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OCR化した8冊

『新しい買い物』

 「向きあう」より「同じ方向を見つめる」

『社会福祉への招待』

 社会福祉の現代的課題--自己決定と自己責任

 自己決定とは何か

  近代社会と自己決定

  人間にとっての課題としての自己決定

 社会福祉における自己決定

  バイステックによる利用者の自己決定の尊重

  サービス利用者の自己決定の尊重

  個人と社会の間にある自己決定

 自己決定は自己責任を伴うのか

  今日における自己責任をめぐる状況

  なぜ、「自己決定-自己責任」の原則が問題なのか

 自己決定を支援するということ

  自己決定の尊重の具現化にまつわる諸問題

  自己決定支援の方法としてのパートナーシップの形成

『NHKデータブック世界の放送2018』

 日本

  概況

  最近の動向

   BSによる4K・8K実用放送に向けた動き

   「放送を巡る諸課題に関する検討会」

   放送の同時配信に向けた議論

   「放送受信者等の個人情報保護に関する指針」の改正

   NHKをめぐる動き

   民間放送と各メディアをめぐる動き

  放送制度

   放送法制

   放送行政・規制監督機関

   公共放送の財源

   番組規制

  放送サービス

   地上デジタルテレビ

   地上テレビ

   衛星放送

   ケーブルテレビ

   HDTV

   ラジオ

   国際放送

  放送と通信の融合サービス

   概況

   公共放送の融合サービス

   民間事業者による融合サービス

『帝国の最期の日々 上』

 永遠のくりかえし

 アレクサンドロスの帝国の終焉--紀元前三三一-三二三年

  ピリッポス二世の遺産

  征服

  一時的な相続

  崩壊

 アラブ帝国の未完の夢--七世紀-一五世紀

  勝利と分割(六二八-六六一年)

  ウマイヤ朝の拡張(六六〇-七五〇年)

  アッバース朝とファーティマ朝の時代

  後退

『ソーシャルワークへの紹介』

 ソーシャルワークの新たな展開①--エンパワメント

  エンパワメントとは何か

   エンパワメントの意義

   エンパワメントの多元性

  ソーシャルワークにエンパワメントを導入する意義

   支援対象者の周辺化

   パワーの理解

  利用者のエンパワメントを支援する活動の枠組み

   利用者-ソーシャルワーカーとの協働作業

   ストレングス視点

  利用者のエンパワメント支援をめぐる課題

   利用者が主体になるということ

   エンパワメントのパラドックス

   エンパワメントが支援理論となるために

『ビューティフル カフェ』

 ダックスファーム 富山・入善町

『対話する社会へ』

 対話する社会へ

  民主主義の土台として

  自分で考えるということ

  多様性をありのままのこととして

  対話するドイツの市民たち

『人工知能時代を<善く生きる>技術』

 失うことで未来は開ける

  AIに「心」は必要か

  問われるのは「人間とは何か」

  AIが人間の「定義」を変えていく

  失うことで可能性は開ける
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失うことで未来は開ける

『人工知能時代を<善く生きる>技術』より 失うことで未来は開ける

問われるのは「人間とは何か」

 「知能」を獲得すべく開発が進められているロボットやAIは、「人間らしくなる」ことをひとつの目標に、「人間性」に挑戦し続けている。だが、かつて人間を似姿とした神が自己完結した完全なる存在であるのに対し、ロボットやAIは全知全能でも完全無欠でもなく、まさに人問がつくっていかなくてはならないものだ。それこそ神ではない人間は、間違いも犯すし、試行錯誤し続けていくしかない。ロボットやAIによって反射された人間像をどう映し込むか、私たちは常に選択を問われることになる。

 だが、「人間とは何か」「人間らしさとは」と問われて、明確に答えられる人はどれだけいるだろうか。「人間性」の中身はいわばブラックボックスであり、「人間とは何か」という定義は時代が進むにつれて、大きく変化してきた。たとえば、古代や中世では、奴隷は人間とは見なされなかったし、女性に参政権が与えられ、一人前の「人間」として社会的に承認されるようになったのは、二〇世紀に入ってからのことだ。他にも、「道具を使える」「コミュニケーションができる」といった、人間ならではの特徴と考えられてきた能力も、生物学をはじめとする科学の知見によって、今では、サルやイルカなどの他の動物にも同様の能力があることが確認されている。また、人間とチンパンジーの遺伝子は約九六パーセント一致しており、実際にチンパンジーには人間の四歳児程度の知能があることも明らかになっている。そのため、なぜチンパンジーは人間と違って檻に入れられるのかと、人権ならぬ動物の権利(アニマルライツ)を考える必要が生じている。

