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数学的思考法--そのようなものは存在しない

『数学がいまの数学になるまで』より 数学を教え、学ぶことはなぜそんなに難しい

 数学的思考法--そのようなものは存在しない

  市場には、わたしたちや子どもたちに数学的思考法を教え、伸ばすことを約束する本や講座、さらに進んだ研究コース、類似する魅惑的な商品が溢れています。指定の金額を支払うことに同意するだけで思考力は向上し、本当の意味で数学的思考法を身につけた人物になれるのです。いったい、少しばかりのF間を惜しみ、必要な令額をyへ払うことを阻んで、数学的に考える機会で得られる利益から子どもを遠ざけてしまう親がいるでしょうか。現代の世界で賢く生きていくことは数学的思考なしには難しいのです。(万一起こるかもしれない疑問の可能性を取り払うために言い添えると、ここまでの文章は皮肉の意味で書きました。)この傾向はすばらしいまでに行き届きすぎていて、ある新聞は、二歳児や三歳児のための数学的思考の講座についての記事を載せていました。「数学的思考」という言葉と「クラス」という言葉でインターネットを検索したことがあります。すると、リストの先頭には小学校一年生から始まって各学年の生徒向けの課外学習のクラスがずらりと並び、また三歳児から幼稚園児までのクラスもあって、その中には「母語として学ぶ数学」というクラスもありました。イスラエルの中心部に位置するある学校の保護者たちは、その学校に数学的思考法の課外クラスが開かれていないことに対して、教師や校長先生を相手に苦情を申し立てました。まるで、子どもたちのことなどはどうでもいいかのように、大人どうしが議論したのです。わたしが勤めている大学でも、ほかの高等教育機関でも、ちびっ子たちのための数学的思考法の講座が開設されています。でも、本当のことをいうと、数学的思考法などというものはないのです。そうけあるならば、そういった暮らすや講座ではいったい何が教えられているのかと尋ねてみたくなるかもしれませんね。答えは簡単です。そこでは何らかの数学的な内容が教えられているにすぎません。そこでは一般に数学の中でも比較的論理的な部分や、問題を解くためのトリックが教えられ、そのほとんどが「論理の問題」とよばれているのです。
  すでにここまでの間に、みなさんの心にたくさんの疑問が浮かんできていると思いますが、ひとつ一つ考えていきましょう。まず、「数学的思考などというものはない」とは、いったいどのような意味でしょうか。これらのクラスや講座の中で行われている活動を数学的思考とよぶととの何が問題なのでしょうか。このようなクラスに参加することは有害なのでしょうか。とびっきり役には立だなくても、何かの役に立つのではないでしょうか。
  本書ではこれまでのさまざまな節、とくに第62節において、いろいろな思考法について論じてきました。そこでは、思考とは主として状況を分析し、決定を下すことを意図した脳の活動であると述べました。どく大雑把に分類すると、その活動は二種類の思考に分けられます。一つは比較による思考であり、直面している状況を、解決法がわかっているほかの類似した状況と比較します。二つめのタイプの思考には、なじみのない状況に対する新しく、より創造的な対処が必要です。そこでもまた、脳は知っている限りの範囲の対処法を利用しますが、脳は必要に応じてそれらを修正し、更新しなければならず、また、時には新しくて創造的な対処法をひねり出さなければならないこともあります。思考のこれら二つの要素は、数学だけには限定されず、すべての学問に共通しています。これらの思考のタイプは教えられて身につくものでもありません。考えている内容についてより多くを知り、より多くを経験すればするほど、比較による思考はそれだけ効率的になり、対処法は改善されます。また、より多くを知れば知るほど、創造性もより効率的になります。したがって、いろいろな変化に富んだテーマについて学ぶことは、知識と経験の蓄積を豊かにし、思考力を高めるのに有益です。同じことは数学にも当てはまります。より多くを学び練習すればするほど、うまくできることが多くなるでしょう。この法則はすべての教科について成り立ちます。人は思考法を学ぶのではなく、内容を学ぶのです。
