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ビューティフル カフェライフ ダックスファーム

『ビューティフル カフェ』より

生まれ故郷にUターン。10畳ほどの小屋に焙煎機を置いて開業。地域の評判店に。

木本昇さんが生まれ故郷の富山県下新川郡入善町にUターンして『ダックスファーム』を開業したのは1985年12月14日、44歳の時である。以来、地域の人たちにおいしいコーヒーと安らぎの場を提供し、30年にわたって愛され、今も多くのファンを集めている。

『ダックスファーム』のタックスはアヒル、ファームは農家の英語です。こんなユニークな店名の自家焙煎コーヒー店が、富山県下新川郡入善町にあります。

入善町といっても、どのような場所か知らない人も多いと思います。富山県の北東部に位置する町で、日本海に面しています。黒部川が形成した広大な扇状地を中心としたエリアで、チューリップや入善ジャンボ西瓜などが特産品としてよく知られています。入善ジャンボ西瓜は別名黒部スイカとも呼ばれており、日本一大きなスイカとして紹介されているので、ご存知の方がいるかもしれません。

さて、町の説明はこのくらいにして、『ダックスファーム』の話に戻ります。初めて店を訪れたお客様はちょっとびっくりするかもしれません。店の脇にある小さな池にアヒルがあっちにいったり、こっちにきたり気持ちよさそうに泳いでいるのを目にするからです。お客様の中には、窓越しにアヒルを眺めながら、おいしそうにコーヒーを楽しんでいる方がいます。時には、店の外に出て、お店が用意したパンの耳の餌をアヒルにあげているお客様の姿を見ることもできます。

都会にあるカフエからは到底想像できない、なんとも穏やかで、心安らぐ光景ではないでしょうか。喧騒の東京から遠く離れて、緑と水と大地に恵まれた富山の入善町にある『ダックスファーム』を訪れました。

お母さんが病で倒れ、生まれ故郷の入善町へUターン

 『ダックスファーム』は、現在、木本昇さんと奥様の繁子さん、息子の亙さん、それにベテランスタッフの中林喜代美さんの4人で運営しています。

 木本さんが『ダックスファーム』を開業したのは、今から30年前の1985年(昭和60年)12月14日。この時、木本さんは44歳でした。

 自家焙煎コーヒー店『ダックスファーム』の歩みは、木本さんが生まれ故郷の入善町にUターンした時から始まります。それまでは、コーヒーとはまったく関係のない仕事に携わっていました。その経歴が少し変わっていますが、それもまた現在に至るまでの店づくりにも関わってきているように思うので、本人に伺ってみました。

  「十代で外国航路の船乗りになりました。その後、大検を受けて慶応大学に入学し、卒業後は旅行代理店のツアーコンダクターの仕事に就きました。この会社に2年ほどいましたが、退社して友人と共同出資で学習塾を開校しました。学習塾は、当時の受験ブームの波に乗って順調に業績を伸ばしました。34歳で同郷の今の家内と結婚し、浦和市に家を購入しました。ところが、私が41歳の時に母が病で倒れ、余命少ないと聞かされ、家内と子供を連れてUターンすることにしました」(木本さん)

 その頃、木本さんのお母さんは肺ガンに冒されていて、余命1年ほどでした。Uターンにあたってば、3人の了供がまだ幼くて、悩んだそうです。その当時、木本さん夫妻には男の子が1人、女の子が2人いました。男の子は小学生の3年、上の女の子は小学生1年、そして下の女の子はまだ幼稚園でした。最終的には、〝もう少し子供たちが大きくなってから入善町に戻ったのでは、地域の風土や人々に馴染めないかもしれない。帰るなら今のうちだ〟と、子供たちのことを優先してUターンすることにしました。

 43歳の時に家族一緒に入善町に戻って、お母さんの看病につとめました。その年にお母さんは帰らぬ人となりました。享年71歳でした。

コーヒーの専門書を見てコーヒーの道へ

 生まれ故郷の入善町へUターンすることを決めたものの、その後なにをやったらよいか。木本さんは、いろいろと悩みました。そんな時、目にしたのが私も登場していた『ブレンド』というコーヒーの本でした。

  「『ブレンド』という本を見て、世の中にはこんな商売があるのか。始めて自家焙煎コーヒー店というのを知りました。それだけ、コーヒーの世界とは無縁の世界にいたわけです」(木本さん)

 コーヒーに興味を抱いたものの、なにもコーヒーのことは知らない。困った木本さんは、コーヒーのことを知るために東京で名店と言われる店を片っ端から回りました。それでもコーヒーの味はよく分からなかったと言います。

 コーヒーの名店とは?おいしいコーヒーとは?とにかく分からないことだらけ。いろいろ考えてもよい答えはでませんでした。

 本を見て、コーヒーに興味を持った木本さんですが、東京・南千住にあるカフェ・バッハには初めから訪れるつもりはなかったとか。いろいろな名店を回った後に、最後に訪れることになりますが、良い機会なのでその理由を聞いてみました。

  「田口さんには中しわけありませんが、本当を言うと、なぜかカフェ・バッハには足が向きませんでした。それは、東京の山谷という旦雇い労働者の町にあったからです。その考えが大きな偏見で、浅はかだったことはその後、田口さんにお会いし、お話を伺ってから分かるのですが、その頃は何も見えていなくて…」(木本さん)

 結局、最後の最後にカフェ・バッハを訪れることになりますが、それが今の『ダックスファーム』への第1歩となります。

  「カフェ・バッハヘ2回目に行った時のことです。田口さんはいなくて、ママさんが対応してくれました。〝田ロマスターは、木本さんにまた来てほしいようなことを言っていました〟〝もう1回いらっしゃい〟と優しい言葉をかけられ、それでその後、もう一度カフェ・バッハを訪れ、田口さんとゆっくり話しをする機会を得ました」(木本さん)

 この時の話が、木本さんにとってはたいへんインパクトがあったようで、自家焙煎コーヒー店への道を決定づけたようでした。

 「今でもはっきり記憶していますが、田口さんのおっしゃる言葉の中に本質的なものを感じて、それで自家焙煎コーヒー店をやろうと決めました。これから自家焙煎コーヒー店を目指す人たちにも参考になると思うので、その時の印象的だった言葉のいくつかを、この場を借りてご紹介させていただきます。

 1つめは、なにが良いコーヒーで、なにが悪いコーヒーかが分からないので教えてほしいという質問に対して返ってきた言葉でした。

  『あのコーヒーはおいしいとか、このコーヒーは不味いとか言う人がいます。これはその人が飲んだコーヒーに対する1つの評価であって、それはそれで大切なことですが、あくまでもその人の好みで絶対的なものではありません。ただし、はっきりしていることはあります。それは良いコーヒーは体に良い、悪いコーヒーは体に悪い。これははっきりしています』