 このように、人間の「定義」は次々に塗り替えられてきたわけだが、これからAIが人間にどんどん近い存在になるのであれば、「人間にできてAIにできないことは何か」という境界線は今以上に曖昧になっていくはずだ。

 つまり、「もっと人間性を大事にしよう」と、人間の価値を強調すればするほど、人間性を獲得しようとするAIの価値もまた高められ、人間とAIの区別がつけられなくなるということだ。いっそ、AIが人間に反逆的な態度をとれば、人間との違いははっきりするかもしれないが、いずれにしても、境界線を引くのは人間ではなくAIの方である。だとすれば、「人間ならではの価値」はますます見えにくくなり、「人間とは何か」という問いは、回答不能のまま放置されるしかない、ということになる。

AIが人間の「定義」を変えていく

 鏡に映し出されなければ自分の姿が見えないのと同じで、人間は「内側」から自分を知ることはできない。近代以前であれば、人間は神という、全知全能の「外側」の存在に自らを映し込み、神との関係において、自らの本質を把握しようとしていた。しかし、神が退場した現代においては、ロボットやAIがその役割を担いつつある。人間にできてロボットやAIができないことは何か、と対比することを通して、私たちは人間を理解しようとしているのだ。

 ロボットやAIに反射される人間は、いったいどのようなものだろうか。たとえば、ドイツの哲学者ライマール・ツォンスが、その著書『人間の時代』で論じるように「人間とは、人間のデータの総計」なのかもしれない。「私たちはそんな機械のようなものではない」という違和感は、もしかしたら人間がっくってきたひとつの「防御壁」であり、単に「機械」と認識しないようプログラムされているだけ、という可能性さえある。奇しくもコンピュータ概念を初めて理論化したイギリスの数学者アラン・チューリングは、「紙と鉛筆、消しゴムを装備し、厳格な規律に服する人間は、事実上ひとつの普遍機械である」と言っている。コンピュータなどの情報処理機械が人間を真似て創造された時代はもう過去のもので、今や人間の方が情報処理機械として理解されるのだ。

 機械と人間とが互いのメタファーになっている様からは、「人間とは何か」という問いに対して、とても興味深い逆説が引き出せる。この項の冒頭でも述べたように、既に神は退場し、私たちは自らの似姿としてのAIが神に取って代わる未来に思いを馳せるようになった。しかし、そんな私たちの思惑から離れて、AIは神の代役になることから退場してしまいそうである。二〇一七年五月、「Google Brain」の研究者らが「自らの力で新たな人工知能をつくり上げるAI」である「AutoML」の開発に成功したと発表し、さらに「AutoML」がつくり上げた「子AI」はこれまで人間がっくり上げたAIよりも優れた性能を持っていたことが判明した。イタリアの哲学者ヴィーコの「真なるものとつくられたものとは置き換えられる」という著名な命題の意味するところは、人間は自分のつくったものしか理解しないということである。私たち人間の理解を超えるAIは、もはや私たちの似姿ではあり得ない。

 そう考えると、私たち人間はとてもシニカルな存在だ。一方では、「人間なるもの」を維持しようと神やAIとの比較を通じて一所懸命に正当化することを試みながら、他方では、まさにその試みが「人間なるもの」という概念を破壊し続けているのだから。こうした事情を踏まえると、「人間とは何か」という哲学的な問いの答えは、やはり哲学的なものにならざるを得ないようだ。すなわち、「人間とは、人間であることをやめたがっている存在だ」、と。

失うことで可能性は開ける

 常日頃、私たちは「人間は特別な存在だ」と思っているが、だからこそ、AIの進化を「自分の特別な地位を脅かす脅威」と捉える。しかし、技術の進化により、サイボーグや「感情を持つ」ロボット、あるいは遺伝子操作で「プログラム」された人間が私たちの身の回りに存在するようになり、クラウド上のAIと恋愛関係を持つことも普通になったとしたら、これまで「人間らしい」「人間的に価値がある」という言葉で表現されてきた「これが人間だ」という概念は、大きく変わっていくだろう。「あたらしい技術」が明らかにする人間の「真実」は、従来の人間観を大きく揺さぶり、「特別な存在」という人間のアイデンティティを失わせていくかもしれない。

