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なぜ世界はあるの?

『この世界のしくみ』より

 目的も理由もない

  世界が存在している理由なんて何もないよ。世界は何かの目的のために作られたわけじゃない。ただ、あるんだ。ただ、存在している。あなた白身の存在もそうだよ。宇宙もあなたも何かの目的のために生まれてきたわけじゃない。
  ただ、生まれてきたんだ。たしかに、牛は人間に食べられて人間の命を支えているけど、牛は人間に食べられるために生まれてきたわけじゃない。同じように、世界そのものには目的も理由もないんだ。何でも、存在するのに理由があるとか、何かの目的が必要だとか考えるのは、間違っていると思うな。
  最初から目的がある存在って、人間が作った道具だけだよ。ノコギリは何かを切るために作られた。コップは液体を入れるために作られた。だから、ノコギリもコップも人間が最初から目的に役に立つように作ったから、目的が備わっている。でも世界も、あなたも、誰かが作った道具じゃない。だから、そこには目的はないんだ。
  もし世界に目的があるとしたら、どうだろう。何かの目的のために存在しているとわかったら、どうする? たとえば、神様が出てきて、私は世界をコレコレの目的のために作ったとかいったら、あなたならどうする? 私なら、わざと、その目的のためにならないことをするね。私は、誰かや、与えられた何かに従うのが死ぬほど嫌いなんだ。

 わからないけど理由はある

  たしかに、「世界が作られた目的がある」なんて信じられない。でも、本当はわからないだけで、何かしらの理由はあるんじゃないかな。
  さっきコーノさんは、道具の話をしてくれた。たしかに道具は目的をもって作られるし、それが存在する理由もはっきりしている。でも、道具以外にも目的があって存在しているように思えるものがある。たとえば、心臓だ。心臓は、血を体中にまわすという目的があって存在していて、体の中でなくてはならない役割を果たしている。どこかをケガすると、ふだんは意識しない、その場所の役割に気づくことがある。薬指とかをケガすると、こんなときにも薬指を使っていたんだ! って思ったりするちょっと大げさだけど、ケガによって、その節分が果たしている本来の役割、なんのためにそれがあるかという理由に気づくことができるんだ。こう考えると、道具だけでなく、心臓や他の体の部分にも、普段は意識しないけれど、ちゃんとした目的があるし、それが存在する理由があるように見える。
  この考えは、道具や体の部分だけじゃなくて、牛やあなた、現に存在しているすべてのものに当てはめることができる。だって、現に存在しているどんなものだって、何らかの役割を果たしているからだ。もちろん、目的や存在している理由はわからないことが多いだろう。でも、そのことは、目的や理由がないことの証拠ではない。ケガしたときに初めてその役割や目的に気づくように、それが失われたときに初めて明らかになるのかもしれない。別の言い方をすれば、どんなものにも存在するのに必要なだけの理由が隠されているということだ。それは、もちろん、世界だっておんなじだ。でも、世界の場合はなくなってしまうと、僕たちもいなくなってしまうから、理由や目的があったとしても、それが何かは永遠にわからないものなのかもしれないね。

 そもそも「世界がある」とは?

  目的や理由を考える前に、そもそも、「世界がある」ってどういうことなんだろう。私たち人間はみんな「世界」という一つの入れ物の中で生きていて、動物も植物も、建物も道具も乗り物もみんな、この入れ物の中に入っているのかな。でも、もしかしたら、そう思っているのはあなただけかもしれないよ。
  見たこともない国や、会ったこともない人々って、本当に存在しているのかな。もちろん、テレビや新聞やインターネットで見たことがあるだろうけれど、もしかしたっているからでもありません。相手の考えをとことん正確に理解しようとしているからです。
  そもそも私たちが哲学対話をするのは、「本当のことが知りたい」と心から望んでいるためです。そして、「自分とは異なる考えの中に、本当のことを知るための手がかりがあるかもしれない」と本気で思っているからこそ、私たちは相手の話をできる胆り正確に理解しようとするし、理解できないところはしっこく質問したり反論したりするのです。本当のことを知りたいと本気で思っているからこそ、お互いに相手の考えを参考にし合って、みんなで協力して考えをどこまでも深く掘り下げようとします。哲学対話は、このような協力プレイを通して、参加者同士を独特の連帯感とお互いに対する敬意で結びつけるのです。
  私たち大人は、子どもだちと一緒に哲学対話をすることで、子どもともこうした特別な関係を築くことができます。子どもの考えや問いの中にも、本当のことに到達するための手がかりがあると本気で思えるなら、私たちは子どもの話をどこまでも注意深く真剣に聞くことができるのです。これは、子どもの考えを単に尊重したり、子どもに思いやりをもって接したりすることとはまったく違います。同じ問いを問い、力を合わせて思考を深めていく仲間である以上、子どもの考えも大人と対等な一つの考えとして扱うことができるということです。子どもと大人が、ともに本当のことを知りたいという強い思いで結ばれたとき、大人は子どもを徹底的に「大人扱い」することができるようになるのです。
  教育現場では、現在進められている学習指導要領の改訂にともなって、子どもたちの主体性を尊重する学習にますます注目が集まっています。子どもたちの能動的な活動を中心とするアクティブニフーニングが提唱され、「主体的・対話的で深い学び」は新しい学習指導要領における学びのあり方を象徴するキーワードの一つになっています。このような学びを成立させるためには、子どもをどれだけ学びの主体として認め、私たちと対等な共同探究のパートナーとして迎え入れるかが非常に重要です。学びの場における子どもと大人の関係が、「大人から教わる」という受動的関係ではなく、「大人とともに学ぶ」という能動的関係に転換できてはじめて、子どもが学びの主役となったと言うことができるからです。
  子どもと一緒に哲学対話をすることは、子どもを「本当のことを探し求めるパートナー」とすることで、子どもに「教える」のではなく、子どもと「ともに考える」新しい教育の可能性を開きます。それによって、本当の意味で子どもの主体性を尊重することができるようになるのです。ぜひ本書をきっかけに、家庭や学校でも子どもと一緒に哲学対話をしてみてください。
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「心はどこにあるか」という問いから始まった

『この世界のしくみ』

 「心はどこにあるか」と「宇宙の端はどこにあるか」は私の中ではつながっています。30年以上前に、「心はどこにあるのか」という問いにふと浮かんだイメージがあります。

 それは、私の内なる核と宇宙の端がつながっているというものだった。宇宙の端と内なる核が同一になって、トーラスを作っている。宇宙全体を包み込んでいる。

『悪の歴史 西洋編』

 スターリン、ルーズベルト、チャーチル、ヒトラーは悪の歴史をつくった。明確な意図を持っていたのはチャーチル。それに載っかったのがローズベルト。独自の戦いを行なっていたのは、スターリンとヒトラー。

 そんな連中が会談をして、戦後の世界を勝手に決めた。それが未だに世界を狂わしている。中東におけるチャーチルの暗躍。

『英米哲学入門』

 世界については、無限次元空間の任意の三次元が各自に与えられるという思っている。その三次元は内なる世界で、他の三次元が見えるようになっている。そんな単純な世界を作って、放り込んだのは誰なのか
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夜と霧の始まり