 2つめは、カフェ・バッハのある場所についてお伺いしたことに関する答えでした。私が店を訪れた時はちょうど日本経済が景気の良い時で、カフェ・バッハのある東京・山谷(今は町名変更して日本堤に)には旦雇い労働者があふれていました。カフェ・バッハもそうしたお客様で賑わっていました。たいへんな場所で商売しているなと感じまして…その時、田口さんから次のような言葉が返ってきました。

 『カフェ・バッハは、東京の山谷にあって、東京の中心地の銀座にあるカフェとはまったく異なる客層の人たちにお客様として来ていただいています。山谷に店があると言うとたいへんな場所で商売しているねとか、そんな場所でよくコーヒー店が成り立つねといったことを言われたことも決して少なくありません。でも、そう言う人には次のようにお話ししています。カフエ・バッハに来てくれるお客様は、長い人生の中で成功も失敗も経験している人たちです。中には、世界の国々を回っていて、世界の味を知っているお客様もいらっしやる。そうしたお客様は本当のおいしさや不味さを知っている。そうしたお客様にうとまれたら、決して商売はうまくいきません。そうしたお客様に真摯に取り組み、満足していただけることがバッハの誇りです』 私は山谷という場所に行ったこともないのに、風評にまどわされ、偏見を持っていました。田口さんの言葉には、体験に裏打ちされた本質がありました。その本質によって、私の偏見は見事に打ち消され、目が覚めました。

 3つめは、40代で店を始めるという年齢的なものから生じる不安でした。そんな気持ちを察して、田口さんから言われたのが次のような言葉でした。

  『40歳代というのは、自家焙煎コーヒー店を始めるにはちょうどいい年齢です。その理由は、若いお客様の、また年輩のお客様の気持ちも、その両方の人たちの気持ちが分かり、心配りができるからです』

 このアドバイスには、その時、私自身ずいぶん勇気づけられました。

 4つめは、入善町という場所に対する不安でした。なにしろ、これから店を出そうという場所は、駅から1㎞mも2㎞も離れており、道路には車が1台も通りすぎないような辺鄙なところ。はたしてお客様が来てくれるのか。

 そんな気持ちになっている私に言った言葉が、次のようなものでした。

  『自家焙煎コーヒー店は誰でもできる。ただし、できた後がたいへん。やってみなきゃわからない。大切なのは、来店されたお客様を大切にすることです。最初はどうせ暇なのだから、来店されたI人のお客様ととことん喋る。次のお客様が来るまで喋る。それが、常連になるかならないかの分かれ道。お客様がいない時こそ、お馴染みのお客様をつくる絶好のチャンスです』

 実際、『ダックスファーム』では、この時の言葉を実践することで、この場所で30年にわたって営業を続けることができています」(木本さん)

小さなプレハブ小屋で豆売りからスタート

 1985年12月1日に、プレハブ小屋の店をオープンしました。

 その頃はとにかく資金がなかったといいます。店の看板は発泡スチロールのボード。そこに『ダックスファーム』と書いてスタートしました。およそ10畳くらいのスベースに焙煎機を置き、4~5人くらい座れる客席を確保するのがやっと。しかも、周りは雑木林。鶏やアヒルが放し飼いされているような場所です。

  「農作業をしながら、プレハブ小屋に戻ってコーヒー豆の焙煎をする。場所が場所ですから、お客様が来ない日が何日も続くこともありました。でも、幸いなことに、12月にオープンしてその4ヵ月後に、地元の全国紙の記者が取材にきて記事にしてくれました。その後も何度も取材にきていただき、それもあって少しずつ店を知っていただくようになりました」(木本さん)

 木本さんは、自家焙煎コーヒー店をスタートさせる時、同じプレハブ小屋で宅配便の仕事も始めます。

 今でこそ、宅配便はコンビニエンスストアでも取り扱っていますが、その当時はそんな便利なものがない時代。しかも、駅からも遠く離れた淋しい場所。周辺に住む農家の人にとっては、たいへん珍しく、またありかたかったようです。都会に出ている子供に荷物を送ろうと、地元のお爺さんやお婆さんが品物を持って、木本さんのプレハブ小屋を訪れたそうです。そうした人だちと親しくお喋りし、時には木本さんが焙煎した豆で抽出したコーヒーを試飲していただく。そして、『ダックスファーム』のコーヒーについて話をしたそうです。

 これは、何十年も生まれ故郷を離れていた木本さんが、地元の人だちとの交流を深めるのに、また地域の人たちの考え方や生活環境を改めて知る良い機会となりました。

 そして、こうした地域の人だちとの交流を経て、オープンから2年後の新店舗開業へとつながっていきます。

開業から2年後の1987年に現在の新店舗をオープン

 現在の店舗を開業したのは、1987年(昭和62年)9月14日。プレハブ小屋でスタートしてから2年後のことです。敷地は100坪。店舗面積はおよそ30坪で、客席数は40席。冒頭で紹介したように、店のすぐ脇にはアヒルが泳げる小さな池があります。広い窓ガラスを通して、客席から池の先に自然の山並みと緑を眺めることができます。

  「オープンの時は、カフエ・バッハの中川さんが1週間泊り込みで応援にきてくれました。お陰様でオープンの3日間はたいへんな賑わいでした」(木本さん)

 オープンした9月14日前後は、ちょうど農繁期。農家の人にとって1年の中でも、とりわけ忙しい時期です。そんな忙しい中、なんとか時間をやりくりして来店されるお客様もたくさんいました。また、地元だけでなく、店から遠く離れた地域から来店されるお客様もいて、朝の9時から夕方の5時までお客様でいっぱい。40席の客席に、1日に300人ものお客様が来店して、座る席がない人もでるくらいの賑やかさだったといいます。

 その頃のこんなエピソードを木本さんから聞いたことがあります。

 ある夫婦が『ダックスファーム』の豆を買い、自宅でコーヒーを沌れていると、年老いた親御さんがやってきたそうです。親御さんもそれを飲みたいというと、夫婦は驚いたように「お茶ではないよ。コーヒー飲むの9こと聞きました。すると親御さんは「飲むよ。タックスさんのコーヒーはおいしいもの」と答えたそうです。

