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時間はどのように過ぎ去るのか

『哲学がわかる形而上学』より

あとどれくらいで今になるのか

 これまで一〇〇年間にわたって形而上学者が論争の的としてきた時間のモデルとして、二つのものを挙げることができる。まずはそのうちの一つについて、以下でしばらく考察しようと思う。エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺、といった出来事を考えてみよう。一八六五年より前に生きていた人々にとって、この出来事は未来のものだった。私たちにとっては、この出来事は過去のものである。そして、一八六五年四月一四日の午後一〇時一五分頃(ワシントンD・C時間)には、それは現在の出来事だった。この事例は、空間との類比によって理解すべきだろうか。つまり、リンカーンの暗殺という出来事は、人々のもとへそっと忍び寄り、少しのあいだそこに居合わせ、それから過去のなかへと姿を消してしまった、と言えるのだろうか。それとも、この出来事に対して適切な理解の仕方が他になにかあるだろうか。

 文字どおり右のように捉えることには無理があるかもしれないが、それほど悪くないと言える一つの見方がある。それは、出来事は一種の時間的性質をもつ、というものだ。リンカーンの暗殺は、過去であるという性質をもっている。また、あなたがこの文を読んでいるという出来事のように、現在であるという性質をもつ出来事がたくさんある(あなたがこの文を読んでいるあいだに起こっている出来事であれば、他になにを考えてみてもよい)。そして、他の多くの出来事は未来であるという性質をもっている。その性質は、未来性、とでも呼べるかもしれない。サッカーワールドカップのカタール大会〔二〇二二年〕、次回のイギリス総選挙、二〇二五年九月二一日の日食、地球全体の人口が八〇億に達すること--これらはいずれも(二〇一二年現在においてわかるかぎりで言えば)未来性をもつものの例である。

 このような見方をとることで、「時間の向き」と呼ばれるものをある程度は理解できるようになるかもしれない。出来事は必ず、最初は未来であり、次に現在となって、最後は過去となる。私たちが知るかぎりでは、時間が逆向きに進むことはけっしてない。過去に向かうタイムトラベルが可能だとしたら話は複雑になるかもしれないが、少なくとも、未来・現在・過去という三つの時間的性質は必ずこの順番で出来事に所有される、ということは言えるように思われる。ここではもちろん、出来事を個別者とみなしており、形而上学者が「タイプ」と呼ぶものとしては捉えていない。オリンピックは四年ごとに開催される--このように言うときには、問題になっているのは一つのタイプとしての出来事だ。それに対して、特定の年に開催される個々のオリンピック大会は、それぞれ一回かぎりのものである。ここで私が問題にしているのはまさにそのような、個別者としての出来事に他ならない。そうした出来事は、未来から現在へ、そして現在から過去へ、という向きで「流れ」ているのである。

 時間的性質というものがあるとすると、それには奇妙な特徴がいくつかあるように思われる。時間的性質は、さまざまな組み合わせにおいて次から次へと現れることができるようにみえるのだ。かつて未来だった出来事のうちの一部は、今や過去のものである。二〇二五年の日食は、私がこの文章を書いているときには未来の出来事であるが、それがすでに過去の出来事であるようなときがいつかはやってくるだろう。ひょっとすると、あなたがこの文章を読んでいるのはすでにそれが起こった後かもしれない。私のいる二〇一二年の時点からみたとき、このことから私にわかるのは、二〇二五年の日食は未来における過去であるという性質をもっている、ということだ。つまり、未来の出来事はいずれ--たとえば、二○二五年一〇月までに--過去のものになるのである。また、過去における未来である、という性質をもつものもある。リンカーンの暗殺は一八六〇年には未来だったが、今はそうではないし、その出来事が未来ではないということは一八六五年以降ずっと変わっていない。これらのことをふまえると、以下のような疑問が生じてもおかしくはない。ものごとはいかにして、未来における過去、過去における未来、といった性質をもちうるのか。そうした性質に関してものごとが変化を被るときには、いったいなにが起こっているのか。未来性という性質をもってじっと動かずに佇んでいるものごとがどこかにたくさんあって、現在性という性質を獲得するまでずっとそこで待ち続けている、ということなのだろうか。現在に姿を現すことを待ち望む未来の人々がいて、「あとどれくらいで今になるのか」とひそかに考えているのだろうか。過去性という性質を獲得するとき、ものごとはどこへ行ってしまうのか。過去性なる性質をもつものが本当に存在するのだろうか。それとも、たんにものごとが存在しなくなる、ということにすぎないのだろうか。