『抵抗者たち』より 消された叫び

 〈第三帝国〉の最初の夜は、たいまつ行列とテロルで始まった。
 アードルフ・ヒトラーが首相に任命された一九三三年一月三〇日の夜、ナチスとその支持者たちは全国各地で祝賀のデモを展開した。首都ベルリンでは、たいまつをかざした行列がブランデンブルク門を通り、広場と街路を埋めた群衆の歓呼の声に包まれて、いつ果てるともなく続いた。そして同じころ、たいまつの光が届かぬ夜の至る所でSA(ナチス突撃隊)が活動を開始していた。かねて目を付けていた反対派の労働者や市民、社会民主党や共産党の活動家たちの家や店や事務所を片っぱしから襲撃し、人々をたたき伏せた。もはや〈ヴァイマル共和国〉の反対派としてではなく、権力を手中に収めた正統派としての、ナチスの最初の自己表現だった。
 老大統領ヒンデンブルクによるヒトラーの首相指名と、それに引き続くヒトラー内閣の発足に対しては、もちろん、直ちに抗議と反対の声が上がらなかったわけではない。この日に出されたドイツ社会民主党機関紙『フォーアヴェタッ(前進)』の号外は、こう述べていた。
  大統領は、この政府を任命したことによって、およそこれまで国家元首が引き受けたうちで最も恐ろしい責任を引き受けたのである。彼は、この政府が憲法の基盤を捨てるものではなく、帝国議会で多数を獲得しない場合には直ちに退陣するものであることを、請け合っている。
  憲法を敵視していることはだれの目にも歴然としているこの少数派政府が、もしも帝国議会の同意なしに職務にとどまるょうなことがあれば、労働者人民が最後のぎりぎりいっぱいの力を行使する必要に迫られるような状況になる、と言うべきであろう。
 一方ドイツ共産党は、同じ日に、ゼネストを訴える呼びかけを発した。だが、動きはじめた車輪を押しとごめることはできなかった。政権を掌握してから三日後の二月二日、ナチスはプロイセン州の全域で共産党のデモを禁止し、べルリンの警察に同党の本部〈カール・リープネクヒト会館〉を占拠させた。二月二三日には、やはり警察によって、共産党機関紙の編集局および印刷所が閉鎖された。三月五日に行なわれる総選挙の直前の三月三日、ナチスは共産党委員長エルンスト・テールマンを逮捕し、暴力的な選挙干渉を全国で繰り広げた。総選挙では、それでもなお、ナチスは過半数を獲得することができなかった。得票率四三・九パーセント、議席数は総数六四七のうち二八八にとどまった。社会民主党は二八・三パーセントで二一〇議席、共産党は二二・三パーセントで八一議席と、テロルのなかで行なわれた選挙にもかかわらず、ナチスに対する反対票は予想外に多かった。
 ナチスは、この苦境を一つの奇策によって切り抜けた。四月九日、共産党の新議員全員が資格を剥奪され、総数五六六人に減った国会で、ナチスは単独多数を制することになったのである。次いで、弾圧は社会民主党と労働組合にも及びはじめた。六月二二日、ヒトラー(首相)、ゲージング(無任所相)とともに入閣した三人のナチスのうちの一人である内相によって、社会民主党を禁止する省令が出された。六月末から七月初めにかけて、既存の諸政党は次々と自主的解散を強いられた。こうしていまやただ一つNSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党=ナチ党)だけがドイツに存在する唯一の政党となったとき、七月一四日、ナチスはすかさす「政党の新設禁止」を定める法律を施行し、この年の末には「党と国家の統一」に関する法律によって、NSDAPを国党としたのである。
 〈社会主義〉を標榜するナチスにとって、左翼的な労働組合もまた主要な敵の一つだった。自分かちの時代になって最初のメーデー、つまり三三年五月一日を、ナチスは〈国民労働日〉として休日にし、大衆を動員して国民社会主義的メーデーを繰り広げてみせた。そしてその翌日、SAが、各地の労働組合本部や事務所を襲った。幹部は逮捕され、組合財産が略奪された。すべての労働組合組織は解散させられ、五月一〇日、〈ドイツ労働戦線〉なる唯一の労働者団体がナチスによって設立された。
 国民の日常は、すでに二月四日の「大統領緊急令」によってその基礎を掘り崩されつつあった。〈ヴァイマル共和国〉の崩壊にとって疑いもなくその遠因の一つとなった緊急令は、非常の場合には大統領の権限で憲法の効力を部分的に停止しうることを定めたヴァイマル憲法四八条に基づいて、ヴァイマル時代末期、とりわけ当時の首相パーペンによって濫発され、しばしば表現や集会・結社の自由を制限することで危機を回避しようと試みられたのだが、いままたそのパーペンを副首相とするヒトラー政府の下で、同じ大統領ヒンデンブルクによって、だが今度は、基本的人権の最終的廃棄の第一歩として施行されたのである。この二月四日の「集会・言論・報道出版に関する緊急令」に次いで、同二八日に出された「民族と国家の保護のための緊急令」は、「追って沙汰のあるまで」個人の自由、住居の不可侵性、郵便通信の秘密、思想信条の自由、結社の自由、財産の保護といった市民的基本権を廃絶し、憲法改定の手続き抜きで事実上ヴァイマル憲法を廃止してしまったのだった。悪名高い国会議事堂放火事件の翌日のことである。
 憲法の制約から自由になったヒトラーは、三月二三日、国会の承認なしに法律を施行しうる権限を政府に与える「全権委任法」を国会で成立させた。反対したのは、三ヵ月後には禁止されることになる社会民主党ただ一党だったが、そのころすでに同党の国会議員は、さまざまな理由で逮捕されて、半月前の選挙での当選者一二〇名から九四名に減っていた。全権委任を要求する演説をヒトラーが行なっている間、国会議長でもめったヘルマン・ゲーリングは、議員昶ち一人一人の表情を議長席から双眼鏡で監視したのである。四月七日には、各州の相対的独立を認めていた既成の統治形態を改め、首相の提議によって大統領が任命する総督が州の全権を逃げることを定めた「州の帝国への統合に関する第二の法律」が、プロイセン州を除く全国の各州に適用された。
 このような一連の行政的・立法的措置は、もちろん、それに先立ちあるいは並行するさまざまな直接的暴力の行使と、その暴力を追認しさらに新たな暴力を可能にする法的措置によって、支えられていた。
 二月二八日の大統領緊急令は、基本的人権の廃止とともに刑罰の強化を定めていたが、この緊急令によって同時にまた、「保護検束」、つまり将来犯すかもしれぬ犯罪をあらかじめ予想して逮捕拘禁することが、できるようになった。これよりさき、二月二二日、帝国無任所相でありプロイセン州内務大臣であるグージングによって、SAおよびその下部組織のSS(親衛隊)、それに親ナチ的な右翼武装組織〈鉄兜団〉を「補助警察」とすることが定められた。大たいまつデモの陰で獲物に躍りかかった暴力装置は、官許の暴力機構となったのである。そして、憲法の停止によって彼らの自由にゆだねられた獲物たちの貯蔵所、あの強制収容所は、ナチスの奪権からわずか七週間後に、早くも歴史に登場する。--一九三三年三月二〇日、SS長官ハインリヒ・ヒムラーによって、ミュンヒェン近郊のダッハウに最初の正規の強制収容所(KZ)が開設される。権力を掌握する以前からすでに構想されていた計画が、ここで実行に移されたのである。計画によれば、全国各地に六〇以上の強制収容所を配備し、保護検束した共産主義者や社会民主主義者をここに収容するはすだった。この計画は、やがて当初の予定をはるかに超える規模に広がっていく。ダッハウに最初の強制収容所が生まれたときから八年余りのちの一九四一年一二月には、ドイツ軍の占領地域で反ドイツ活動を行なった外国人を強制収容所に送ることを命じた「夜と霧」の布告が、防衛軍総司令部によって発せられる。ナチス・ドイッ軍とともに国境の外まで浸食していった強制収容所は、誕生から二一年余りの生存期間の間に、およそ一一〇〇万の生命を消費することになる。
 強制収容所の生存と密接な結び付きを持ちながら、三三年四月二六日、ゲーリングによってべルリンに〈秘密国家警察局(ゲスターパ)〉が設置される。この機関は、同年一一月三〇日のプロイセン州における「秘密国家警察法」の制定によって〈秘密国家警察(ゲスターポ)〉という名称を改めて与えられ、あらゆる傾向と同期の反ナチス活動の摘発に精力的に携わることになる。
 こうして、〈第三帝国〉は、成立の当初から疑うべくもない一つの恐怖国家として、テロルと抑圧と威嚇とによって維持されていた。だが、いまわれわれからみて疑いもなくそうみえる当時の現実が、そのなかで生きていた者の目にも疑いもなくそう映っていたかごうかは、また別の問題なのだ。三三年一月三〇日の夜のたいまつデモだけに、無数の人間が参加し感動したわけではない。同じ時刻に闇のなかを徘徊していたテロ行為にも、無数ではないにせよ多数の人間たちが加わっていた。第二次世界大戦がドイツの敗北で終わったとき、一九三四年以後SAから独立して独自の機構となっていたSSは、武装SSと呼ばれる実働部隊だけでも約五〇万の隊員を擁していたのである。
 この五〇万の人間たちとその背後にいる無数の家族、友人、恋人や同僚が、強制と脅迫によりてのみナチス支配に忍従していた、と考えることは、非現実的であるにちがいない。多くの証言によってもまた、ドイツ人が苛酷なヴェルサイユ条約のくびきからの解放者としてヒトラーを尊敬し、破局的な失業から労働者を救ってくれたことを喜び、そして外国の強制的併合と侵略戦争の時期にもなお、ナチス・ドイツの勝利と苦戦の報に一喜一憂しつづけたことは明らかである。
 巧妙な宣伝と嘘の情報によって、真実が隠されていたからだろうか? 権力掌握から二カ月後の三月三一日に、新設された民衆啓発宣伝省の指導者となったゲッベルスによって、魂を奪われてしまったからだろうか? 同じ年の五月一〇日、そのゲッベルスの指揮の下に、とりわけ各地の大学で盛大に開始された焚書は、その炎によって人々をただ幻惑していただけなのだろうか? かつて読んだか、あるいは読めなかった本を火に投じるとき、自らが数え立てるその本の罪状の呪文めいた響きによって、ただ自己暗示にかかっていただけなのだろうか?
 だが、炎に本を投じ、あるいはまだ半分生きている人間を焼却炉に投じる者がいたように、火に投じられる本、生きながら焼かれる人間も、確かに存在したのだ。あらゆる法的措置、暴虐の合法化、拷問、凌辱、隔離、そしてさまざまな段階の人体実験にもかかわらず、焼くほうではなく焼かれるほうを、従うほうではなく抗うほうを、生をではなく死を、そしてある意味では死ではなく生を、選ばざる乞えない人間たちがいたので
 彼らもまた、彼らの敵たちと同じように、忘我と陶酔のなかにいたにすぎないのだろうか?
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数学的思考法--そのようなものは存在しない