 だが、「人間とは克服されるべき何者か」というニーチエの言葉のように、これまでの歴史の中でも、人間は一種の「脱中心化」によってアイデンティティを失いながら、新たな可能性を獲得してきた。コペルニクスは、人間がいる地球が宇宙の中心だという考え方を否定することで、地球は太陽の周囲をぐるぐる回っているただの惑星に過ぎない、という「真実」にたどり着いたし、ダーウィンは、人間は[神の似姿]という特別な存在という価値観を捨てて進化論を唱え、人間を「ただの動物」に格下げした。そして、「人工知能の父」と呼ばれるアラン・チューリングは、人間と違和感なくコミュニケーションできる機械は「知能」を持つと論じて、人間の知能を情報処理機械と同等にしてしまった。

 人間が世界の中心ではないという「真実」が明らかになることで、地動説や進化論や人工知能といった新たな可能性が見出され、社会は発展してきたと言える。だとすれば、私たちもまた、次の可能性を得るために、何かを失わなければならない。どうせ失わなければならないのなら、一方的に失うのではなく、それによって新たな何かが生まれるようなかたちで失うにはどうすればいいかを探るべきだろう。

 そのためにも、私たちは世界に開かれていなければならない。

 「世界開放性」は、マックス・シェーラーに始まる哲学的人間学の中心的論題である。哲学的人間学では、人間は他の動物と違い、生まれてすぐに環境に適応して生きていくことはできない欠陥動物だと考える。本能に従って環境に適応することができない代わりに、人間は他の動物にはない自意識を持ち、今の自分とは違った自分でいたいと思う欲求を抱く。そして、環境に本能的に依存するだけでなく、環境を高次にコントロールしようとし、言語や社会といった防御壁をつくり出して自らの欠陥を補いながら、どんな環境に置かれても何とか生きていこうとする。そのように世界に開放されている生き物であるからこそ、人間はこれまで生き延びてきたと言えるだろう。

 これから「あたらしい技術」は、私たちが思いもよらない「あたらしい人間」の姿を映し出していくかもしれない。しかし、明らかにされる人間の「真実」がどのようなものであっても、世界に開かれていくことで、新たな可能性が見出されるはずだ。フィルタリングバブルという閉じられたままの世界でいくら幸福を追求していても、そこからは何も生まれない。開かれた世界で、ときにはノイズや不都合な「真実」からも学びながら、私たちは未来への扉を開くのだ。
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対話する社会自分で考えるということ

『対話する社会へ』より 対話する社会へ

昔から、日常的に自由に対話し討論する場があるか否かは、その社会の性格を特徴づけているように思います。ドイツで一九二〇年代に、意識的にプラトンが語った対話的教育を学校教育の中に持ち込んだレオナルド・ネルソン(一八八二~一九二七年)の教育理念は、「対話的学校教育」(ネオ・ソクラティク・ダイアローグ)という対話する中で発見し理解していく授業として、自然な形で現在の学校教育の中で一般的になっています。

今、ドイツ、ポーランド・フランスなどの第二次世界大戦で敵国だった国同士の子どもたちのために共通教科書が作られていますが、この試みは第一次世界大戦の後に、すでにあったのです。なぜこんなに戦争ばかりしたがる国民が育つのだろうかという良心的な教師たちの、国境間の壁を越えた苦痛と悩みがありました。自国中心の優越性を教育の中で教えようとすること自体を反省し、国民同士が対話する教育環境を作らなければ、という考えを各国の教師たちはお互いに対話する中で悟っていきました。ナチスの台頭によってその計画は挫折しましたが、第二次世界大戦の後、その試みは現実化しました。日本でも、ヨーロッパにならって韓国や中国の教師たちと、共通教科書を作る対話の試みが続いています。

平和をつくり出すために、その前提条件として対話が不可欠であることを教師たちは知ったのです。戦争の反対語は何もしない平和ではなく対話であることを。

対話によって他者が話す多様な声を自分の中に取り込み、それらの声の交わりを吟味し、関連づけ、まとめ、統合する心理的活動が、個人を発達させる契機にもなるという考えはしだいに一般化してきています。日本でも市民の哲学カフェは、生きた対話によって参加者を楽しませ、個人の考えを成長させるからでしょうか、最近あちこちに広がっているようです。

小・中・高校教育の中にも、以前から一部にはあった対話を重視する教育が見直され、広がりつつあります(河野哲也『「子ども哲学」で対話力と思考力を育てる』河出書房新社、二〇一四年)。

大阪大学、東京大学、立教大学などが調査している関東の小・中・高校の「対話教育」では対話的授業が無理なく子どもたちに歓迎され、楽しまれていると報告されています。「楽しい」「考えさせられた」「またやりたい」という子どもの反響がほとんどです。

その理由は、持っている知識の量ではなく、対話によって知っていくことの楽しさ、人間の持つ根源的な好奇心、驚き、「他人はどう考えているか知りたい」という子どもの欲求に、対話的授業が応えてくれるからでしょう。