今に勝るときはない

 実在するのは現在のものだけだ、という考え方がある。そのように考える立場は、現在主義というまさにそれにふさわしい名で呼ばれている。現在主義は、今しがた提起した問いのいくつかに対する応答として捉えることができるだろう。つまり、未来性・過去性という性質をもつものが存在すると主張するのはばかげているのではないか、というわけだ。あるものが性質をもつためには、そもそもそれが存在していることが必要であるようにみえる。しかし、以下のような考えを深刻に受けとめるならば、未来や過去のものごとはまったく存在していない、と論じることができるかもしれない。バラク・オバマの生まれた年は一九六一年である。だからといって、「オバマは一九五九年にも存在していたのだが、そのときは未来性という性質をもっていた」などと言うのはどこかおかしいのではないだろうか。ユリウス・カエサルがある時代に存在したことは間違いないが、今はもう彼は存在しない。先ほどの場合と同様に、このことから「カエサルは今も存在しているのだが、今は過去性という性質をもっている」と主張することには、どこか間違ったところがあるだろう。このように考えたとき、次の主張が選択肢として浮上するように思われる。三つの時間的性質があると考えるのはやめて、それらの代わりに存在という一つの単純な概念だけを用いて考えなければならない。そしてそのうえで、ものごとは存在し始めることもあれば存在しなくなることもある、と考える必要がある。つまり、ものごとは現在であるときには実在するが、現在を過ぎれば実在しない、というわけだ。

 これは賢明な考え方であるようにみえるが、検討すべき問題がいくつかある。それは以下のようなものだ。第一に、現在はどれくらいの期間にわたって続いているのか。今日という一日だろうか。それとも、これから一分間か。あるいは、一秒間だけだろうか。夜の八時五〇分の時点で、その日の正午が過去であることは間違いない。それどころか、八時四九分でさえすでに過去であり、二秒前もまた過去であることに変わりはない。現在とは、なにかごく小さく細いものであるように感じられる。私たちは、今が姿を現すのを待つことができるが、今はあまりにもあっというまに姿を消してしまう。実際、もし時間の最小単位があるとすれば--およそ、一秒の一〇〇万分の一のさらに一〇〇万分の一であるとして、それを瞬間と呼ぶことができるだろう--現在は、その瞬間が続いているあいだにだけ存在する、ということになると思われる。それを否定し、現在には一定の広がりがあると主張するならば、現在が存在しうる期間はどれくらいだと考えればよいのか。それは二分間だろうか。その数をもって答えるのは恣意的であるようにみえる。しかし他方で、現在には時間的な広がりがまったくないと考えるとすれば、現在は消えてなくなってしまうも同然のように思われる。

 現在主義が直面する二つめの問題は次のものだ--現在主義者の依拠する〈現在〉という概念は、相対性理論によってその正当性が否定されてしまう可能性がある。太陽は今、輝いている、というように私が考えることはよくあるし、それゆえ、太陽が輝いているということは現在に属しているように思われる。だがその一方で、太陽の光が地球に届くまで八分と一九秒かかる、と私は学校で習った。〔このこと自体は、〈現在〉なる特別なものがあることと矛盾しないが、光速度不変の原理を含む特殊相対論の登場以後の〕物理学においては、〔唯一無二の〈現在〉があるという考えから導かれる〕絶対的同時性の概念と衝突する理論的帰結が〔諸々の実験結果に基づいて〕受けいれられている。空間的に離れた二つの出来事について、それらが〔端的に〕同時であるという言い方をすることは厳密には許されない、と私たちは授業で教わるわけだ。二つの星が、互いに遠く離れた銀河でそれぞれ崩壊していて、その様子があなたに見えているとしよう。二つの星は、同時に崩壊しているように見えるかもしれない。しかし、あなたが覗きこんでいる望遠鏡に対して、それらのうちの一方が他方よりもずっと近くにあるとすれば〔そして、その望遠鏡を覗きこんでいるあなたが双方の星に対して静止しているとすれば〕、実際のところそれら二つの出来事はけっして〔あなたにとって〕同時ではない〔他方で、たとえばあなたの友人が、一方の星に向かって光速に近い速度で運動している宇宙船に乗っているとすれば、それら二つの出来事はその友人にとって同時であるかもしれない〕。こうして、「現在」という語によって私たちが指し示しているのは--現在か必ず位置や観点〔を含む条件、より正確には、慣性系〕に相対的であるように思われるとすれば--正確に言ってなんなのか、という問題が生じることになる。この問題に直面して仕方なく、純粋に主観的なものとして現在を説明する、という道もあるかもしれない。つまり、ある観察者にとって「今である」ようにみえるもの、それが現在であると考えるのだ。しかし形而上学者の多くは、形而上学の探究主題がそのような仕方で人々の観点に依存することを望ましいとは考えない。形而上学者は、自分たちが問題にしているのは客観的で永久不変の真理なのであって、それは私たち人間のものの見方には影響されないのだ、という感覚を手放したくないのである。