 夫婦は、親御さんがコーヒーを好きなこと、ましてやすでに『ダックスファーム』のことを知っているとは想像もしていなかったので、とても驚いたとか。

 この親御さんは、『ダックスファーム』がまだプレハブ小屋で営業していた頃、宅配便を利用していただいたお客様で、コーヒーも飲んだことがあったようです。

 親御さんからしてみれば、若い夫婦が地域で話題になっている店のコーヒーを早速買ってきた姿が微笑ましく映ったことでしょう。心の中でJ仏がずいぶん前に飲んだコーヒーだ〃と少し誇らしい思いで。そして若い夫婦は、次も『ダックスファーム』でコーヒーを買うことでしょう。今度は自分たちだけでなく、親御さんのためにも。

 こうしたエピソードに〝地域密着とは何か〟というテーマに対する本質的な答えが隠されているように思います。

 『ダックスファーム』がある地域には農家の方がたくさんいます。そんな地域の人たちが、農作業をした後に気軽に利用できるような店づくりがなされています。例えば、農家の人が靴の汚れを気にせず入れるように床はフローリング貼りに。裏には人口をもう1つ設け、そこでは汚れた靴を水洗いして入れるようなスペースも設けています。また、小さな子供連れのお客様が気兼ねなく利用できるための配慮も行き届いています。床をフローリングにしてあるのは、先ほどの理由に加え、小さな子供が素足で歩いても大丈人なように採用したと聞いています。

 また、お母さんが赤ちゃんのオムツを替えるのに便利なようにベンチシートを設けています。

 さらに、地域の婦人会のカルチャー教室にも積極的に参加して、コーヒーの普及に努めています。

 一婦人会のカルチャー教室にも取り組み、1年に5~10回ほどコーヒー教室を開催しています。1987年9月には田口さんに講演に来ていただきました。その際、参加お願いのDMを発送して、たくさんの方からお返事をいただきました。この時、参加できない方からも欠席届けがきましたが、その理由が丁寧に書かれていたのには驚きました。地域とは何かを、改めて考えさせられました」(木本さん)

 この木本さんの、創業以来から守り続けてきた地域に寄り添った店づくりは、今、息子の亙さんに確実に受け継がれています。

 亙さんは、会社勤めを経て、28歳で生まれ故郷に戻り、お父さんの創業した『ダックスファーム』に入って10年目を迎えます。

  「バッハさんの主催する海外研修などにも誘っていただき、たいへん勉強になりました。また、それによって自分の足りないものも分ってきて、これまで以上にコーヒーに、仕事に真摯に取り組んでいく必要があると痛切に思うようになっています。時代とともに周囲の環境も、社会状況も変化しており、そうした変化の中でいかに地域に密着した商売を続けていくかが、これからの課題だと思っています」(亙さん)

 『ダックスファーム』と地域との豊かな関わりは、これからも確かに受け継がれていくことでしょう。
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ソーシャルワークの新たな展開--エンパワメント

『ソーシャルワークへの紹介』より ソーシャルワークの新たな展開①--エンパワメント

エンパワメントとは何か

 エンパワメントの意義

  エンパワメントは、ヒューマンサービスに限らず、開発援助、フェミニズム、マネジメント等さまざまな分野で注目されて久しく、日常語になった感がある。エンパワメントは、一般的に「社会的に抑圧されたり、生活を組み立てていくパワーが欠如していたり、セルフコントロールしていくパワーを剥奪された人びと、グループ、地域社会が、パワーを獲得するプロセス」と理解される。

  ソーシャルワークにおいて、エンパワメントを概念化した先覚者はソロモン(Solomon, B.)である。ソロモンは黒人に対するソーシャルワークの過程を目的としてエンパワメントを概念化し、「エンパワメントは、スティグマ化されている集団の構成メンバーであることに基づいて付与された否定的評価によって引き起こされるパワーの欠如状態を減じることをめざして、クライエント、クライエント・システムに対応する一連の諸活動にワーカーが取り組んでいく過程である」と定義づけている。そして、支配的な社会とマイノリティグループとの間に作用しているパワーに着目し、マイノリティグループの中に見られるパワーの欠如状態を、個人、あるいはグループの目標を達成するために資源を獲得したり、活用できないこと、価値ある社会的役割を遂行するための情報、知識、スキル、物質を管理できないことととらえている。

  ソロモンは黒人という一つの属性のみで否定的評価を受け、パワーを剥奪されていた黒人のパワーを回復、あるいは、獲得していく過程を支援することをエンパワメントとみなしている。これは、黒人に限らず、他のマイノリティグループに置き換えることもできよう。マイノリティグループのメンバーは、マジョリティによって否定的評価を受け、自己決定が制限され、価値あるアイデンティティ、社会的役割の否定をもたらす傾向にある。エンパワメントは、効果的な平等のサービスの維持と改善、そして、特定の個人とグループに対して影響力を持つ他のグループによる否定的評価を減じる取り組みの側面を持つ。

  エンパワメントは、社会的に抑圧されている人びとに対する支援理論として発展し、その後、利用者主体の支援展開において重要な概念となっている。支援理論としてのエンパワメントは、「人間を社会的存在、目的志向的存在としてとらえる。そして、人とその人の環境との間の関係の質に焦点を当て、人びとがその潜在性を最大限に発揮できることをめざし、所与の環境を改善するパワー、とりわけ、人びとがQOLと資源及びサービスヘ公正なアクセスの機会を害する環境条件に抵抗し、それを変化させるパワーを発達させる。そうすることによって、自らの人生の主人公になるべく希望とパワーを自分、そして自分を取り巻く環境の中に見出し、自分たちの生活のあり方をコントロールし、自己決定できるように支援すると同時に、それを可能にする公正な社会の実現を図ろうとする理論」ととらえられよう。

  コックス(Cox, E.)らは、エンパワメントを志向する実践の基盤にある重要な価値として、人間のニーズの充足、社会正義の促進、資源のより平等な分配、環境保護に対する関心、人種差別・性差別・年齢差別の排除、自己決定、自己実現を挙げている。エンパワメントの基本原理は正義、平等、参加、人びとの権利を搾取したり、否定しないことであり、社会正義、特に、周辺化され抑圧された人びとのために活動するというソーシャルワークのミッションの上に成り立っており、人と環境の視座に政治認識を加えるものである。そして、エンパワメント実践は、個人とコミュニティが抑圧に対処する時に、保有し、発達させる創造的な能力、強み、資源に焦点を当てる。これは人間を肯定的にとらえ、人間の成長、発達の可能性、人間の能動的積極的な側面を重視するものであり、人間の主体性、潜在性に絶対的信頼を向けることを意味する。つまり、人間が本来変化を生み出すパワー、生活状況の改善に向けて取り組むパワーを持っているとみなしている。