『数学がいまの数学になるまで』より 数学を教え、学ぶことはなぜそんなに難しい

 数学的思考法--そのようなものは存在しない

  市場には、わたしたちや子どもたちに数学的思考法を教え、伸ばすことを約束する本や講座、さらに進んだ研究コース、類似する魅惑的な商品が溢れています。指定の金額を支払うことに同意するだけで思考力は向上し、本当の意味で数学的思考法を身につけた人物になれるのです。いったい、少しばかりのF間を惜しみ、必要な令額をyへ払うことを阻んで、数学的に考える機会で得られる利益から子どもを遠ざけてしまう親がいるでしょうか。現代の世界で賢く生きていくことは数学的思考なしには難しいのです。(万一起こるかもしれない疑問の可能性を取り払うために言い添えると、ここまでの文章は皮肉の意味で書きました。)この傾向はすばらしいまでに行き届きすぎていて、ある新聞は、二歳児や三歳児のための数学的思考の講座についての記事を載せていました。「数学的思考」という言葉と「クラス」という言葉でインターネットを検索したことがあります。すると、リストの先頭には小学校一年生から始まって各学年の生徒向けの課外学習のクラスがずらりと並び、また三歳児から幼稚園児までのクラスもあって、その中には「母語として学ぶ数学」というクラスもありました。イスラエルの中心部に位置するある学校の保護者たちは、その学校に数学的思考法の課外クラスが開かれていないことに対して、教師や校長先生を相手に苦情を申し立てました。まるで、子どもたちのことなどはどうでもいいかのように、大人どうしが議論したのです。わたしが勤めている大学でも、ほかの高等教育機関でも、ちびっ子たちのための数学的思考法の講座が開設されています。でも、本当のことをいうと、数学的思考法などというものはないのです。そうけあるならば、そういった暮らすや講座ではいったい何が教えられているのかと尋ねてみたくなるかもしれませんね。答えは簡単です。そこでは何らかの数学的な内容が教えられているにすぎません。そこでは一般に数学の中でも比較的論理的な部分や、問題を解くためのトリックが教えられ、そのほとんどが「論理の問題」とよばれているのです。
  すでにここまでの間に、みなさんの心にたくさんの疑問が浮かんできていると思いますが、ひとつ一つ考えていきましょう。まず、「数学的思考などというものはない」とは、いったいどのような意味でしょうか。これらのクラスや講座の中で行われている活動を数学的思考とよぶととの何が問題なのでしょうか。このようなクラスに参加することは有害なのでしょうか。とびっきり役には立だなくても、何かの役に立つのではないでしょうか。
  本書ではこれまでのさまざまな節、とくに第62節において、いろいろな思考法について論じてきました。そこでは、思考とは主として状況を分析し、決定を下すことを意図した脳の活動であると述べました。どく大雑把に分類すると、その活動は二種類の思考に分けられます。一つは比較による思考であり、直面している状況を、解決法がわかっているほかの類似した状況と比較します。二つめのタイプの思考には、なじみのない状況に対する新しく、より創造的な対処が必要です。そこでもまた、脳は知っている限りの範囲の対処法を利用しますが、脳は必要に応じてそれらを修正し、更新しなければならず、また、時には新しくて創造的な対処法をひねり出さなければならないこともあります。思考のこれら二つの要素は、数学だけには限定されず、すべての学問に共通しています。これらの思考のタイプは教えられて身につくものでもありません。考えている内容についてより多くを知り、より多くを経験すればするほど、比較による思考はそれだけ効率的になり、対処法は改善されます。また、より多くを知れば知るほど、創造性もより効率的になります。したがって、いろいろな変化に富んだテーマについて学ぶことは、知識と経験の蓄積を豊かにし、思考力を高めるのに有益です。同じことは数学にも当てはまります。より多くを学び練習すればするほど、うまくできることが多くなるでしょう。この法則はすべての教科について成り立ちます。人は思考法を学ぶのではなく、内容を学ぶのです。
  わたしは数学を教えている友人だちから、なぜ君はそんなに衒学的なのかと聞かれます。友人たちの言い分によると、こういった内容、すなわち論理的な問題の演習などのことを、世間では「数学的思考」とよぶのです。しかし、これは単によばれ方の問題であって、本質とは関係がありません。このように主張する人たちは、数学という専門職の犠牲者です。その人たちには言葉が学習に及ぼす影響が見えていないのです。説明しましょう--数学では名前をつけること、すなわち、新しい数学的な実体やある特定の操作を表すのに適した名称を考案することは、一つの行動規範として認められています。本書の最初の方でも、群や体という術語が出てきています。また、数学には、木、行列、多様体、オートマトン、マシン、モンスターも登場します。ある性質やある特定なものの集まりに対して、新しい包括的な名前をつける動機は明らかです。何かに数学的な名前をつけ、その名前の根底にあるものを自分のものとして把握したとたんに、何について話しているのかを最初から説明し直すことなくそのものに言及できるからです。名前をつけることは任意ではありません(この事実は、高等教育においてさえ、数学の授業の中で十分には説明されていません)。どんな権力者でも、数学的概念にあなたが選んだ任意の名前を与えることを禁じることはできません。群の代わりにそれを象とよぶとともできたはずだし、一般的に数学的な木とよばれているものに、モーゼという名前を与えることもできたはずだし、無意味な音節をつなぎ合わせて名前をでっち上げることだってできたはずです。そうであっても、数学ではそのような慣例はありません。数学の木はある程度は木を連想させ、群という言葉が選ばれたのはそれがある実体の集まりとその間の関係を指し示しているからであり、ほかの用語についても同様です。
  知的なプロセスは連想に基づいています。もし数学の木を蒸気船とよんだり、関数という用語を象という言葉に置き換えることになれば、これらの用語を使う者を困惑させることになるでしょう。なぜならば、そういった用語はおそらく使う人の心に河川や動物園のイメージを呼び起こすからです。ある特定の名前の選択にもっともな理由がある場合でさえ、混乱の原因となり得ることは事実です。数学の木は植物学の木ではありません。数学科の卒業生はこの用語で混乱しないでしょうが、数学に縁のない人が混乱することは十分にあり得ます。任意ではない名前、誤解を誘発しない名前、すなわち、その概念に関連する直観が育つことを許容する名前を選ぶ重要性がとこにあります。
  高度な数学の素養をもった人は十分によく訓練されているので、数学の中のある特定の内容が「数学的思考」とよばれると、「思考」という用語の直観的な意味を抑制します。このことは、数学的思考の講座を提供する側の人たちにも当てはまるように思われます。しかし、一般の人々にとって思考という概念は、ある分野の内容を学習すること以上のことを意味します。数学や論理学のある特定の面に対して数学的思考という用語を使うことは誤解を招きやすいか、あるいは少なく見積もっても誤りです。とくに、その講座が単なる補足的な(そして非常に断片的な)数学的知識以上のものを提供しているとほのめかされている場合には。これはまた、非現実的な希望を呼び起こしているという意味での問題でもあります。期待が実現しないことによる失望という結果は、実害を及ぼすことがあります。将来子どもか親のどちらかが数学のある特定のトピックの理解に困難を感じたとき、自分たちが何らかの能力的な障害を負っていると結論づけてしまいかねないのです。何といっても、その人たちは何だかよくわからない数学の一般的な講座ではなく、数学的思考法の講座を修了したのですからね!
  詐欺行為については目をつぶることとするならば、数学のある部分、論理のパズル、さまざまな数学的な技巧を学ぶとと自体には何か悪いことでもあるだろうかと問うことができるでしょう。もちろん、学ぶととは、それ自体において、何も悪いことはなく、親の経済的状況、代わりに子守りに支払うコスト、参加することによって子どもが(親がではなく)得る喜びの量によって決めればよいことです。しかし、この数学を、教室の外における日常的行動の指針にすべきであるかのように提示することには、何か悪いことがあるのです。「数学的思考」を数学とその応用を超えて、一つの必要性として、あるいは、人生に有益なものとして提示することは害になる公算が高いのです。少し前のことになりますが、数学の教育に定評があり、傑出した生徒たちを数学オリンピックに向けて訓練することで知られているある有名な中等教育学校の教師に会ったことがあります。その教師は、数学的思考についてわたしがとこで述べている見解を聞いたとき、かんかんになって怒りました。彼が主張したところによると、彼は単なる数学の教師ではなく、むしろ、生活のすべての領域で正しく考えられるように生徒たちを訓練しているのだということでした。彼の議論によれば、生徒たちは一挙手一投足までも数学的思考によって検証しなければならないということでした。なんという可哀想な生徒たちだろう。わたしは心の中で思いました。まさに、「どうやって足並みを揃えたら、そんなふうに二十三番めの右足と十二番めの左足が前を向き、十七番めの左足と十九番めの右足が後を指すように具合よく按配できるんだい?」と尋ねられるまでは、至って心地よくぶらりぶらりと散歩に興じていたむかでみたいじやないか。その生き物は道の真ん中で立ち止まったかと思うと、どの足も動かせなくなったとさ。わたしたちには日常生活の中で一挙手一投足を論理的に分析している時間はありません。わたしたちは直観を使わなければならず、ミスが起きることは確かに受け入れることができ、あるときにはむしろそれが好ましくすらあるのです。数学と論理は生活を管理する道具として使われるなら、助けにはならないばかりか、むしろ妨げになってしまうことが多いのです。
  だとすれば、数学的思考のクラスに参加することには、何か利点があるのでしょうか。再び、それはほかにどのような選択肢があるかによります。もしテレビでいわゆるリアリティ番組を観ることとの選択であるなら数学のクラスの方がより好ましいように思われます。もし別の選択肢が演劇グループや文芸サークル、あるいは、体操クラブかフットボールチームであるのなら、選択は子どもの好みや子どもの身体的、精神的健康のためにどちらがよりよいかに依存します。
  このような課外講習は、実際に間接的な害を及ぼすかもしれません。というのは、その種の演習問題が数学の全体を反映しているという印象を与えがちであり、また、傑出した生徒たちに可能な限り速く先に進ませようとする圧力がかかるからです。卓越性へのこのような努力は、生徒がより高度な内容を時期尚早に、つまり準備がまだできていないときに学ぶ結果になることがあります。このような集団の中で飛びぬけた子どもは、傑出した生徒たちのための特別講座に参加するために大学に送られることがあります。このようなコースを受けるのに十分なだけ成熟している生徒もいますが、そうでない生徒(実際は、大多数)にとって、早期に見られる卓越性は非常に狭い分野に限られ、そのような早期の段階で高度な学習に追いやられることは有害です。これらの生徒たちは、要求されている内容をきちんと自分の中に取り込めず、数学について誤ったイメージを抱いてしまいますが、それは生徒たちの才能が足りないからではなく、必要な成熟の度合いに達する前に勉強を始めてしまったからなのです。最近、わたしが勤務している大学で、大学院課程の人試を受けにきた学生たらの面接に何度か臨席しました。受験生たちは、傑出した学生のための特別プログラムの一つを受け、非常に早い年齢で学部卒の学位を取得してきていました。悲しむべきことですが、その学生たちのうちの数名に関しては、そのプログラムによって真に科学的なキャリアを得るチャンスが破壊されていました。
  正確な用語のもつ重要性を示す例をもう一つ挙げましょう。「数学は自然の言語である」という格言を考え出しだのはガリレオでした。それは素敵なアナロジーですが、アナロジー以上のものではありません。その意味での「言語」は、わたしたちがこの言葉を対人的な表現の文脈の中で理解する意味でのコミュニケーションの手段ではありません。イスラエル教育省が設置し、理論物理学者であり教育者でもあるハイム・クフリを委員長とするある委員会は、学校教育において数学教育がより重視され、強化される必要があるとの提言において、言語としての数学のメタファーを使いました。そこから、有名学校の校長先生が新入生とその親たちに向けて「わが校では三つの外国語を教えています。英語、フランス語、そして数学です!」というメッセージを発するまでは、ほんの一歩の距離しかないことは明らかです。数学を外国語とよぶことは、ただ不適切であるというよりほかありません。それはわたしには、三歳から六歳までの年齢の子どもたちに母語レベルまで数学を身につけさせることを保証しますという、右で言及した講座の企画者たちが発した約束に似たものに思えます。彼らの意図が、子どもたちをもう少しだけ数学と仲よしにすることだけであったのなら、とくに問題はありません(とはいっても、わたしにはとくにそのテーマについて特別レッスンをするメリットがわからないのですが)。しかし、母語という用語の根底にわたしたちが母語を吸収して使うのと同じように、子どもたちに数学への直観的洞察力を獲得させましょうという約束がもしあるのであれば、わたしは危惧します。
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読書の未来