 最後にもう一つ付け加えれば、現在主義にはさらに次のような問題もある。カエサルはもはや生きていないが、一つの明確な意味においては、カエサルは今でもなお実在性をもつと言うことができる。カエサルに関するさまざまな事実-たとえば、カエサルはルビコン川を渡った、という事実--が存在する以上、それらの事実を成り立たせているものが存在するのでなければならない。存在するのは現在のものだけだとすると、いったいなにが、第二次世界大戦があったという事実やリンカーン暗殺事件があったという事実を成り立たせているのか。第二次世界大戦やリンカーンといった過去の出来事・物体は、もはや現在のものではないとしても、なお実在の一部であると捉えるのが賢明ではないだろうか。相対性理論に基づく考察として右で述べたことをふまえれば、過去の事実であってもなお私に見えるものがある、と言える。たとえば、八分前に太陽はどのような姿をしていたのか、ということに関する事実を考えてみればよい。過去に起こったことに実在性をまったく認めないとすれば、だれかが歴史を書き換えるということも、可能であることになってしまうのではないだろうか。
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全体は部分の総和にすぎないのか

『哲学がわかる形而上学』より 全体は部分の総和にすぎないのか

部分のなかにまた部分

 そもそも、単純なものが存在しなければならないと考える理由はなんだろうか。多くの場合、部分のなかにはさらに部分を見いだせる。たとえば自動車のエンジンがそうである。では、そのようなパターンがいつまでも続いていて、どんな部分のなかにも必ず部分がある、と考えてはならない理由はなにかあるのだろうか。

 部分のなかに部分があるという系列は、ともかくどこかで終わらなければならない、と強く主張されることがある。複合的なものはいずれも、複合的でないものを拠りどころにしていなければならない、というわけだ。すでに確認したように、観察から得られる証拠によってこの主張を裏づけることはできない。小さすぎて観察できないような隠れた部分があるかもしれないからである。他方で、理屈だけの力によってこの考え方が強制されることもないようにみえる。つまり、この世界には無限の複雑性が備わっていて、部分はどこまでも果てしなく小さくなっていくと仮定しても、矛盾は生じないように思われる。無限の複雑性がありえないことを示す決定的な論証は、存在しないように思われるのだ。したがって、単純なものがなければならないと信じている人は、なんらかの別の考えを基礎にしてそう信じているはずである。

 原子論と呼ばれる哲学的立場がある。問題の主張の基礎になっているのはひょっとするとこの立場かもしれない。原子論に与するということは、原子ないし原子的部分が存在すると信じる、ということである。ここで「原子」という言葉は、その元来の意味で用いられている。つまり、ありうるもっとも小さなもの、それゆえ分割不可能であるもののことだ。化学の理論に現れる原子は、この意味で原子的であるわけではない。周期表に示されている原子の数々には、それぞれ陽子・中性子・電子が部分として含まれている。哲学的な意味での原子論者とは、ありうる最小の構成単位がどのようなものであれ、すべてはその最小単位から形成されている、と信じる人である。原子論者の考えによれば、少なくとも理論的には、各々の原子がどこに位置しているのか、そしてそれらがそれぞれどのようなあり方をしているのかを述べることだけによって、世界の完全な記述が手に入れられる。そうすること「だけ」によって、という言い方をしたが、もちろんその作業は膨大なものになるはずだ。それは、人類史上これまで成し遂げられた他のどんな作業よりも巨大だろう。とはいえ、その作業は原理的には遂行可能だろうし、多くの場合、哲学者にとって重要なのはその点だけなのである。

 前述のことから明らかなように、どのような形態の原子論であれ、それをとくに強く支持するような証拠は存在しない。原子論は証拠によって強制されたものというよりむしろ、すぐれて哲学的な立場なのである。自らの立場は科学的な精神に則ったものだと信じているような原子論者がいたとしても、それは同じである。いかなる意味でも、決定的な仕方で原子論が証明されているわけではないが、それでも、原子論は説得力のある仮説だと考える余地はおそらくあるだろう。