対話的授業を試みたい教員のためのワークショップも、大学の夏期講座などで数多く開かれています(兵庫教育大学、愛知教育大学、東京工業大学、関西学院大学、藤沢教育文化センターなど)。

では、どんな対話的授業が行われているのでしょう。河野の本やアメリカのローレンス・コールバーグの本の中からいくつか実践例を拾ってみましょう。

子どもに対話的(哲学的)教育はできるのか、と思う人もいるかもしれません。

でも、子どもは率直で、他人の意見に好奇心を持ち、柔らかな感受性があるので、対話的授業はむしろ子どもにとって好ましい教育方法だと、前掲書の河野は言います。

さまざまな学科の授業で対話的な教育を行うことは可能で、音楽や芸術は決まった答えがない自由な学科なので、対話をしやすいといわれています。たとえば、その絵で何を表現したかったのか、その絵からどんなイメージを想像できるか。どんな物語が浮かんでくるか。同じリンゴでも人によってどうして違った絵になるのか。色から受けるそれぞれの子どもの感覚の違いなど、上手/下手という見方ではない、できる子/できない子ではない、個性を重視した視点が展開されます。ですから子どもたちは、のびのびと友だちの個性的な能力に素直に感心し、自分は自分らしく生きていくことの自己肯定感を持つようになります。

理科の授業では、これまで先生が生徒に質問をすることで生徒の関心を高めていたのを、対話的授業では、先生も生徒といっしょに、自然の持つ不思議さや驚きを共有して、疑問を出したり、好奇心を持ったり、観察意見を言ったりして、考えを展開していく仲間の一人になります。生徒は新鮮なアイディアで個性的な分析をして、先生から一方的に教えられる授業よりもはるかに発想も思考も活発になります。対話が往き来すると仲間と探求していく共同体がっくり上げられます。自分の考えがどんな根拠に基づいているかを、自分自身で対話を通して確認することを学びます。また、他人の意見に敬意をいだくようになります。

ホームルームや道徳の時間に、生徒に対話のテーマを選ばせると、「担任はなぜ必要か」とか、「ハゲはおかしいのか」といったテーマで、哲学的な対話が展開されるといいます。

「担任」については、担任が、特定の生徒に偏見を持ったり、いじめについて適切な対応を取っていないことについて疑問が出されたりするのかと思うと、担任の厳しさから逆に教えられたことを評価する生徒もいて、担任を見る目が生徒によっていろいろ違うことに気がつきます。すでに存在する担任という制度に疑問を持つ生徒もいるし、一人の人間の持つ長所や短所に対して、担任によって評価基準が違うことに気がつく生徒もあり、制度の持つ意味を根本から考えてみるきっかけが生まれます。

「ハゲ」については、(ゲが起こる原因の研究が行われ、本人の意思では左右できないこと、生活習慣病のように本人の生活の仕方が影響を持つことなどの「原因の相違」が対話によって明らかにされました。人間の外見に対する偏見がなぜ起こるかという点について、対話するうちに、いろいろな人間が持つ違いに対して価値づけをすることから出てくる差別意識が問われました。相違と偏見と差別について、対話を通して知ったのは大きな収穫になりました。大人になってからも、その発見は異文化の人に対する理解や、社会的な貧困問題などに対する洞察につながるだろうと期待できます。

対話は、結論を無理に出す必要がなく、対話の過程での新しい発見や思考にこそ意味があります。結論を一方的に与えない。他人の意見を聞くことで、考えを深める。初めから否定的に他人の発言を遮らずに辛抱強く聞く。他人への尊敬。意見を交わすことによって共同で探求することができる。河野は対話とは、「これまで関係のなかった人と関係をつくっていく、コミュニケーション能力」でありそれを育てるのが、シティズンシップ教育だとも言っています。

コールバーグもまた、対話による教育を重要視し、それがよきコミュニティの形成につながり、自発的な道徳観を育てることを強調しています。そしてよきコミュニティができれば、対話的教育の効果も上がるという相互作用がある、と言います。

荒木寿友『学校における対話とコミュニティの形成』(三省堂、二〇一三年)は、コールバーグ研究ですが、コールバーグの実践した授業の一端をみると、たとえば学校内で、財布を盗まれるという事件が起こったとき、当初、生徒はそのことを、本人の不注意とか、盗まれてしまったものは議論しても仕方がないとか、人間は誰もおカネがほしいから盗むとか、盗まれた金額は大したことがないからいいじやないかとか、個人の問題として対話していました。しかし、「ちょっと油断すると盗まれるという社会はいい社会か」という問題提起が行われると、個人の話から、コミュニティの問題に対話が発展していきます。そして社会の貧困や社会の一員としての責任へと考えが及び、自分の考えの根拠を再検討することに思考が深まっていきます。

