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OCR化した13冊

『現代中東の難民とその生存基盤』

 熱帯乾燥域としての中東--イスラームの都市性--

 はじめに

 中東の起源とその形成--結節点としての都市--

  イスラーム文明に見る中東の成立--その都市的性格

  イスラーム都市論の展開

  都市を拠点とした超域的中東の存在--イスラームの空間概念

 熱帯乾燥域における空間と移動--生態的特徴の把握--

  中東を規定する熱帯乾燥域--生態環境への着目

  熱帯乾燥域における人々の移動経路

 ヨルダンの形成と地域の論理

  地理的エンティティの分断--ヨルダンの成立

  分断後の国家類型

  ヨルダンの都市政策とインフォーマル居住区

 5 おわりに

『参加型ネットワークのビジネスモデル』

 共用と共有

『誤解された大統領』

 ボルシェビキ政権への食糧支援

『構造主義経済学の探究』

 南北間格差の歴史構造

  はじめに

  貧富の差を決定するものはなにか

  歴史上の決定的岐路とエートス

  「見えざる鉄拳」と「あからさまな鉄拳」

  結び

『アーレントとマルクス』

 労働と全体主義

  「労働」から「仕事」へ

   アーレントがマルクスから学んだもの

   「労働」することと「仕事」すること

   テーブルとしての「世界」

   労働・仕事・活動の三角形バランス

『哲学の最新キーワードを読む』

 共同性の知

 積極的な妥協が対立を越える--ニュー・プラグマティズム

  行き詰まりを突破できる潜在力

  プラグマティズムの系譜

  ネオ・プラグマティズムとローティ

  ニュー・プラグマティズムとマクダウェル

  公共哲学としてのプラグマティズム

  行き当たりばったりの側面

  素人知と専門知

 ポスト資本主義社会は共有がもたらす--シェアリング・エコノミー

  協働型の営み

  富を生み出すパイを増やせる

  コモンズの利権

  第三のシステム「グローバル・ヴィレッジ・シェア」

  コラボ消費

  新しい親密さ

 自分と他者を同時に幸福にする--効果的な利他主義

  与えるために稼ぐ

  他に代替手段はないのか

  リベラルな社会の定義

  一抹の不安

  コスモポリタニズムからの提言

『ありえない138億年史』

 歴史の特徴--連続と偶然

  「宇宙」と「地球」の領域における偶然

  隕石衝突という偶然の出来事

  「生命」と「人間」の領域における偶然

  人間の歴史における偶然--スペインの無敵艦隊

  私たちを生み出した偶然

  自分が生まれる可能性はどれくらい?

『ジプシー史再考』

 ナチス政権のジプシー政策

  ナチス政権によるジプシー大虐殺(=ポラィモス)

  ドイツにおけるジプシー規制の歴史

  ナチス政権の「ツィゴイナー」概念

『孤独とセックス』

 はじめに

 頭の中で鳴り響くレクイエム

 誤算、そして生きる意欲の蒸発

 「社会的な死」の誘惑

 「小さな死」の誘惑

 他者と社会、そして自分とつながるために

 孤独と家族・結婚

  結婚はコスパが悪い?