『読書の価値』より 読書の未来

 日本で電子書籍の普及が遅れる理由

  少々話がズレているので、軌道修正しよう。本というものの形態について書いている。判型、文章のレイアウト、文章の読みやすさ、などについて書いてきた。ここに至って、当然出てくるのは、電子書籍だろう。
  電子書籍というのは、二十年以上まえから存在した。僕がデビューした頃に、既にネット配信、あるいはネット連載されている小説もあった。誰もが、本は将来この方向へ進むだろう、と考えていたはずだ。
  ところが、一向に広まらなかった。
  まず、フォーマットの問題があった。デジタルのテキストをそのまま配信すれば、簡単にコピィされてしまう。プロテクトをどうするのか、また、どのように販売するのか。
  こういった問題に対して、出版社はまだなにも考えていなかった。否、考えている人はいただろうけれど、動きとして現れなかった。ネットで、そういった配信をしているのは、むしろ個人の作家であって、グループになっていても数人の単位でしかなかった。
  出版社には、苦手な分野だったこともある。文系で、本好きな人材が集まった組織だから、当時まだパソコンもそれほど活用されていなかった。僕がデビューした一九九六年、電子メールで連絡ができる編集者はごく限られていた。連絡は、手紙かファックスで、緊急の場合は電話だった。
  インターネットは、しかし数年で広まった。今世紀になったところで、ほとんどの人がアクセスするようになりAmazonなどのネット書店も登場する。つまり、ネットが普及しても、まだ印刷書籍を宅配で送りつける販売システムが先行していたのである。このこと自体が、僕には理解しがたい状況だったが、でも、社会というのはそういうもの、すなわち鈍重でなかなか変われないものなのだな、と思うしかなかった。
  各所で、電子書籍の配信が始まったものの、どんな端末、あるいはソフトでそれを読むのか、という点で統一されない。パソコンを使うのが手っ取り早いが、それでは携帯性に問題があって、印刷書籍の便利さに負けてしまう。そのうちに、非常に軽い端末が登場し始めて、この問題は解決するのだが、その値段が下がるのに多少時間がかかった。つい、文庫本の価格の安さと比べてしまう。日本の本は、世界的に見ても安すぎるのである。
  出版業界が消極的だったこともあってか、「自炊」なるものが流行りだした。これは、スキャナで本を一ページずつ読み込ませてデジタル化する行為の俗称であるが、著作権侵害となる行為、つまりデジタル化したデータを他者に配布することが問題となるため、そうではなく、自分一人のためにやっているのだ、という意味で「自炊」と称したのだろう。けれど、製本された本を分解しなければならず、一人用ではやるメリットがほとんどない。やがて、本格的な電子書籍の販売が始まって、自炊の影は薄れた。