  エンパワメントは、パワーダイナミックスの理解に基づき、パワーの欠如がいかに利用者の存在のあり方、具体的な生活のあり方に影響を与えるかに着目し、パワーの欠如した利用者と環境との間のパワー・ベース(power base)の変革、すなわち、組織的、文化的、制度的、社会経済的環境のパワーの再配置にコミットし、人と環境の関係の構造的変化、相互変容をもたらす政治的行為である。そこには、「個人的なことは政治的なこと」という考えを前提にするフェミニズムと共通する思想がある。制度的な変化に向けた努力は倫理的であるととらえられ、構造的にパワーの欠如した人びとの側に立ち、相互変容をもたらす時、中立の位置を放棄することになる。

 エンパワメントの多元性

  エンパワメントは、以下のレペルからなる多元的概念である。

  1)個人的エンパワメント

   自分が自身の生活をコントロールしているという信念である自己効力感、自己信頼、自尊感情を持つような心理的パワーの獲得、そして、自分の生活をコントロールしていくための社会資源の活用といった現実的なパワーの獲得である。心理的エンパワメントは、内発的に動機づけを得た状態を示す概念としてとらえられる。自分の人生をうまくコントロールしていると実感できると、有意味感、影響感、自己効力感が高まる。こうして、自分は価値ある存在であり、可能性を持っているという自己信頼を持つことが心理的エンパワメントの重要な構成要素である。これが、基本的なニーズの充足と相まって、積極的な自己概念を生み、自らの生活の支配権を握り、行動に向かわせる原動力となる。

  2)対人的エンパワメント

   他者との安心できる積極的な関係を取り結び、自己主張し、効果的な相互影響作用を持つパワーを獲得することである。具体的には、その人の家族、友人、近隣といった、身近な人びととのコミュニケーションを円滑にし、対人関係に日常性を取り戻し、ソーシャルサポートネットワークを構築する。利用者がこれまでかかわりを持っていたシステムだけでなく、未知の地域社会の中に新たな支援者やつながりを見出し、創造していくことをめざす。さらに、同じような地位、問題状況に対処している仲間とセルフヘルプグループを形成し、情緒的具体的支援を促進する。

   よく似た状況にある他者との同盟は、いまだ声にしていない感情を声にする機会である。問題を共有する人びととのコミュニケーション、相互に影響を及ぼし合う経験をすることによって、メンバーは自己非難、孤立感を減じる一方、連帯感を生み、他者を支援する役割を取得し、自分の存在を受容されること、また、自分が他のメンバーにとって意味ある存在であることを実感し、自己有価値感を作り出すことになる。自分と見解を共有する人びとによる有効化の経験がパワーの経験を支持し、セルフコントロール感を養う。

  3)社会的・政治的エンパワメント

   地域社会のメンバーとしての活動への参加等、制度変革的行動へ参画するパワーを獲得することである。利用者が、社会的、政治的、物理的環境の文脈的変化に影響を及ぼす道を拓く。地域の福祉力向上に向けてグループ行動をとることは、ニーズに対応した社会資源の整備、ボランティア、ナチュラルヘルパーの増加に結び付く。さらに、利用者がサービス供給システムの優先順位の決定と、デザインに参画するといった社会的意思決定の機会を獲得し、社会的発言力を付けていくことにつながる。管理的、受動的な生から創造的、主体的な生への転換である。

   以上のように、エンパワメントは多元的レベルを包摂しており、各レベルが相互浸透しながら展開していく。パワーの源泉への利用者のアクセスを最大限にするべく、個人的、対人的、社会的成長と、組織、コミュニティ、社会の変化という、多元的なレベルで支援活動が展開され、支援者グループ、組織、さらにはより広範な社会の構造的変化、すなわち相互変容に至るのである。

ソーシャルワークにエンパワメントを導入する意義

 支援対象者の周辺化

  ソーシャルワークの対象者は社会の周辺に位置づけられ、対象者自身も、社会のそうした期待を内面化して生きることを余儀なくされ、抑圧の中にあって、スティグマ化された社会的アイデンティティが構築されてきたといえる。

  生活問題の解決において、最良の効果を及ぼすために合理性と科学的知に強調点がおかれ、目的的存在としての人間観がその背後に追いやられ、利用者は操作化の対象になり、ソーシャルワーカーの手に委ねられることになった。ソ-シャルワーカーが科学的な根拠に基づき、正当化された既成の枠組みに沿って評価することは、人の生の文脈を無視し、ソーシャルワーカーは被支援者にとって手の届かないロール・モデルになる。こうした立場に立脚する限り、支援者と被支援者の役割分離にとどまり、双方の相互的関係は存在せず、一人ひとりの人間が持っている価値や独自性についての関心が薄れていくことになる。

  自然科学で活用される経験的方法の採用は、組織化され、科学として自身を定義するべく、産声をあげた専門職にとって魅力的であった。合理的な介入の戦略がなされるように人びとの生活上の問題を定義することに注意が払われ、因果論的思考によって原因追求をなすという科学的信念の下、診断的カテゴリーに基づき個人の行動に焦点を当てることになった。すなわち、個人の内部に問題、責任の所在を求め、個人を変革のターゲットにし、無力化する個人還元主義に至った。中井久夫は、「治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする」という。

  被支援者の声を聴くのではなく、ソーシャルワーカーの必要な情報を収集し、被支援者は矯正、治療されるべき対象とされ、「よい利用者」として、サービス供給者側の支援活動に協力する、あるいは、服従することが本人の生活問題の軽減になり、生活の安定につながると考えられた。その結果、専門職の支援に抵抗するような対象を排除し、標準モデルと技術に合致する対象を選択し、サービスに人を適合させるという現象を生んだ。被支援者になるということは、専門職への追従者としてハイアラーキーの底辺におかれ、弱い存在、保護されるべき存在としてラペリングされ、ソーシャルワーカーにコントロールされる関係に入ることを意味するのである。

  問題を抱えるということは、問題がその人に属することを示し、その人についての重要な事実を表現する。問題の存在は専門的なソーシャルワーカーの存在理由を提供する。これまで名前が付いていなかったものに名前が付き、一つの問題の原因が定義されることによって、その問題はこれまでと異なる姿に変わり、治療的努力が志向されなければならない現実として措定され、解決、あるいは治療できるという幻想を作り出す。その人が経験している漠然とした不安、なす術を見出せないでいる状態から、困難の源泉が特定され、理解できるようになる。

  未知のものであったものがカテゴリー化され、ラペリングされ、問題を合理的なプロセスに従属させることによって、困難を抱えている人は、それがある型を持ち、対処されうるものと見なすのである。このように、名前を付けることに伴うコントロール感は信頼感を生む。知識はそれを活用する人にとってはパワーとなり、困難を抱えている人にもう一つの壁を作る。専門職のパワーは、問題に名前を付けること、困難を克服するための戦略を立てることから生じる。こうしてみると、パワーは支援構造に論及する時、重要な概念であることがわかる。

