三の指導者からはるかに能力の劣る者の手に移った後でも、まだかなりの効力を残していた。

最初の試練は、六四四年ウマルが暗殺された時に訪れた。ウマイヤ家の家長がカリフの位を継ぎ、以後世襲されて七五〇年までつづいた。ウマイヤ朝代々のカリフはシリアのダマスクスを首都とした。彼らの権力は、三つのまったく性格を異にする役割の間に微妙なバランスをとることで保たれた。カリフはなによりもまず、対立するアラブの部族や族長たちの衝突を和らげなければならなかった。次に、カリフはローマやペルシャの前任者から引き継いだ官僚機構を維持し、それを手段として民衆全体から税を取り立てる必要があった。最後にカリフは、イスラム共同体の宗教上の長としての任務をはたさなければならなかった。

この三つのうち、最後にあげた役割を、ウマイヤ朝代々のカリフは適切にはたすことができなかった。真面目で敬虔な信仰の人、アラーの意志を知りそれを忠実に実行しようと願っている人々は、ウマイヤ朝の政治が行う、人目を惹くはでな事業にはなんの満足も見出さなかった。軍事的な成功がつづいている間は、このような不満も政治的に力を持つことはなかった。だが、イスラム教徒がはじめて深刻な敗北を蒙った七一五年以後になると、真にカリフの名に価する、神に選ばれたカリフを要求する宗教上の不服従は深刻な問題になった。

全民衆に対する為政者としても、ウマイヤ朝は次第に多くの困難に直面するようになった。キリスト教徒やゾロアスター教徒、あるいはその他の宗教を信じていた者も、イスラム教の神学上の簡潔さ、法における明確さ、実際の成功などに心を動かされて改宗する者が相次いだ。原理的には、これら改宗者は信徒の共同体に喜んで迎え入れられた。だが、改宗が税の免除を意味した時(最初のうちはそうだった)、宗教上の成功は経済上の危機を意味した。さらに、イスラム共同体は以前と同様、部族によって構成されていたが、部族は大勢のよそ者を同胞として迎え入れることなどできず、第一望みもしなかった。アラブ人は、新改宗者に対してとかく軽蔑の目を向け、マホメットの教えの明確な規定にもかかわらず、彼らをイスラム教の共同体の完全に平等な一員としては扱いたがらない傾きがあった。

こうした緊張は七四四年に頂点に達した。この年、後継者争いが内戦に発展したのである。内戦はウマイヤ朝の滅亡をもって終わった(スペインを除く。スペインではウマイヤ朝の後継者が権力を握った)。勝利者アッバース朝が首府をメソポタミアのバグダードに定めたとき、アラブ駐屯軍の特権的地位も崩壊した。彼らの軍事的支柱となったのはおもにペルシャ人の改宗者だった。だからアッバース朝の政策が、かつてのササン朝の先例から多くの特徴を受け継いでいたのも不思議ではない。以前、重要な存在であった、アラブ人の部族集団は崩壊した。部族の構成する駐屯軍の戦士たちは、ウマイヤ朝の時代のように、首領を通じて給料を支給されることがなくなったからである。本来のアラビア地方では、古くからの遊牧生活がつづいていたので、部族的連帯もそのまま残っていた。だが、帝国内の定住地域では、アラビア人は一般住民と混じりあった。普通は地主になったが、その他の特権的地位に就く者もいた。そして、すみやかに部族的特性と規律とを忘れていった。彼らに代わって、旧帝国そのままの型を踏襲した官僚組織が、通常の行政全般を司った。一方、カリフの軍隊も、イラン人やトルコ人その他の傭兵が、次第にその中核を占めるようになった。

こうしていろいろな点で、大むかしからの大帝国の前例に逆戻りしたことは、イスラム教に改宗した非アラブ人の要求に合致するものであった。彼らもアラブ人も、今では一様に、雲のうえの近づき難いカリフの、縁もゆかりもない臣下なのだ。だがこの変化は、神の意志を、あらゆる細かな点にいたるまでこの地上に実現すべしと考えている、敬虔なイスラム教徒たちを満足させるはずがなかった。この難問を解決するためにアッバース朝の政治家たちが採った政策は、以後の全時代のイスラム社会に影響する重要な意味を持っている。すなわちアッバース朝は、以前のように宗教的権威と、軍事的、政治的指導権をひとつに結ぶことをやめ、宗教的に重要な事柄についての立法権を、いわゆるウラマーと総称される、イスラム教神学に精通した学者集団の手に移すことを、暗黙のうちに承認したのである。

イスラム教徒の聖典と律法

ウラマーは自然に発生した。信仰心の篤い人たちが、いかに行動すべきかの問題にぶつかったとき、この場合神はどう望まれるかを知りたいと願った。それを知る方法は、預言者マホメットの言葉や行為に先例を求めることだった。だが、普通の人は、そういう言葉や行為に通じていない。それに通じている専門家に教えてもらわなくてはならない。預言者と行を共にした最初の世代の者は皆亡くなっていたから、このことは系統的な研究を要した。マホメットの生涯の細かな点が研究されたのは、当然ながら、はじめはメディナだった。彼が生前、神の啓示を受けて発した言葉の数々が、この町で集められ細心の注意を払って編纂されたが、それは彼の死後まだ何年もたっていない時だった。こうして出来た聖典が『コーラン』で、今日までイスラム教徒にとって、信仰上究極的に依拠すべき教えの集められた、最高の権威ある経典となっている。

『コーラン』が直接の指針を示していない、その他の多くの事柄についてもなんとかして処理しなければならない。こういう場合の問いに対する答えとして、イスラム学の専門家は、まずマホメットの日常の言行を拠りどころとした。これは、真実であるか作られたものかは別として、いずれもマホメットと行を共にした同志のだれかから伝えられたと称するものが数多く残っていたのである。それでも足りない時には、マホメットと密接な関係にあった人々の行いが補助手段として用いられた。さらにこの「列伝」によっても、適切な解答の得られない場合には、ウラマーは、類推によって問題点を処理することを認めた。最後に類推によっても充分な指針の得られない場合には、結局、信徒たちが一致して決定したことを正しいとせざるを得なかった。個々人の判断がいかにまちがっていても、全体としての成員が過誤を犯すことをアラ―がお認めになるはずはないとするのである。

こうした手段によって、イスラムの学者たちはまもなく精緻な律法の体系をつくり上げた。そしてそこにアラーの意志が表れているとした。この聖なる律法はもちろん不変である。アラ―が変化することなどないからである。すべての努力が、個々の特定の状況において、人間がどう行動するのをアラーが望まれるか、を疑いの余地なく明らかにすることに向けられたので、これはきわめて詳細にわたっていた。その結果、放棄することも改変することも許されないこの律法は、後のイスラム教徒の社会にとって次第に重荷になっていった。

だがアッバース朝のもとでは、この聖なる律法はまだ鋳造したての金貨のように光り輝いていた。人間に対するアラーの意志はそこに確実に表れているように思われ、信徒はあらゆる行いを、そこに示された明確な規定に合致させるように努力する義務があった。そしてこのことはさほど困難ではなかった。と言うのは、『コーラン』と聖伝と律法の細目についての正確な知識で人々の尊敬を受けている学者が、主要都市にはかならずいて、人々が持ち込む良心の問題について判断を下してくれたからである。こうして、個人や個人の生活に関する政府の仕事の多くが、これらの専門的宗教家の立法の手に移されたのである。それゆえ信仰心の篤いイスラム教徒も、真に重要な事柄は、最も正しく最も賢明な人たちが掌握しているのだと実感することができた。それに比べれば、中央政府を動かし、税を徴収し、国境を防衛し、豪奢な宮廷生活を享受しているのが、今一体だれなのかなどということはたいした問題ではなかった。

かつての、完全に神に捧げられた共同体の理想、預言者マホメットの正しい後継者に率いられ、アラーの意志への服従のためにのみ存する共同体という理想を、大多数のイスラム教徒は、こうして不本意ながら放棄したのである。だが全部がそうしたわけではない。頑固な理想主義者たちはもとの理想に固執し、やがて異端者となった。彼らの多くは、預言者マホメットの女婿アリーの後裔のみが、真に信徒の共同体を率いる指導者たるに価すると主張した。アリーの直系が十二代目で絶えたとき、彼らのある者は、預言者マホメットの真の後継者はこの手のつけられぬほどの邪悪な世界から一時身を退いたのだ、だが将来いつか戻って来て、恐るべき復讐の罰を、真理をねじ曲げアラーの命に背いた者共に下すであろう、と論じた。極端な派閥争いから多数の分派を生じたが、そのあるものは、アッバース朝をはじめ、妥協を知らぬ彼らの理想に少しでも欠けるところのある現実のすべての体制に対して、徹底的に否定する革命的態度を貫いた。これらの集団はシーア派と総称される。それに対して、アッバース朝の政策にもとづいて決められた枠内で、生を送ることを望む大多数の者はスンナ派と呼ばれている。

スンナ、シーア両派の抗争はイスラムの全歴史を貫いて今日までつづいている。同様に、アッバース朝が妥協して、世俗の政府の職権に設けたさまざまな制限は、以後すべてのイスラム国家の政府の政策に影響した。

律法が政治権力とは独立して自律的に運用されたことの必然的結果として重要なのは、イスラムの政治的実権者が、他の宗教集団の指導者たちに対して、ウラマーがイスラム教徒の生活を指導したのと同じように、それぞれの信者を、個人的、宗教的な事柄について、指導し規制してくれるように期待したということである。そこで、キリスト教徒やユダヤ教徒の集団に広範な自律性が保証された。

イスラムの掟のもうひとつ重要な意味は、個人はイスラム教を全面的に受け入れるか、全然拒否してしまうかのどちらかでなければならないとする点である。曖昧な態度は不可能である。マホメットがアラーの最後にして唯一の権威ある預言者であり、聖なる律法は、そのあらゆる細部にいたるまで、アラーの人間に対する意志を真に表現したものであるとするか、あるいは、そのような説はまったくの偽りとするかの、ふたつにひとつである。論理的に言って中間点は存在しないし、実際そのようなことを主張した者もほとんどいなかった。イスラム教は、その先駆であるユダヤ教やキリスト教の持つ教義上の不寛容性を受け継ぎ、一層徹底させたのである。

 奥さんへの買い物依頼
トンテキ       316
牛乳プリン    178
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イスラムの領域

 『世界史』下 ウィリアム・H・マクニール

イスラムの領域――それに従属するヒンズー教およびキリスト教の社会一五〇〇――一七〇〇年

マホメットが、はじめてメディナに信者たちの神聖な社会を作りあげて以来、イスラムの領域は、局地的、一時的な敗北はあったにせよ、一貫して成長しつづけていた。この以前からの変化は、はるか西の世界が新たに海上の制覇に乗り出したからといって、紀元一五〇〇年以後急速にとどまるようなことはなかった。むしろ逆に、インド、東南アジア、アフリカおよびヨ―ロッパは、すべてイスラムの拡大の舞台でありつづけた。実際のところ、一五〇〇年と一七〇〇年の間にイスラムの領域に編入された、何百万平方キロメートルないしは何百万人の新しい臣下たちを数に入れるならば、この二世紀間は、全イスラム史のなかで最も成功をおさめた時期の中に入るであろう。例えばインドでは、山地の北方から流入してきた逃亡者や冒険家たちが、イスラムの支配者たちに充分な戦力を与え、一五六五年に、インド南部の最後の重要な独立ヒンズー国家、ヴィジャヤナガル王国を圧倒することができた。そしてこの時代のまさに終末において、インド半島のほとんど全部が、ムガール皇帝アウラングゼーブ(一六一八一七〇七年)のもとに統一された。

東南アジアでは、沿岸地方のイスラム国家の連合が、協力して、一五一三年と一五二六年の間に、ヒンズー化したジャヴァ帝国を転覆した。この征服の前後に、商人や遍歴するスーフィー派の聖人たちによって行われた布教活動が成功をおさめ、イスラム教を、東南アジアの港や海岸地帯全体に沿って、フィリピンのミンダナオ島や、インドネシアのボルネオまで広げた。アフリカへの浸透も継続した。これは海よりも陸路によって行われ、船ではなしに隊商の活躍によるところが大きかった。これらふたつの大地域において、交易と市場活動の発展は、そのような交易がひきおこした新しい種類の経済活動に最も積極的に参加した地域の人々がイスラムを受容したことと並行して行われた。その後、軍事活動と行政的な圧力がしばしば用いられて、田舎や辺鄙な地域をイスラムの圏内に引き入れた。こうして、一連のイスラム帝国が西アフリカに勃興したボルヌ、モロッコ、ティンブクトゥ、ソコトなど彼らの異教徒に対する政策は、シャルルマーニュが、ほとんど一千年も前に、力で環境に抵抗するサクソン人をキリスト教に改宗しようとしたときに、北西ヨーロッパで使ったものと似ていた。

ヨーロッパ自体では、イスラムに対する抵抗は、インド、アフリカないしは東南アジアで行われたものよりもよく組織化されていた。しかしそこでもまた、イスラムの勢力は、キリスト教を侵しながら前進した。一五四三年までに、ハンガリーの大部分はトルコの行政下に入った。その後もくりかえし国境地帯での戦争がつづき、一六八三年まで、ポーランドおよびオーストリアのハプスブルクに対するトルコ人の戦いは有利に展開した。ヨーロッパ人に対するオスマンの軍事的な劣勢は、トルコ人の第二回ヴィーン包囲にはじまり、ハンガリーの大部分がオスマンからオーストリア人の手にうつった一六八三年から一六九九年までの長い戦争の間に明らかになった。しかしルーマニアでは、一六九九年以降も、オスマン社会の地方的変種が発展し、定着しつづけた。もっとも、この地域のトルコの勢力は、コンスタンティノープルのギリシャ人を通じて間接的に行使されたことも事実であるが。