もちろん大学では、リベラルアーツ教育として、学問の中心を対話に置いているのは普通のことですが、しかし、日本の文部科学省の姿勢は、一方では「アクティブラーニング」などと言いながら、自主的な対話型教育を推奨するようには見えません。政治的見地から公教育にさまざまの干渉が行われています。教科書の中に普遍性のある真実が書かれることよりも、日本の国家としての見解を入れるように迫ったり、道徳教育を教科化して成績評価をし、子どもの内面の価値観にまで干渉しようとしています。選挙権がI八歳からに引き下げられることに対応して行われている高校での政治に関する授業内容に対して、自民党の文部科学部会からの介入もありました。

ただでさえ日本人の日常生活では、「人生や社会について考えても、自分の力では動かせない。今の自分の生活や仕事とは直接に関係がない。すぐに答えがでないことを考えても無駄。いそがしい」という感覚で、自然に「考えない人」になっていく大人が多いのです。

考えるということは、日常に起こる事柄を関連づけてみる、ということでもあります。たとえば、一〇○○円という自分にとっては安くない金額と、毎日買わなければならない食料品の価格、学費の高さと非正規でしか働けない卒業後の不安定生活というような、結びつけやすいもの、小さな断片との関連を考えることは、日常生活の中で無意識のうちに毎日行われていることでしょう。けれども日本銀行の金融政策と子どもたちの未来というような大きな関連については、日常生活の中ではなかなか考えられません。核物質を使い続けるエネルギーと核廃棄物の処理についても、他人任せになります。

そのようにして自分の生活を、小さな関係の世界の中に閉じ込めてしまうと、損か得かの目先のこと、簡単なことには敏感になりますが、自分の人生の意味を見いだす思考は衰えていきます。

日常の断片化したものをただ処理していくだけでは、自分の判断や行為の意味を考えることができなくなるからです。自分が狭い生活の中から外へ出ようとしなくとも、まわりの広い関連の中で自分もまた生きている現実がなくなるわけではありません。見ようとしなくても、時々、その現実が自分に迫ってきて、不安になりあわてて、その対応を間違います。

そういう大人ばかりでは、過去の歴史から学んで、二度と戦争をしないようにするには、どう生きるか、子どもたちの未来のために環境を大切にするには、どんな生き方を選択したらいいかというような、人間独特の思考能力が使われないままに葬り去られてしまいます。それらの考える力を呼び起こすものこそ、じつは、対話なのです。

現在の子どもたちの人間関係は複雑で、友だちに好かれるように、いじめの対象にならないように、仲間から排除されないように、ねたまれないように、自分が傷つかないための精神的な気疲れが大きいようです。そうなると、根本的な問題を友だちと話し合う動機が失われるでしょう。未来についての理想を語り合うことも、うっとうしくなるかもしれません。

そんな中で、対話的授業は、できる子/できない子、正解か/間違いか、常識にかなっているか/否か、という序列づけした視点とは違う、多様な立場での話し合いを自由に進めることができます。そういう、自由でのびのびした雰囲気は、子どもたちを開放的にするでしょう。

ふつう授業では、正解は決まっていることが多いのですが、対話的授業では、正誤という視点からでなく、いろいろな意見を聞くことから始めるので、子どもにとってはその自由な雰囲気が楽しいようです。友だちがそんな考えをしているとは思わなかったとか、友だちの意外な素顔が見られたと、他人の意見を肯定的に受け入れています。
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ブックスタイルのスタバが近所に欲しい

視聴者数カウンター

 いくちゃんらの「雲になればいい」をずっと聞いている。カウントあげないと。

 「シンクロニシティ」は191万まで、視聴者数を上げたからもうそろそろいいだろう。欅キッドじゃないんだから、こればかりやっておれない。

自動的にお釣り
が出る機械

 自動的にお釣りは出てくるレジが増えた。店員はそのまま渡してくる。その上で「ご確認ください」とくる。客に確認させる前に、自分で確認しろ!

ブックスタイルのスタバが近所に欲しい

 近所のカローラ中京の新店舗は5月にオープン。ファミリマートにポスターが貼ってあった。イベント広場にするつもりなのかな。ブックスタイルのスタバを望みます。そうすれば、歩いて行けるからもはや車はいらない。免許証もいらない。

 スタバのスタッフは 握手会レベルにしてほしい。
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