 パワーの理解

  パワーに着目したのがエンパワメント理論の特徴であるが、それはソーシャルワークがパワーとパワー関係を包含しており、政治的であることを改めて示した。パワーは、個人的、対人的、社会的レベルで行使される複雑な現象である。それは、時に他者を支配したり、その人の意思に反して何かをするように強制する能力と結び付くこともある。パワーは個人の内部に保有しているものであり、その人の内発的エネルギーを意味する個人的概念であると同時に関係概念としてとらえることもできる。そこでは、依存と保護が交換され、依存される度合いが大きい側の方が、パワーを他者に対して持っていることになる。パワーのハイアラーキーは、,制度化された地位とそれらに結び付いた不平等と考えられる。

  パーソナリティ、情動への焦点化は、貧困、ジェンダー、社会的不平等といった社会的、イデオロギー的問題への注意を弱める危険性がある。前述のように、現実の社会は同質化した水平な構造にあるというより、パワーのインバランス状態にある。人の技能、能力、希望等の個体要因は、環境の影響や状況の要請・期待と無関係には存在しない。したがって、その人を取り巻く環境の質と環境との相互作用の質を考慮しなければならない。

  人は個人的な喪失と環境の制約の相互作用によって、無力化の知覚に至る。すなわち、自分のしていること、あるいは、自分の存在は他者に何も影響を与えないし、自分の人生はうまくいかない、自分は無意味な存在であると自己知覚することによって居場所も所属感もなく、学習された無力感、自己非難、社会的な影響力の喪失感を増し、パワーの欠如した状態に慣らされ、閉塞状況に陥るのである。エンパワメントはこのような状況から脱皮し、周辺化された人びとがメインストリームを形作るアプローチに導く。
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アラブ帝国の未完の夢

『帝国の最期の日々 上』より アラブ帝国の未完の夢--七世紀-一五世紀

勝利と分割(六二八-六六一年)

 アラブの発展にはさまざまな要因があり、まずアラビア半島の人口増加やベドウィン族の戦士としての価値観があげられる。神の道においての聖戦ジハードが宗教的に正当化されているのである--偶像崇拝者や、啓典の民[キリスト教やユダヤ教など、同じ啓典をもとにするイスラム教徒以外の異教徒]との戦いが、コーランの有名な「剣の節」で容認されている。

 発端は六二八年、ムハンマドがメッカの住民に戦争を仕掛け、彼らのシリアとの交易を妨害するために北のオアシスをタイマー(アラビアの北西)まで征服しようとしたことにはじまる。翌六二九年、死海の東、ムウタでのビザンティンとのはじめての戦いには敗れたが、六三〇年にはビジャーズ[紅海沿岸一の征服に成功した。同年、メッカを奪取したことで--その三年前にササン朝がビザンティンに敗北していたこともくわわり--、アラビア半島じゅうのベドウィン族が結集する。それを機に、ムハンマドは再度ビザンティンに戦争を挑み、同じ六三〇年の暮れに大遠征隊で出発、このときはアラビアの国境近くのタブークまで進攻した。六三二年五月、病気になった彼は(同八月に死去)、北に向けての新たな遠征を命令している。

 ベドウィン族との同盟が爆発的に広がったのは、彼らが個人的な契約だと思っていたことが大きいだろう。預言者ムハンマドの初代カリフ(後継者)、アブー・バクルの最初の仕事は、自身の権威とイスラム教をアラビア全域に認めさせることだった。改宗を掲げる新たな戦争は、彼の時代(六三二-六三四年)と、彼の後継者であるウマルの時代(六三四-六四四年)にひんぱんに行なわれ、アラビア半島の外まで発展する。メソポタミア(イラクとして知られる)では六三三年から六四二年にかけてササン朝と戦い(ペルシアの支配は六五一年まで続く)、シリアでは六三五年と六三六年にダマスカスと、六三八年にはエルサレムと、エジプトでも六三九年から六四一年までビザンティンと戦った。いずれも電撃的な成果をあげたのは、二つの帝国が双方とも長期の戦争で疲弊していたからである。アラブ人側には権力を奪うだけで国家財産が手に入った。ビザンティンでもササン朝でも、大貴族は領土を放り出して逃走し、税金を徴収する行政制度(貨幣や言語も)もそのまま残していった。彼ら自身はアラブ一色になった新しい都市に、部族ごとに分かれて住むようになる。こうしてイラクには六三六年にバスラが、六三七年にはクーファが創設され、エジプトでは六四一年にフスタートが創設された。いずれもマディーナから離れていたことから、それぞれの総督は好き勝手に行動できた。たとえばシリアのムアーウィアや、エジプトのアムル・イブン・アル=アースなどである。

 コーランには、征服された民族の運命については何も指示されていなかった。ムハンマドはマディーナではユダヤ人を追放するか虐殺したのだが、北部のオアシスでは新しい制度をとりいれた。啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)を保護する制度「ズィンミー」で、シバ教徒とゾロアスター教徒もくわえられた。しかし、非アラブ人でイスラム教に改宗した者たちはマワーリーとよばれ、本来ならイスラム共同体で同等にされるべきところ、アラブ人貴族の「庇護を受ける隷属平民」という地位をあたえられただけだった。

 もう一つは政治的な問題で、ムハンマドが後継者を決めていなかったことから発生する。後継にふさわしいのは彼自身の家族(とくに最初の妻ハディージャとの娘ファーティマと結婚していた彼の従兄弟アリー)なのか、その一門(ハーシム家のバヌ・ハーシム)か、その一族(クライシュ族)なのか? アリーはムハンマドの生存中は重要な職務についていなかったこともあり、初代カリフには一族からクライシュ族のアブー・バクルが選ばれた。彼はムハンマドに共鳴して改宗した古参の仲間(サハーバ)で、メッカヘの最初の巡礼の主導者かつ、ムハンマドの最愛の妻とされるアーイシャの父でもあった。二年後の六三四年、アブー・バクルは死の床で後継者に同じくクライシュ族のウマルを指名する。彼もまたサハーバで、やはりムハンマドの義父だった(娘が四番目の妻。娘婿アリーとファーティマとも家族関係になる)。ウマルはペルシア人による暗殺の犠牲になったのだが、死のまぎわに後継者問題を調整する時間はあり、伝統にしたがって六人の後継者からなる委員会が開かれ、なかから一人を選ばなければならなかった。そこで選ばれたのはアリーに対抗していたウスマーンで、やはりサハーバでクライシュ族、彼もまたムハンマドの娘婿(彼の二人の娘と結婚)だった。六四四年から六五六年までのウスマーンの時代、征服はなかったのだが、しかし帝国の体制のなかで彼の家族や一門のひいきが目立った。そのバヌ・ウマイヤ家はなにあろう、ムハンマドの一門バヌ・ハーシム家の長年の敵でもあった。

