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コミュニティ形成の担い手

『老いを拓く社会システム』より

コミュニティを活動として捉える

 コミュニティを地理的単位としてではなく、活動として捉える視点が大切ではなかろうか。コミュニティの原義は「共に重荷を担い合う活動」である。それは、玄関(私生活)を出た先の共通問題を相互理解と互譲とで解決しようとする活動であり、自分とは異質の他の人々と「共に生きよう」とする付き合いの型のことであるといいかえることができる。このようなコミュニティの定義には、一定の地理的な区域は前提となっていない。共通問題の性質や規模、あるいは付き合いへの関心と拡がりに応じて、活動の範域は伸縮する。

 言葉の用法としては、例えば、新聞等によくでてくるEC(ヨーロッパ共同体)というのは、ヨーロッパ諸国が従来の国家主権の一部を放棄して、相互に便利な経済活動が行いうるような仕組みをっくっているが、これもコミュニティなのである。日本社会全体を、ひとつのコミュニティといえなくもないし、地球はひとつとか地球船というのもコミュニティの感覚を前提としている。つまり、コミュニティにはあらかじめ定まっている地理的区画などないわけである。

 しかし、コミュニティは地理的区域のことではなく活動のことだといっても、いろいろな活動があるではないか、またコミュニティには地域性があるというのが社会的通念であり、その地域性をどのように考えるのか、といった疑問がでてくるだろう。

暮らしの型とコミュニティの担い手

 いま、正業を持ち、目立たないながらも律義に真面目に日々の暮らしを立てている生活人を「堅気」(かたぎ)と呼ぶことにしよう。「低く輝きのない」ドラマの少ない日常生活をじっと繰り返している人々である。堅気の身上は、取り立てて他人様(ひとさま)に役立つことを積極的に行わないが、他人様の世話になったり、他人様に迷惑をかけたりしないことである。この堅実な暮らし方は、それなりに社会の安定と秩序に寄与している。

 この堅気の暮らしを中心に考えれば、堅気からみると、暮らしに起伏はありそうだが、どこか調子が乱れている、つまり乱調型が3通り考えられる。そのひとつは、堅気の暮らしを大幅に踏みはずして世の中の裏街道で暮らす「ヤクザ」である。正業をもたず堅気に寄生して生きるヤクザは軽蔑して遠ざけるのが堅気の賢明な対処方法である。

 もうひとつは、堅気の暮らしから、いわばずっこけてしまうタイプで、色事、賭事に熱中する「軟派」の暮らしである。一獲千金もあればスッテンテンもあり、道ならぬ恋のスリルもあれば刃傷沙汰もあり、なかなかドラマに富んでいるが、手堅くまともな暮らしとはいいにくい。なにせ「軟派」な暮らしには資金がかかり、今日サラ金地獄への転落の早道のひとつとなっている。人生を「軟派」でっらぬく「軟派の鏡」になるならともかく「軟派」も過ぎれば堅気のひんしゅくを買い、信用を失う。

 これらに対して、堅気の暮らしの基本を守りつつも、堅気の暮らしから一歩歩み出ようとする人々がいる。玄関から出た先のこと、世間のこと、他人様のことにも関心を持ち、なにがしかの言動を行おうとするタイプである。そうした人々を「有志」と呼ぶことができる。

 コミュニティ形成の担い手は、この意味で志を立て、志を遂げようとする人々である。その志とは、自分と家族の生活が地域社会のあり方や世の中の動きと結びついていることに気づき、その世の中のことが気になり、そこに問題を発見し、その問題の解決を通じて世の中を少しでもよりよきものにするための働きかけを行おうとすることである。そのためには時間や労力や資金をおしまない。堅気からみれば、ずい分と「奇特」で「酔狂」な人に見えても不思議ではない。しかし、この遂志の活動こそ地域社会に変化を刻むエネルギーとなる。堅気からみて乱調型であっても、志高く、志を持続させる人々がいてこそ地域社会はいきいきとして発展するといってよいであろう。

 おそらく、今日、全国各地域で、それぞれの関心と自発性に支えられた多様な住民活動を担っている人々は、こうした意味で有志の人であるということができる。コミュニティ形成とは志で結ばれる人々の自主的活動である。この場合、大切なことは志というものが人々を「横」に結びつける点である。横に結びつけるとは、人を学歴、所得、家柄、地位とかいった縦の序列に格付けるのではなく、そうした序列を無視して、志の高さと持続性で人々の行動をたばねうることを意味する。