  わたしは数学を教えている友人だちから、なぜ君はそんなに衒学的なのかと聞かれます。友人たちの言い分によると、こういった内容、すなわち論理的な問題の演習などのことを、世間では「数学的思考」とよぶのです。しかし、これは単によばれ方の問題であって、本質とは関係がありません。このように主張する人たちは、数学という専門職の犠牲者です。その人たちには言葉が学習に及ぼす影響が見えていないのです。説明しましょう--数学では名前をつけること、すなわち、新しい数学的な実体やある特定の操作を表すのに適した名称を考案することは、一つの行動規範として認められています。本書の最初の方でも、群や体という術語が出てきています。また、数学には、木、行列、多様体、オートマトン、マシン、モンスターも登場します。ある性質やある特定なものの集まりに対して、新しい包括的な名前をつける動機は明らかです。何かに数学的な名前をつけ、その名前の根底にあるものを自分のものとして把握したとたんに、何について話しているのかを最初から説明し直すことなくそのものに言及できるからです。名前をつけることは任意ではありません(この事実は、高等教育においてさえ、数学の授業の中で十分には説明されていません)。どんな権力者でも、数学的概念にあなたが選んだ任意の名前を与えることを禁じることはできません。群の代わりにそれを象とよぶとともできたはずだし、一般的に数学的な木とよばれているものに、モーゼという名前を与えることもできたはずだし、無意味な音節をつなぎ合わせて名前をでっち上げることだってできたはずです。そうであっても、数学ではそのような慣例はありません。数学の木はある程度は木を連想させ、群という言葉が選ばれたのはそれがある実体の集まりとその間の関係を指し示しているからであり、ほかの用語についても同様です。
  知的なプロセスは連想に基づいています。もし数学の木を蒸気船とよんだり、関数という用語を象という言葉に置き換えることになれば、これらの用語を使う者を困惑させることになるでしょう。なぜならば、そういった用語はおそらく使う人の心に河川や動物園のイメージを呼び起こすからです。ある特定の名前の選択にもっともな理由がある場合でさえ、混乱の原因となり得ることは事実です。数学の木は植物学の木ではありません。数学科の卒業生はこの用語で混乱しないでしょうが、数学に縁のない人が混乱することは十分にあり得ます。任意ではない名前、誤解を誘発しない名前、すなわち、その概念に関連する直観が育つことを許容する名前を選ぶ重要性がとこにあります。
  高度な数学の素養をもった人は十分によく訓練されているので、数学の中のある特定の内容が「数学的思考」とよばれると、「思考」という用語の直観的な意味を抑制します。このことは、数学的思考の講座を提供する側の人たちにも当てはまるように思われます。しかし、一般の人々にとって思考という概念は、ある分野の内容を学習すること以上のことを意味します。数学や論理学のある特定の面に対して数学的思考という用語を使うことは誤解を招きやすいか、あるいは少なく見積もっても誤りです。とくに、その講座が単なる補足的な(そして非常に断片的な)数学的知識以上のものを提供しているとほのめかされている場合には。これはまた、非現実的な希望を呼び起こしているという意味での問題でもあります。期待が実現しないことによる失望という結果は、実害を及ぼすことがあります。将来子どもか親のどちらかが数学のある特定のトピックの理解に困難を感じたとき、自分たちが何らかの能力的な障害を負っていると結論づけてしまいかねないのです。何といっても、その人たちは何だかよくわからない数学の一般的な講座ではなく、数学的思考法の講座を修了したのですからね!