  諸刃の剣としての結婚

  イクメンブルーに悩む男性

  諸刃の剣としての子ども

  「性的孤独の連鎖」はなぜ起こるのか

  「人は年老いたら枯れる」わけではない

  「性を切り離さずに関係を育む作法」を知らない私たち

  家族の性との向き合い方

  制度に救いを求める前に

『持続可能な未来のための教育制度論』

 持続可能な未来への教育制度

  教育制度とは何か

  教育制度へのアプローチ:5つの基本理念

  持続可能な未来への教育

  問われる「公共性」

『イスラム主義 新たな全体主義』

 イスラム主義--新たな全体主義

『哲学がわかる形而上学』

 全体は部分の総和にすぎないのか

 時間はどのように過ぎ去るのか

『社会共生学研究』

 トヨタ生産方式における「立ちん棒」から考える社会共生--人間尊重の働き方へのマネジメント--

  トヨタ生産方式と「立ちん棒」

  A氏の実践した人間性尊重の「立ちん棒」

  効率性の象徴としての「立ちん棒」と人間性尊重の「立ちん棒」への批判

  トヨタ生産方式そのものの変革への可能性

  人間尊重の働き方へのマネジメント--

 地域主義と地域主権

 ソーシャル・マーケティングと社会共生--コトラーの「ソーシャル・マーケティング」と社会問題解決--

  コトラーの「ソーシャル・マーケティング」における共生社会思考

  「ソーシャル・マーケティング」によるイノペーションの可能性

  「より良き社会を築く」マーケティング実践から社会変革へ
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地域主義と地域主権

『社会共生学研究』より

地域主義と地域主権

「社会共生」概念は「地域社会」(コミュニティ)を基礎とした共生を意味する。この「地域社会」をベースにした思想と実践に関して、以下、二つの文献の紹介をして序章の付論とする。

まず、玉野井芳郎の『地域主義の思想』である。本書は一九七九年一二月に農山漁村文化協会から刊行された。主な論点を中心に以下紹介する。なお、玉野井は、同年五月に『市場志向からの脱出』(ミネルヴァ書房)、一九七七年に『地域分権の思想』(東洋経済新報社)を著している。この「市場志向からの脱却」も「地域分権」も、その基礎の考え方に「地域主義の思想」が位置づいている。

玉野井は、地域主義の立場から中央と地方の関係について、次のように述べている。

「中央」そのものが地方分権、いや正しくは地域分権の確立を中央集権的に達成するというのは、もともと論理的矛盾ではないだろうか」

現在、「地方創生」なる政策が政府の重要政策の一つとして喧伝されている。「地方創生」を中央政府が音頭をとって補助金を出し「地方」を「活性化」させようとしている。だがこれでは全く「地方創生」にならない。これもまた論理矛盾である。「地方」という言葉が「中央」と対であることを考えると、「地方創生」なる言葉ではなく「地域分権」(正確には「地域主権」)である。地域主権は、地域住民自体の営みであり課題である。この必要性を玉野井は次のように説明している。

 「国が権力とカネをもって地域分権を達成するという道筋には、ほんらい大きな限界が横たわっているものとみなければならない。しかもその道筋には、国からのカネとモノの画一的な大量投入にともなう地域の混乱と荒廃が、いつものことながら待ち受けているはずである」。

「地方の時代」という言葉は、地域自体の自主・自立が基本でなければならない。「国と地方の機能分担研究委員会」の研究報告書の次の見解を玉野井は紹介している。

 「国と地方は上下の関係でなく、対等の立場でそれぞれの機能を生かした協カ関係でなければならない」。

では、地域主義とは何であるのか。玉野井は「地域主義」という言葉を「内発的地域主義」とし、上述の「官製地域主義」と対置して以下のように定義している。

 「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」。

「内発的」とは、この「自立性」、「自律性」、「独自性」を意味する。「経済的自立」というのは、地域内での「土地と水と労働について地域単位での共同性と自立性をなるべく確保し、そのかぎりで市場の制御を企図しようとしている」ことを意味している。政治・行政の自律性を含め、これらの「内発性」は、地域との「一体感」をもつという思想(地域主義)を基礎においている。

 「アイデンティティの発見、またはアイデンティフィケーションの確立というのは、いうまでもなく社会認識の根源的契機にかかわる問題意識である」。

これまでの「国家社会」に対する「市民社会」あるいは都道府県といった「地域社会」ではなく、市町村に暮らす住民のコミュニティ(地域共同体)における生活者を基礎におくことになる。