 コミュニティ形成が遂志であると考える意義は、横に結び合う人間関係を価値づけ、横に結ばれる新しい社会慣習を地域社会の中に創り出していくことを重視する点にある。縦の秩序に習熟してきた旧来の人々が「コミュニティ」になにがしかの違和感や不信感を持つとすれば、それはコミュニティ形成の担い手の持つ新しい文化感覚との間に緊張があるからだともいえるだろう。

総参加主義への疑問

 コミュニティが自発性と自前主義とに徹した活動である限り、一定の地域の住民のすべてがコミュニティ形成の活動に参加することなどありえないし、また期待すべくもない。みんながひとつの目標と活動を価値あるものとし、これに限られた資源を投入することなど、よほどの強制が加わらない限り不可能である。地域的な絆の弛緩を連帯活動としてのコミュニティで修復し、行政への依存心を深めた住民に対してコミュニティ活動の自前主義を勧説しようとするあまり、コミュニティ活動への総参加の主張に短絡することは、実はコミュニティの誤解ではないか。

 住民総ぐるみ、総参加のスローガンは、唱導者の善意とは別に、コミュニティ活動の義務化をいざない、結局、十人十色の内発的動機、信念、気概を要件とするコミュニティ活動を型にはまった動員へと方向づける根拠に利用されやすい。全ての住民はコミュニティ活動に関心を持ち、参加すべきであるとする息苦しい総参加主義はコミュニティの本質とは矛盾する。コミュニティ活動に関心を持ち参加する人が1人でも多いことは望ましいことに違いはない。しかし、参加を呼びかけても応じぬ無関心の人、コミュニティ活動など性に合わぬと嫌がる人がいても、そのことゆえに、そうした人々を社会的に非難するのはコミュニティの精神とは無縁である。自分の意志に反したことはやりたくないという人をおおらかに認める、そういう地域社会の方が実は豊かである。コミュニティ形成は、むしろ少数片の活動であることを当たり前と考え、自分で、自分たちで無理なく、志をつらぬき続けること、そこにコミュニティ活動の真骨頂がある。

コミュニティ活動の地域性

 それではコミュニティの地域性をどのように考えたらよいであろうか。コミュニティには元来、特定の地理的区画など定まっていないにしても、我々がいま関心を持っているコミュニティ形成の活動は、住民自治に結びっくような身近な暮らしに近いところにある活動のことである。ボランティア、リサイクル、スポーツ・レクリエーション、創作・学習活動、消費者運動、公共施設の自主管理等、様々な住民活動が地域性を持っのは、あらかじめ一定の行動範囲が地理的に定まっているからではなく、そうした活動の担い手の動機や生活条件にもとづいているのである。

 いまのところ、コミュニティ形成の担い手となっているのは家計と時間にゆとりがあって、自分の家から歩み出て他の人と何かやってみたいという動機を持つ人々で、その中心は、家庭の主婦、健康な老人、自由業者、地元自営業者である。特に家庭の主婦が果たしている活動量と役割は大きいといってよい。こうした人々は実に様々な管匪的な関心に支えられ、グループや団体を形成して活動を行っているが、そこには少なくとも2つの重要な志向が見出せる。

 ひとっは家族・親戚という血縁で結ばれた人間関係や仕事を介して結ばれた職場での人間関係とは別に、あるいはそれをこえて地域社会での付き合いに生きることの意義や喜びを発見しようとすることである。もうひとつは、そうした地域での付き合いを通して活動を行う場合、自分の関心や生活条件に合わせて無理のない身近な行動範囲を活動の場にしようとしていることである。こうして、他ならぬ地域社会での諸活動に帰属意識や愛着を持ち、そこでの付き合いの中で生きることに安堵と喜びを見出している人々の存在こそがコミュニティ活動に地域性を与えるのである。