 本の未来像

  作家自体は、仕事として残る。これは、小説家に限らず、あらゆる分野のライタが、むしろ増加するはずである。そういったものが、人間に適した、残された職業といえるものだからである。
  たとえば、小説家というのは、作品を一人で制作する極めて珍しい業種である。映画も音楽もアニメもドラマも、大勢の人間が関わらないと作れない。監督などの代表者はいるけれど、その人の才能だけで作られるものではない。その点、小説は、たった一人なのだ。ここが非常に特殊な点である。
  作品に感動すると、読者は作家という個人に興味を持つことが多い。個人の才能に憧れを持つ。アニメで絵が気に入ったとしても、その絵は監督が描いたわけではない。小説は、すべてが一人の頭脳から生まれる。結局、人は人に最も興味を示し、人に憧れ、人に導かれたい、と願うものだ。
  したがって、AIが作品を書けるようになっても、読者はどうして良いかわからないだろう。興味本位で読まれるかもしれないが、憧れて良いものかどうか、もやっとしたままになる。これは、将棋や囲碁の名人をAIが破っても、憧れの対象とならないことでも既に証明されているのではないか。
  そういった意味で、文章を書くこの職業は将来も不滅である、と僕は予想している。ほかのどの職業よりも人間に向いている、といえるかもしれない。おそらく、AIが作品を書くようになっても、それを隠し、人間の作者を装うだろう。
  それよりも、書物をAIが読んで、その内容を掻い摘んで話してくれる、といったアシスタント機能が、読者側でそのうち実現するはずである。質問すれば、それに答えてもくれるだろう。そうすれば、難しい本も読めるし、読む時間を短縮できる。世界中から、自分にとって面白そうな本をAIが見つけてきてくれるだろう(ここに、多少危険性を感じるが)。
  それは、どこに組み込まれるのか、予想できない。本に付随したものになるのか、それともスマホのように、個人に付随した装置になるのだろうか。おそらくは後者だろうけれど、前者であれば、新作に限っては作家が関与できる。つまり、本に作家が付いてくるような形態になって、中身を読んだあと、読者は作家に直接質問ができるのだ。
  ニュートンやアインシュタインが、そのうちキリストのように復活することになるだろう。本の未来像というのは、つまりは作者そのもの、人間に近づいていくのではないか、と僕は想像している。

 出版社は読者集団のままで良いのか

  少し冷静になって考えてみてほしいのだが、国語が得意で、本を沢山読んでいる人たちは多い。たとえば出版社の社員はほぼ例外なくこのタイプだ。
  その出版社が、小説の新人を募集しているのはどうしてなのだろう? 自社の社員に小説を書かせたら良いではないか。そんなに儲かる美味い話ならば、編集者はどうして自分で小説を書かないのか?
  「才能」といったものが存在するのかしないのか、僕にはよくわからない。少なくとも、この言葉のおかげで、「自分には才能がない」と諦めることができるらしい。
  僕にいえることは、たとえば森博嗣であれば、国語が苦手で、小説など大して読んでいなかった(特に国内の作品はほとんど読まなかった)ことが、有利な条件だった、という観測である。だから、国語が得意だとか、小説を沢山読んでいることは、不利な条件だと僕は考えている。そういう人には、もしかしたら向かないのではないかと。
  なにかスペシャルなものを持っている人は向いているだろう。これならば自分が日本一だ、というものを持っていれば、本を出すことができるはずだ。売れるかどうかはわからないが、その一点だけで、出版社を説得でき、少なくとも一冊は本にできる。
  出版というビジネスは、今後はどんどんマイナヘ向かうだろう。「本」に拘っている場合ではないし、「文章」に囚われている場合でもない。大量にコピィして配布するというビジネスモデルも、根本的に見直す必要がある。
  実は、そういった岐路は、二十年ほどまえにあったのだ。だから、今から考えたのでは完全な手遅れではあるけれど、しかし、だからといってこのままずるずると進んでも、消えていく道しかない。
  大切なことは、新しいものを見つけて、それらを試してみることである。当たらないかもしれないが、「当たる」という現象が、既に過去のものだ。もう少し堅実なスタイルに切り換え、長く続けられるモデルを模索しつつ築いていくしかない。ほかにないものを作り出せれば、それにしばらく槌ることができる。
  そして、出版社自体が、コンテンツを産み出す努力を惜しまないこと。外部の才能を探すだけではなく、自分たちで創作するのだ、という姿勢をもっと持ってほしい、と感じる。これは、インプット側の人の集団である今の出版社には難しい課題のようにも見えるけれど、その変革しか出版界を再生する道はないように、僕は思う。
  これまでの出版社は、ある意味で読者集団だったのだ。これからは、作家集団に生まれ変わってはいかがか、という提案である。
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悪妻の日

悪妻の日

 今日は「悪妻の日」ソクラテス自殺の日。悪妻だとトルストイにも当てはまる。「良妻の人」なると やはりムハンマドの奥さんのハルージャ、何でしょう。

 モーツアルトの奥さん「コンスタンツェ」も悪妻。初演まで一ヵ月を切っている。生ちゃんは握手会どころではないはず。だけど、律儀ですね。

「無期限」の意味

 「無期限」で思い出すのは、教養部封鎖の後に全共闘の連中が言った言葉。「無期限ということはいつでもやめれる」。発想を柔軟に市内と。

ロシアの鉄道

 頭の中を「さらば シベリア鉄道」が流れている。シベリア鉄道だと7日間かかるけど、ヘルシンキ-ペテルスブルグならば6時間でフィンランド駅に到着する。

 上空から見たペテルスブルグとは異なり、地上だと情緒あふれるものになる。ヘルシンキの操車場で見かけた。車掌は女性だった。そのまま、生きたかった。切符がなくても、ヨーロッパの駅は入り込める。

ハイデガー『存在と時間』中村元訳

 やっと、「存在と自由4」が出てきた。中村元訳が一番。これだけは、ゆっくりと味わおう。生活費3000円ダウンを本で補おう!

『読書の価値』

 世界で見ると、紙の本よりも電子書籍の方がやさしい状態になる。「紙」そのもの、製本技術が不要になる。ベルギーでは森の保護のために木が切れないので、紙が高いので、本が少ないと言っていた。

 ノルウェーでは、町の規模が小さくて、離れているので、図書館の本の流通ができない。アフリカではさらに状況が悪い。それに比べて、電子図書ならば、スマホとネットと電力があれば、「本」を読める。

 電子書籍が「本」の役割を果たすことになる。先に進むことになる。

『数学がいまの数学になるまで』

 数学ほど、良さが伝わらないモノはない。偏見に溢れている。様々な世界からできている。デカルト平面の世界、微分・積分の世界、トポロジーの世界。そして、未来の数学の世界。皆、様相が異なる。

『抵抗者たち』

 今回分かったのが、ワイマール時代の警察がそのまま、ナチの警察に変わってしまったと言うこと。信念で警官になったのではなく、職業として警官になったのでしょう。

 多分、教師も牧師も一緒なんでしょう。信念を曲げるという意識もなく、暴力に屈するのでもなく、そういうもんだという感覚だったんでしょう。

 もう一点は、ヒットラー暗殺が成功していた時に事態がどうなっていたかです。ドイツが空白地帯になって、「エルベ河の戦い」が始まったかもしれない。
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豊田市図書館の30冊