イスラムが、一七〇〇年以前に継続して領土を失いつづけたのは、ユーラシア大陸の西部および中央部のステップ地帯に限られていた。ロシアがキプチャク・ハン国に次ぐ諸国家、すなわちイスラム化したカザン、アストラ・ハンおよびシビル・ハン国を征服して前進したことは、すでに述べた。さらに西方のステップ地帯では、イスラムは同じくらい深刻な敗北を喫した。一五五〇年と一六五〇年の間に、再生したチベットのラマ教(黄教)がモンゴリアのイスラムの機先を制して、中央アジアのイリ河周辺の地域で自己の地位を確立した。

しかし、ステップ地帯は、それ自体貧しく将来性のない地方であった。交易路が(北のシベリアの河川地方や、南の大洋の方向に変更されたため)草原地帯を横切らなくなったとき、長い間イスラム教を伝える役割を主に果たした商人や聖職者たちが、それらの地方に行くことをきっぱりとやめてしまった。それゆえ、ステップ地方におけるチベットのラマ教の目ざましい成功は、あるていどイスラムの競争者が引き揚げたためなのである。

ヨーロッパ商業の侵入

海上においては、事情はもっと複雑だった。地中海およびインド洋の両方で、スペイン、ポルトガルの艦隊が、イスラムの海上勢力に挑戦し、いくつかの重要な戦いで勝利をおさめた。しかしこのイベリア両国の海軍力は、イスラムの船隊を海上から駆逐することができるほど大きくはなかった。そこで、一五七一年に、一連の長い地中海における闘争に終止符が打たれたときにも、トルコの海軍力は、一五一一年にその戦いがはじまったとき同様の力を維持していた。またインド洋でも、軽い小型のイスラム船が、ポルトガル人に奪われていた商業の大部分を回復させた。十六世紀末までに、ポルトガル人たちは、港湾料の歳入を必要としていたがために、自分たちの支配する港に、イスラムの船が入港することを認める決定さえしたのである。

しかし、一六〇〇年以後になって、新たな海事勢力が現れはじめた。オランダ、イギリス、フランスの船が、インド洋および地中海の有力な商船として、スペイン、ポルトガルの船にとってかわりはじめたのである。短期間の現象としてみれば、この変化は、イスラムの立場からみれば勝利のように思われた。いずれの場合にせよ、新しく現れた国々は、まずイスラムの支配者と特定の条約を取り結ぶことによって、自分たちの地歩を確立し、いかなる種類のキリスト教布教の活動も差し控えた。これは急激な政策転換を意味した。ポルトガル人やスペイン人にとって、布教は貿易と同じくらい重要であった。しかし、新しく現れたオランダ人、イギリス人、フランス人の商人たちは、宗教的な宣伝の領域を、もっぱらイスラム教徒の手に委ねたにもかかわらず、新来者たちの経済活動は、長い目で見れば、イベリア二国の宗教宣伝よりも、伝統的なイスラムの生活スタイルを弱める点で、はるかに強力な力を発揮した。結局のところ、イスラム精神は、最も雄弁で学識深いキリスト教の宣教師たちと対抗したときですら、その言うことに耳を傾けないだけの力をもっていた。それは、マホメットの啓示が、キリスト教の偏って歪められた真理をただし、それゆえそれを凌駕するものである、という、すべてのイスラムの教えの中核にある確信によるものであった。しかし、イスラム社会は、経済的な合理化や市場関係の拡大に直面したとき、特にヨーロッパの価格革命の反響がイスラムの領域に押し寄せてきたとき、それから免れることはどうしてもできなかった。

もちろん、内陸地方での影響は少なかった。海から遠く離れた地方では、隊商による交易、職人による生産、農民と都市間の交易、奢侈品の地域的交易、などの古くからの形式が、ヨーロッパ人の諸慣行、組織、エネルギー等の影響を受けることはほとんどなかった。しかし海岸地方では、一七〇〇年までに、広範にわたる変化が現れはじめていた。例えばオスマン帝国では、換金農業が、アメリカからもたらされたトウモロコシとタバコの生産、およびもともとインドから由来した綿の生産にもとづいて、急速な発展を遂げた。ルーマニア、ブルガリア、トラキア、マケドニア等の農民は、アナトリアに住む農民たちとともに、トウモロコシを自分たち自身や家畜の食糧にしはじめた。新しくアメリカからもたらされたこの作物は、古い作物よりもはるかに生産的であったため、以前よりもはるかに大量の小麦や牛を輸出することができるようになった。黒海と北部エーゲ海の沿岸地方が、この発展の主な舞台であった。

オスマン帝国で商品農業が盛んになっても、それはマニュファクチャーの刺戟にはならなかった。職人のギルドは、昔ながらのやり方に固執した。勇猛で知られるトルコ兵たちは、一五七二年、はじめて結婚することを法的に認められたが、それ以後、トルコ軍隊の成員は、オスマン帝国のすべての主要な都市の職人たちの家族と通婚して、職人たちの強力な味方となった。企業的なエネルギーは、産業や商業には向けられなかった。これは、徴税請負業や、高位の官職につきたい者たちに高利の貸し付けをすることの方が、はるかに大きな利益が得られたからである。役人たちは、そのような借金の返済のために、法的および超法規的な方法で、民衆から金を絞り取った。もちろん、そのため、新しい産業ないし商業への投資は不可能になった。なぜなら、新しい企業に投資する余裕のある者はすべて、徴税人や賄賂を求める地方役人の格好の餌食となったからである。マニュファクチャーにおいて技術的な進歩がなく、貿易における企業的意欲に制限が課せられたため、オスマン帝国の輸出品は、ほとんど農産物にだけ限られることになった。これは、ビザンティン帝国が独立を保っていた最後の世紀に、イタリアの諸都市がレヴァント地方の商業を乗っ取ったときの状況と似ていた。この類似は、オスマン社会の経済的健康にとって不吉な兆しであった。

インド洋においても、ヨーロッパの商人たちは、系統的で組織化された利潤追求をはじめて、アジアの経済に変化を与えはじめていた。ヨーロッパの大貿易会社は、より多くの物質をインドに輸出し、その結果銀の流出を防ぐようにと絶えず本国から圧力を受けていた。しかし、毛織物その他のヨーロッパのマニュファクチャー製品は、インド海岸地方の暖かい気候の下において大量に販売するには一般にあまりに品質が悪かった。そこで、オランダとイギリスの商人は、アジアの港間で、利益を上げる物質の輸送を広げようとした。これだけが、ヨーロッパに輸送されるアジア産の物品に対し、大量の金銀をひきかえにインドに輸出することなしに支払いをすることのできる唯一の方法だったからである。オランダもイギリスも、これによってかなりの成功をおさめた。

例えばイギリス人たちは、インド西部において、小額の資金を紡績工や職工に前払いして、綿布の製造を組織化した。そのかわり、彼らは生産させたいと思う布の種類を定め、前払い金の額を規制して、市場に搬入される布地の量を調整することができた。このようにして、イギリス人の指定によってつくられた“キャラコ”は、アフリカとアジアの海岸地方のいたるところで、商人たちがひきかえに商業的価値のあるものを提供すれば売られるようになった。この種の貿易は、それまでは比較的単純な自給自足的な社会が圧倒的に多かった、東南アジアの海岸の多くの地方に、素晴らしい発展を促した。そのような体制の下で、例えばビルマやシャムの海岸地方およびフィリピン諸島は、ジャヴァ、スマトラとともに、ひじょうに急速な商業発展――主に農業上の発展を遂げた。しかし、東アフリカは、人間を輸出する方が容易だと思った。アフリカの海岸地方は、一連の奴隷狩りを行う国々や港市の所在地となり、イスラム世界に奴隷を供給した。それは南北アメリカに対する西アフリカの奴隷貿易と相並ぶものであったが、規模においては比較にならなかった。

香料諸島の中で、オランダの支配下に入った諸島は、さらにそれ以上の強力で体系的な経済的変容を経験した。オランダ人たちは、早くから軍事征服の政策をとり、地域の王たちに、世界市場で販売可能な農業生産物の量を指定して納入させるように圧力をかければ、行政の費用が賄えるということを知った。このようにしてオランダ人は地方の有力者を大農園の支配人にし、耕作者たちを、一種の半農奴状態においたのである。新しい種類の作物が、系統的に導入された。アラビアのコーヒー、中国の茶、インドのサトウキビなどは、オランダ人たちの高圧的な要求によってジャヴァ人たちに押しつけられた。オランダ人たちの政策は、絶えず変化する市場の需要に合うように商品を最もよく組み合わせて、最大の利益を得るよう計算して行われた。

インドの織工やジャヴァの農民の生活にとっては、インドや東南アジアで伝統的な行政形式を通じて行われているイスラムの政治的主権よりも、新しい、市場を志向する資本主義的な企業のほうが明らかにずっと重要だった。こうした企業は、ロンドンやアムステルダムに本拠をおく法人組織の会社から派遣されたイギリス人やオランダ人の代理人の手で運営されていた。そうした会社の所有者たちがそれとわかるのは、株式証券と呼ばれる、浮出し紋様の紙片を持っていることによるのである!しかし、一七〇〇年にはこのことは理解しにくかった。イスラムの政治家や宗教の専門家が、10ここで扱っている時代のはじめに、はるか昔の中世の十字軍と同じくらい深刻な脅威と思われたイベリア半島の十字軍に対して、試練を経た真のイスラムの制度が抵抗するのに成功したことを喜んだとしても、それはまったく当然だったと言えるだろう。中世の十字軍にせよ、イベリアの十字軍にせよ、その動きは弱められ、しかる後にうまく阻止できた一方、イスラムの領域は拡大し続けたのである。アラーの恩寵とイスラムの他のすべての信仰に対する優越性を示す証拠としてこれに勝るものが求められるであろうか?

シーア派の反乱

以上のような精神的態度から生まれたひとりよがりの自己満足は、十六世紀のちょうどはじめにイスラムが深刻な宗教上の衝撃を経験していたことを考えると、ひじょうに注目すべきものであった。イスラムの諸地方は、様々な宗教的セクトに対して寛容さを示してきたが、大きく分けて、スンナ派とシーア派の二大陣営に分かれていた。シーア派の多くの集団は、外見上はスンナ派の信仰形式に従っていたが、時としてあらゆる形態の組織化された宗教に根本的に敵意を示す、ベクターシー教団の修道者のように、信頼すべき初心者に対しては、秘密の教義を教え込んだ。大部分のイスラムの統治者たちは、スンナ派の立場を公に支持し、異論を唱える集団に対しても、公の宗教的制度に対してあからさまな攻撃を加えないかぎりこれを黙認した。

この暫定的共存は、一五〇二年に大揺れとなった。この年、トルコ人の部族の狂信的なシア派のセクトが、急速に一連の勝利をおさめた結果、その指導者であるイスマーイール・サファヴィがタブリーズでシャーとして王位についた。それにすぐ続いて、イスマーイールはバグダードを占領し(一五〇八年)、やがてブハラのウズベク族を壊滅させて、東翼の安全を確立した。一五一四年、彼の軍は、オスマン帝国が召集した軍隊とトルコのチャルディランにおいて対戦した。イスマーイールは戦場では負けたにもかかわらず、オスマン軍のトルコ兵たちが前進を拒んだため、せっかく勝利を収めたスルタンの軍隊が撤退するのを見て、満足した。イスマーイール王の戦歴は、それ自体あまり目ざましいものではなかった。ティムール(1三三六?|一四〇五年)その他の中央アジアの武将たちは、彼より以前に、それと変わらぬくらいの速度をもって大国家の建設に成功している。イスラム教徒にとって、サファヴィ帝国の建設が不安に感ぜられたのは、王の盲目の追従者たちが、彼をアラーの化身と信じたからであった。そして、そのような考えを冒瀆と感ずるような、もっと学識があり、神学にも通じている彼の支持者たちですら、イスマーイール王が、イスラムの十二の正当な支配者のうちの七番目の子孫として、全イスラム社会の長であることにまちがいない、と論じたのである。そのような主張が、完全な確信をもってまったく狂信的に唱えられ、一連の目ざましい軍事的な成功によって裏付けられると、イスラムの領域には、ひじょうな混乱がおこった。なぜなら、もしサファヴィの主張が正しいとなると、他のイスラムの支配者たちはもちろん簒奪者ということになるからである。イスラム世界の多くの地方に、そのような考え方に共感をもって耳を傾けることのできる、重要なシーア派の集団があった。事実、イスマーイール王の支持者は、一五一四年、アナトリアで大規模な反乱を引きおこし、狂信的な熱狂をもってオスマンの権威に挑んだ。

オスマンの反応は、素早く効果的であった。スルタンの残酷者セリム(在位一五一二―二〇年)は、アナトリアの反乱を鎮圧し、その後不満を抱く諸地方の残存者たちを無慈悲に駆りたてた。このため、オスマン帝国の他の地方にいたシーア派の集団は公然と反旗を翻す力を失った。セリムは、次にイスマーイール自身に対して圧力を加えたが、前に述べたように、トルコ兵が異端の王に向かって前進することを拒んだので、災いの根を断つことができなかった。

その後の戦闘で、セリムは、シリア、エジプトおよびアラビアを併合し、それらの地方の統治者たちがイスマーイールと同盟を結ぶのを防いで、メッカおよびメディナの、宗教上の戦略拠点に対する支配を確立した。彼の後継者である“立法者”スレイマン(在位一五二〇―六六年)は、本国においてスンナ正統派を組織化して、シーア派の異端と戦うことに勢力を注いだ。彼は、スンナ派の宗教教育機関に国の指示を与え、帝国のすべての主要都市における宗教上の公職者を国家の管理の下においた。もっと以前の時代ならば、このような政策は激しい抵抗を招いたであろうが、スンナ派の神学者たちは、ひとつには国家から支払われる給料の魅力のゆえに、またひとつにはイスマーイール王の宗教革命がイスラム世界全体に広げようとしている狂信と無秩序を恐れたため、スレイマンの規制を異論なく受け入れた。

一五一四年ごろから、イスマーイール王自身も、宗教革命の炎を統制する必要があると感じた。彼は、イスラム世界のすべての地方から、十二の派に属するシーア派の立法学者を招集し、彼らの援助のもとに、宗教上のあらゆる誤りの痕跡を除去する仕事を開始した。この目的を達成するため、彼はスンナ派や、異論を唱えるシーア派の集団を弾圧し、その財産を没収した。