 さて以上は、この章で本来論じるべき問題のいわば前置きのようなものである。ここで論じるべき当の問題とは、本章の冒頭で述べた、全体とその部分とのあいだの関係をめぐる問題である。全体は、なんらかの意味で、部分の総和以上のものだろうか。それとも、全体は部分の総和にすぎないだろうか。この問いはもしかすると奇妙なものにみえるかもしれない。しかし以下で明らかになる--と私は願うが--ように、実際のところこうした問いは、重大な哲学的意義をもっているのである。

 たしかに、全体が部分の総和にすぎないようにみえる事例はたくさんある。例として、積み上げられた石の山を考えよう。一〇〇個ほどの石がその山に含まれていると想定してよい。その石の山は、一つの全体として捉えることができる。このときその山は、一〇〇個の別々の石を寄せ集めたものにすぎないようにみえる。しかしこの場合でも、全体がもつ諸々の性質のなかには、部分がもっている性質ではないものがある、ということがわかる。その石の山の高さが一メートルであると仮定しよう。山そのものとは異なり、その山に含まれている個々の石はいずれも、高さ一メートルではない。各々の石の高さは、それよりもかなり小さいわけである。だがこのような全体と部分の違いには、とくに驚くべきところはないと考えられるだろう。石の山の全体は、でこぼこしたピラミッド状の構造物として形成されている。個々の石の高さはどれもそれほど大きくないが、ある石が別の石のおおよそてっぺんに乗せられるということがくりかえされ、それぞれの高さが合わさって全体として個々の石のいずれよりも大きな高さの山ができるように、それらの石が配列されている。それぞれの石の高さは、適切な配列があれば、全体の高さが生じる要因になりうるのである。こうして、石の山という全体に、その部分のもっていない性質が備わっているということは、部分とその配列によって完全に説明することができる。

 ここまでのところは順調だが、もう少し複雑にみえる事例もある。もう一度、携帯電話について考えよう。携帯電話は、石の山と同じ特徴をいくつかもっている。たとえばその全長は、ひとえに部分の配列によって生じたものである。しかし、携帯電話がもっている性質のなかには、説明がそれほどかんたんではないものもあるように思われる。実際、携帯電話の諸々の機能は、説明するのがたいへん難しいものを含んでいる。たとえば音響信号の送受信という機能があり、それによって、距離を隔てて会話することが可能になっている。現行の携帯電話の大半は、その他にも広範囲にわたるさまざまな機能を備えている。たとえば、インターネットヘのアクセス、写真の撮影と保存、音楽の再生などができる。

 実に驚くべきこのような機能の数々は、長さの場合とは異なる種類の事例であるようにみえる。長さの場合には、全体の性質は部分がすでにもっているものであり、全体のほうがその量が大きいというだけだった。各々の部分がもつ長さが合わさって、全体の長さが生じたのである。それに対して、携帯電話がもっているはたらきのいくつかに関しては、当該の機能をほんの少しでももっているものが個々の部分のなかに含まれているようには思われない。それゆえ、そうした事例と長さの事例とのあいだには類比が成り立たないところがある。携帯電話の下半分の下半分は、おそらく全体の四分の一の長さをもっているだろう。それに対して、その部分によって四分の一の通話ができる、などということはない。こうした類比の不成立が示唆しているのは、次のことである。あるケースでは、性質は程度の違いを許容するものであり、全体のほうがそれをより多くもつという点だけで全体と部分が異なっている。しかし他のケースでは、部分がまったくもっていないような性質を全体が備えている。このような違いは、私たちの語り方に反映されることがある。たとえば、電話機は全体としてのみ「電話機」と呼ばれるのであって、電話機の部分はいずれも電話機ではない。それに対して、積み上げられた石の山の場合には、全体に帰属させられている性質のいくつか--その高さなど--は、全体より小さな程度においてではあるが部分にも帰属させることができるものである。

基礎を求めてなにがそんなに楽しいのか

 世界はどのように成り立っているのか。そして、世界について探究するさまざまな科学はそれぞれ互いにどのような関係にあるのか。こうした問いへの答えとして提示しうる描像には、二つのものがある。一つは、世界を逆ピラミッドのように捉えるものである。その最下層には一つの科学があり、他のすべてはそれに基づいているとされる。大半の還元主義者の考えでは、最下層にあるのは物理科学である。とくに、素粒子とそれを支配する法則とを扱う基礎物理学がその位置にあるとされるだろう。物理学の上には化学のような他の諸科学が置かれ、それらの上には生物学が置かれるはずだ。さらにその上には、心理学、経済学、社会学、人類学といった「科学」があるだろう。しかし究極的には、すべては物理学に基づいており、どんなことも物理学によって説明される--還元主義者はそう考える。いかなる真理についても、それがまさに真であるのは、基礎的な粒子の特定の配列と物理学の法則があるからだ、というわけである。