 「地域主義が措定する多重的社会像においては、中央と地方の単純な二層モデルではなしに、少なくとも三層以上の多重的地域空間が導入される」。

市町村からさらに沖縄などの小さな単位である「字」などのコミュニティを加えれば四層構造となる。そこでは、「古来の歴史的な共属性の伝統」と「地域的な利害共同体の生き生きとした感情」が息づいている。玉野井は、「法や制度とは、もともとそういうものではないだろうか」と述べている。近代の法、特にその形式合理性が、こうした「伝統」と「感情」を排除した上で、成り立っているとすれば、M・ヴェーバーのいう官僚制支配に帰結するだろう。ヘルシャフト(支配)に抗したゲノッセンシャフトが「共属性」、「共同体」として横につながる団体としての組織体があらためて「地域主義」として捉え直されなければならない。このことを玉野井は西ヨーロッパの事例から次のように述べている。

 「われわれが西ヨーロッパから新たに学びとらなければならないのは、中世以来の都市と農村における地域単位のもつ意味、そこに定住した人々の地域の日常生活のあり方、とりわけ団体法的な地域基盤と団体的な法意識との二つがいかに時間をかけて根強く育成されてきているか、ということであろう」。

地域主義と資本主義との関連はどのようなものなのか。玉野井は、「中小工業と農業を基礎とする資本主義は小規模資本主義といえるのではないか」といった主張に対し、それは「論理矛盾」であるとする。地域主義の経済体制に関しては、まず近代技術のあり方を問わなければならないとする。

 「これまでのように、自然をいきなり外に置いてそれに働きかけるときのテクノロジーではなく、なによりもまず人間と自然の共存のシステムを踏まえた、人と人との新たな関係にかかわる社会的条件の一要素としてのテクノロジーこそ、地域主義を土台とする技術であろう」。

 「最近、中間技術とか適正技術、適合技術、地縁技術などと呼ばれて各方面の注目を集めているものがそれであるが、しかしそれらは、従来のテクノロジーまたは工業化の補完物であってはならない。主客は転倒されるべきである。こうした〝もうひとつの技術〟は、いずれもまだ社会的には全く可能性の域を大きく出ていないが、しばらく時間をかけて詰めていく必要があろう」。

さらに、地域主義は、「市場と流通」に対してどのように向き合うのであろうか。これへの対応を、K・ポランニーの「都市と市場との関係」についての次の箇所を玉野井は引用している。

 「市場の最も重要な成果は都市および都市文明の誕生であるが、それは実際、パラドクシカルな発展の結果であった。というのは、市場の所産である都市は、市場の守護者であっただけではなく、市場が農村へ拡大し社会の支配的経済組織を蚕食することがないように封じこめる手段でもあったからである。Containという語の二つの意味は、市場に関する都市のこの二重の機能をおそらく最も巧みに表現するものであろう。すなわち、都市は市場を包みこむとともに、またその発展を抑えこみもしたのである」。

この市場は、地域的市場を形成し、地域共同体にとって重要な役割を果たしたが、この地域的市場が支配的な市場(資本主義市場)に従属することは全くなく、また全国的な市場取引に発展する要素ももたなかったとする。また自治都市であったハンザ同盟は、経済活動を全国化するどころか、そこから意識的に切断するものであった。自立的な団体として構成された都市の内部での経済システムを形成していた。まさに「内発的地域主義」であった。

玉野井は、日本の現在の流通システムが、全国中央の三大市場(東京、大阪、名古屋)から地域末端市場へと順序づけられていることを指摘している。これに対する「生産者集団直販」、「朝市」、「街路市」といった主体的な取り組みの重要性を指摘している。

「地域主義」では企業の地域性をどのように捉えているのだろうか。玉野井は次のように述べている。

 「いままでは企業の地域性ということはあまり学問的にも問題ではなかった。特に大企業の地域性というようなことはほとんど問題にならなかった。しかし、地域性のない企業というのは、われわれの生活にとって、一体どれだけの意味があるのかというようなことをも含めて問い直されなければならないことがいろいろあると思うのです。たとえば、ああいう悲惨な結末をつくり出した水俣チッソの場合をとってみましても、私が見るところ、もしチッソの本社が東京ではなくて水俣にあったならば、あれほど悲惨きわまる事態にはならなかったのではないだろうか、もう少し違ったあり方が生じたのではないだろうかと思うのです。それからまた、宇部興産がどういうふうな形で地域との関連をつけているのか、あるいは豊田のトヨタ自動車が一体どれだけ地元と結びついていたかというようなことを含めまして、日本の企業の地域性についてもういっぺんよく考え直す。地城性のある企業と、全然地域性のない企業とどういうふうな違いがあるかというようなことは、理論的にも実証的にもいままで余り明らかになっていないと思うのです」。