同時に、イスマーイールの権力がもともと拠りどころにしていた、強力な大衆宣伝が、もっと正統的な傾向に近い者たちに対して向けられた。ちょうどそのころ、プロテスタントの宣教者たちが信者の心に強く刻みつけていた“小教義問答書〟にまさしく当たるものが、イスマーイ―ルのほとんどすべての臣下たちの間に、十二イマーム派の教義を分かりやすく広げたのであった。

イスラムのスンナ派とシーア派との間の対決は、サファヴィとオスマンの両君主の間の派手な衝突となって現れたが、それは他のすべてのイスラム国家と民衆に選択を迫って、困惑させた。いたるところで、スンナ派とシーア派の間に古くから成立していた伝統的な地域協定が、激しい争いに爆発する気配となった。宗教上の原理が、政治的忠誠心を表す指標となった。インドのムガール帝国は特に困惑した。ムガール王朝の創設者のバーブル(一四八三―一五三〇年)やその子のフマーユーン(一五〇八―五六年)などは、低迷期において、ひじょうに必要としていた援助をイスマーイールから得たいと思って、公然とシーア派を信ずる旨を宣言していた。のちインドにおける自分たちの地位が強固になると、彼らは、シーア様式のイスラムを否定し、スンナ派の教義を取り入れて、サファヴィ朝からの独立を宣言した。ムガールの権力を最初に確立する政治を行ったアクバル(在位一五五六―六〇五年)は、自分自身、独立した宗教的権威があると主張したがった。アクバルは、イスラムの信仰形式だけではなく、ヒンズ―教やキリスト教のそれをも試みてみて、一再ならず皇帝が改宗しそうだと確信していたローマ・カトリック教会の宣教者たちを苦しめ憤慨させた。

サファヴィ国家の力は、アッバース大王(在位一五八七一六二九年)のとき絶頂に達したが、宗教的革新の火は少なくとも宮廷内においては少なくとも宮廷内においてはそのころまでに衰えていた。オスマン側の恐れもこれに応じて少なくなり、一六三八年には、スルタンの政府は、かつての敵と継続的な休戦協定を結んだ。実際、宗教的な緊張はひじょうに緩和されたので、一六五六年、改革された政府がコンスタンティノープルで力を掌握した以後、新たな首相となったムハンマド・クプリリは、隠れシーア派が、オスマン社会で再び自由に活動することを許しさえした。そのひとつの興味深い結果は、それまでの二百年来、はじめて異端の修道者の共同体が特に活動的になった、クレタ島、アルバニアおよびブルガリア南部において、キリスト教からイスラムへの改宗が再び大規模に行われるようになったことである。

知識の後退と芸術の進歩

イスラム内部のスンナ、シーア派の分裂の文化への反響は、政治、軍事的な結果と同じくらい大きかった。ペルシャの知は、その根源から枯れ果ててしまった。それは、従来のペルシャの知の基礎にあった神と人間の愛の間の微妙な曖昧さが、イスマーイールに従う厳格な信徒にとっては呪わしいものであったからである。おそらくもっと重要なのは、スンナ派の学者たちが、根本的な意味で、社会的責任を果たせなかったことであった。スンナ派イスラムの学者は、シーア派の挑戦を、それ自体のものとして――つまり真理であると主張する宗教上の教義として受けとらなかった。そうではなくて、彼らは世俗の武力に頼り、いたるところで、自分の競争者や批判者を力で抑圧した。そこで、後になってヨーロッパの思想や知識がイスラムの伝統的な学問の多くを疑問視したときに、オスマン帝国の知識階級は、これに応えて新しい諸観念を調査する立場にはなかった。こうした挑戦に対して、オスマン国家の警察力の影に隠れて身を守った神聖な立法の学者たちは、第二の挑戦に対しても、まともにとり組むことを拒んだ。たぶんキリスト教世界の新しい知と取り組もうとしている間に、イスラム社会内部の宗教的な攻撃に側面をさらすことを恐れたからであろう。それよりは、コーランをくりかえし唱え、神聖な立法に関する注釈を暗記し、その結果アラーの行為をたしかに自分のものにすることの方がずっといい、と彼らは感じたのである。イスラムの軍事力が、あらゆる侵入者と対等に戦えるほど強力である間は、そのように確固とした保守的態度や、反知性的態度は、もちろん有効であった。しかし、イスラム国家の力が、いたるところで新しく生まれてきた競争者たちに抵抗できないことがわかった一七〇〇年以後になって、はじめてイスラムがどんな代価を払ったかが明らかになったのである。

主として公の政策がもとで知的な無能力化が顕著になったが、このことは必ずしも芸術が衰退したことを意味しなかった。それどころか、イスラム世界で大きないくつもの帝国が成立したために、あらゆる種類の建築家や芸術家たちに対する充分な、比較的安定した保護が可能になったのである。例えばイスファハーンがアッバース大王の命により、庭園都市として建設された。これは、世界中でも最も印象的な建築と都市計画の大記念碑のひとつである。それに比べると小さくはあるが、それでもなおたいへん規模の大きいインドのタージ・マハルが、ムガール皇帝の趣味に合わせて、一六三二年と五三年の間に建てられた。同様に、ペルシャ美術も、十七世紀に入って開花しつづけた。インドでは、画家たちがペルシャの技巧を用いてヒンズー教の宗教的な主題を描いたときに、新しい発展がおこった。そのような絵画は、“ラージプート族〟の地主階級に訴えた。彼らは、ペルシャ風の文化をもち、ムガール帝国に仕えていたにもかかわらず、先祖伝来のヒンズー教の信仰を捨ててはいなかったのである。

 とても変な本 右から左ではなく 左から右の本 『教養 読書 図書館』表紙が右側にきている 通常 表に来る図書館のラベルが右に貼られている ちなみに ナチの焚書の写真
 クルアーンは女性の章をvFlat化
 今週の22日にせーらのブログが消滅します 遡って読むと 結末の分かってる小説を読んでいる感じ 結末は終わりではなくまだ続く またいつか 続きを聞かせてください #早川聖来
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ヘレニズム文明の伸展

 『世界史』上 ウィリアム·H·マクニール

ヘレニズム文明の伸展 紀元前五〇〇―後二〇〇年

すでに見たことだが、ギリシャ文明のさまざまな成果は商人によって、地中海世界では未開の奥地と言えるスキティア、北イタリア、ガリアなどに伝えられ、そこの蛮族の族長たちの注意をひいた。エーゲ海の中心部に比較的近い位置にあったため、マケドニア王国はほかよりもいくぶん濃くギリシャ的生活様式に染まったが、これはギリシャ文明の中心地を征服する序幕となった。この間の事情はきわめて示唆的である。というのは、マケドニアのような周辺国家で、あるひとつの文明世界のすぐ外側に位するという地理的立場を利用して、領土を外に向かって拡げ、軍事力を増強し、さらに文明世界の効果的なやり方をとり入れてその力を組織したときには、もとの文明の中心地により近い所にいる力の劣った競争相手の国々を征服する能力を備えるという例は、ほかにもしばしば見られるからである。

マケドニアの制覇

マケドニアの代々の王は、自分の宮廷をギリシャ風を勉強する学校にした。例えばエウリピデスなどもマケドニアの王宮に賓客として迎えられてしばらく滞在したことがあるし、アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師だった。マケドニアの代々の王がギリシャ文明に対して心からの敬意を抱いていたことはまちがいない。だが、ギリシャ化の政策にはほかに利点があったのも事実である。マケドニアの貴族の若者たちは宮廷に参内すると、まもなく自然にギリシャ風の趣味に染まる。ところが、宮廷にとどまって国王に仕えながらでなければ、この好ましい生活を送ることはできないのだ。というのは、マケドニアの田舎に住んでいるのは自由で頑強な農民で、主人は彼らを戦争に引っぱり出すことはできても、重税を課することは不可能である。そこで奥地に住む貴族は、例えばギリシャから品物が輸入されて個人に分売されるといった場合にも、それを買うだけの現金収入の途を閉ざされている。ところが王家は鉱山や征服した海に近い諸都市からの収入があって、文明開化の生活を営むのに必要な贅沢品を輸入することが可能で、功労ある部下にそれを分けてやることもできた。このようにしてマケドニア代々の王は、忠実で従順な、しかし誇り高く自由の気概に満ちた軍の士官と宮廷役人の一隊を作り出したのである。

これら王直属の士官たちが、マケドニアの農民にギリシャ式の重装歩兵隊の戦術を教えるようになったとき、彼らはすぐに一個のきわめて有能な軍隊を作り上げた。マケドニア兵は数において優れ不屈不撓であった。また彼らは、以前から自分らの上官に忠義を尽くす習慣を持っていたが、この上官たちも、今やはじめて王に従う気になり、以前マケドニアの地方貴族たちを手に負えない存在としていた内輪の争いをやめることにしたのである。マケドニア王フィリッポス(在位前三五九一三三六年)はこの新しい勢力関係を充分に活用した最初の王だった。彼はイリリア、トラキアなど未開の近隣諸地方を征服し、それからギリシャに向かった。彼はいたるところで勝利をおさめたが、それは後に、彼の子アレクサンドロス(在位前三三三六十三三年)を将に仰ぐマケドニア軍にもたらされた、赫々たる戦果の前触れと言えた。

アレクサンドロスの戦歴に伴い、ヘレニズムは東方に及んだ。彼の軍隊は前三三四年にペルシャに向かって進軍し、いたるところで意識的にギリシャ風を押し広めた。前三三三〇年最後のペルシャ王ダレイオス三世が部下の手にかかって死んだとき、アレクサンドロスは殺されたペルシャ王の正統な後継者で復讐者であると自称した。とはいえ、それ以後も彼はギリシャ的模範にあくまで忠実に、都市の建設者としての役をまもり、またギリシャ的英雄像の体現者になろうとした。すなわち彼は、全世界を征服しようとしたのである。だが、彼の軍隊は、ペルシャ帝国の東の果てまで平定しインド北東部に攻め入ったあと、疲れ果ててガンジス流域に進軍することを拒んだので、アレクサンドロスはひどく失望した。彼はインダス河を河口まで下りそこから陸路バビロンまで進軍する困難な旅をつづけて帰還したが、そのあとこの常勝のマケドニア王は突然熱病にかかって死んだ(前三二三年)。

軍隊を率いて大事業に乗り出してから十二年足らずの後に彼を襲ったこの予期せざる死は、彼の部下の将軍たちの争いの発火点となった。正統な後継ぎとして彼の死後に生まれた息子は、その最初の犠牲者のひとりだった。半世紀近くつづいた戦争状態のあとでやっと、どうにか安定した三つの王国が出現した。いずれも王はマケドニア将軍の後裔で、エジプトのプトレマイオスの王国、アジアのセレウコスの王国、それにマケドニアのアンティゴノスの王国である。三者のなかでプトレマイオス王朝のエジプトがはじめのうちは最強だった。プトレマイオスは海上ではアンティゴノスとエーゲ海の覇を競い、陸上ではパレスティナとシリアの帰属をめぐってセレウコスと争った。

ギリシャの移民

プトレマイオスの帝国もセレウコスの帝国も、その基礎の多くの部分をギリシャ人の移民に頼っていた。何千というギリシャ人が大挙して故郷を離れ、異郷でなんらかの幸運を見出そうという希望を持ってアレクサンドロスの大遠征のあとについて来たのだった。そのある者は政府の行政官になり、ある者は軍隊に入り、またある者は特殊な軍事植民地で農民として定住した。だが大部分の者は都市の住民になり、役人や商業その他種々雑多な自由職についた。すなわち商人、医者、建築家、書記、徴税請負人、職業的運動家、俳優等々になったのである。

この大量の移民現象はギリシャの経済的な実力が低下したことの表れでもあり、その原因でもあった。アレクサンドロスの遠征のあった一世紀間に、各所で田野は荒れ果て村々はからになった。市民である農民はますます農地を放棄し、奴隷や外国人が彼らにとって代わった。だがある意味では、こうした変化はギリシャ社会を、中東では大むかしからつづいている型に合致させたに過ぎないとも言える。ギリシャ文化の開花期にしばらくの間支配的だった、農民と都市居住者の間の密接な連帯意識は消え去ったのだ。大部分が地主で田舎から年貢を取り立てている都市の上層階級と、粗野な小農の間には、深い、埋めることのできない断層が横たわっていた。また都市の貧民と、富裕な教育のある上層階級の間にも同じくらい大きな断層があった。そして後者がますます、経済的、政治的な舞台の支配者になっていったのである。

このような社会の分極化は、中東ではずっと前からあたりまえのことだった。これは実に文明の代償だったのだ。なぜならば、生産手段や輸送手段が技術的に限られている時代には、もしある人々が、高い文化を身につけ、それをさらに高めるために暇な時間を持つべきであるとするならば、ほかのある人々は自由な時間なぞ全然ないことが絶対に必要だからである。古典時代自体、実はこの宿命を免れなかった。アテナイはその偉大だった時代には、エーゲ海、黒海沿岸のあらゆる弱少都市に対して、一個の略奪者だった。自分たちの利益をこのようにして獲得するために、アテナイの市民はみな力を合わせて働いた。そして富と閑暇を、個人的な消費よりもむしろ公の華やかな事業に費やした。だが集団的な搾取行為も、巨視的に見れば一個の地主が小作人を圧迫するのと苛酷さにおいて大差ない。そしてまた、従僕や家来や教師、それに職業的にさまざまなサービスをする連中を周囲にしたがえた教養ある地主たちの一団が、平等な市民の構成する帝国主義的な一都市と比べて、かならずしも、非人間的だとか非文化的だとか言うこともできない。その平等性の基盤は、貢賦金だとか、略奪だとか、従属国に正義の法を施行してやると称して得られる儲けなどから、滔々として入ってくる金によるところが大きいからである。

ギリシャの高い文化が、小作料と政府支給の給料に収入の基礎を持つ都会の上層階級のものとなるにつれ、ギリシャ文化は以前に比べてはるかに輸出しやすくなった。アテナイとかスパルタのような都市が出現するためには、もろもろの事情がよほどうまく噛みあわなければならない。ところが、今ではどんな地主でも、充分な現金収入さえあれば、ギリシャ的な教育を受け、ギリシャ流儀を学び、彼の住んでいる町の社会構造を改めるという点だけは別として、あらゆる意味で一個のギリシャ人になることができた。