024.06『本屋という「物語」を終わらせるわけにはいかない』

383.15『セーラー服と女学生』100年ずっと愛された、その秘密

234.07『抵抗者たち 反ナチス運動の記録』

371.45『子供がネットに壊される』いまの科学が証明した子育てへの影響の真実

410.2『数学がいまの数学になるまで』

160.4『宗教と資本主義・国家』激動する世界と宗教

253『アメリカ「帝国」の中の反帝国主義』トランスナショナルな視点からの米国史

335『企業論』

289.3『スティーブ・ジョブズ Ⅳ』楽園追放とピクサー創立

134.96『存在と時間4』

104『この世界のしくみ 子どもの哲学2』

709『文化政策の現在2 拡張する文化政策』

209『海賊の文化史』

914.6『終わりと始まり 2.0』

023.1『進む、書籍PR!』たくさんの人に読んでほしい本がありまう

019『読書の価値』

141.22『声のサイエンス』あの人の声は、なぜ心を揺さぶるのか

164.31『ギリシア神話シンボル事典』

778.8『朝ドラには働く女子の本音が詰まっている』

112『英米哲学入門』--「である」と「べき」の交差する世界

601.1『地域プロヂュース、はじめの一歩』

694.6『スマホで困った時に開く本2018』

289.3『マリー・アントアネットの最期の日々 上』

289.3『マリー・アントアネットの最期の日々 下』

319.1『グローバル化する靖国問題』東南アジアからの問い

727.6『日本のポスター』

280.8『悪の歴史 西洋編 下』隠されてきた「悪」に焦点をあて、真実の人間像に迫る

130.4『15分間哲学教室』自分の頭で考えたい人のための

384.7『いろごと辞典』

312.1『原敬日記を読む』
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未唯宇宙 5.5.1~5.5.4

5.5「情報共有」

 仕事で得た最大の暗示は、今後の世界が情報共有でどう変わっていくか。歴史から見てもこれだけの情報共有で個々が影響される時代は初めてです。それを要素分解していく。

5.5.1「ネットワーク」

 配置された個々がつながっていくためのインフラ。ノードにクラウドがあり、循環を支援する。

 インターネットを見た時に、感じたのはトポロジーそのものだということ。点に対して、近傍があり、チェーンでつないで、全体を構成する。ローカルとグローバルの役割が明確になっている。発信することで空間が作り上げられる。

 非同期で、双方向の接続が可能になる。それにより、個と全体がつながる。個の発信が意味を持つようになる。市民の武装化が始まった。 それらを決定づけたのはスマホ。

 スマホはゲームのためのものから、コミュニティのためのものに進化する。マーケティングそのものがスマホを中心に動き出す。企業はそれに乗っかるしかない。コミュニティは政治形態を改革する形になる。

5.5.2「メッセージ」

 ネットワークの上を走るのはメッセージ。本とか文章ではなく、メッセージです。Twitter の果たした役割は大きい。リアル性が初めて可能になった。情報をバラバラにし、バラバラものを再構成する。

 つぶやきは多様な形式を可能にした。本を固定的な塊から解放させる。好き嫌いで物事を先に進メルコとができる。デジタルでこそ可能な形ができる。

 リアルタイム性が初めて歴史に登場した。これが歴史をどう変えていくか。根底となる哲学がない世界で一人歩きしているのは確かです。人類の未来という方向性を与えられなければ、壊滅につながる。

 メッセージという小さなものになったことになって、透過性が高まった。どの階層でも繋がっていく。メッセージの解釈は受け取った個々が解決することになる。新しい空間が創造される。

5.5.3「コンテンツ」

 ネットワーク上を走るものはコンテンツから発信される。またコンテンツに集約される。独立なものとしてのコンテンツ。国家とか企業とかに支配されないコンテンツ。Googleが描いた、知の世界のベースになるもの。

 テッド・ネルソンが描いたザナドゥ空間のように著作権を超えないといけない。知という共有物に所有は不要です。より多くの人に思いを伝えることを第一優先となる。その思いにどう答えるかが人類を導くことになる。

 情報を共有社会においては、各領域でのナレッジをいかに生成するか 。そこにおいて個々の知は加工される。Echoのように体系化されていく。

 メッセージが情報の分化ならば、コンテンツは情報の統合。受け手側で自分に合った形で統合されていく。そのコンテンツからまた他者に発信される。それによって何がなされるか。意思決定です。

5.5.4「意思決定」

 販売店システムの時に、ミーティングの形態を変えたかった。お客様の代表者としてのスタッフ、その意見を集約するミーティング、それをコラボレーションとしてとらえたかった。販売店の支配関係では無理があった。お客様からの発想に変えていくには時間が必要。

 テレビ会議などのツールは作ったが、販売店のミーティングというのが意思決定の場ではなかった。そこですれ違ったので、思いは伝わらなかった。売ることを中心の世界ではやはり意思決定は与えられたものです。いかに使っていくかという視点ができるまでは。

 いかに使ってくのかという意見の集約。そのためには使える、代表であるという思い、伝えようとする能力。それらを時間と場所を超えて可能にするのは今あるツールでできる。

 意思決定にとって重要なのは決定過程。情報共有の時代においては、多数決はありえない。ユニットとナレッジが多数決に代わる。それぞれの結果で決めていく。。そこから全体を作る。ゆえに全体は偶然の産物。

 政治形態も当然変わっていく。意思を企画に反映する。マーケティングが変化することにより、組織自体も変わる。

 全体があって意思決定があるのではなく、意思決定があって全体がある。そうなれば孤立と孤独も問題ではない。それは意思です。
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未唯宇宙 5.4.3~5.4.4

いくちゃんの「さらばシベリア鉄道」

 好きだった太田裕美の歌をいくちゃんらが歌ってくれた。嬉しいことです。40年前の歌でしょう。次は「木綿のハンカチーフ」をお願いします。

5.4.3「サービスが主体」

 ヘッドである販売店がでは何をするのか。それがサービス。それも高度サービス。車を売ることから車を使うこと。社会がそれに移行する。それに先駆けて、販売店は変わっていく。

 市民との接点として、要望をまとめ上げる。そのために市民に寄り添う体制をとる。ソーシャルツールを用いて、市民の状況を把握する。スタッフ1人が300人と関係を持てば、車を仲介して、2000万人ぐらいを把握できる。

 ユニット単位で市民を支援する。コミュニティの乃木坂のユニットをイメージすればいい。メンバーの特性を活かした活動が全体をコミュニティが守る。

 スタバのように高度サービスを目指す。お客様一人に対応していく。 その時に好き嫌いで展開する。

5.4.4「ソーシャル活用」

 販売店システムでネットワークからソーシャルに入り込んでいった。それらにサファイアつまりSa-の冠をつけた。ネットワークを使って6000拠点での対応を始めた。

 地域を見ている販売店には好評だったが、メーカー頼りの販売店には ピンとこないものがある。

 ソーシャルツールを使うことによって、全体の横展開が可能になった。ある地域で有効なものを他の地域に展開するの容易だった。

 一番重要なのはコラボレーションでしょう。意見集約して、それをナレッジ化する。情報共有のもとになる。それを可能にする、つぶやきなどのメッセージ性、個人の環境を作り上げるポータル。
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未唯宇宙8.8

8.8 クルマ社会
 ・クルマ社会を社会の位相化で作り出す。夫々の場の知識と意識をポータルでつなぎ合わせた世界をイメージする。手順として、コミュニティで個人が分化して、組織の分化を促す。クライシス想定で、環境社会に対応させるために、企業は地域コミュニティを支援する。企業を変えて、地域を変えて、社会を変えていく。
 ・クルマ社会
 ・クルマ社会
 ・クルマ社会
 ・内と外の関係でクルマを作り上げる
 ・新しい意味でのクルマ社会

1 クルマは共有
 ・ポータルで本部の情報、メーカーの情報と連携して、知識を備える。店舗でのコラボで討議して、意識を明確にする。本社・店舗間のポータル連携と、お客様からのフロー情報をグループで共有して、展開する。クルマを使う、多様なケースで市民との有機的につながる。
 ・「公共財」と「フリーライド」(タダ乗り)の問題
 ・公共性(公共的空間)
 ・ポータルと個人環境

1-1 社会的費用
 ・研究開発部門の時と同様に、現場での個人の分化のための武器を準備する。店舗コミュニティでの情報共有のために、ソーシャルウェブのポータルに、各種メッセージを集約する。安全・安心に発信することを支援する。販売店ライブラリに意見集約することで、知識と意識を表す。それをローカル間でやり取りする。