地域社会、地域共同体の一部としての企業の存在と役割を考えることの意味とは何か。大企業、中小企業といった表現も、地域性のない大企業と同じ次元で中小企業を捉えるが故に、「中小」という言葉がつけられてきた。中小企業は、地域との関係性の中で、捉えることによって、あらたな意味付けと役割が与えられるのではないか。「内発的地域主義」にとって、企業の地域性の視点は避けて通れない重要な論点である。

このことを具体的に「小規模企業者の経営のあり方への批判的な見方」に対して、玉野井は次のように問題を提起している。

 「私の見るところでは、一番目の『個人的かつ生業的色彩が濃い』というのは、地域の生活に固有なものであって、これで悪いところはどこもない。『生産性が低い』ということも、生産性が低いという意味が問題ですけれども、だからといって生産性を高くしろという結論は出てこないと思うのです。『経営者が近代的ではない』ということも、近代的な方がいいように思いますけれども、生業的かつ個人的色彩が強い経営の場合には、どうしたって近代的でなくなるのはあたりまえであって、むしろそれを地域の経営としてつくり上げていく上に、もういっぺん評価し直すべき問題が含まれていると思うのです」。

資本主義経済、経営の近代化ということへの批判的視点とともに、玉野井は農業と工業の分断・対立の止揚を課題としている。

 「私がエコロジカルな接近法をもとに理論の規範性をこのような形で強調するのには、次のようなひとつの理由がある。すなわちそれは、資本主義という近代社会が未解決な問題としてわれわれにのこしている農業と工業との分断・対立という世紀の難問に、なんらかの解決の道を踏み出したいという問題意識である。私の見るかぎり、現代の社会主義もまたこれに原理的な解答を与えているとはいえないのである」。

この主張は、単なる農業と工業の融合ではなく、農業をベースにした社会の再構築を「地域主義」の課題としているのである。この課題解決の糸口として第一次産業の再構築を次のように主張している。

 「要するに、私の当面の理論的関心の大部分は第一次産業といわれるものをいかに再構築するかにあるといっていい。そういうわけで、地域主義の考え方としては、なにも行政単位にのみこだわる必要はないのである。最近では、『明治期における近代出発の初期条件』の一つとしてワークしたで廃藩置県〃という行政システムの変革より以前の状態までさかのぼって、ひとつのご溌県置藩〃を考えてみようではないかといった示唆に富む比喩的な提唱すら行われているのが現状である。すなわち地域主義運動は、事実上は既存の行政域を中心に展開されるにしても、それをけっして固定した社会枠として受けとめる必要はないのである。あるときはそれを超えて拡大したり、あるときはそれと無関係により小さい空間で展開することもあろう」。

中央集権国家体制の行政の論理、あるいは大規模企業、資本市場の論理で行政域が変えられてきた。第一次産業を重要な軸として、また歴史的・文化的な地域アイデンテゴアィを据えて、行政域を再構築することが問われている。

次の言葉を取り上げたい。「地域主義の思想」を支える最も重要な問題意識ではないかと思う。

 「同じ近代的発展をとげながら、ヨーロッパでは、いやアメリカですら、どんな小さな『まち』にも、広場があり、市があり、会議場があり、博物館や図書館がそなわっている。まちづくりに不可欠なミニマムの要素がこわれていない。これと対比して日本の『まち』や『むら』は、明治以降の歴史において大都市中心の発展から置き去りにされてきた。とくに第二次大戦後は、『まち』や『むら』がこわれてゆく話ばかりが積み重なった。それがあたかも当然であるかのごとく、そうでなければ第三者的な〝哀感〟でうけとられたにすぎない。なんという『近代化』であったろう。まちづくりがあちこちで進められるようになったのは、ごく最近のことである。それゆえ、まちづくりミニマムが「まち」や『むら』の担い手によって主体的につくりあげられてゆくことが、わが国の場合、目下いちばん重要なことと考えられるのである」。
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イスラム主義--新たな全体主義