それ故、ギリシャ人が中東にどんどん入っていったとき、ギリシャ文明は、本国でますます顕著になっていくこうした都会的、上流階級的な性格のために、各地の社会を支配してきた地主その他資産家階級の間に広がってゆくのが余程たやすくなったのである。ギリシャ的生活様式は、裸体でする競技や踊り子から哲学や詩まで含めて、こういう人々に強く訴えた。ギリシ人はだいたいいつでも、こうした新参者がしかるべきギリシャ的教育を受けギリシャの風習を身につけさえすれば、喜んで自分たちの仲間に迎え入れた。あまり豊かでない人々も、ギリシャ語を修得するのが便利でもあり必要でもあると気付いたから、ギリシャ語は、アレクサンドロスの勝利から二、三世紀の間に、アラム語をその地位から追い払って、全東地中海世界で支配的な言語となった。

宗教上の諸変化

最初のうちはすべてが一方交通であるように思われた。中東の人々はギリシャ人から芸術と風習を取り入れたが、征服者の方では、被統治者の生活の中に感心したり模倣したりすべきものはなにも見出さなかった。けれどもすぐに文化的貸借関係はふたつの道をとりはじめたのである。特に町に住む低い階層の人々は、中東のいろいろな宗教が与えてくれるこの世界についての説明が、従来の伝統的なギリシャの宗教から彼らが引き出し得たものに比べて、はるかに満足すべきものであることに気が付いた。もはやオリュンポスの神々をまじめに受けとる者はいなくなった。オリュンポスの神々への崇拝は公の祭典や都市的規模での行事とわかち難く結びついていた。ところが、地中海世界の大都会に住む貧しい者、つつましく暮す者は、自分たちひとりひとりが苦しんでいる時に慰めてくれ、より良き未来、よしそれがこの人生ではなく次の世のことであるにせよ、未来への希望を与えてくれるような宗教を必要としていたのである。

教育ある紳士たちはまださまざまな哲学者の立てた精緻な学説の方を好んだ。これらの哲学は、細部においては重要なちがいはあるにしても、すべて、良き智恵とは、人に極端さを避けることを教え、過大な事柄に心を向けないことをすすめるものである、心を外に向ければ外的なものへの執着が生じて、自分自身の不動心と自制力が乱されるからだ、とする点では一致していた。公の事柄がはるか彼方にいる君主と悪質な従臣の手にあるような時代には、人生に本当に重大な危機が訪れないかぎり、このような教えは、私的な生を生きるためにすぐれた意味をもっていた。しかし災厄がやって来た時――その災厄とは、東地中海世界のヘレニズム的紳士たちにとっては、荒々しいローマの兵士と役人が彼らの花園を踏み躙り、彼らに、払いきれぬほどの重税と賄賂と身代金を強要した時を意味するが、哲学の慰めはにわかによそよそしく冷淡な、何の役にもたたないものとなった。こうした事情のもとでは、上流階級の人々も、もっと個人的で心の琴線に触れるような信仰への欲求を感じはじめたのである。

いくつかの宗教がギリシャ的要素と中東的要素を結合してこの要求に応えた。そのころはまだ力に溢れ情熱的な確信に満ちていたユダヤ教に惹かれたギリシャ人も少しはいた。けれども、敬虔なユダヤ人がギリシャ的風習のあるものに感じた嫌悪の情のため-特に競技場での裸体などはユダヤ人の神経を逆なでするものだった――、ふたつの文化の間に妥協点を見出すのは困難であった。ほかの、例えばミトラ神信仰とかセラピス神信仰などはもっと融通性に富んでいたから、中東的なものの考え方や祭式とギリシャ的なそれとの結婚をもたらした。だから、世界を有神論的に解釈しようとする全体的傾向は、ローマの征服によって東地中海世界の政治的秩序が根底から覆ってしまう以前から、ギリシャ人の間に見られていたのである。

209『世界の歴史④』

オリエント世界の発展

アレクサンドロスの登場

遠征の起源

ギリシア人の都市国家の市民たちは、地中海各地で植民都市を建設して以来、内陸部の異民族と接触を持つに至った。そのうちに、ペルシア帝国の王ダレイオス一世(在位前五二二~四八六年)は、紀元前四九六~四九四年の間に、アナトリア西岸でイオニアのギリシア人植民都市の叛乱に直面していた。ギリシア人たちは、ペルシア帝国の成立によってエジプトの市場と黒海沿岸部の取引先を奪われたので、とりわけミレトスのような商業都市の場合、経済的損失が大きく、それがペルシアの支配に対する不満の念を呼び起こしたのである。ミレトスの叛乱は前四九四年に鎮圧された。

しかし、ダレイオスはアテナイやエレトリアが派遣した援軍とイオニアのギリシア人によるサルディスの掠奪に怒り、紀元前四九二年から翌年にかけてトラキアの海岸部とタソス島を占領した。さらに、前四九〇年にはペルシア軍は海路エーゲ海を渡り、マラトンに上陸した。次の戦いは前四八五~四七九年に起こった。ギリシア側はコリントに反ペルシアの諸都市が集まり、同盟を結んで対抗したが、テルモピュライの戦いで敗れ、アテナイも占領された。しかし、前四八〇年のサラミス沖の海戦から翌年のセストスの戦いまででペルシア軍は撃退された。これ以後、ギリシア側には報復を狙う勢力が常に存在した。その代表の一人は弁論家のイソクラテスであり、前三八〇年ころ、ギリシア諸都市の大同団結、イオニアなど海岸の植民都市の独立、そしてアナトリアの解放を主張した。

このように、かつてのペルシアの侵入に対する報復という動機は消え失せることがなかったが、やがて異なった社会体制下にあった北方の好戦的ギリシア人であるマケドニア人の征服欲のおかげで、それが実現することになった。カイロネイアの戦いで反マケドニア勢力の抵抗を粉砕したフィリッポス二世は、その年(前三三八年)に結成された新コリント同盟の会議によって、ギリシアに対する支配権を認められ、同時にペルシアに対する報復の宣戦決議を勝ちとった。その際、ギリシア人の多くはタウロス山脈に至るまでのアナトリアに新しい植民を送ること、紀元前三八六年の講和条約以来ペルシア人の支配下に置かれてきた諸都市を解放することだけを望んでいた。

それから三年間はペルシア遠征の準備に費やされたが、紀元前三三六年にはフィリッポスが謎の暗殺事件の犠牲者となり、その子アレクサンドロス(アレクサンダー)が二十歳で王位についた。

彼はホメロスの叙事詩に出てくるような英雄になって、アキレスのような事業を成し遂げたいと思っていた。彼の優れた素質は幼少の時から明らかで周囲からも大成を期待されていた。この若者の性格はロマンチックであったが、体質はむしろひ弱で、空想が果てしなく広がる傾向もあった。父からは組織力、軍事的才能を、師アリステレスからは釣り合いの取れた知識を受け継いでいた。他方、ペルシア帝国は紀元前五世紀の末になると明らかに衰退し、最後の王ダレイオス三世(在位前三三六~三三〇年)はアレクサンドロスとはまったく比べものにならない人物であった。

アナトリアへの侵入

すでにフィリッポス王は生前に将軍パルメニオンを使って、アナトリアに予備的侵入を実施していた。アレクサンドロス自身は紀元前三三四年春にダーダネルズ海峡を渡ったが、コリント会議の決議が大義名分であったとはいえ、彼の狙いはそのような小さなものではなかった。そのことは、彼が地中海アジアを征服していくにつれて次第にはっきりしていった。

彼の最初の兵力は一説によれば、歩兵三万と騎兵四○○○といい、他の説によれば、歩兵四万三〇〇〇と騎兵五〇〇〇といわれているが、その中核は「仲間」と呼ばれたマケドニア貴族の重装騎兵と長槍を持った密集歩兵部隊であった。彼はまずトロイに行き、アテナ女神に供犠を行い、ホメロスの英雄たちの霊に酒を注いだ。トロイ攻囲戦中に死んだアキレスの墓標には油を塗り、慣習に従い、自分も裸になって仲間と競走してからそこに花環を掛け、アキレスは生前には真実の友人(パトロクロス)を持ち、死後には偉大な報告者(ホメロス)を得たことは幸福であったと述べた。

ペルシア軍との最初の対決はトロイの近くを流れ、マルモラ海に流れ込んでいたグラニコス川の河畔で行われた。ペルシア王自身は来ていなかったが、彼の将軍たちが領内諸地方から寄せ集めた大軍、とりわけメムノンの率いるギリシア人傭兵隊が渡河地点に陣を布いていた。ここでの決戦を避け、退却すべきであるというメムノンの意見は通らなかった。川の流れは深く、対岸には高低があり、多くの者が恐れを抱いたが、アレクサンドロスは騎兵部隊を率いて水に飛び込み、対岸に達するや白兵戦となった。ペルシア側で最後まで残ったのは、ギリシア人の傭兵隊であった。この戦いによるペルシア側の死者は歩兵二万と騎兵二五〇◯といわれ、アレクサンドロスの側の死者は合計三四人であった。

その後、アレクサンドロスはアナトリア西岸を南下し、サルディスとエフェソスをペルシアの守備隊から解放した。また、マグネシアやトラレスは降伏した。総督たちの拠点となっていた内陸部の町々や抵抗したミレトスやハリカルナッソスは包囲され、降伏した。これらの諸都市については自治を認める旨、宣言されたが、コリント同盟に貢税することになった。

アレクサンドロスはさらに内陸に向かい、パンフィリア、ピシディア、フリュギアを征服し、アンカラに至った。かつてのフリュギアの首都ゴルディオンでは、灌木の硬い皮で縛った車を見た。現地の人々の伝えるところでは、この結び目を解く者には全世界の王になる運命が定められているということであった。王はそれを解こうと努力したが失敗し、剣で一刀両断した。この物語は彼の世界支配への野心を暗示している。そのころ、強敵メムノンが死んだという情報が伝わった。それを聞いて勢いづいたアレクサンドロスはパフラゴニアやカッパドキアを平定し、アナトリアの征服を完了してから南下し、キリキアの関門を越えて、地中海岸に達した。

イッソスの戦い

紀元前三三三年十一月にはキリキアの南部、シリアに近い海岸にあるイッソスで二つ目の会戦が起こった。そのころまでに、ダレイオス三世は約六〇万の軍勢を率いてスサを出てシリアに向かった。この間、アレクサンドロスはタルソスの近くの川で水浴した際に病気にかかり、休養をとっていた。ダレイオスは驚くべき分量の物資、家財道具類をダマスカスに残し、キリキアから南下し、他方アレクサンドロスはいったんシリアに入り、そこから北上し、互いに自軍に有利な場所を求めて動くうち、イッソスの隘路で対戦が起こった。この時は両王は直接対決して討ち合い、アレクサンドロスは腿を短剣で傷つけられたと伝えられる。しかし、地形は少数精鋭の機動力を誇るギリシア側に有利であり、ペルシア軍は一一万人を失い、ダレイオス自身は乗っていた戦車と弓を棄てて逃亡した。

現場に残されたペルシア軍の陣営、とりわけダレイオスの天幕には、ギリシア人の目から見ると信じがたい量の財物が放棄されていた。また、ペルシア王の母、妃、娘二人も捕虜となった。後になって、ダマスカスに送られた将軍パルメニオンとテッサリアの騎兵部隊はそこでも大きな利益を得た。実は、この都市にはギリシアの各都市国家の代表が秘密裡に先まわりして入り込み、この段階で戦争を終結させようとしているのが発見された。

他方、逃亡したペルシア王は、しばらくすると使者を三度にわたってアレクサンドロスのもとに送り、捕虜となっている身内の女たちの返還を求め、またユーフラテス川以西の帝国領土の割譲を申し出た。そして、友好条約を結び、同盟者になろうとも提案した。アレクサンドロスはこれに応えて、それまでのペルシアのギリシアに対する仕打ちがもとになって、自分が総司令官としてペルシアを罰するためにやって来たが、投降すれば罰しないし、何でも返還する。しかし、これ以上戦うならば、どこまでも追いかけるであろう、と述べた。要するに、ダレイオスの窮余の提案は拒否され、アレクサンドロスの狙いはペルシアの王位であり、ペルシア帝国全体の征服であることが明らかにされたのである。

とはいえ、彼は当面はペルシア王をすぐに追うことをせず、ペルシアの地中海への出口であったシリア・パレスティナとそこで活動していたフェニキア艦隊を押さえ込むために、海岸線を南下した。フェニキア諸都市の王は早速やって来て降伏し、その中にはビュブロスとシドンも含まれていた。シリア・パレスティナの内陸部は、後になってパルメニオンが征服した。

フェニキアからエジプトへ

ティルスの包囲

ティルスは出島を中心としたフェニキア第一の古都であり、ソロモンの誇り高い交易相手であり、ペルシアへの海軍の提供者でもあった。アレクサンドロスに対しては徹底抗戦の構えを取り、紀元前三三二年の一月から七月までの七ヵ月間の包囲に耐えた。ギリシア軍は本土から出島に向かって盛り土による通路を海中に設置し、攻城具で城壁を攻めたてた。また、海からは二〇〇艘の三層櫂船を使って攻撃した。夏になって、アレクサンドロスはそれまで多くの戦いをさせてきた軍隊の大部分を休息させて、敵には休息を与えないために少数の兵士を城壁に向かわせていたが、予言者の言葉に基づいて、突然合図のラッパを鳴らし、大部分の兵士を動員して攻撃をかけたので、ティルスの人々は戦意を喪失して、市は陥落した。この時、八〇〇〇人の市民が死に、三万人が奴隷として売られた。