「アーバン」な生き方

 最後にコミュニティ形成の担い手が拓きうる可能性を都市型社会におけるライフ・スタイルとの関連で一言しておきたい。コミュニティ活動と地域における暮らし方を結びつける大切な条件と考えられるのは、「都市を生きる」ことの決心ではないかと思われる。いま全般的に都市化の進んだ社会を都市型社会と呼べば、そこでの大きな問題のひとつは生活の仕組みと生活の仕方の間に存するギャップであろう。

 都市型社会の特色のひとつは、我々が日常生活を円滑に維持するためには他の人々が滞りなく供給してくれるモノやサービスに依存していることである。生活の仕組み自体の自立性が極めて弱い。これは今日では農業を営んでいる人々の生活についてもかなりの程度あてはまる。光熱、上水、ゴミ処理、食糧品等の卑近な例を考えてみればわかる。依存型の生活の仕組みに関してみれば、従来の都市一農村の対比はその意味をかなり失ってしまっている。問題は、こうした暮らしの実態を認識した上で、その暮らしをいかに豊かなものにすることができるかどうかであろう。

 その着眼点は、あるがままに、既存のものに寄りかかって、粗野に生きるのではなく(これを「ルーラル」野暮ったいという)、自覚的に、異質な他者への感受性を持って、洗練された生き方(これを「アーバン」垢抜けしたという)を選びとるか否かにあるといえよう。なぜなら都市とは自然ではなく人間の作為の所産であるからである。コミュニティ形成の担い手は、このアーバンな生き方を選ぽうとする「都会人」であるともいえる。
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豊田と外国人労働者

『「外国人の人権」の社会学』より

トヨティズムと外国人労働者

 二〇〇三年、筆者は初めて自動車産業研究の第一人者である藤田栄史氏に会った。筆者は藤田らの自動車産業研究を読んで抱いていた違和感をぶつけてみた。労働者には厳しい管理をしき、長期雇用で熟練を形成させ、正規の労働時間が終わった後にも続くグループ活動を媒介に労働編成が組み立てられる自動車産業の労働現場に、単純作業の短期雇用で、誰がやっても同じという性質の労働(=請負労働で働く日系人労働者の典型的なパターン)が大量に発生することは想定できない。コミュニティでは日系人の集住地区で社会問題が発生している。こうした問題が発生しないような企業支配が行われていたはずなのに、どうしてこのようなことが起きるのかという趣旨の質問であった。藤田の筆者に対する回答は、「僕にも分からない。何かが変わったとしか思えない」というものであった。

 筆者には、藤田らが自動車産業研究を通して明らかにした日本の産業社会・労働社会をシェーマティックに表現したのが馬場宏二の「会社主義論」であると思われる。少し、この会社主義論を確認しておこう。馬場は「一方での、被雇用者の、強い企業帰属を指す。この意味では『会社人間』等々日常用語として用いられているであろう。他方、会社主義は現代日本社会の体制の総括的呼称である。両者を会社という企業組織が媒介する。(中略)大会社の行動様式は中小企業にとっての目標となり規範となった。それは会社に雇われる人びとの生活を律し、ひいては雇われない人びとを含む社会全体を規定する」と「会社主義」というタームを定義する。

 この会社主義は、「会社に忠実な従業員は労働意欲も高く長時間労働を厭わない。会社の発展を良いこととするから、解雇が及ばない限り合理化に協力するし生産性上昇に積極的に参加する。企業別組合だから争議による損失は少なく、不況時には賃上げ要求を自制する。これらが諸会社の技術革新を含む拡大を支え、諸社の並行的拡大の集合が高度成長になる」ことでマクロ経済における成長回路となった。

 そしてこの高度成長が「農村から豊富に供給される若年労働力をまず吸収した。若年層の多用は平均賃金を下げることにもなるが、適応力の高い労働力をOJTによって社内で訓練する条件ともなった。企業内熟練形成は頻繁な配置転換を伴い、広く社内の業務に関心をもつ多能工を育成した。こうして年功制が強まるが年功制と終身関係は相互増幅的になる。社内熟練は他社で通用し難いから賃金面だけでも労働者は転職を嫌うことになるし、企業側も育成費を失うことになるから解雇は好まない。そして長期雇用があることで企業内熟練形成が進められ年功制は強められる」という回路を開くことで、さらに会社主義が強まる。その結果、「会社主義のもとでは、労働者は主体として位置づけられ、むしろ競争と共同体性の両面から主体であることを強制されて、結局は資本である会社のための生産力の自己開発に向かった。それゆえ会社主義は、生産力上昇のためには人類史上最高の機構となったし、また、これを越える機構を想定し難い域にまで達したのである」とまで評されるに至ったのである。