『イスラム主義 新たな全体主義』より

全体主義的なイデオロギーと政権の仲間の中で、イスラム主義を独自の範躊としている、特定の全体主義的性格を概説しようとする。

西洋の全体主義の多様な具現--ボルシェビズム、ファシズム、ナチズム--は、指導者のカルト、単一政党体制、イデオロギーの決定的役割、国民の精神と身体の統制、及び統治手段としての暴力の体系的使用等、多くの重要な特徴を共有する。それらの間の相違は、それほど大きくない。ファシズムが当初から全体主義的だったか、それとも一九三八年までは全体主義的にならなかったか、スターリンは権力行使に細部にわたって介入したが、ヒトラーはもっと離れた態度をとったと加、そうした区別はナチズムとボルシェビズムを政府の異なる二範躊と考えるのに十分ではない。イスラム主義も全体主義であり、西洋の全体主義と多くの傾向を共有している。しかしある重要な一点で、イスラム主義は全体主義イデオロギーの中で新たな範躊として立つ。イスラム主義は、宗教に着想を得たイデオロギーであり、他方西洋の全体主義は、西洋の思想家や学者の間で、非宗教的イデオロギーに一種の宗教的なオーラをもたせようとする傾向があったという事実にもかかわらず、性格が世俗的である。シャン=ジャック・ルソーは、『社会契約論』において、いかなる近代社会にとっても本質的な道徳的・精神的基盤であると彼が見なすものに、「俗人の[シビル]宗教」として言及している。

明晰さを目的として、我々は、イスラム主義の明確で包括的な定義を必要とする。私はイスラム主義を、イスラムの全体主義的解釈に基づいており、宗教に着想を得たイデオロギーで、いかなる手段を用いても世界を征服することを最終目的とするものと定義する。

イスラム主義の宗教的性格は、象徴や儀式にとどまらない。それは権力の正当化、政府の行動、民衆の忠誠、大衆動員の手段、そして友人と敵の定義において、現実的かつ重要な結果を招来する。

すべてこうした要素は、全体主義クラブのこの新入りにとって、新たな範躊の創設を有用とする。この新入りにとって、もっとも適切な名前、称号は何だろうか? 「宗教的全体主義」か? 「イスラム主義の全体主義」か? 「新全体主義」か? これら三つの可能な名前は、いずれも条件付きで候補になろう。しかしいかなる誤解も避けるためには、イスラム主義の全体主義がもっとも穏健で、十分適切な呼称であると私は思う。

イスラム主義と西洋の全体主義の間の類似性と相違をよりよく把握するために、イスラム主義に西洋モデルを突き付けるより先に、まず西洋の全体主義の三つの主要な具現(ボルシェビズム、ファシズム、ナチズム)に共通する、もっとも有用な特徴を描写しよう。

古典的全体主義の一般的特徴を見極めるために、ハンナ・アーレントから始めるが、彼女の意見では、全体主義政権はアリストテレスのよく知られた政権の三範躊--統治者もしくは専政、数名の統治者もしくは貴族政、多くの統治者もしくは民主政--とはっきり異なる、政府の新たな形態をなしている。これらの三範躊は、モンテスキューによってそれぞれ専制主義、君主政、共和国と再定式化された。アーレントは、モンテスキューの諸範躊に対して立論しているのだ。しかしそれら諸政権の形態の問題は、ここではそれほど重要でない。真の相違は、諸政府それぞれを動機付ける行動原則に存するのだ。アーレントにとっては、君主政における指導原則は名誉であり、共和政においては徳であり、専政においては恐怖であるが、全体主義の指導原則はテロルなのである。この記述の前に、彼女は「全体主義的政府の本質である全面的テロルは、人々のために存在するものでも、人々に反して存在するものでもない。それは人々の運動を加速するために、自然あるいは歴史の諸力に、比較不能な道具を与えるとされるのだ」と強調している。