 ウスマーンの政治はいたるところで不満を生んだ。征服の恩恵に浴しないマディーナの住民、クライシュ族以前に改宗した者、コーランの手直しに反対する信者、そしてカリフの地位の権利があると主張する預言者ムハンマドの家族である。ついにはアーイシャとアリー、元サハーバのズバイル・イブン・アル=アウワームとタルハ、エジプトを征服したのに総督を解任されたアムル・イブン・アル=アースらが団結し、それがマディーナでのウスマーン暗殺につながった。いかに彼の命が狙われていたとはいえ、この事件はカリフがすでに威光を失っていたことを示すものだった。ついに次のカリフにアリーが選ばれたのだが、しかし彼には暗殺の汚名がっきまとい、急激に仲間を失って、これがはじめての「フィトナ」--イスラム教徒間の戦闘--へと発展する(六五六-六六一年)。この戦争が行なわれたのは、すでに都市としての力を失っていたメッカでもマディーナでもなく、アラビアの外のイラクだった。アリーは第四代カリフとしてイラクのクーファを首都にしたのである。

 六五六年一二月、アリーはバスラ郊外でのいわゆるラクダの戦い「アーイシャがラクダにとりつけた座椅子に座って参戦したことから」に勝利、そこでズバイルとタルハは殺され、アーイシャはマディーナに送り返された。このときアラビアとエジプトは無関係を決めこみ、ウスマーンの従兄弟、ムアーウィヤが総督をつとめるシリアがアリーの抵抗勢力の中心になる。ムアーウィヤはウスマーン暗殺の裁きを求め、自分の地位をアリーが任命した総督にゆずるのを拒否、紛争は避けられない事態となる。二つの軍隊はユーフラテス川沿いのスィッフィーンで相対した。動きのない数週間がすぎたあとの六五六年七月二六日に衝突、アリーの軍が優位を占めたとき、ムアーウィヤ側についたアムル・イブン・アル=アースが槍の先にコーランの紙片をつけたものを兵士に放たせ、ここは人間ではなく神に頼るべきだと訴えた。休戦が決まり、調停が交渉された--しかしアリーはそれを受け入れつつも、カリフの地位を格下にする案にしている。さらに、一部の支持者が人間による調停を拒否して彼の一派から離れた。それがハワーリジュ派(「派を出た者たち」)で、イスラム教ではじめて離脱した会派となる。ようやく調停の決着がついたのは六五八年一月、パレスティナのクーファとダマスカスの中間地点で、アリーに対して前任者の暗殺と、カリフの地位の格下げの罪を認めている。六五九年、アリーはまずハワーリジュ派への反撃にうってでて、イラクで圧勝した。翌六六〇年、エルサレムでムアーウィヤは支持者たちからの要望でカリフになり、六六一年一月、アリーはクーファでハワーリジュ派の一人に暗殺された。ムアーウィヤと戦うための遠征を準備していたときだった。アリーの死後、彼の信者たちが集まってシーア派を結成、この一派は簒奪者との闘いを賛美する神秘的な色あいをおびていく。カリフの地位がイスラムを主要な二派に分割する原因となったのである。預言者が創設したイスラム共同体「ウンマ」は三〇年と続かなかったことになる。

ウマイヤ朝の拡張(六六〇-七五〇年)

 この最初のイスラム教徒間の戦闘のあと、ムアーウィヤはカリフの威光を復活させ、帝国の中心に置くようなイスラム共同体を設立すべく、六六一年、新たな本拠地をダマスカスに置く。この政権の土台は、アラブ部族との忠実な関係、地方総督への管理の強化、カリフの世襲制--これは新しい制度で維持されることになる--にあった。こうしてムアーウィヤはイスラムの最初の王朝、ウマイヤ朝を創設した。安定した体制になったことでふたたび征服がはじまり、今度はビザンティンとの海陸の境界線、トロス山脈を越えていく。コンスタンティノープルの包囲網は六六八年から翌年にかけて複数回、六七四年から六八〇年にかけては一連の襲撃が行なわれた。しかしムアーウィヤの体制は彼の死で弱点をさらけ出し、二回目のフィトナ(イスラム教徒間の戦闘)が勃発する(六八〇-六九二年)。生前のムアーウィヤはくりかえされるハワーリジュ派の反乱を制圧し、アリーとファーティマの長男のカリフ、ハサンを巧みに無視したのだが、彼の死後、アリーの二番目の息子フサインはムアーウィヤの息子で後継者のヤズィード一世を認めようとしなかった。フサインは支持者の要望でカリフに推されるのだが、しかしクーファに合流した六八〇年、カルベラーの戦いで虐殺された。その復讐に、アラブの貴族アル=ムフタールはクーファでの反乱を支援するのだが、その先頭に立った彼らの異母兄弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤは六八七年に殺された。いっぽう、アブー・バクルの孫でアーイシャの甥、ハーシム家のアブドゥッラー・イブン・アッズバイルもメッカでカリフを名のり出るのだが、六九二年に抹殺されている。

 混乱を立てなおしたのは第五代カリフのアブドゥル・マリク(在位六八五-七〇五)で、制度をアラビア化(言語と貨幣)することで組織の強化と調整を行ない、税制も改善して、ウマイヤ朝はふたたび拡張するのである。東は、中央アジアではホラーサーン(現在のイラン北東部)の先へ行き、ングディアナ(ウズベキスタンとタジキスタンの一部)では七〇六年から七〇九年にかけてブハラを占拠、ホラズム(ウズペキスタンとトルクメニスタン、イランの一帯)では七一〇年から七一二年にかけてサマルカンド、七一三年から七一四年にフェルガナ(ウズベキスタンの肥沃な谷)を占拠、さらにベルーチスターン(イラン南東部からパキスタン南部)に向かって、シンド(インダス川のデルタ地方)--インダス川にたどり着いたのは七一一年から七一二年--、さらに七一三年にはパンジャーブまで行く。西は、北アフリカに向かい、六七〇年にケルアン「チュニジア」の要塞を建設、六八一年には大西洋まで大遠征隊を派遣し、六九五年にはカルタゴを占拠、七〇五年から七〇八年にかけて北アフリカ--ベルベル人の抵抗にあったことで最難関--、七一一年にはジブラルタル海峡を制覇する。そしてついに七一六年八月から七一七年の九月までコンスタンティノープルを再度包囲するのだが、ビザンティンに防衛されている。この急速で驚異的な拡張の限界を示す戦いが二つある。七三二年にフランク王国と戦って敗れたポワティの戦いと、七五一年に唐時代の中国と戦ったタラス河畔の戦いで(ウマイヤ朝のあとのアッバース朝時代)、このときは勝利したのだが、それ以上先への進攻を止めている。