  詐欺行為については目をつぶることとするならば、数学のある部分、論理のパズル、さまざまな数学的な技巧を学ぶとと自体には何か悪いことでもあるだろうかと問うことができるでしょう。もちろん、学ぶととは、それ自体において、何も悪いことはなく、親の経済的状況、代わりに子守りに支払うコスト、参加することによって子どもが(親がではなく)得る喜びの量によって決めればよいことです。しかし、この数学を、教室の外における日常的行動の指針にすべきであるかのように提示することには、何か悪いことがあるのです。「数学的思考」を数学とその応用を超えて、一つの必要性として、あるいは、人生に有益なものとして提示することは害になる公算が高いのです。少し前のことになりますが、数学の教育に定評があり、傑出した生徒たちを数学オリンピックに向けて訓練することで知られているある有名な中等教育学校の教師に会ったことがあります。その教師は、数学的思考についてわたしがとこで述べている見解を聞いたとき、かんかんになって怒りました。彼が主張したところによると、彼は単なる数学の教師ではなく、むしろ、生活のすべての領域で正しく考えられるように生徒たちを訓練しているのだということでした。彼の議論によれば、生徒たちは一挙手一投足までも数学的思考によって検証しなければならないということでした。なんという可哀想な生徒たちだろう。わたしは心の中で思いました。まさに、「どうやって足並みを揃えたら、そんなふうに二十三番めの右足と十二番めの左足が前を向き、十七番めの左足と十九番めの右足が後を指すように具合よく按配できるんだい?」と尋ねられるまでは、至って心地よくぶらりぶらりと散歩に興じていたむかでみたいじやないか。その生き物は道の真ん中で立ち止まったかと思うと、どの足も動かせなくなったとさ。わたしたちには日常生活の中で一挙手一投足を論理的に分析している時間はありません。わたしたちは直観を使わなければならず、ミスが起きることは確かに受け入れることができ、あるときにはむしろそれが好ましくすらあるのです。数学と論理は生活を管理する道具として使われるなら、助けにはならないばかりか、むしろ妨げになってしまうことが多いのです。
  だとすれば、数学的思考のクラスに参加することには、何か利点があるのでしょうか。再び、それはほかにどのような選択肢があるかによります。もしテレビでいわゆるリアリティ番組を観ることとの選択であるなら数学のクラスの方がより好ましいように思われます。もし別の選択肢が演劇グループや文芸サークル、あるいは、体操クラブかフットボールチームであるのなら、選択は子どもの好みや子どもの身体的、精神的健康のためにどちらがよりよいかに依存します。
  このような課外講習は、実際に間接的な害を及ぼすかもしれません。というのは、その種の演習問題が数学の全体を反映しているという印象を与えがちであり、また、傑出した生徒たちに可能な限り速く先に進ませようとする圧力がかかるからです。卓越性へのこのような努力は、生徒がより高度な内容を時期尚早に、つまり準備がまだできていないときに学ぶ結果になることがあります。このような集団の中で飛びぬけた子どもは、傑出した生徒たちのための特別講座に参加するために大学に送られることがあります。このようなコースを受けるのに十分なだけ成熟している生徒もいますが、そうでない生徒(実際は、大多数)にとって、早期に見られる卓越性は非常に狭い分野に限られ、そのような早期の段階で高度な学習に追いやられることは有害です。これらの生徒たちは、要求されている内容をきちんと自分の中に取り込めず、数学について誤ったイメージを抱いてしまいますが、それは生徒たちの才能が足りないからではなく、必要な成熟の度合いに達する前に勉強を始めてしまったからなのです。最近、わたしが勤務している大学で、大学院課程の人試を受けにきた学生たらの面接に何度か臨席しました。受験生たちは、傑出した学生のための特別プログラムの一つを受け、非常に早い年齢で学部卒の学位を取得してきていました。悲しむべきことですが、その学生たちのうちの数名に関しては、そのプログラムによって真に科学的なキャリアを得るチャンスが破壊されていました。
  正確な用語のもつ重要性を示す例をもう一つ挙げましょう。「数学は自然の言語である」という格言を考え出しだのはガリレオでした。それは素敵なアナロジーですが、アナロジー以上のものではありません。その意味での「言語」は、わたしたちがこの言葉を対人的な表現の文脈の中で理解する意味でのコミュニケーションの手段ではありません。イスラエル教育省が設置し、理論物理学者であり教育者でもあるハイム・クフリを委員長とするある委員会は、学校教育において数学教育がより重視され、強化される必要があるとの提言において、言語としての数学のメタファーを使いました。そこから、有名学校の校長先生が新入生とその親たちに向けて「わが校では三つの外国語を教えています。英語、フランス語、そして数学です!」というメッセージを発するまでは、ほんの一歩の距離しかないことは明らかです。数学を外国語とよぶことは、ただ不適切であるというよりほかありません。それはわたしには、三歳から六歳までの年齢の子どもたちに母語レベルまで数学を身につけさせることを保証しますという、右で言及した講座の企画者たちが発した約束に似たものに思えます。彼らの意図が、子どもたちをもう少しだけ数学と仲よしにすることだけであったのなら、とくに問題はありません(とはいっても、わたしにはとくにそのテーマについて特別レッスンをするメリットがわからないのですが)。しかし、母語という用語の根底にわたしたちが母語を吸収して使うのと同じように、子どもたちに数学への直観的洞察力を獲得させましょうという約束がもしあるのであれば、わたしは危惧します。
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