恐怖とテロルとの間には、重要な相違がある。恐怖は、諸個人が権力のピラミッドの頂上におかれている唯一の人、または多数の人を恐れる状況を指す。恐怖は、垂直的であるに過ぎない。対照的にテロルは、垂直的かつ水平的である。誰もが頂上の指導者を恐れるだけでなく、各個人は他のすべての人を恐れる。それは、広大で水平的な恐怖である。この精神において、アーレントは全体主義的政府の次の定義にたどり着く--「政府の一形態で、その本質はテロルであり、行動原則はイデオロギー的思考の論理性である」--フランソワ・フュレは、新たな政治体制としての全体主義の新奇性についてアーレントに同意し、次のように述べている--「レーニンとヒトラーの両方の政権は、歴史上先例がなかった」し、こうした政権はァリストテレス、モンテスキュー、マックス・ウェーバーには未知のものであったと。

ハンナ・ァーレントとは反対に、ファン・J・リンツは、テロルは多くの非全体主義政権を特徴付ける要素でもあるとして、それを全体主義の定義に加えない。しかし彼は、全体主義体制におけるテロルは多くの特別な特徴をもち、それに独特の性格を与えていると認めており、またテロルは、彼が素描する全体主義の三つの中心的特徴の、避けがたい、あるいは必然的な結果ではないけれど、ありかちな結果であるとも主張する。リンツは、ある体制を全体主義的と性格付けるのに必要と定義される、次の三つの次元は維持している(そして重要なことに、それらは別々には非民主的政権の他の型にも見出しうるが、それらが同時に存在することが体制を全体主義的にするのだと書いている)--

 --権力の一元的、しかし一枚岩的ではない、中心--制度あるいは集団の多元主義が存在する限り、それは正統性をその中心から引き出しており、[かっ]ほとんどは先行した社会の力学の副産物というより、政治的な産物である。

 --排他的、自律的で、かつ多かれ少なかれ知的に精巧なイデオロギー。統治集団や指導者、[そして]指導者たちを支える政党はそれを信奉し、政策の基礎として、またそうした政策を正当化する操作のために用いる。このイデオロギーは単なる政治綱領以上のもので、何らかの究極的意味、歴史的目的の感覚、社会的現実の解釈を提供すると想定されている。

 --政治的・集合的な社会の諸課題への市民参加、そして積極的動員が、単一政党、[また]多くの独占的な二次的集団を通じて励まされ、要求され、報われ、かつ導かれる゜そうして受動的服従やアパシーは、統治者によって好ましくないと見なされる。

カール・J・フリードリヒとズビグニュー・ブレジンスキーは、より簡潔な仕方で全体主義の主要特徴を描写している。彼らにとって全体主義は、次の六つの相互に関連する特徴のパターンによって定義される--イデオロギー、典型的には一人の男によって指導される単一の大衆政党、テロリスト的警察、コミュニケーションの独占、兵器の独占、そして中央から指揮される経済である。

同じ特徴が、レーモン・アロン(一九六五年)、フランソワ・フュレ(一九九九年)、イアン・カーショウとモシエ・レウィン(一九九七年)、その他大勢の全体主義専門家によって反復されている。

そうした特徴をイスラム主義に適用すると、イデオロギー、テロ、神学的主張といった要素は備わっている。単一政党体制や中央が統制する経済といった他のいくつかの要素は、同一形態では存在しない。