1-1.1 地域インフラ
 ・ヨーロッパの「組織」としての社会的企業
 ・エネルギーは個人所有なのか
 ・公共領域の浸食
 ・知識と意識のヒアリング

1-1.2 公平な配分
 ・ヒアリングのテーマ スタッフの武装化

1-1.3 公平に負担
 ・外部化という言葉
 ・社会全体のコスト負担
 ・先見性の失墜
 ・『自動車の社会的費用』は正しい
 ・自動車メーカーの利益の源泉
 ・世界の無秩序なクルマ社会の現状
 ・コミュニティでのクルマの存在

1-1.4 交通インフラ
 ・『自動車の社会的費用』の背景
 ・無人運転をイメージ
 ・未来の交通社会
 ・道路交通を取り巻く社会インフラ
 ・情報集約センター
 ・未来の交通社会の実現のために

1-2 車は誰のもの
 ・本部・店舗間のポータル連携をスタッフ個人からグループ対応をベースにする。お客様とはチャッターコミュニティで対応。ポータルをニーズに合わせる。現場を近傍系と捉え、トポロジー的考え方で拡大させる。共通接点を持つ仲間を経由して、接続し、グループの目的意識で工夫する。

1-2.1 所有から利用
 ・派手な車が存在する意味がない
 ・車の個人所有の意味
 ・国の所有から個人の所有 
 ・私人による供用
 ・車の所有に関して
 ・車の所有権をなくした世界
 ・自由と所有権
 ・所有の考え方

1-2.2 駐車場をなくせ
 ・めいわく駐車
 ・豊田市の車の連中
 ・トポロジー的な考え
 ・一般意思をトポロジーで考える

1-2.3 地域と市民の接点
 ・「スタッフの武器化」の内容
 ・店舗コミュニティでのスタッフの分化

1-2.4 資本主義の限界
 ・個別所有と共有との比率
 ・所有するのは面倒なこと
 ・ツールを先行させる
 ・一般意志と個人意志、そして全体意思

1-3 自動運転対応
 ・準備された武器は、個人の環境に合わせることができるようにする。ポータルでの個人環境の設定を行う。機能については、販売店のシステムサイドで自社の活用シーンに合ったカタチに開発し、使い方も変えていく。職種に合った多様な使い方を行い、横展開する。

1-3.1 クルマに意識付け
 ・車は正儀ではない
 ・自動運転の青木さんは24時間考えていた
 ・自動運転の歴史
 ・この街のクルマという品格
 ・買うことの社会性

1-3.2 環境社会につなぐ
 ・産業振興の観点で進む自動運転への政策支援
 ・自動運転が未来を変えるとしたら
 ・自動運転は技術ではなく、インフラだということ
 ・環境政治--国際主義の黄昏

1-3.3 保有台数1/10
 ・自動運転は自動車メーカーには無理
 ・自動運転車に場所と走り方を教える地図
 ・人が通るはずがないのに、信号機に従うのか

1-3.4 メーカーが保険負担
 ・安全は車メーカーが保障する
 ・生まれてきた理由
 ・内なる世界から発想

1-4 公共のもの
 ・まずは、店舗コミュニティの中での有機的なつながりを規定する。ツールとしては、チャッターでのコラボを存在を起点に仕掛ける。コミュニティでの知識と意識を、地域コミュニティなどに拡大し、融合させる。

1-4.1 場をつなげる
 ・豊田市はソドムの街
 ・コミュニティバス
 ・スタッフのコミュニケーション

1-4.2 コミュニティの役割
 公共性(公共的空間)

1-4.3 地域の意思
 ・半分以上、停まっています。どういう交通b体系だ。車は本当に非効率です
 ・変な車に乗る人たち

1-4.4 地域で融合
 ・公共圏、そして共生圏へ
 ・会社のコミュニティ

2 コンパクト社会
 ・2015年のインフレーションなどを想定すると、地域コミュニティが前提となる社会になる。コンパクト化、シェア社会、ローコスト・ローエネルギーに対応していく。変革は地域主体になるが、企業は先行して、社会改革を行い、ゆるやかな環境社会へ変えていく。
 ・企業の新しい役割

2-1 地域の自立
 ・国際的な環境社会に向けた協調が必要になる。行政は市民と協働で、地域主体で、新しいインフラを作る。地域コミュニティで、多様な市民の状況を把握することが前提になる。企業の力を使って、市民に先行して、社会改革を加速する。この会社の2015年から30年までの事業計画を表す。

2-1.1 環境社会に移行
 ・車と地域との関係
 ・先進国の都市化と都市問題 デトロイト
 ・地域にとっての販売店
 ・地球規模の課題

2-1.2 家族制度の変革
 ・自動運転車で自動車の数を九割削減
 ・国民国家とスタッフの参画

2-1.3 教育制度に反映
 ・お客様=市民の関係から、市民活動につなげる

2-1.4 市民・地域の分化
 ・革新企業は社会を変える
 ・今後の事業計画
 ・本当につながりたいのか

2-2 いいとこ取り
 ・地域としては、生活者のライフスタイルで環境を変えていく。地域のインフラは一世代単位で、拡大からコンパクトに変えていく。社会の基本はシェア社会に移行する。社会の津殻を生み出す企業の目的を地域への支援に切り替え、地域コミュニティと協働する。

2-2.1 ライフスタイル
 ・生活をコンパクトにする
 ・【カーシェアリング】【クラウド・コンピユーティング】
 ・知識表象

2-2.2 拡大から縮減
 ・五輪開催の損得

2-2.3 システムを設計
 ・街全体の設計

2-2.4 行政・企業と協働
 ・なぜ東京なのか?

2-3 イノベーション
 ・メーカーとしては、シェア車つくりなどを積極的に行い、個人の存在を生かすカタチにシフトする。地域に対しても、地域で生きていくことを主眼に、組み替えていく。国レベルで考えていた情報・資源を地域に分配して、収集する。スタッフの行動をB-B-Cの観点から、支援していく。

2-3.1 オープン改革
 ・グーグル・アース
 ・グーグル・アース
 ・オープン・イノべーション
 ・サービス・イノベーション

2-3.2 安全な場を確保
 ・レンタ・リースの先
 ・CSR経営

2-3.3 情報・資源の分化
 ・ブロックチェーンから見えてくる未来
 ・ブロックチェーンとはいったい何なのか
 ・グーグルの狙いは配車サービス
 ・超巨大企業

2-3.4 交通統合体系
 ・道路における分化と統合

2-4 クライシス対応
 ・クライシスとして、2015年のインフレーション、東海大地震がある。環境社会構築を前にして、国民の財産がひっ迫し、社会保障制度も崩れる。日本はそのまま、衰退していく。3.11のように国レベルでは対応不可。脆弱な基盤の上に、存在することを認識して、ゆるやかに、環境社会に移行するシナリオが必要となる。

2-4.1 ハイパーインフレ
 ・現代日本の四つの危機--哲学からの挑戦
 ・徐々に起こるクライシス
 ・2015年のインフレーション

2-4.2 社会保障制度
 ・健康と社会的費用

2-4.3 地域主体で復活
 ・被災自治体財政の分析
 ・ショウキに未来学者
 ・メーカーの危機
 ・マーケティングの革新

2-4.4 シンプルな社会
 ・通勤という名の駐車場
 ・MIRAIがMIIRAに見える

3 移動の経済性
 ・店舗コミュニティは市民コミュニティと一緒に使うための社会をめざす。カーシェアリング支援、新しい概念の車つくり。地域のテーマとしては、いい町・いい社会のために、新しい交通体系とか、地域エネルギーの地産地消を一緒に作り上げる。エネルギーも同様に対応する。
 ・経済の自由化と政治の民主化
 ・交通体系を市民の手で

3-1 交通体系
 ・市民のクルマ好きからの提案を集めて、新しい車活用社会としてまとめる。メーカーからアンケートに折込、企画に影響。店舗でのサービスに対するお客様のつぶやきに店舗コミュニティで対策していく。購入後、定期的報告とも連携する。

