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夜と霧の始まり

『抵抗者たち』より 消された叫び

 〈第三帝国〉の最初の夜は、たいまつ行列とテロルで始まった。
 アードルフ・ヒトラーが首相に任命された一九三三年一月三〇日の夜、ナチスとその支持者たちは全国各地で祝賀のデモを展開した。首都ベルリンでは、たいまつをかざした行列がブランデンブルク門を通り、広場と街路を埋めた群衆の歓呼の声に包まれて、いつ果てるともなく続いた。そして同じころ、たいまつの光が届かぬ夜の至る所でSA(ナチス突撃隊)が活動を開始していた。かねて目を付けていた反対派の労働者や市民、社会民主党や共産党の活動家たちの家や店や事務所を片っぱしから襲撃し、人々をたたき伏せた。もはや〈ヴァイマル共和国〉の反対派としてではなく、権力を手中に収めた正統派としての、ナチスの最初の自己表現だった。
 老大統領ヒンデンブルクによるヒトラーの首相指名と、それに引き続くヒトラー内閣の発足に対しては、もちろん、直ちに抗議と反対の声が上がらなかったわけではない。この日に出されたドイツ社会民主党機関紙『フォーアヴェタッ(前進)』の号外は、こう述べていた。
  大統領は、この政府を任命したことによって、およそこれまで国家元首が引き受けたうちで最も恐ろしい責任を引き受けたのである。彼は、この政府が憲法の基盤を捨てるものではなく、帝国議会で多数を獲得しない場合には直ちに退陣するものであることを、請け合っている。
  憲法を敵視していることはだれの目にも歴然としているこの少数派政府が、もしも帝国議会の同意なしに職務にとどまるょうなことがあれば、労働者人民が最後のぎりぎりいっぱいの力を行使する必要に迫られるような状況になる、と言うべきであろう。
 一方ドイツ共産党は、同じ日に、ゼネストを訴える呼びかけを発した。だが、動きはじめた車輪を押しとごめることはできなかった。政権を掌握してから三日後の二月二日、ナチスはプロイセン州の全域で共産党のデモを禁止し、べルリンの警察に同党の本部〈カール・リープネクヒト会館〉を占拠させた。二月二三日には、やはり警察によって、共産党機関紙の編集局および印刷所が閉鎖された。三月五日に行なわれる総選挙の直前の三月三日、ナチスは共産党委員長エルンスト・テールマンを逮捕し、暴力的な選挙干渉を全国で繰り広げた。総選挙では、それでもなお、ナチスは過半数を獲得することができなかった。得票率四三・九パーセント、議席数は総数六四七のうち二八八にとどまった。社会民主党は二八・三パーセントで二一〇議席、共産党は二二・三パーセントで八一議席と、テロルのなかで行なわれた選挙にもかかわらず、ナチスに対する反対票は予想外に多かった。
 ナチスは、この苦境を一つの奇策によって切り抜けた。四月九日、共産党の新議員全員が資格を剥奪され、総数五六六人に減った国会で、ナチスは単独多数を制することになったのである。次いで、弾圧は社会民主党と労働組合にも及びはじめた。六月二二日、ヒトラー(首相)、ゲージング(無任所相)とともに入閣した三人のナチスのうちの一人である内相によって、社会民主党を禁止する省令が出された。六月末から七月初めにかけて、既存の諸政党は次々と自主的解散を強いられた。こうしていまやただ一つNSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党=ナチ党)だけがドイツに存在する唯一の政党となったとき、七月一四日、ナチスはすかさす「政党の新設禁止」を定める法律を施行し、この年の末には「党と国家の統一」に関する法律によって、NSDAPを国党としたのである。
 〈社会主義〉を標榜するナチスにとって、左翼的な労働組合もまた主要な敵の一つだった。自分かちの時代になって最初のメーデー、つまり三三年五月一日を、ナチスは〈国民労働日〉として休日にし、大衆を動員して国民社会主義的メーデーを繰り広げてみせた。そしてその翌日、SAが、各地の労働組合本部や事務所を襲った。幹部は逮捕され、組合財産が略奪された。すべての労働組合組織は解散させられ、五月一〇日、〈ドイツ労働戦線〉なる唯一の労働者団体がナチスによって設立された。
 国民の日常は、すでに二月四日の「大統領緊急令」によってその基礎を掘り崩されつつあった。〈ヴァイマル共和国〉の崩壊にとって疑いもなくその遠因の一つとなった緊急令は、非常の場合には大統領の権限で憲法の効力を部分的に停止しうることを定めたヴァイマル憲法四八条に基づいて、ヴァイマル時代末期、とりわけ当時の首相パーペンによって濫発され、しばしば表現や集会・結社の自由を制限することで危機を回避しようと試みられたのだが、いままたそのパーペンを副首相とするヒトラー政府の下で、同じ大統領ヒンデンブルクによって、だが今度は、基本的人権の最終的廃棄の第一歩として施行されたのである。この二月四日の「集会・言論・報道出版に関する緊急令」に次いで、同二八日に出された「民族と国家の保護のための緊急令」は、「追って沙汰のあるまで」個人の自由、住居の不可侵性、郵便通信の秘密、思想信条の自由、結社の自由、財産の保護といった市民的基本権を廃絶し、憲法改定の手続き抜きで事実上ヴァイマル憲法を廃止してしまったのだった。悪名高い国会議事堂放火事件の翌日のことである。