 イスラム教徒の征服には驚くべきものがある。実際、アラブ人は戦士として特別にすぐれていたわけではなかった。ラクダに乗って戦ったわけではなく、騎馬も減っていた。彼らの勝利は、弱体化した二大帝国の中心に位置して辺境の地方を攻撃したことと--防衛が不備になっていた--、つねに戦闘できる部隊がいたこと、戦士の宗教的な興奮、戦利品の魅力、そしてまた、征服した地方で勝手気ままに行動でき、順応するのになんの問題も生じなかったところにある。

 しかし七四〇年代になって混乱が再発する。その原因となるのはハワーリジュ派であり、シーア派、ペルベル人、アラブ部族間の敵対関係、ハーシム家の野望、そして最後が改宗した非アラブ人、マワーリーにあてられた運命である。それが形となってあらわれたのがマグレブでのベルベル人の反乱で(七三九-七四三年)、ハワーリジュ派による布教と、三回目のフィトナによって火がつき、七五〇年のウマイヤ朝の崩壊へといたる。カリフによる最初の試みは失敗に終わったのである。
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反映対比表 2018 Week 13

03月26日

 『入門 観光学』より ダークツーリズム 4.5.3-4.2 観光資源の開発

 ダークツーリズム概念の登場と拡散 4.5.3-4.2 観光資源の開発

 ダークツーリズムの種類と特徴 4.5.3-4.2 観光資源の開発

03月27日

 乃木坂46時間TVロス 3.6.3-4.3 ネット放送

 4.5.3「地域再生」 4.5.3 地域の動き

 4.5.4「企業と行政」 4.5.4 企業の動き

03月28日

 役割なき役割 5.1.1-4 役割なき役割

 4.6.1「137億年の歴史」 4.6.1 進化してきた

 4.6.2「組織というもの」 4.6.2 組織は崩壊する

03月29日

 糖尿の悪化かな 7.3.2-2.1 健康状態

 未唯の次の子 7.2.3-4.1 未唯(Ⅱ)が拠り所

 4.6.3「分化し、統合する」 4.6.3 分化し、統合する

03月30日

 2017年度の借出実績の集計 6.1.2-1.2 2万冊への道

 一人LINE 7.3.1-1.4 一人の習慣

 借りた本の選別 6.1.2-4.4 未唯空間を構成

 問題の多い世界に存在していること 4.1.4-1.2 地域の争い

 不安定な重要な社会規範 4.1.4-1.2 地域の争い

 不安定な状況 4.1.4-1.2 地域の争い

 戦争の恐怖 4.1.4-1.2 地域の争い

 マイクロソフトとネットスケープの戦い 8.6.2-1.3 個人環境を整備

 「家族の多様性」ということについて 9.6.2-3.2 個人が変わる

03月31日

 F3Eの先進性 5.1.1-2.2 夢をカタチに

 GRは500万円もするって 5.1.1-3.4 考えない体質

 全握に行きたいけど 3.6.3-3.3 リアルな接点

 4.6.4「個の力を活かす」 4.6.4 個の力の社会

 『電力と政治』より 時間のなかの電力・エネルギー政策

 時間のなかの電力・エネルギー政策 9.1.4-3.1 地域で選択

 土木業界の将来展望 3.7.3-4.1 自給自足の世界

 全体主義をデザインする 4.1.1-3.3 全体を動かす

04月01日

 ふと思ったこと 6.1.2-3.2 言葉は思考

 猛烈な眠気 7.3.2-2.2 生活は外の世界

 トラウマに変化が起きている 1.1.2-2.1 存在しなくなる

 アメリカQ&A 家庭とコミュニティ 7.3.3-3.1 家族の認識
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反映対比表 2018 Week 12

03月19日

 個人のショールームが主役になる 3.6.3-4.3 ネット放送

 かゆいところありますか? 7.3.4-1.4 自分を表現

03月20日

 4.4.1「歴史の目的」 4.4.1 歴史を知る目的

 4.4.2「時空間」 4.4.2 時空間の流れ

03月21日

 5年前、母親が亡くなった 7.4.4-1.3 意味を考える

 4.4.3「支配関係」 4.4.3 歴史をまとめる

 4.4.4「数学的解釈」 4.4.4 数学的解釈

 歴史調査員からの報告 4.4.3-1.3 地域から突破口



03月22日

 『西部戦線全史』は数字だらけ 4.4.3-2.1 地域の争い

 土日は家にいます 7.3.2-1.2 日々の生活

 4.5.1「ヘーゲル」 4.5.1 歴史哲学で見る

 4.5.2「歴史認識」 4.5.2 市民の動き

03月23日

 乃木坂46時間tv 3.6.3-4.3 ネット放送

 『明治史講義』より 軍人勅諭 4.2.3-2.1 アジア侵略

 『チャイナ・エコノミー』より 格差と腐敗  4.1.4-4.3 民主主義で格差

 『シニア 学びの群像』より 役割なき役割 5.1.1-4 役割なき役割

 徴兵制の統帥権の独立 4.2.3-2.1 アジア侵略

03月23日(金) 中国の格差

 『チャイナ・エコノミー』より

 中国の格差 4.1.4-4.3 民主主義で格差

 役割なき役割 5.1.1-4 役割なき役割

03月24日

 『帝国の最後の日々』より 原爆で解体された大日本帝国 4.2.3-2.1 アジア侵略

 『中東・イスラーム世界の歴史・宗教・政治』より シリア紛争とイスラーム主義 4.3.3-2.3 自己防衛のジハード

 第三帝国の最期の日々 4.1.1-3.4 預言者には見える

 地獄の選択 4.2.3-2.1 アジア侵略

 未練なく消滅した帝国 4.2.3-2.1 アジア侵略

 原因ではなく結果としてのイスラーム過激派 4.3.3-2.3 自己防衛のジハード

03月25日

 『新・君主論』より よい独裁力と悪い独裁力を見分ける 4.2.1-3.2 魅力的な国家

 『英国公文書の世界史』より チャーチルがスターリンに見せた欧州分割案 4.3.2-1.1 ヨーロッパの争い

 『魔女っ子司書と図書館のたね』より ツタヤ的人間のススメ! 6.4.1-4.3 本屋の存在理由

 乃木坂はいいコミュニティを実感 3.6.1-3.3 メンバーを守る

 今の日本で独裁力が必要とされる背景 4.1.2-2.2 全体を支配

 資本主義社会では、独裁は所詮一時的なもの 4.2.1-3.2 魅力的な国家

 チャーチルがスターリンに見せた欧州分割案 4.3.2-1.1 ヨーロッパの争い

 ツタヤ的人間のススメ!? -成長しない有機体考- 6.4.1-4.3 本屋の存在理由
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反映対比表 2018 Week 11