 会社主義の中で、日本の労働者は多能工化し、多能工の働く生産性の高い日本企業は「人類史上最高の機構」で「これを越える機構を想定し難い域にまで達した」とまで評価されていた。しかし、まさにこの会社主義が絶頂を迎えている時期に、ラテンアメリカから日本を目指す日系人労働者の日本就労がブームとなっていたのであり、そして会社主義の中で最も外貨を稼いでいた電機産業、自動車産業こそが最大の日系人労働者の受け入れ先となっていったのである。このことをどのように考えるのか。どうして全くの単純作業しかしない外国人労働者の活用が、日本的経営の最も浸透していると思われる自動車産業で拡大してきたのか。このことへの問題意識が、日本的経営に親和的な議論をする人々にも、これに批判的な人々にも欠けていたと思われる。

豊田と外国人労働者

 藤田らの手による自動車産業研究は、小山陽一編『巨大企業体制と労働者--トヨタの事例』および野原光・藤田栄史編『自動車産業と労働者--労働者管理の構造と労働者像』として発表されており、生産現場から労働者の家庭生活、そしてコミュニティと企業との関係にいたる総合研究であった。一九九〇年代後半に豊田市内の事業所回りをしていた筆者の感覚からすると、小山編および野原・藤田編の中に書かれてある、「企業と労働者の関係」および「企業とコミュニティ」との関係は短期間で大きく変容したように思えた。当時、梶田孝道・丹野清人・樋口直人『顔の見えない定住化--日系ブラジル人と国家・市場・移民ネットワーク』を纏めている時期でもあったので、この違和感を筆者は藤田にぶつけたのであった。

 前節でも論じたように、トヨティズムに代表される日本的経営は終身雇用と年功序列を基礎として、OJTでのラーニング・バイ・ドゥーイングにより長期に従業員の能力を開発しつつ、個々の労働者を多能工化していく。このことで日本企業の高い生産性が獲得されていると日本的経営論は論じていた。野原・藤田編の著作では、その影の面として、多能工化を日々実践させていく職場ごとで行われるQC活動や改善活動が、確かに生産性へのある程度の寄与をしているであろうとは思われるが、現実に生産性の改善に直接寄与するような改善の提案はそう頻繁になされているわけではなく、むしろ働いている時から労働時間が終わった後も「会社の将来」や「会社での自らの仕事」を考えさせ続け、労働者が会社人間化していく面に光は当てられていた。そこでは、小池和夫の説く長期的に仕事全体の流れに精通していく「知的熟練」化の過程は、個人の仕事の達成(およびその集合的成果である会社の成長)が自己疎外の深化として描かれていた。

 小山編はこれを地域社会レペルで分析したものであったが、理論的な結論は野原・藤田編と同じベクトルにあり、親会社トヨタの地域支配が様々なところにとどく社会構造が存在し、地域でトヨタに対立する存在は小さく局所化され、たとえあったとしても孤立しているというものであった。これらの見解は、企業の内部にしろ、企業の外部の地域社会にしろ、長期雇用に薬づく企業内での長期にわたる人格形成と地域社会での企業活動に親和的な人々のコミュニティ形成が同時進行的に進み、会社内でも地域社会でも同調圧力が極めて強くかかり、ここになじまない人々は排除されるか、いたとしても少数にとどまることを含意していた。

 このような企業社会・地域社会理解に対して、急増した豊田の外国人労働者の存在は真っ向から対立するものであった。生産活動の中核を占める「ものづくり」の主役に海外から渡ってきたばかりの外国人が就き、労働者個人の技能の形成=能力開発は特に行われていない。十分に熟練した者や長期にわたる熟練の形成過程にある者がこれまで行ってきたとされていた熟練の多くは、工作機械の中に数値化されてNC工作機械(数値制御の工作機械)のプログラミングに変わってしまっていた。「倣い」という工作機械に熟練技能者の技能を教え込むプロセスのために。