ティルス攻囲戦の直接の原因となった事情は、実は軍事的なものではなかった。アレクサンドロスがティルスに向かって進軍した時、この市の使節に対し、彼は市の首神メルカルトに供犠を捧げたいと申し出た。ところが、使節はそれを拒否したので、平和のうちに事が運ばなかったのである。アレクサンドロスがこのような申し出をしたのは、メルカルトがかつてはヘブライ人の間にも広がった有力な神であったというよりも、少なくとも紀元前十世紀中葉以来知られた有名な神として、ギリシア人の間ではヘラクレスと同一視された英雄神であったからである。アレクサンドロスの父方の祖先はこの英雄神とされており、彼はそのためことさらに、この神に供犠をすることを望んだのである。しかし、ティルスの使節の拒否に遭い、いたくプライドを傷つけられたにちがいない。

史家アリアノスによれば、市が陥落した時「メルカルト神殿に逃げた者たちの中には、身分のあるティルス人たち、王アゼミルコス、また昔からの習慣に従って、ヘラクレスに祈りを捧げるためにこの母市に来ていた若干のカルタゴ人がいたが、アレクサンドロスはこれらすべての人々に全面的赦免を与えた。・・・・・彼はメルカルトに供犠を捧げ、この神を讃えるために全軍に武装させ、行進させた。また、この神を讃えて観艦式も行った。アクサンドロスは神殿境内で競技会や松明リレーを開催した。彼はさらに、メルカルトに捧げられたティルスの聖なる船を神殿に奉納した」。軍隊の観閲式やスポ―ツの祭典は、英雄神の崇拝にふさわしいものであった。ではなぜ、アレクサンドロスはメルカルト神殿に逃げ込んだ人々を許したのであろうか。

それはこの神の崇拝には、緊急事態、とりわけ生命の危険に直面した人々に無条件で保護を与えるアジール(不可侵の避難所)の制度が含まれていたためなのである。この制度は日本の駆込寺のそれに似て、洋の東西を問わず存在しているが、地中海アジアのアジール制度を代表するものは、メルカルトのものである。この神には人類を救済する英雄としての神話が伝えられている。それによると、彼はフェニキア人の神々の歴史において、第五代目の神であり、生誕時には将来の英雄にふさわしく捨子伝説の主人公であった。長ずるに及んでギリシアの英雄神ヘラクレスと同じく数々の功業を成し遂げるが、その中心テーマは人類の救済であった。このようなメルカルト崇拝はアレクサンドロスの時代には、フェニキアはもとより、地中海域や地中海アジア全域に広まっていた。

アレクサンドロスはこのような神話とアジールの特権を認めた上、自らメルカルト神の祭司として行動し、進んでティルス人の反抗の罪を許した。ここには、彼の宗教的権威の増大と現地人の制度の踏襲へと向かう傾向が見られ、これはやがてペルシア帝国の継承に連なるのである。

ガザからエジプトへ

アレクサンドロスに抵抗したもう一つの都市がパレスティナの南部海岸にあった。それはガザである。ギリシア軍がこの市を攻城具を使って攻めていると、一羽の鳥が飛来して土の塊を落とすという出来事が起こったが、それがアレクサンドロスの肩に当たって負傷した。予言者によってこれは吉兆とされ、ガザは二ヵ月の包囲の後に陥落した。アレクサンドロスがガザを重視した理由は、ティルスと同じではなかった。当時、アラビア北部かパレスティナ南部ではアラブ系の民族ナバテア人の香料貿易が開始されており、ガザ市民はそのルートの地中海岸の終点として豊かな生活を営んでいた。ギリシア軍が狙ったのは、そこの香木や没薬草の大量ストックであった。アレクサンドロスはそれらを没収し、故国の母オリュンピアスや妹に送っている。

アレクサンドロスはそのまま南下してエジプトの首都メンフィスに入城した。彼はエジプト人たちからペルシアの支配からの解放者として歓迎された。紀元前三二二年から翌年にかけてのエジプト滞在中に、アレクサンドロスはナイル川のはるか西方、シワのオアシスにあったアンモン神の神託をうかがうために、軍勢を引き連れて長い旅に出た。アンモンはギリシア人によってゼウスとされており、ペルセウスやヘラクレスのような英雄たちの父であったことが、アレクサンドロスの興味を引き、自分の生い立ちやこれまでの経験の意味について神慮を聞きたいと思ったのである。

彼の一行はまずリビアの海岸を西進し、その後内陸部を南下し、水不足と砂嵐の中を何間もの旅の果てに聖地にたどりつくことができた。途中何度か道に迷ったが、蛇と烏とが導いたといわれている。アンモンの神域は円形の廃墟をなし、ほぼ七キロメートル四方あり、オリーブや棕櫚などが茂っていた。アレクサンドロスは自分の質問に対して、神託から望み通りの答えを得てメンフィスに帰ったとされる。

その内容は第一に、父王フィリッポスの謎の暗殺事件をめぐるもので、下手人はすでに復讐を受けたとの答えがあり、アレクサンドロスはそれに満足した。第二に、自分がこれから征服を進め、人間全体の主権者となれるかという質問をしたところ、それは許されるとの答えを得た。彼はまた、エジプト人の神学者から、自分は神の子としてアジアの王となると告げられたらしい。これらの物語は最古の文明の地でのアレクサンドロスの精神的関心事を暗示している。

他方、彼は自分の名をつけた、人口の大きなギリシア風の都市を建設して残そうと思い立ち、ナイル川デルタ地帯の最も西側の分流カノボスの河口とその近くのファロス島を選び、建築家を使って、測量や市街の区画を試みた。彼は地面に描かれた未来の都市のプランを見て非常に喜び、人々に工事の着工を命じた。これが後にアレクサンドリアと呼ばれることになった大都市の起源であり、これ以後、全アジアに碁盤目状の道路網を持つギリシア風の都市、すなわちヘレニズム都市が次々に建設されることになった。一説によれば、この時アレクサンドロス自身が定めたのは、アゴラ(市場)、ギリシアやエジプトの神々、例えばイシス女神の神殿、城壁などの位置だけであったという。

その後のアレクサンドロス

アレクサンドロスは紀元前三三二一年のはじめにフェニキアに戻り、神々に供犠を行い、再び行列や詩と悲劇の競技会を盛大に催した。そして、ユーフラテス川以西の地方を全部自分の領土とした後、同年六月に一〇〇万の軍勢を率いるダレイオスに向かって進んで行った。結果は、インドまでの征服であった。彼は前三二三年六月、三十二歳の時にバビロンで病死した。彼が自分の作った帝国のその後について、どのような将来像を持っていたかは明らかでないが、地中海アジアについていえば、フェニキアやキリキアの各地に港や造船所を設け、三層櫂船より大きな軍艦一〇〇〇艘を建造し、地中海域各地に遠征しようとしたとか、地中海世界とアジアに多くの都市を設立し、そこで東と西の人種を混血させるとか、トロイにはアテナ女神の大神殿を建立しようとしたと伝えられている。

アレクサンドロスの死後、将軍たちはお互いに後継者としての権利を主張したが、それは結局実力による王座争いを招き、帝国の分裂は決定的となった。まず、バビロンで王の代務者となったペルディッカスを中心にした会議が開かれ、エジプト、シリア、アナトリア各地の統治分担が決められた。その後紀元前三二一年には、ペルディッカスの暗殺を受けて、アンティパトロスが中心となってシリアのオロンテス川上流のトリパラデイソスで、領土分割の協定が結ばれた。その結果、エジプトはプトレマイオスに、アナトリアはアンティゴノスに、バビロニアはセレウコスに割り当てられた。

次の数十年の間は、将軍たちの野心に彩られた混乱の時代であった。まず、隻眼の老将軍アンティゴノスのとどまることを知らない勢力拡大の動きが反対同盟を結成させたが、紀元前三〇六年と次の年にはそれも決定的に放棄され、後継者たちのそれぞれが自ら王と称することになった。

紀元前三〇一年に、アンティゴノスがフリュギアのイプソスの戦いで敗れて死ぬと、さらに二〇年以上にもわたって、息子のデメトリオス、老将軍リュシマコスの時代になったが、彼らもまた敗死した。こうして、セレウコスの時代が来た。彼はイプソスの戦いの勝利者側の中心人物として、メソポタミア、シリア、アルメニアを獲得していた。彼はさらにアナトリアやトラキアをも領有し、母国マケドニアを目指したが、前二八〇年に暗殺された。これによって後継者と呼ばれたアレクサンドロスの武将たちのすべてが世を去った。エジプトを支配したプトレマイオス一世は、すでに前二八三年に病死している。

注目すべき点は、彼らの数十年にわたる闘争はマケドニア人同士の権力争いであり、オリエントの原住民はほとんどそれに参加しなかったことである。それは賢明なことでもあったが、アレクサンドロスが目指した、ギリシア人とオリエント人の文明の融合という理想は完全に忘れ去られていた。しかし、政局が落ち着くとギリシア人がもたらした文明、すなわちヘレニズムはアレクサンドロスに征服された人々に次第に受け入れられたのである。

 豊田市図書館の7冊
010.23マツ『教養・読書・図書館 ヴァイマル・ナチス期ドイツの教養理念と民衆図書館』
167.3ミズ『クルアーン やさしい和訳』
134.97クロ『ウィトゲンシュタインと「独我論」』
141.5グレ『問いこそが答えだ!』正しく問う力が仕事と人生の視界を開く
259.3ハマ『ハイチ革命の世界史』奴隷たちがきりひらいた近代
230.7ケル『分断と統合への試練 ヨーロッパ史1950-2017』
230.5ヴイ『孤独の歴史』
 奥さんへの買い物依頼
豚小間切れ   147
アップルパイ  100
ポテサラ       100

 品番はクルアーン化しよう読み上げた時の心地よさ
 真夜中の予約
 来る日も来る日もクルアーン
 夢の中でずっと作業してた 品番のクルアーンつくり 病院経由でバスで豊田市 スタバに着きました
 目次 構成 品番をアップする方法が見つかりました vFlatは有用ですは
 せーらは卒業以来一切 表に出てきませんまゆたんとかかっきーがせーらの写真集を見て喜ぶ動画もアップされてきません みなみちゃんを思い出す 今頃マチュピチュあたりを彷徨しているかもしれません #早川聖来
それにしても今月はお金がない せーらの写真集2冊で5000円弱使ったけど 生活費支給までの10日間でショート ついに 奥さんに1万円借りてしまった

 豊田市図書館の7冊
010.23『教養・読書・図書館』ヴァイマル・ナチス期ドイツの教養理念と民衆図書館
167.3『クルアーン』やさしい和訳
134.97『ウィトゲンシュタインと「独我論」』
141.5『問いこそが答えだ!』正しく問う力が仕事と人生の視界を開く
259.3『ハイチ革命の世界史』奴隷たちがきりひらいた近代
230.7『分断と統合への試練』ヨーロッパ史1950-2017
230.5『孤独の歴史』
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『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

下から見たロスアラモス

「下から見たロスアラモス」とは文字通り下っ端の目で見たロスアラモスという意味だ。なるほど今では僕もこの分野で少しは名を知られるようになったが、あの頃はまだペイペイの駆け出しで、マンハッタン計画の仕事を始めた頃は、まだ博士号さえ持っていなかった。ロスアラモスの想い出話をする人達は、ほとんど高い地位にあって重大な決断を下さなくてはならない立場で苦悩した人々だが、下っ端だった僕はそんな重大責任を負わされることもなく、いつも下の方でフワフワとび歩いていたのだ。

一九七五年カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校で行われた「科学と社会」サンタバーバラ年次講演シリーズ第一回からとったもの。「下から見たロスアラモス」は、Lバダッシュ他編『ロスアラモスの思い出。一九四三年~一九四五年』として出版された九回にわたる講演シリ―ズのうちの一篇である。版権所有者は一九八〇年、オランダ、ドルドレヒト市、D・ライデル出版社。

そもそもことはプリンストン大学院の研究室に始まる。ある日僕が部屋で仕事をしていると、ボブ・ウィルソンが入ってきた。実は極秘の仕事をする金が出たという。ほんとうは誰にも口外してはいけないのだが、内容さえ聞けば君だって即座に参加すべきだと思うはずだ。だからあえて説明する、と言うのだ。そしてウランのさまざまな同位体を分離して、ゆくゆくはそれで爆弾を作る計画をうちあけた。ウィルソンは、ウランの同位体の分離過程をすでに考えだしており(結局最終的に使ったのは、彼のとは異なる分離法だったが)、これを発展させたいという話をした。話しおえると彼は「それで実は会議があるんだが………」と言いかけた。

僕は彼に皆まで言わせず、そんな仕事はまっぴらだと断わった。すると彼は「まあいい。とにかく三時に会議をやるから、そこで会おう」と言う。

「君の機密は人にもらしやしないが、僕はそんな仕事はやりたくないね。」

ボブが出ていったあと僕はまた自分の論文にとりかかったが、ものの三分もしないうちにさっきの話が頭に浮かんできて、仕事が手につかなくなってしまった。僕は部屋の中を行ったり来たりしながら考えはじめた。ドイツにはヒットラーがいて、原子爆弾を開発するおそれは大いにある。しかも向うが僕らより先にそんな爆弾を作るという可能性は、考えただけで身の毛がよだつ。結局僕は三時の会議に出席することにした。そして四時をまわる頃には、早くも一部屋に据えられた僕用のデスクに向って、この同位体分離法が、イオンビームから得られる全電流量によって限定されることがあるかどうか、などの計算に熱中していた。計算内容の詳細はさておき、僕はその場でデスクと紙をもらい、その装置を作る連中がすぐさま実験にとりかかれるよう、できるだけ早く結果を出すため、計算に大わらわだったわけだ。

まるで映画のトリック撮影で見る機械が目の前でパッパッパッとみるみるできあがっていくようなもので、僕が目をあげるたびにこの計画は雪だるま式にふくれあがっていく。というのもみんながそれぞれの研究を中止して、この課題にとりくむことになったからだ。だから戦争中の科学的研究といえばこのロスアラモスで進められた研究以外は皆ストップしてしまったわけだが、ロスアラモスの研究にしたって、科学というよりむしろ工学といった方がよかった。