全体主義体制においては、イデオロギーは大衆動員のための強力な道具であるとともに、正統性の源泉である--指導者あるいは統治集団の使命感の源泉だ。この意味でイスラム主義は、単に神学的信仰、私的な祈り、儀式的崇拝といった狭い意味における宗教である以上に、政治的・経済的・社会的行動を導く、人生の生き方すべてであると見ることができよう。イスラム主義者は、選択的な仕方でイスラムのいくつかの要素を取り上げ、イデオロギー的指針に仕立てる。イスラム主義は、実際にイデオロギーの全要件を満たしているが、純粋なイデオロギー的次元を超えて、イデオロギーのまさに神髄を神聖化するのであって、それはイスラム主義に神秘的次元を与え、いっそう洗練された現象にさえするのである。正統性の問題を、取り上げてみよう。世俗的全体主義政権は、その正統性が国民(ドイツではフォルク)あるいは国民の二鄙(共産主義政権ではプロレタリアート)から生まれると主張し、そうした場合の正統性は現世的である。イスラム主義者から見れば、正統性は神秘的権威(アラー)によって左右されるのであって、それが政府の決定の正当化に影響する。世俗的全体主義政権は、決定を「合理的」論議によって正当化する。収容所列島〔ソ連の強制収容所群〕やホロコーストのような、もっとも恐るべき冷血的行為でさえ、神のような神秘的権威に言及することなく、現世的論議によって正当化された。この場合、行為への責任は統治者の肩に掛けられている。イスラム主義政権は、自分を現世的あるいは合理的正当化から除外している。イスラム主義の統治者は、自分は「摂理」の代理人であり、その使命は「アラーの使者」の宗教を適用することによって、アラーの意志を成就することだと考えている。こうして、統治者あるいは司令官あるいはイスラム主義テロリスト集団の指導者は、彼のなす決定の責任を回避している。イスラム主義者がとる行動は、彼らには宗教的義務と見なされており、信仰者やイスラム主義政権に服従させられている他の者すべては、命令の実行に自ら関与する義務を負い、すべての個人に積極的参加が要求されているのである。

ある政権のイデオロギーが無傷で、確固としていて、訴求力がある限り、その政権は大きな問題もなく継続するだろう。表面的には、全体主義イデオロギーは単純化され、一般国民に理解しやすい--「資本主義は搾取だ」、「帝国主義は資本主義の最高段階だ」、「アーリア人は他の人種より優れている」、「ユダヤ人は陰謀を企んでいる」、「万国の労働者よ、団結せよ」等々。イスラム主義のイデオロギーも、さして洗練されてはいない--「イスラムが解決だ」、「イスラムは攻撃されている」、「西洋はイスラムに対して陰謀を企んでいる」、「アメリカは大悪魔だ」等々。イデオロギーはまた、大衆を動員する強力な道具として、また諸個人を統制する効果的手段として用いられている。全体主義政権による諸個人の統制は、身体の統制に限られない。いかなる全体主義政権にあっても、真の狙いは民衆のアイデンティティーを、新たに構成されたアイデンティティーによって置き換えることである。そうすることで、国民の統制という課題ははるかに容易になり、時にはもはや必要でなくなる日常の語彙、歴史的参照事項や伝説、伝統的儀式、さらには個人の名前さえも置き換えることは、全体主義政権のよく知られた慣行である。「純粋な人種」、「強力な男」、「ソビエト人[ホモ・ソビエティクス]」は、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンの目的だった。イスラム主義者は、まさに同じことを行なっている。彼らが、イスラムとは異なり無縁と考えたものはすべて--本、名前、映画、芸術、詩等々--、体系的に撲滅される。服装、食事、飲み物、夢見、親密な関係でさえ新たな規範、すなわちイスラムの規範によって規制される。それとの関連で興味深いのは殉教(シャハーダ)カルトで、イスラム文化にきわめて特有のものである。新たなアイデンティティーを発見する行程で、究極的かつ至高の局面は、殉教者(シャヒード)になることである。他の全体主義政権も「殉教」を有するが、イスラム主義の殉教の特殊性はその宗教的性格にあり、それは非宗教的な全体主義政権には見られない。加えてイスラム主義イデオロギーには、政治的に死者願望的な傾向が、世俗的全体主義イデオロギーよりはるかに顕著である。エーリッヒーフロムは、有名な著書『破壊--人間性の解剖』(一九七三年)において、アドルフ・ヒトラーの強い死者願望的傾向を詳述した。
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未唯宇宙 5.2.1~5.2.4

5.2.1「各人に頂点がある」

 技術者からはいろんなものを学んだ。学ぶために技術部に行かされたと思っている。そのためのF3E。そこはコンポーネントの専門家集団。専門領域ではトップレベルの人たちがいた。