 一部の労働者のみが熟練を保持する役割を担い続けるが、ライン作業そのものは誰が行っても変わるところのない仕事とされていた。ライン作業で作られる製品の品質管理にとって、最も重要な役割を果たすと言われる「検査」工程すら、下請企業では本工ではない外国人労働者が担当していた。

 筆者が、一九九八年から二〇〇〇年にかけてトヨタ系の一次下請企業に聞き取り調査をしていた時に、「外国人労働者が用いられなかったらどうするのか」と聞くと、ほとんどの企業は「さらなる自動化・機械化で対応することになる」と答えていた。これにさらに「ではなぜ機械化ではなくて外国人労働者を用いているのか」と尋ねると、「機械化には一定の投資が必要となり、一〇年は導入した装置を使い続けなくてはならない。一〇年後にこの工場が存在し続けているのか分からないし、また機械をもちいると一定の生産量が安定的に見込めないと無駄が多くなってしまう。生産量の変動を勘案すると人の労働の方が対応できる」という趣旨の回答があった。

 そして、誰が行っても変わらない仕事の裏返しとして絶えず失業の危機と直面し、現実に生産活動に応じて雇用されたり解雇されたりしている人々が集団として存在し、この人々の存在が社会問題化されていたのだった。藤田らの研究からは、この現実がなぜ発生してきたのかの論理を見出せない。すなわち、トヨタ式生産管理システムの中に組み込まれた外国人労働者の存在は、これまでのトヨティズムの議論や日本的経営論を打ち破るものだったのである。
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ストロベリーベリマッチフラペチーノ

キーワード空間

 Echo5.3.1 持続とは回ること。

ストロベリーベリマッチフラペチーノ

 やっとストロベリーベリマッチフラペチーノにありつけた。どうにかチケットが間に合った。玲子さんにはこの間 おごったけど。

 それにしても、680円なのに次から次に売れていく。殆どが若い女性です。

今週も30冊確保

 豊田市図書館はどうにか30冊確保。何か、TRC以前と本の傾向が違っている。何が違うかをどう分析するか。見栄えの良い本が増えてるのは確か。これって俺以外誰が読むのって、いう本も多くなった。
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豊田市図書館の30冊

193.45『ダニエル書』七十人訳ギリシア語聖書

913.6『単純な生活』

375.13『多文化共生社会における協働学習』

460『生物学の基礎はことわざにあり』カエルの子はカエル? トンビがタカを生む?

293.8『グッバイ、レニングラード』ソ連崩壊から25年後の再訪

366『働くってどんなこと? 人はなぜ仕事をするの?』

019.13『すごい読書術』速読日本一が教える 短時間で記憶に残る最強メソッド

007.58『Googleサービス完全マニュアル』基本操作から活用のヒントまで

290.93『ヨーロッパ 2018~19』地球の歩き方

374.3『職員室がつらくなったら読む本。』

369.31『被災と避難の社会学』

114.2『僕がロボットをつくる理由』未来の生き方を日常からデザインする

146.8『敏感すぎるあなたが人付き合いで疲れない方法』

331.19『ジェイン・オースティンに学ぶゲーム理論』恋愛と結婚をめぐる戦略的思考

913.6『徴産制』日本国籍を有する満十八歳以上、三十一歳に満たない男子すべてに、最大二十四ヶ月間「女」になる義務を課す制度。二〇九二年、国民投票により可決され、翌年より施行。

290『地球情報地図50』自然環境から国際情勢まで

293.09『欧州旅日記』

292.25『中国的「今を生きる」生活。』

316.81『「外国人の人権」の社会学』

130.4『光の形而上学』知ることの根源を辿って

161.3『現代社会における聖と俗』ヂュルケム 9.11テロ 生駒 在日コリアン

159『瞬発力の高め方』

341『入門公共経済学』

764.31『ブルックナー交響曲』

293.4『北西ヨーロッパの空間構造』ヨーロッパ地誌を目指して

748『MAINTENANCEマーク・パワー』

369.26『老いを拓く社会システム--介護保険の歩みと自治行政--』

597.9『週末15分そうじ術』伝説の家政婦が自宅で実践

520.87『世界の教会、寺院、礼拝所』見るだけで心が清らかになる

596『フライパンひとつで作る、炒めもの、煮もの、蒸し焼き』
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