03月12日

 コミュニティとしての乃木坂 3.6.1-3.3 メンバーを守る

 8時の次は11時っておかしくない 7.3.1-2.4 生活の変化

 ICレコーダーの使い方 7.1.4-4.2 考える道具

 作業車が歩道に停まっている 8.8.1-2.2 駐車場をなくせ

 歴史編はなかなか進まない 4.歴史

 フラン・フランが開店 7.4.4-1.1 モノを感じる

 世界の中心で存在を叫ぶ 1.1.1-1.2 内なる世界に存在

 乃木坂20thの選抜発表 3.6.4-4.2 選抜基準

 100円ショップのS字ハンガー 7.3.1-1.4 一人の習慣

 スタバのリフレッシングテイスト 7.3.4-3.2 日々を反映

 見直しは歴史編で停まっている 4.歴史

 4.2.3「国家のあり方」 4.2.3 国家のあり方

 4.2.4「階層の状態」 4.2.4 各階層の状態

03月13日

 4.3.1「 歴史意識」 4.3.1 歴史意識

 4.3.2「グローバル化」 4.3.2 グローバル化

 4.3.3「多様化」 4.3.3 多様化

 4.3.4「歴史の動き方」 4.3.4 変化に対する動き

03月14日

 なぜ、自殺が多いのか 1.2.1-2.4 シンプルな真理

 リクが表に出ていない 7.3.1-1.4 一人の習慣

 天気がいい日は死について考えたくなる 1.2.1-2.4 シンプルな真理

 4.4「歴史とは何か」 4.4 歴史の解釈

 我が家の結婚記念日 7.2.3-3.2 突破できない

 答は本にはない 6.1.2-1.1 年間1500冊ペース

 今年の花粉は遅れてやってくる 7.3.2-2.2 生活は外の世界

 考えることは残酷 1.2.1-1.1 いい加減さ

 すべてが仮想現実 1.3.2-4.1 全ては無に帰す

 なんと短い歴史 4.6.1-1.4 現人類誕生

03月15日

 今がどうなっているか 10.4.3-1.4 未来から<今>を問う

 同じモノばかり買う 7.3.2-1.4 お金の使い方

 今、起きている 10.4.3-1.1 存在と時間

 歴史編の見直し 4.歴史

 春らしい格好 7.3.2-1.1 生活パターン

03月16日

 人類の歴史というジャンル 4.6.1-3.3 人類として認識

 「時間」のことを考える 7.1.1-2.1 内なる時間

 豊田市図書館の新刊書 6.1.3-4.2 新刊書1.3億を10年継続

 さまよう民主主義 4.1.3-4.4 資本主義と不適合

 現代人の魂の救済 7.6.1-4.2 現象を折込

03月17日

 歴史から本を整理しましょう 4.5.2 市民の動き

 未婚率がこのままアップすれば 7.6.4-3.1 自立する

 床屋へ行こう 7.3.4-1.4 自分を表現

 レバノンのマグ 4.7.4-2.3 地中海は観光資源

 ノキア 燃えるプラットフォーム 8.6.2-1.3 個人環境を整備

 単身世帯の増加の実態と将来予測 7.6.4-1.4 家族の意味

 シリアの秘密図書館 6.4.3-1 図書館の形態

03月18日

 イデアを現実生活で実現する 1.2.1-2.2 考えるは生きること

 カント歴史哲学 4.2.2-1 歴史哲学
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反映対比表 2018 Week 10

03月05日

 アレクサンダー大王とハンニバル 4.2.1-1.1 収奪対象

 カントの政治哲学 人間の複数性 10.2.1-2.2 カント

03月06日

 4.1.1「全体主義の起源」 4.1.1 全体主義の起原

 4.1.2「共産主義の平等」 4.1.2 共産主義の支配

 4.1.3「民主主義の挫折」 4.1.3 民主主義の挫折

 4.1.4「平等を求めて」 4.1.4 向かう先はどこ

03月07日

 歴史から学ぶモノ 4.4.1 歴史を知る目的

 ザマの会戦 ハンニバルとスキピオの会談 4.2.1-1.1 収奪対象

 カルタゴ落城 4.2.1-1.1 収奪対象

03月08日

 4.2.1「地域から国家支配」 4.2.1 地域から国家

03月09日

 4.2.2「国民国家の目的」 4.2.2 国民国家

 高校入試の国語問題 6.1.1-3.3 読書は格闘技

 今週の新刊書 7.7.2-2.1 新刊書22000冊

 本が読めなくなっている 6.1.1-1.3 本は私のためにある

03月10日

 イメージ通りの一日 7.3.1-2.4 生活の変化

 数独を幾何学的に解きたい 2.1.1-2.2 考える手段

 ICレコーダーの操作 7.1.4-4.2 考える道具

 昨日と違う今日 7.4.4-1.1 モノを感じる

 欅はコミュニティなのか 3.6.3-1.2 安定と破壊

 そろそろ、名古屋へ行かないと 7.5.3-2.2 つながる瞬間

 とりあえず、チュニスに行こう ・とりあえず、チュニスに行こう

 今日は結婚記念日みたい 7.2.3-3.3 余計なことはしない

 モスまで歩きました 7.2.2-2.3 日々の発見

 未唯との対話の再開を試みる 7.5.1-2.1 μとの対話

 プラトンが理想とする国家は私有財産が許されない 8.8.4-1.3 所有権をなくす

 道徳を持ち出す 7.4.3-1.3 他者に不干渉

 責任を回避する 7.4.3-1.3 他者に不干渉

 学歴下降婚と出生率 7.6.4-3.3 少子化との関係

03月11日

 アゼルバイジャン?の解体屋グループ 3.7.3-4.1 自給自足の世界

 池田晶子「14歳の君へ」再読 3.3.2-3.4 活躍の場

 交通整理は日本人の仕事ではない 3.7.3-4.1 自給自足の世界

 今日は選抜発表 3.6.4-4.2 選抜基準

 「市場」に代わって「生活圏」が機能する 3.6.1-2.2 コンパクトライフ

 お隣のイスラーム チュニジア 4.3.3-3.3 生活を守る闘い

 国際移民 9.3.1-1.1 移民の存在
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