 それぞれ自分が主役だと思っている。自分の技術のために会社を使っている。競争相手は同僚ではなく、世界を相手にしている。評価するのは上司ではなく、同じ分野の人間。そういう技術者のために個人の環境づくり。そのためのインフラを先ず作り上げた。データ解析ソフト、ライブラリー、パソコン。それらは時代が間に合わせてくれた。マックとの出会いはそれを感じさせてくれた。

 井上さんの考えはモノよりもことを作る技術を優先した。技術は伝播できる。メーカーがなくなっても、これだけで食っていける。社会に影響する技術、人に寄り添って進化する技術、クライシスに対応できる技術、お客様のもとに入り込む技術。

5.2.2「部品表」

 仕事の最初に出くわしたのが部品表というデータベース。組み合わせ技術の塊である車というものの全ての部品の関係を表しているもの。 企画・技術・製造・販売にまたがる情報になっている。

 車という機能と部品というものをつなげる。その間に技術者が入り込む。ものとしての品番はアイディアのかたまり。品番には図面があり、ものがある。設計者がいて、リアルそのもの。 それが車という機能と繋がり、インフラを支配している。

 車というものの情報処理の根幹をしめる。IBMのSystem360とIMSで初めて実現できた世界。それを駆使した。日本語処理技術はまだなかった。

5.2.3「ヘッドロジック」

 部品表データベースを見つけたのは ヘッドロジック。25年以上前に見つけて、自分で命名した。どこにもない言葉。未唯宇宙の構造もこれに依存している。中間の存在の役割を的確に示すもの。

 中間の役割は二重構造をもつ。品番で言えば 使用部位と構成の二方面。販売店で言えば、メーカーとお客様。それが柔軟に動くことにより多様性を保つ。

 販売店があることにより、スタッフ一人300人のお客様を相手することにより、全体で2000万人ぐらいに対応できる。メーカー単体では対応できない数です。情報共有によりお客様からの関心が増えれば、アマゾン・グーグルのようにネットで対応できるようになりつつある。

 部品表では、中間の存在を用いて仕様と目次の両面から、全体を表現している。そのアイデアも未唯宇宙に取り込むようにしている。ヘッドロジックだけで全てをまかなえる。

5.2.4「作るから使う」

 車を作ることがメーカーの本当の役割か? 車を売ることだけで成り立つ社会ではない。社会のインフラをただ乗りしているだけのメーカー。人類にとっての本当の世界はどこにある? 作ることは正義なのか? 誰にとっての正義なのか?

 メーカーの儲けると言う思惑から脱すること。メーカーの存在そのものの見直しが必要。題目だけではなく、「いい社会」をどう作るか。技術の最先端でそれらを考え始めた。

 車は使うものです。今、だけど使われていない。売るためにあまりも余分なものがくっついている。走れないのに、走る格好をしているのは滑稽。市民は消費者から生活者になりつつある。その時に車はあまりも脆弱です。存在が邪魔になりつつある。それは道路に50人いるのと、50台の車があるの差で一目瞭然。

 車が道路を占有する権利があるのか。インフラの元の共有を考えた時に、それはノーです。交通体系そのものを政治体制、資本主義、民主主義から見直していく。

ライブビューイングも50秒で完結

 ライブレビューを予約しようとしたけどできなかった。と言っても ライブビューイングですけど。豊田市だった乃木坂の100人もファンがいないだろうから、3時だったら学生もいないだろうし、という読みでファミマの端末に5分前からスタンバイ。

 豊田シネマにアクセスした途端に回線パンク。3回チャレンジしたところで、画面に戻ったけど、座席満杯。その間50秒ぐらい。世の中ろくなもんじゃない。ファミマはダメ。予定していた3600円で映画を3本見ようか。

 最前列の席で いくちゃんのライブを見たかった。やはり来年のナターシャかコゼットにしようか。それまで生きてるとして。ミュージカルだと、名古屋公演にしても、交通費込みで、2万円はする。
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