それまでさまざまな研究に使われていた装置は今や一ヵ所に集められ、ウランの同位体分離実験の新しい装置を作るために使われることになった。この共通目的のため僕も自分の研究をしばらくあきらめることになったわけだ。(もっともしばらくしてから六週間休暇をとって博士論文だけは書きおえたが…….。)結局ロスアラモスに行く直前、学位だけはもらったからそれほどの「下っ端」ではなかったのかもしれない。

プリンストンでのこの計画に参加してまず面白かったことは、いろいろな偉大な研究者に会えたことだろう。それまで僕はあまり大物に会う機会がなかった。マンハッタン計画が始まると、研究の進展を助け、ウランから同位体を分離する方法の最終的方針をうちだすに当って、僕たちに助言協力するため作られた評定委員会というものができた。この委員会にはコンプトン、トルマン、スミス、ユーリー、ラービ、オッペンハイマーという面々が顔を揃えていた。僕は同位体分離過程を理論的に理解している人間として、説明を求められたり質問を受けたりしたときのため、この委員会を傍聴することになっていた。

さてその会議では、誰か一人が意見を述べると、今度はちがう者(例えばコンプトン)がそれに対し異なる意向を説明する、という形で進行する。コンプトンが「これはこうあるべきだ。自分の言っていることは正しい」と言うとすると、また別な男が「うん、まあそうかもしれん。しかしそれに反するこのような可能性もあるぞ」などと言う。

こういう風にして卓を囲む連中が、てんでに一致しないような意見を述べたてる。聞いていて僕は、コンプトンがさっき言った自分の意見をもう一回繰り返して強調しないのが気になっている。ところが終りに議長のトルマンが「まあこうしてみんなの意見を聞いてみると、コンプトン君の意見が一番よさそうだから、この線でいこう」と言う。

この会議のメンバーは、皆それぞれ新しい事実を考えにいれて実にさまざまな意見を発表していながら、一方ではちゃんと他の連中の言ったことも覚えているのだ。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返してきかなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良い、と決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とは、こういう連中のことを言うのに違いない。

最終的には、ウラン分離にウィルソンの方法は使わないことが決まった。このときになって僕たちは、ニューメキシコ州のロスアラモスで実際に原爆を作る計画が始まるので、今までここでやっていたことは中止し、全員ロスアラモスに集まってさっそくこの仕事にとりかかるよう指令を受けた。その現場では実験と理論的研究と二本立てで進めていく必要がある。僕はその理論的研究の方に入り、他の連中はみんな実験にまわることになった。さてロスアラモスの準備がととのうまでの間、何をすべきかがまず当面の問題だ。ボブ・ウィルソンはこの間の時間をむだにしないため、いろいろなことを計画したが、その一環として僕をシカゴに出張させた。例の爆弾とこれにまつわる諸問題について、シカゴのグループから学べることは全部学んでくるのが目的だ。そうすればさっそく僕たちの実験室で、ロスアラモスで使う装置や計数器などを作り始められるから、時間のむだがはぶけることになる。

シカゴ行きにあたり、僕は次のような指令を受けた。まずグループの研究に協力するというふれこみで、各グループに出むいては、僕自身その場で実際に仕事が始められるくらい詳しく問題を説明してもらう。そうしてそこまでいったら、また別のグループに行って別の問題を聞いてくるように、というのである。そうすればどのグループの研究についても詳しく理解できるというわけだ。

これはなかなか良い考えに違いなかったが、僕はどうも気がとがめてしかたがない。何しろみんな一所懸命にその問題を説明してくれるというのに、僕はそれをさんざん聞いておいて「はいさようなら」とばかり逃げだすのだ。だが運よく向うを助けることもできて少しは気がすんだこともあった。たとえばグループの一人が問題を説明してくれているときに、僕が「それなら積分記号の中で微分してみてはどうですか?」と言ったところ、今まで三ヶ月もかかって苦闘していた問題が三〇分ぐらいであっさり解けてしまった。例によって僕の「毛色の違った道具」が役に立ったのだ。

こうしてシカゴから帰ってきた僕は、この同位体分離によって放出されるエネルギーの量や、その爆弾のしくみの予想などについて現状報告をすることができた。この報告のあと、友人の数学者、ポール・オーラムが来て、「今に見てろ、これがあとで映画にでもなるとしたら、きっとりゅうとした背広を着こんで皮カバンか何かをさげた学者がシカゴから帰ってきて、もったいぶってプリンストンの学者の面々を前に原爆の報告をする、てなことをやるんだろうが、君ときた日にゃこの重大な画期的大計画を語ろうというのに、よれよれのワイシャツ姿で威厳もへったくれもないんだからなあ」となげいた。

計画はまた何かの理由で遅れ遅れになっていた。そこでとうとうウィルソン自らいったい何でこう渋滞しているのか調べるため、ロスアラモスに乗りこんでいった。行ってみると現場では建築業者が懸命に働いており、もう講堂など彼らの作れる建物はすでにできあがっているのに、実験室がまだだった。実験に必要なガス管や水道管の数などがはっきしていなかったため作りようがなかったのだ。ウィルソンは、すぐさまその場でガス管何本、水道管何本と決めていき、さっそく実験室の建築にとりかかるよう指示して帰ってきた。

ウィルソンが戻ってくる頃には、僕らはもうすっかり準備をすませて待ちくたびれていた。そこでもう準備なんかできていなくてもいいから、とにかくみんなでロスアラモスにおしかけようということに衆議一決した。

僕たちはオッペンハイマーその他の連中に引き抜かれたことになるのだが、オッペンハイマーは実に忍耐強い人で、僕たち一人一人の個人的問題にも深い思いやりを示してくれた。彼は結核で寝ている僕の家内のことをたいへん心配してくれて、ロスアラモスの近くに病院があるかどうかまで気を使ってくれた。僕は彼にそのような個人的立場で会ったのははじめてだったが、その親切さは身にしみた。

僕たちは何をするにも細心の注意を払って行動するようにとの指示を受けていた。たとえばプリンストンのような小さいところで、大勢の人間がニューメキシコ州のアルバカーキ行きの切符でも買おうものなら、さては何かあるらしい、とたちまち疑われることは必定だ。だからみんな汽車の切符でさえプリンストンで買わず、別の駅で買ったくらいだった。ほかの連中がよそで買うのなら、一人くらいプリンストンで買っても大事あるまいと思った僕だけは例外だったが……..。

僕がプリンストンの駅に行って「ニューメキシコのアルバカーキまで」と言ったとたん、駅員に「ああ、それではあのたくさんの荷はあなた行きだったんですか!」と言われた。もう何週間というもの、僕たちは計数器のいっぱいつまった荷箱をどんどん送り出していたのだ。だからアルバカーキに行く僕という人間があることで、やっとたくさんの荷物が送られるかっこうの理由が見つかったわけだ。

さてアルバカーキに着いてみると、寮だの家だのというものはまだ全然用意ができておらず、実験室さえまだ完全にはできあがっていなかった。実はこうしてスケジュールより早くおしかけて、作業を急がせようという魂胆だったのだ。当局は大慌てでそこいら一帯の農場の家などを借り占めたので、僕たちはしばらくの間そういう農家に泊っては朝出勤するという生活をすることになった。はじめて車で出勤した朝のことは特に印象に残っている。東海岸からやってきて、あんまりドライブなどしたことのない僕は、その雄大な光景に息をのんだ。絵や写真で見たような巨大な崖がある。下からドライブして上がってくると、いきなり高いメサ(周りが急な崖になっているテーブル状の台地―訳注)が現われて目を驚かせる。一番びっくりしたのは車で登ってくる途中、僕が「このあたりは昔インディアンが住んでいたところかも知れないな」と言ったときのことだ。運転していた男はやおら車をとめると、ちょっと角をまわったところへさっさと歩いていって、古い時代にインディアンの住んでいた洞穴を見せてくれたのである。それは忘れることのできない感動的な経験だった。

 209『世界の歴史①』

人類の起原と古代オリエント

アッシリアとフリ人の勢力-前二千年紀前半の北メソポタミア

アッシリアの黎明期

アッシリアとは何か

アッシリアは前二〇〇〇年ごろ、ティグリス川中流河岸の都市アッシュル(ニネヴェの南約一〇〇キロメートル)から興り、前六一二年まで、およそ一四〇〇年にわたって北メソポタミアを中心領域として盛衰を繰り返した国である。アッシリアには有利な立地条件があった。まずアッシュルあたりから北では、灌漑をせずに雨水だけによる農業が可能になる(年間降雨量二〇〇ミリメートル以上)。またアッシリア中心部は、肥沃な三日月地帯の真ん中にあり、常に交易の中継地でもあった。

アッシリアの歴史は、古アッシリア時代(前二千年紀前半)、中期アッシリア時代(前二千年紀後半)、新アッシリア時代(前一千年紀前半)の三つにわけられる。それぞれに歴史的にも政治的にも特徴があるが、この三区分は主として言語の発展段階に即してなされている。メソポタミアを中心に使用されたアッカド語と総称されるセム系言語は時代と地域によって少しずつ文法と字形が異なる多くの「方言」をもっていた。アッカド王朝時代には古アッカド語が用いられ、その後、アッシリアでは古アッシリア語、中期アッシリア語、新アッシリア語と発展した。南のバビロニアでもほぼ同様に、古バビロニア語、中期バビロニア語、新バビロニア語と発展した。都市アッシュル(現代のカルアト・シルカト)の発掘は一九〇三年から一三年までドイツの調査隊によって行われた。しかしいつから都市アッシュルが存在したのか、そこにどのような人びとが住んでいたのかなどについては明らかになっていない。少なくともアッカド王朝時代には、その支配下に置かれたセム系民族がアッシュルに居住していたこと、またアッシュルには、当時から女神イシュタルの神殿があったことが知られている。

一九七五年にエブラで発見された文書から、アッカド王朝時代までには、セム系民族の文化がアッカドの地だけでなく、ユ―フラテス川中流域のマリ、ティグリス川中流域のアッシュルを経て、ある程度の同質性をもってシリアにまで広がっていたことが窺える。ただし今のところエプラ文書のなかにアッシュル市への言及は確認されていない。

アッシリアの一貫性

都市アッシュルの発掘では、古アッシリア時代の層にはほとんど手がつけられなかったため、アッシリア建国当時の事情はあまりわかっていない。しかしアッシリアは当初から独特の国であったに違いない。諸民族の抗争と国々の興亡が繰り返された古代オリエント世界の真ん中で、一四〇〇年も続く長寿国が存在したこと自体、驚嘆に値する。その秘密はおそらくアッシリアの「一貫性」にあるように思われる。

アッシリアはまず第一に歴史的一貫性をもっていた。アッシリア歴代の王の名を記した文書資料(アッシリア王名表)を再構成すると、第一代から第百十七代まで連続する王名を数えあげることができる。これは決してアッシリアでは王朝が交替しなかったということではない。王位簒奪者も少なくなかった。またアッシリアの王名表にはその時々の政治的意図をもった数度の編纂作業の痕跡が残されている。いずれにしてもアッシリア王たちは、王権が古くから続いてきていることを重視して、その伝統に連なろうとしたのであろ

第二の一貫性は、神アッシュルを頂点とする国家宗教に見られる。神アッシュルは常に神々の序列の最高位を占め、バビロニアその他の神々が入ってきても神アッシュルの下に位置づけられた。

第三の、そして最も重要と思われる「アッシュル」という名の一貫性がある。アッシュルの語源は不明であるが、都市名であり、地名であり、もちろん神名でもあった。原語ではどれも「アッシュル」であるが、それぞれ「市/町」(ウル)、「土地」(キ)、「神」(ディンギル)を表す表意文字を限定詞として付けて区別した。ただし限定詞は発音されない。歴史的にも地理的にも古代オリエント世界の中心に位置しながら、また波瀾に富んだ約一四〇〇年の間、一時的に他国から圧迫されても、常に中央集権的国家にもどり、強いアイデンティティをもち続けた。それは、アッシュルが元来、土地でもあり、神でもあることによると考えられる。この第三の一貫性から、第一と第二の一貫性も生じたといえる。

アッシリア前史

アッシュルから出土した最も初期の文書として、アッカド時代のイシュタル神殿で発見された石板碑文がある。そこには「イニン・ラバの息子である施政者イティティは、ガスルの戦利品からこれ(石板)をイシュタルに奉納した」と書かれている。この施政者(ワクルム)とされるイティティがアッカド王朝の支配下にあったのか、あるいは独立性の強い支配者だったのかはわからない。しかしアッシュルの東方一〇〇キロメートルに位置する都市ガスル(後のヌジ)に攻め込んで得た戦利品の一つを奉納した事実から判断すると、後者の可能性もある。

同じくイシュタル神殿から発見された鋼の槍先には「キシュの王マニシュトゥシュの僕であるアズズ」による奉納文が刻まれている。これによって少なくともアッカド王朝のマニシュトゥシュの治世には、アズズという人物がアッシュルの統治を委任されていたことがわかる。

ウル第三王朝時代の文書としては、アマル・スエン(前二〇四六~三八年)の支配下にあったアッシュルの代官ザリクムの奉納石板に刻まれたアッカド語碑文が知られている。「ウルの王であり、四界の王であり、強壮な男であるアマル・スエンの長寿を願って、彼の僕であるアッシュルの代官(シャカナクム)ザリクムが、彼自身の長寿をも願って、その女主人であるベーラト・エカリム(イシュタルのこと)の神殿を再建した」と記されている。

このザリクムの奉納文で特に注目したいことは、彼の肩書きのなかの「アッシュル」に、神を示す限定詞ディンギル(前置)と土地を示す限定詞キ(後置)の両方が付されて、「(ディンギル)アッシュル(キ)の代官」と記されていることである。これはすでにこの時代にアッシュルの土地が神格化されていたことを暗示している。

いくつかのシュメール語の文書では、ザリクムの肩書きは「アッシュル(キ)のエンシ」とされている。エンシは小都市国家施政者の称号であったが、この時代までには、広域を支配する王(ルガル)に任命されて一都市を治める者の職名となっていた。その意味でエンシはアッカド語のシャカナクムと同意であるが、表意文字としてのエンシは、アッカド語でイシアクムと読まれた。後にアッシリア王の称号となる「アッシュルの副王」のなかでも、エンシが前十四世紀半ばまで表意文字として残る。しかしその後は別の表意文字(シド)が使われるようになる。