 憲法の制約から自由になったヒトラーは、三月二三日、国会の承認なしに法律を施行しうる権限を政府に与える「全権委任法」を国会で成立させた。反対したのは、三ヵ月後には禁止されることになる社会民主党ただ一党だったが、そのころすでに同党の国会議員は、さまざまな理由で逮捕されて、半月前の選挙での当選者一二〇名から九四名に減っていた。全権委任を要求する演説をヒトラーが行なっている間、国会議長でもめったヘルマン・ゲーリングは、議員昶ち一人一人の表情を議長席から双眼鏡で監視したのである。四月七日には、各州の相対的独立を認めていた既成の統治形態を改め、首相の提議によって大統領が任命する総督が州の全権を逃げることを定めた「州の帝国への統合に関する第二の法律」が、プロイセン州を除く全国の各州に適用された。
 このような一連の行政的・立法的措置は、もちろん、それに先立ちあるいは並行するさまざまな直接的暴力の行使と、その暴力を追認しさらに新たな暴力を可能にする法的措置によって、支えられていた。
 二月二八日の大統領緊急令は、基本的人権の廃止とともに刑罰の強化を定めていたが、この緊急令によって同時にまた、「保護検束」、つまり将来犯すかもしれぬ犯罪をあらかじめ予想して逮捕拘禁することが、できるようになった。これよりさき、二月二二日、帝国無任所相でありプロイセン州内務大臣であるグージングによって、SAおよびその下部組織のSS(親衛隊)、それに親ナチ的な右翼武装組織〈鉄兜団〉を「補助警察」とすることが定められた。大たいまつデモの陰で獲物に躍りかかった暴力装置は、官許の暴力機構となったのである。そして、憲法の停止によって彼らの自由にゆだねられた獲物たちの貯蔵所、あの強制収容所は、ナチスの奪権からわずか七週間後に、早くも歴史に登場する。--一九三三年三月二〇日、SS長官ハインリヒ・ヒムラーによって、ミュンヒェン近郊のダッハウに最初の正規の強制収容所(KZ)が開設される。権力を掌握する以前からすでに構想されていた計画が、ここで実行に移されたのである。計画によれば、全国各地に六〇以上の強制収容所を配備し、保護検束した共産主義者や社会民主主義者をここに収容するはすだった。この計画は、やがて当初の予定をはるかに超える規模に広がっていく。ダッハウに最初の強制収容所が生まれたときから八年余りのちの一九四一年一二月には、ドイツ軍の占領地域で反ドイツ活動を行なった外国人を強制収容所に送ることを命じた「夜と霧」の布告が、防衛軍総司令部によって発せられる。ナチス・ドイッ軍とともに国境の外まで浸食していった強制収容所は、誕生から二一年余りの生存期間の間に、およそ一一〇〇万の生命を消費することになる。
 強制収容所の生存と密接な結び付きを持ちながら、三三年四月二六日、ゲーリングによってべルリンに〈秘密国家警察局(ゲスターパ)〉が設置される。この機関は、同年一一月三〇日のプロイセン州における「秘密国家警察法」の制定によって〈秘密国家警察(ゲスターポ)〉という名称を改めて与えられ、あらゆる傾向と同期の反ナチス活動の摘発に精力的に携わることになる。
 こうして、〈第三帝国〉は、成立の当初から疑うべくもない一つの恐怖国家として、テロルと抑圧と威嚇とによって維持されていた。だが、いまわれわれからみて疑いもなくそうみえる当時の現実が、そのなかで生きていた者の目にも疑いもなくそう映っていたかごうかは、また別の問題なのだ。三三年一月三〇日の夜のたいまつデモだけに、無数の人間が参加し感動したわけではない。同じ時刻に闇のなかを徘徊していたテロ行為にも、無数ではないにせよ多数の人間たちが加わっていた。第二次世界大戦がドイツの敗北で終わったとき、一九三四年以後SAから独立して独自の機構となっていたSSは、武装SSと呼ばれる実働部隊だけでも約五〇万の隊員を擁していたのである。
 この五〇万の人間たちとその背後にいる無数の家族、友人、恋人や同僚が、強制と脅迫によりてのみナチス支配に忍従していた、と考えることは、非現実的であるにちがいない。多くの証言によってもまた、ドイツ人が苛酷なヴェルサイユ条約のくびきからの解放者としてヒトラーを尊敬し、破局的な失業から労働者を救ってくれたことを喜び、そして外国の強制的併合と侵略戦争の時期にもなお、ナチス・ドイツの勝利と苦戦の報に一喜一憂しつづけたことは明らかである。
 巧妙な宣伝と嘘の情報によって、真実が隠されていたからだろうか? 権力掌握から二カ月後の三月三一日に、新設された民衆啓発宣伝省の指導者となったゲッベルスによって、魂を奪われてしまったからだろうか? 同じ年の五月一〇日、そのゲッベルスの指揮の下に、とりわけ各地の大学で盛大に開始された焚書は、その炎によって人々をただ幻惑していただけなのだろうか? かつて読んだか、あるいは読めなかった本を火に投じるとき、自らが数え立てるその本の罪状の呪文めいた響きによって、ただ自己暗示にかかっていただけなのだろうか?
 だが、炎に本を投じ、あるいはまだ半分生きている人間を焼却炉に投じる者がいたように、火に投じられる本、生きながら焼かれる人間も、確かに存在したのだ。あらゆる法的措置、暴虐の合法化、拷問、凌辱、隔離、そしてさまざまな段階の人体実験にもかかわらず、焼くほうではなく焼かれるほうを、従うほうではなく抗うほうを、生をではなく死を、そしてある意味では死ではなく生を、選ばざる乞えない人間たちがいたので
 彼らもまた、彼らの敵たちと同じように、忘我と陶酔のなかにいたにすぎないのだろうか?
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