3-1.1 交通機関の進化
 ・世界主要都市における交通システムの実力
 ・クルマは公共交通機関
 ・プアな自転車レーン
 ・公共交通機関の進化

3-1.2 駐車場化した道路
 ・混んだ道と混んだスタバ
 ・豊田市の交通状態

3-1.3 道路交通法
 ・道路交通法解説
 ・経営管理 の内容

3-1.4 効率の考え方
 ・車は非効率な代物です
 ・車は中途半端な存在
 ・いい町・いい社会
 ・この会社の位相化
 ・自動運転車
 ・車は面積を取りすぎ
 ・超軽量自動車

3-2 多様な手段
 ・様々な場面でのシェアリングを地域コミュニティと連携して行う。特に、カーシェアリングの前提は市民の動きの把握して、発言を生かすことです。クルマに関して、市民のニーズを把握することから始める。専門家として、行政との連携の仲介を行う。

3-2.1 シェアリング
 ・メーカーの終わりの始まり
 ・増える自転車利用、サイクルシェア
 ・カーシェアリング
 ・ソーシャルウェブはシェア
 ・みんなで持つこと
 ・地域内自由確保/乗り捨て型

3-2.2 軽車両の権利
 ・豊田市の自転車道の作り方
 ・水素ステーションの安全性
 ・クルマに対して、人類の覚悟が足りない
 ・デトロイト破綻
 ・クルマ社会のインフラ
 ・バスレーンは効率的

3-2.3 移動ニーズ
 ・モビリティーシステムの進化例:マルチモーダル型サービス
 ・ネズミ講の構造
 ・相乗り型

3-2.4 新しい行政
 ・政府から見た導入の目的は三つ
 ・運営組織が車を所有
 ・社会変革
 ・目標達成のための施策を提示

3-3 社会的費用
 ・シャア社会としては、軽車両の有効活用も市民と一緒に考える。自転車道とか、地下駐車場などの整備を行う。あわせて、社会インフラについても、クライシス対応を含めて、行政に提案していく。電信柱などの地中化は必須です。

3-3.1 インフラに只乗り
 ・モスクワを自転車都市に
 ・自転車のグランド・デザイン
 ・目ざすなら世界最良の自転車都市 コペンハーゲン

3-3.2 車の幅が道路の幅
 ・水素活用の課題
 ・水素に関連して「必要な安全対策」
 ・自動車でも同様の変化
 ・車は不完全な存在
 ・外部費用化
 ・インフラがなくて済む交通手段
 ・クルマとインフラの関係
 ・インフラの占有に関して

3-3.3 中途半端な代物
 ・中途半端から脱しましょう
 ・渋滞という厄災
 ・自転車--日本のミニマイカー
 ・自動運転自動車の運転手は誰か
 ・持続可能な交通システム
 ・富山市まちづくり

3-3.4 安全の保証責任
 ・自動車運転をめぐる法律
 ・だれも加害者にしない車
 ・次はVRでしょう。それはなじみのある世界

3-4 エネルギー効率
 ・電気自動車は個人で保有するよりも、コミュニティで共有するカタチが望ましい。スマートセンサーなどでカタチにする。環境社会で、エネルギー分散ではなく、地産地消が基本です。こじぇねのネットワークなど、地域にあった方法を示す。

3-4.1 電気自動車は共有
 ・日産の『リーフ』
 ・三菱自動車の『アイ・ミーブ』
 ・エコの補助費

3-4.2 リアル販売店消滅
 ・20年後、「リアル店舗」がなくなると何が変わるのか
 20年後、自動車の生産台数が半分になると何が変わるのか

3-4.3 販売台数削減
 販売台数40%減の衝撃予測

3-4.4 公共への移行
 ・ラスト1マイル解決法
 ・『環境経営とイノベーション』

4 クルマの未来
 ・店舗をコミュニティと捉え、知識と意識をまとめて、スタッフの分化でマーケティングの変化に対応する。ソーシャルウェブで社会と接続し、グループ活動で限界を超えて、組織の分化を促す。その過程で、サファイア循環の四つの機能の意味合いを明確にする。
 ・クルマの未来
 ・数学と本・図書館と車の未来
 ・企業の内部の分化が目的

4-1 所有権放棄
 ・コミュニティの場を設定するキッカケは、環境社会の危機感を表現することです。売るから使うへ、マーケティングが変わることへの対応、存在意識からの個人の分化を単独で行うことの限界から、共通の問題意識を持つグループが力を出せる場所を作る。

4-1.1 ステイタスは不要
 ・先進国の自動車台数は減少へ
 ・車を所有する不便さ
 ・クルマがステイタスな世界
 ・車に依存する人
 ・車はモビルスーツ

4-1.2 マーケティング
 ・規制が緩和される方向ヘ
 ・ステルスマーケティング
 ・スタバのブルマン

4-1.3 所有権をなくす
 ・プラトンが理想とする国家は私有財産が許されない
 ・所有が持つ意味
 ・財産権の歴史的変遷
 ・教養のヘーゲル『法の哲学』での「所有の放棄」
 ・デジタルで「所有」から脱却
 ・所有権放棄
 ・全体をシェアする世界
 ・個人の価値観を変えるモノ
 ・環境社会の危機

4-1.4 問題意識を共有
 ・ドクハラ
 ・看護師と医師とのやり取り

4-2 解決できること
 ・地域から、活動できる場として、市民コミュニティを作り上げる。外に向かっては、行政とか企業に対して、組織の分化を働きかける。その上で、関連するグループに働きかける。地域として、存在する理由からの活動が可能かどうか。クライシスに合った地区ではコミュニティが発達する。

4-2.1 シェア車開発
 ・MIRAIはMIIRA
 ・ハンドルがないクルマはありますよ
 ・グーグルカー
 ・シェア車開発はメーカーの責任
 ・クルマには未来ない
 ・パートナーの能力
 ・存在が見えていない
 ・居なくなること
 ・一人1テーマの世界
 ・組織の存在

4-2.2 ITとAI展開
 ・クルマ社会のあり方
 ・グーグルによる「分化と統合」
 ・提言報道の正体

4-2.3 車幅制限で渋滞解消
 ・無様な世界
 ・車は変わらないと
 ・クルマにおける自由と渋滞
 ・自動車交通のもたらすさまざまな問題

4-2.4 1/10保有の姿
 ・車がない世界を想像
 ・車の未来もそこから生み出した
 ・メーカーは次の社会が見えていない
 ・水素時代は来るはずない
 ・今のクルマ社会を壊そう
 ・大きなことをやるべきところ
 ・レクサスの今後の10年
 ・サファイア社会に向かう

4-3 シェア社会
 ・環境社会でのコラボから、知識と意識の概念が生まれた。知識のベースは集合知です。ソーシャルで社会と接続します。意識はコラボから生まれる。チャッターとかLINEをポータルで安心して使えるようにする。メンバーの見える化をして、コミュニティでの力にする。

4-3.1 ソーシャル管理
 ・車とリアル本のアナロジー
 ・クルマ社会で配置の実験
 ・シェアリングエコノミーとは何か
 ・ITによる新しいシェア
 ・エジプト革命は道具が先
 ・会議のシミュレーションと招集メールを送付する

4-2.2 共同利用
 ・カーシェアリング
 ・地球のあり方はマニュアルではない
 ・都内の中心部でよく見かける「赤い自転車」が、倍々ゲームのように増えている
 ・シェアリングエコノミー
 ・代車の運転
 ・公共の元での「所有」
 ・ソーシャルウェブに適応

4-3.3 状況把握で的確運用
 ・カーシェア事業で唯一黒字化できている「パーク24」の戦略
 ・民泊をやるうえでのハードル
 ・ツールが先か、意識が先か
 ・脳みそを活性化させる質問をどんどん繰り出す

4-3.4 ユニット設定
 ・「経済大変動」
 ・「会議の地図」をみんなで共有してスタートする

4-4 サファイア社会
 ・サファイアの四つの機能をコミュニティで設定する。市民活動を支援するファシリテーター、NPOから市民を勇気づけるエンパワーメント、行政に提案するインタープリター、行政とNPOでの協働活動のリアライゼーションとなる。地域活性化のプロセスになりうる。

4-4.1 ファシリテーター
 ・地域の活動への展開

4-4.2 エンパワーメント
 ・エンパワメント
 ・サファイア革命にもっていく

4-4.3 インタープリター

4-4.4 政治形態の変革
 ・サファイアは方程式に対する解
 ・政治は変えていくもの
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