神アッシュルとアッシリア

都市とその神が同名であることは、メソポタミアでは他に例がなく、不可解なことであった。神アッシュルは決してシュメール語風に「ニン・アッシュル」あるいはアッカド語風に「ベル・アッシュル」(アッシュルの主)と言われたことはないのである。

現在では、神アッシュルは都市アッシュルが神格化されたことによって生まれたとする学説が有力である。しかし厳密にいえば、神アッシュルは、都市アッシュルではなく、土地アッシュルの神格化であった。後に大帝国へと拡大するアッシリアは、神アッシュルの拡大でもあることになる。神アッシュルは元来系譜をもっていなかった。すなわちメソポタミアの他の古い神々のように配偶女神や子供たちとされる神々がいなかった。これもアッシュルが聖化された場所そのものであったためであろう。しかし後には神アッシュルの系譜が形成されていった。

シュメール人の時代から、都市はその主神(守護神)の所有物とされていた。ある都市の没落は、その守護神が守護を放棄して都市を離れることによって引き起こされると信じられていた。またバビロニアでも、首都バビロンの主神マルドゥクの像は、バビロンを陥落させた勝利者たちによって何度も略奪された。しかしアッシュルに関しては、神像略奪の記録はない。もっともアッシュル神像を造ったという確かな記録は後代になってからのものである。神アッシュルがアッシュルという土地と同一であるとすれば、神アッシュルはつれ去られることがない。いくら王朝が交替しようが、その場所がアッシュルである限り、アッシリア(アッシュル・キ)は続くのである。これがアッシリアが長寿を保った最大の根拠ではないだろうか。

古アッシリア時代

アッシリアの独立

古アッシリア時代についてのより多くの情報は、都市アッシュルよりも、中央アナトリアのカニシュのカールムⅡ層(前二十世紀中ごろから前十九世紀中ごろ。第三十三代エリシュム一世から第三十六代のプズル・アッシュル二世の時代にあたる)と、後のシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)とほぼ同時代に始まる1層から出土した文書によって得ることができる(二四七ページ参照)。文書の多くはアッシリア本国とアナトリアの間で交易に従事していたアッシリア商人の活動を示すものであるが、アッシリア史に関する重要な情報も含まれている。

アッシリアはウル第三王朝が滅亡したことによって、その支配から解放されて独立したと考えられるが、その実在した最初期の王の一人がツィルル(アッシリア王名表ではスリリと記され、第二十七代王とされる)であった。

ツィルルの名は、カニシュで出土した九つの文書(アッシュルからカニシュに送られた書簡)に押されたツィルルの印章の銘文に見られる。もっともこの印章を使用したのは、アシリア王ツィルルよりも一〇〇年ほど後のツィルル(ウクの息子)という同名の別人である。当時のアッシリアでは印章はしばしば再利用されたのである

その銘文は「アッシュル(キ)は王、ツィルルはアッシュル(キ)の副王(イシアクム)、アッシュル市の伝令であるダキキの息子、……」」と読める。ここで「アッシュル(キ)は王」と宣言されていることは注目に値する。これはもちろんアッカド王朝やウル第三王朝の支配を脱したことを示すが、それ以上に重要なことは、土地アッシュルが王であり、そこで政治を行う者は、土地アッシュルに任命された副王もしくは代官という考えである。ここでは王と副王を示す表意文字として、それぞれシュメール語のルガルとエンシが使われている。シュメールの政治機構のなかで用いられたルガルとエンシの称号を借りてきてはいるものの、アッシリアでは土地アッシュルを王と宣言していることに、今後のアッシリア史を貫く理念の萌芽を見てとることができる。

またこの銘文から、ツィルルの父親ダキキがアッシュル市(ウル・アッシュル・キ)の「伝令」という役職にあったことがわかる。ここでも土地アッシュル(アッシリア)とアッシュル市は区別されていた。都市名も地名であるのでしばしば限定詞キも付される。またダキキの名は王名表にはない。

第三十三代のエリシュム一世の治世になると、碑文もアッシリア王のものとしては初めて一七点という多数になる。これらの碑文では、称号「アッシュルの副王」のアッシュルには、限定詞が省略されたもの、限定詞ディンギル(神)が付されたもの、限定詞キ(土地)が付されたものの三様があり、一定していない。たとえばカニシュ出土のエリシュム一世の碑文では、「(ディンギル)アッシュルは王である。エリシュムはアッシュル(限定詞なし)の副王である」と書かれている。アッシュルの限定詞についてはこの時期が過渡期であり、これ以後は、神アッシュルも、王の称号のなかのアッシュル(本来「土地アッシュル」も、ディンギル付き、もしくは限定詞なしで書かれることが一般的になってゆく。第三十四代イクヌムを継いでその息子サルゴン一世が第三十五代アッシリア王となった。「サルゴン」はアッカド語では「シャル(ム)キン」であり、「確固たる王」という意味を持つ。だからといってこの名をもつ王が必ずしも王位簒奪者であるとは限らない。この名はいずれにしても即位名である。「サルゴン」と表記されるのは、後の新アッシリア時代に出現したサルゴン二世(前七二一~七〇五年)が旧約聖書のなかで「サルゴン」(「イザヤ書」二十章一節)として言及されるからである。ちなみにアッカド王朝のサルゴンとアシリアのサルゴン一世が混同されてはならない。

シャムシ・アダド一世

古アッシリアに大きな変化をもたらしたのは、第三十九代アッシリア王となったシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)である。彼の一族はハムラビ(前一七九二~五〇年)の一族と同様に、ウル第三王朝滅亡後にメソポタミアに広がったアモリ系民族の一つであった。シャムシ・アダド一世の父イラ・カブカブは、同じくアモリ系のマリ王国に接する小国を治めていた。しかし息子のほうが目覚ましい戦績をおさめた。彼はティグリス川左岸の要塞都市エカラトゥムを占領し、さらに、そのころ弱体化していたアッシリアに攻め込み、第三十八代エリシュム二世から難無く王位を奪うことに成功した。

ここでシャムシ・アダド一世はアッシリアに新王朝を打ち立てることもできたはずである。しかし彼は自分を由緒正しいアッシリア王として位置づける道を選んだ。現在知られているアッシリア王名表に対してなされた数度の編纂作業のなかで、最初のものはシャムシ・アダド一世によると考えられる。彼は実の父イラ・カブカブを自分よりはるか以前の第二十五代アッシリア王として組み入れ、それ以前の王たちとして彼の先祖たちの名を連ねたのである。そして王名表の最初には、テントに居住していたという一七人の王の名を記したが、そのなかには、アモリ系の部族名にちなんで創作されたものも含まれているようである。

アッシリア王となったシャムシ・アダド一世は領土を西へ広げていった。マリでは王ヤハドゥン・リムが家臣の一人に暗殺され、王位継承者のジムリ・リムはアレッポに亡命していた。これを好機とみて進軍したシャムシ・アダド一世はマリを併合することに成功した。マリの勢力はユーフラテス川中流域全体に及んでいたため、この併合は大きな収穫であった。

ザグロス山地からユーフラテス川に至る北メソポタミア全域を掌中に収めたシャムシ・アダド一世は、支配権を二人の息子とわけることにした。兄のイシュメ・ダガンをエカラトゥムの王として、エシュヌンナをはじめとする外敵に対する備えをさせた。そして弟のヤスマハ・アッドゥをマリの王として、シリアからの遊牧民の侵入を防ぐことに尽力させた。シャムシ・アダド一世自身はアッシリアの中央、特にシュバト・エンリル(テル・レイラン)で国全体の統治を行った。彼はアッシリア初の強大な君主であり、三〇年以上に及ぶ治世のなかで、アッシュル、マリ、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどの諸都市を支配下にもつ大国を築いた。

シャムシ・アダド一世によって、アッシリアに西と南の文化が持ち込まれ、多くの変化が引き起こされた。たとえば王の称号として、しばしば「(ディンギル)エンリルの代官」が「(ディンギル)アッシュルの副王」の前に付くようになり、またまれには「世界の王」という称号も用いられた。

しかし彼の没後はしばらくの間内政の混乱が続き、その後に再びアッシリア人が王位に就くようになった。そして領土は大幅に縮小し、王の称号も「アッシュルの副王」にもどった。

市民会とリンム制度

アッシュル市では、「アールム」すなわち「市」という語が市民会をも意味し、重要な事柄はそこで審議され、決定された。その決定はアナトリアのアッシリア商人たちにも伝えられた。

アッシリアのもうひとつの重要な制度はリンムであった。アッシリアでは毎年、おそらくアッシュル市の有力者たちのなかから、リンム職に就く役人が選ばれた。その人は、市民会の議長を務めたのかもしれない。市民会は「市の館」(別名「リンムの館」)と称される市役所のようなところで開催された。またそこはリンム職の執務の場所でもあったのだろう。中期アッシリア時代以降の慣例とは違い、古アッシリア時代には王がリンム職に就くことはなかった。少なくともシャムシ・アダド一世以前の時代には、市民会の力が強く、王の権力は制限されたものであった。

アッシリアでは、年代を表すには、その年のリンム役人の名が用いられた。たとえば文書の日付として「何月何日、某のリンム」と記載されたのである。リンム制度はしだいに形骸化され、市民会も力を失ったが、毎年リンム役人が選ばれて、その名によって年が表記されることはアッシリアが滅亡するまで続いた。

古アッシリア時代の印章(印影)として「神アッシュルのもの、市の館のもの」という銘文をもつものがある(この印章は一三〇〇年ほど後になって、新アッシリア時代のエサルハドンによって、誓約文書の調印に用いられたことで知られることになる)。この銘文から、神アッシュルと市役所は印章を共有していたことがわかる。この印章図像として、礼拝者ととりなしをする女神はあるが、礼拝される神の像があるはずの部分が空白になっている。それは、神アッシュルが土地の神格化であるために、その図像表現がまだ確定していなかったためであろう。

 奥さんへの買い物依頼
卵パック   148
お茶       148
海鮮ちらし  378
シャウエッセン     358
もも肉     298
野菜生活ぶどう     78
塩辛       258
海老フライ  299
中華まん   269
ピザ       219
食パン8枚  128

 2.4.4 部分に全体がある:個と超で全体を挟む数学
超から見れば全体は個になる
個は超から全体を把握する
個から作られる全体に意味がある
分化・統合で再編成させる
・全体を超えるもので全体は部分になる
・全体は分化・統合する
・全体を超えるものを想定する
・超の存在で全体は安定する
・個と超で全体を挟み込む
・超は個に隠されている

 2.5.2 個が目的をもつ:個の目的を達成するのが全体の目的
組織ピラミッドは個の目的で逆転する
個の目的を生かした組織の目的
個の目的は全体を超える
存在の意識は覚醒が前提となる
・個の目的を軸に社会構造を逆転させる
・個の有限から持続可能な社会につくる
・個の覚醒を引き出す条件
・個の目的の達成を目指す社会
・超の存在が絶対を作り出す

 2.6.2 個に目的:個の目的で空間を超える
個の目的として夢を設定する
夢を聞き、叶える役割を外す
存在を目的に入れ込む
個の未来を描く
・内なる世界を持つことで自由を得る
・社会の分化と統合が可能になる
・個の目的で空間を超えて覚醒する
・夢はないものは夢があるものを支援する
・目的達成は逆ピラミッドをなす
・上に行くほど広がる空間
・最上位が超の空間
・空間に目的を持たせる
・個の目的達成が組織の目的
・超の支援で目的を達成する
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『ケニアのくらし』

『ケニアのくらし』

ケニアと東アフリカの歴史①

人類誕生の地の東アフリカ

●中部アフリカからやってきたケニア人

サバンナの大地をつくるアフリカ大地溝帯は、野生動物たちの宝庫であるとともに、人類誕生の地としても知られています。

大地溝帯にあるケニアのトゥルカナ湖畔では、人類の祖先とされる一四〇〇万年まえのラマミテクスという猿人化石がみつかっています。タンザニア北部のオルドバイ峡谷では、二〇〇万年以上もまえのホモ・ハビリスとよばれる人骨の化石や石器など、人類のはじまりとされる証拠がいくつもみつかっています。

紀元前六〇〇〇年ころ、ナイル川やサハラ砂漠ふきんにすんでいた人々が、ケニアのサバンナ地帯にうつりすんできます。そして紀元二世紀ころ、今のケニア人の多くをしめるバントゥー系とよばれる民族が、中部アフリカからやってきました。

●交易でさかえた東アフリカ沿岸

やがて八世紀ころから、東アフリカ沿岸のモンバサ、ラムなどに、アラブ人の商人がうつりすみ、都市をつくりはじめました。アラブ人たちは、各地の民族から、金や象牙、皮革などばかりでなく、奴隷も買いいれ、大きな富をえました。

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわって、インド洋沿岸にやってきたのは一四九八年のことです。ガマの報告をうけ、数年後にポルトガルの軍艦がおしよせ、アラブ人がつくったまちをせめました。抵抗するものはことごとく殺し、あらゆるものをうばいさりました。そしてこれをさかいに、アフリカ大陸は数世紀にわたってヨーロッパの国々からの侵略になやまされることになったのでした。

ポルトガル人による奴隷貿易がさかんになりました。南北アメリカ大陸には、一六世紀には九〇万人、一九世紀までに一四六五万人もの人々が奴隷としてはこびさられました。しかも、せまい船底におしこめられてはこばれたので、五人にひとりしか生きのこれなかったといわれます。アフリカ大陸から七〇〇〇万人以上のアフリカ人がうばいさられたと推定されています。

奴隷貿易に反対するイギリスのリビングストンは、キリスト教をひろめるとともにアフリカ探検を一八四一年にはじめます。探検家スピークは、一八六二年に、ビクトリア湖がナイル川の水源であることをつきとめます。しかし、これでアフリカがさまざまな資源の宝庫であることがわかると、ヨーロの国々は植民地をえようときそいあうようになりました。

一八六九年のスエズ運河開通は、さらにヨーロッパの国々による侵略をしやすくしました。

●ヨーロッパの国々がきめた領土

一八八五年のベルリン会議では、イギリスをはじめフランス、ドイツなどのヨ―ロッパの国々が、アフリカ大陸をどのように支配するかとりきめました。

ケニアの地は、イギリスが支配する東フリカ保護領になりました。今のケニアの中央高地の原住民の土地は、農園をつくるのにてきした土地であるということで、白人にうばいとられました。原住民だけでなくインド洋沿岸のアラブ人も、交易の仕事ができなくなるので、これにはげしく抵抗しました。

一八九五年、イギリスはモンバサからキスムにむけて鉄道建設工事をはじめました。この鉄道は、内陸の鉱物資源や農作物を、モンバサの港からイギリス本国におくりだすための鉄道でした。鉄道建設のために、イギリスの支配するインドから三万五〇〇〇人ものインド人が移住させられてきました。

●白人入植者のための法律

現在のケニアの首都ナイロビは、この鉄道建設工事のキャンプ地としてつくられたのがはじまりです。ナイロビはやがて、「ホワイト・ハイランド」とよばれる中央高地の入り口の重要なまちとしてさかえるようになります。そこに元からすんでいた人々は原住民指定地においやられ、焼畑農業でほそぼそとくらなければならなくなりました。

一九〇一年、モンバサーキスム間の鉄道が開通します。自分たちの土地をうばわれた原住民は、鉄道の開通をじゃまして抵抗しました。イギリスの保護領政府は、原住民のキクユ族やマサイ族のなかから、協力者をたくみにこしらえ、住民の抵抗をおさえました。

東アフリカ保護領政府は、イギリス本国からたくさんの移民をよびよせ、ワタのさいばいをさせました。これは、それまでの象牙、皮革、トウガラシなどにかわる重要な輸出品目となりました。

保護領政府はさらに、農園の労働者をしばりつけるための法律もつくりました。やとわれている期間がおわらないうちに職をすてたものは、法律でばっせられることになったのです。東アフリカのアフリカ人たちは、自分たちがたべる食料をつくりたかったので、長い期間を農園ではたらきたくありませんでした。それなのにアフリカ人は、むりやりにコーヒー農園にはたらきにでなければならなかったのです。

人類誕生の地であるアフリカ大地溝帯の底には、サバンナの原野とともに、湖がいくつもつらなる。ナクル湖には、断層でできたがけがせまっている。

ケニアと東アフリカの歴史③

苦難の道をあゆむ独立後の国々

●弾圧をはねのけて独立

さまざまな弾圧をうけても、「マウマウ団」は、白人から土地をうばいかえし、独立をかちとろうという運動をねばり強くつづけました。政府軍と戦い、多くの死者もだしました。

独立のための戦いは、ケニアだけでなく、アフリカ各地の植民地でくりひろげられていました。一九五八年に、「全アフリカ人民会議」がひらかれ、独立をかちとるために、アフリカ人が力をあわせようという決議が採択されました。

そして一九六〇年、ソマリアをはじめ一七か国が独立をかちとりました。このかがやかしい年は、「アフリカの年」とよばれました。

ケニア植民地政府も、民族運動をしずめようと、「ホワイト・ハイランド」にアブリカ人がすむことをみとめたり、ケニヤッタを釈放したりしました。しかし、ケニア独立への流れをとめることはできませんでした。九六三年一二ケニアはイギリス連邦自治国として独立をはたし、ケニヤッタが初代大統領にえらばれました。

●かえられなかった経済のしくみ

一九六七年、ケニアは国境をせっするウガンダ、タンザニアとともに、東アフリカ共同体を結成しました。鉄道、港湾、郵便、通信などを共通のしくみで運営し、先進国にまけない国づくりをしようというものでした。しかしそれぞれの独立後は、工業化がすすんでいるケニアに有利であるということで、三国の足なみがそろわなくなりました。それどころか、ウガンダでは反対者を虐殺するという恐怖のアミン政権ができ、三国の国境はとざされてしまいました。

ケニヤッタ大統領は、外国の資本をとりいれ、工業化もすすめました。一九六四年から一九七三年にかけてのケニアの国内総生産の平均成長率は、年六・六%にのぼるほどになりました。

農業にも力をいれ、「ハランベー(わけあいたすけあう)」という大統領のスロガンのもと、かつてのホワイト・ハイランドにアフリカ人がぞくぞくと入植しました。九七〇年までに、三万五〇〇世帯が入植しました。しかしこの人植計画は白人入植者といれかわりに大農場をもつほんのひとにぎりのゆたかなアフリカ人農民をつくることになってしまいました。

一九七八年に、ケニヤッタ大統領が死去すると、モイ副大統領が大統領にえらばれました。

●アフリカの大きな問題、難民と飢餓

いまケニアのまわりには、内戦のためにあれはてたエチオピアやソマリアなどの国々がとりまいています。

そして、これらの国々がケニアに深刻な影響をあたえています。

一九九二年、国境をせっするソマリアでは、内戦がはげしくなり、戦火をさけてケニアにたくさんの難民がにげてきました。一九九四年には、ソマリアだけでなくスーダンでも内戦がおこり、難民がおしよせてきました。ケニアへの難民は、あわせて四〇万人にもたっしたといわれます。これにおいうちをかけるように、ケニアでは三年つづきの干ばつで、五〇〇万もの人々が食料不足になやまされました。

このように、内戦や飢饉のため国境をこえてはいってくる難民をかかえた国は、アフリカ大陸のなかだけでも二〇か国以上もあるといわれます。そして、難民をうけいれた国で、国民の食料すら不自由している国もたくさんあります。

ケニアにはいった難民は、職をもとめて大都市ナイロビにもおしよせ、スラムがふくれあがりました。失業者がまちにあふれ、大都市ナイロビの治安はきょくたんに悪くなってしまいました。

モイ大統領は、国連難民高等弁務官務所に、難民が自国へかえれるようにしてほしいともうしいれました。しかし、国連が兵をだしてソマリアの内戦を解決しようとしたことが失敗におわり、ソマリアでの和平が遠のいてしまいました。と同時に、難民が自分の国へもどれる日てしまったのです。

ケニア略年表

◆2世紀ころ中央アフリカのバントゥー系がインド洋沿岸にうつりすんできた。
◆730年ころインド洋沿岸のモンバサ、ラムに、アラブ人の商人がおとずれる。
◆16世紀はじめポルトガル人が進出して、インド洋沿岸のアラブ人とあらそう。
◆16世紀ころ西アフリカでの奴隷貿易がさかんになる。
◆1750年ころ東アフリカでも奴隷貿易。
◆1807年イギリス、奴隷貿易禁止令。
◆1841年リビングストン、キリスト教の宣教と探検を開始。
◆1863年アメリカ、奴隷解放令を公布。うんが◆1869年スエズ運河開通。
◆1884~85年ベルリン会議で、イギリスをはじめフランス、ドイツなどの国々が、アフリカ大陸をわけあった。ケニアを中心とする東アフリカ保護領は、イギリスに。
◆1895年モンバサからナイロビーキスム間の鉄道建設工事はじまる。
◆1901年モンバサーキスム間の鉄道開通。
◆1903年東アフリカ保護領で、原住民の土地所有を制限する条令が制定。
◆1905年ナイロビが首都となる。
◆1914年第1次世界大戦がはじまる。
◆1918年アフリカ人がコーヒーをさいばいすることが禁止された。
◆1939年第2次世界大戦はじまる。
◆1952年キクユ族のマウマウ団による土地の返還と独立をもとめる民族運動。
◆1958年人種差別撤廃と独立をめざし「全アフリカ人民会議」がひらかれる。
◆1960年ソマリアなど17か国が独立。「アフリカの年」とよばれる。
◆1963年12月12日、ケニア独立。
◆1964年ケニヤッタ、大統領につく。
◆1978年ケニヤッタ大統領死去。モイ副大統領が大統領にえらばれる。
◆1992年ソマリアで内戦。戦火をさけて、なんみんケニアに難民がにげてきた。
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『ニュージーランドのくらし』

『ニュージーランドのくらし』

ニュージーランドの歴史②

イギリスの海外農園からの自立

●帆船でやってきた人々

一五世紀の終わりごろから、世界の海には新天地をもとめるヨーロッパの帆船がいきかうようになりました。ニュージ―ランドに最初にきたヨーロッパ人はオランダ人のタスマンで、一六四二年のことです。そして一七六九年には、イギリス人のクックがやってきます。

その後、アザラシの毛皮やクジラのあぶら、木材などをもとめて欧米人たちがきます。マオリ人はこれらの人々に食料を提供するかわりに、おのや釘などの鉄製品、毛布などを手に入れました。

●ワイタンギ条約とマオリ戦争

一八四〇年、イギリスはニュージーランドを植民地にするために、マオリの各部族の首長をあつめて、北島の北部にあるワイタンギで条約をむすびます。条約では、この地の主権はイギリス国王のものとなること、マオリ人たちはイギリス国民として権利を保証されること、マオリ人の土地所有を保証するとともに、土地の売買はイギリス国王とのあいだでだけおこなうことなどがきめられました。

しかし、実際にはマオリ人の土地が不正にうばわれたりして、とうとうマオリ人とイギリス軍とのあいだで戦争になってしまいます。戦争はおもにマオリ人の多くすむ北島でくりひろげられ、二〇年近くにもわたりました。

戦争はマオリ人の敗北に終わり、このあいだにマオリの人口も減りました。減ったのは戦争のためばかりではありません。ヨーロッパ人がもたらした病気も原因でした。長いあいだ、孤島にくらしていたマオリ人たちは外界からの新しい病気に対して抵抗力がなかったのです。マオリ戦争のあいだ、南島では牧畜農業がさかんになっただけでなく、金鉱が発見され、移民もふえて発展しました。

●つぎつぎとうちだされる社会政策

一八六〇~七〇年代は、この国の風上にあった羊の品種改良がされたり、小麦枚培が軌道にのったりして、牧畜農業の基礎ができた時代です。また、国内外の交通や通信網も発達しました。

一八八〇年代には、集約的な農業が発展して、バターやチーズなどの輸出がふえました。それに冷凍技術が確立し、羊肉が冷凍船でイギリスに輸出されて、順調に成績をのばしていきます。

一八九〇年代は、議会で政党による政治がはじまり、数々の進んだ政策がうちだされます。一八九三年には世界で最初の婦人参政権が確立。一八九八年には、この国最初の社会保障制度として、老齢年金制度がうちだされました。

●参戦、そして独立国家へ

20世紀に入ってからも、羊毛や羊肉、酪農製品などの輸出はさかんで、ニュージーランドの農産物輸出国としての地位はゆるぎないものとなります。なかでもイギリスとのきずなは強く、ニュージーランドはイギリスの海外農園とまでいわれるほどでした。

  • 第二次世界大戦のいずれも、ニュージーランドはイギリスを助けるために、戦地に兵をおくります。そのことが人々に、自分たちの国が独立した国であることを意識させました。

二つの大戦にはさまれた一九三〇年は世界的な不況の時代で、この国も影響をうけましたが、大規模な事業をおこして雇用をふやし、年金制度も確立し、国による医療活動をはじめました。

第二次世界大戦はイギリスをふくむ連合国の勝利に終わりましたが、イギリスにとって二つの大戦の犠牲は大きく、経済的にすっかりおとろえてしまいました。一九四七年、ニュージーランドはイギリス連邦の一員となり、ひきつづきイギリスとの深い関係がつづきます。

ところが一九七〇年代になると、イギリスがヨーロッパ共同体(EC)に加盟今までのようにニュージーランドの輸出品がイギリスにうけいれられなくなってきました。このころから、この国はアメリカやオーストラリア、日本などに市場をもとめはじめます。そして、それは近年、ますますさかんになっています。

●社会保障、福祉のゆくえ

数々の先進的な社会保障、福祉政策を打ちだしてきたこの国ですが、一九七〇年代は石油ショクや農産物の国際的な価格低迷のために、国の財政は赤字になってしまいました。

そこで八〇年代になって、いろいろな行政改革をしたり、経済活動にじゃまな規制をゆるめたりしました。そのかいあって、やがて財政は黒字にかわりました。しかし、思い切った改革のために、社会保障や福祉政策が後退してしまいました。現在、国民はこの国にふさわしい政策を政府に問うています。

↓ウエリントンにある戦争記念館。第一次・第二次世界大戦では、3万人近くものニュージーランド兵が戦死した。

ニュージーランド略年表

◆9世紀ころタヒチ島方面からポリネシア人がLONて、モアを狩猟しながらくらす。
◆13~14世紀ころ現在のマオリ人の先祖がきて、焼畑農耕と狩猟採取の生活をはじめる。1642年オランダ人、タスマンが南島に到達。●1769年イギリス人、クックが南北両島を探検。
◆18世紀末~19世紀はじめアザラシ、クジラ、木材をもとめて欧米人がくる。
◆1814年マオリ人に対してキリスト教布教。◆1840年ニュージーランド会社による移民はじまる。ワイタンギ条約がむすばれる。
◆1841~45年第一次マオリ戦争。
◆1848年オタゴ協会による入植開始。
◆1850年カンタベリー協会による入植開始。
◆1854年ニュージーランド国会開設。
◆1860~72年第二次マオリ戦争。
◆1861年オタゴ地方でゴールド・ラッシュ。
◆1865年ウエリントンへ遷都。
◆1867年マオリ男性の選挙権みとめられる。
◆1882年羊肉をのせた冷凍船が就航、
◆1893年世界最初の婦人参政権みとめられる。
◆1898年老齢年金給付法成立。
◆1899年南アフリカ戦争に派兵。
●1907年イギリスの植民地から自治領になる。
●1914~18年第一次世界大戦に派兵。
1938年医療の無料化、年金制度の拡大。
1939~45年第二次世界大戦に派兵。
1947年ウェストミンスター憲章を批准し、イギリス連邦の一員になる。
●1965~72年ベトナム戦争に派兵。
●1973年南太平洋での仏の核実験に抗議行動。
●1984年行政改革、規制緩和に着手。

正義は超の一つかもしれない個の存在の力を発揮させるせーらは正義#早川聖来
それが福祉だとかということよりも国家が国民にサービスすることを自覚してるかどうかが重要です

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