 これと対立する描像においては、少なくともいくつかの科学は互いにある程度の独立性をもっている。例として生物学を考えよう。ただし、生命は右でみたような意味での創発的性質であるとしておく。一部の人々は、あらゆる生物学的真理を生化学的真理に還元しようとしてきた。そうした人々によれば、生物学が問題にしているのは結局のところDNA以外のなにものでもない。そして、DNA〔についての真理〕は化学的真理へと、また究極的には物理学的真理へと還元することができる、とされる。しかし、このような主張に反して、部分の総和には尽きない全体として生物を説明しなければならないことを示す、説得力のある根拠がいくつか存在する。たとえば進化論の自然選択説において、選択がはたらく対象はかなり高次の性質である。キリンに対して、食べ物を得るときに競争相手よりも有利になるという状況を生みだすのは、キリンが長い首をもつということであって、キリンのDNAに直接的に関係していることではまったくない。

 ある見方をすれば、一つの全体としての生物は、全体のレベルで必要となるものを得る手段として自らのDNAを利用しているように思われる。それが正しければ、キリンという全体に備わる観察可能な巨視的性質が、キリンについての微視的な物理学的事実によって決定されている、ということはないはずであり、それどころか実際は逆のはずである。生物は、生き死にや捕食や飢えをくりかえし、ときには生殖を行うが、それらが起こるのは生物の全体においてなのであって、その遺伝子やそれを構成する分子においてではない。ある人の遺伝子が散歩に出かけた、などというのは混乱した言い方に聞こえる。歩くのは人に他ならないからだ。同様に、ものを見るのは人に他ならない。目でさえも、なにかを見ているわけではない。目は、私たちがものを見るのに使う器官にすぎないからである。また、私たちの体のさまざまな部分は、それ自身が生きているとか有機体であるとか言われることもあるが、いずれも一つの生物ではないし、全体から切り離されてしまえばそう長くないうちに壊死してしまうだろう。手が体から切り離されたときにどれだけ長く壊死せずにいられるかを考えてみればよい(そういえば、一九四六年公開の『五本指の野獣』という映画を観たことがある。しかしあの映画はただの空想にすぎない)。

 これらの考察は決定的なものではないが、ある考え方に少なくとも一定の魅力があることを示していると言えるかもしれない。その考え方は、全体論と呼ばれている。全体はある意味で、部分に対して先行性をもっている--これが全体論のアイディアだ。先行性という概念は、多様な仕方で説明することができる。全体は部分に先行しているという考えがどのように還元主義者によって否定されることになるかは、すでにこれまでの議論で確認している。還元主義者は、部分についての事実によって全体についての事実が決定されると主張するのだった。全体論者はこの主張にさまざまな仕方で応答することができるが、それもすでに確認している。一つのやり方は、進化における選択のような事例を引きあいに出す、というものだった。そうした事例においては、全体についての事実が部分についての事実を決定しているようにみえる。還元主義を拒否する方法としてはさらに、本章の標題になっている問いに否定的に答える、というのもあった。つまり、全体は実際のところ、たんなる部分の総和と配列には尽きないものだと主張するのである。

 心の哲学と生物学の哲学では、どちらにおいても、還元主義と創発主義をめぐる問題が現在の論争の中心部に位置している。この問題領域で形而上学が果たすべき役割は、創発主義が正しいとすればそれはなにを意味するのか、ということの明確化だ。私たちはまだその内容を明確にできてはおらず、この点に関するさらなる進歩は、未来の形而上学者たちによってもたらされることが望まれる。あるものがその部分以上のものであるとはどのようなことか--それは今後さらに探究しなければならない問題なのである。
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教育制度へのアプローチ:5つの基本理念

『持続可能な未来のための教育制度論』より 持続可能な未来への教育制度 教育制度とは何か

(1)歴史的に理解する

 近代社会への決定的な政治的転換点は、「自由・平等・友愛(博愛)」を理念としたフランス革命(1789年)だとされている。その理念はまず、法のもとでのすべての国民の自由と平等をうたった「人権宣言」(1792年)として表現された。しかし、理念や宣言はそのまま現実ではない。自由で平等な「市民」になったのは当初、「財産と教養」をもった男性世帯主だけであった。階級・民族・家族・性別・年齢間など、現実に存在する不平等や不自由を克服していくことがそれ以後の社会発展の基本課題となったのである。その課題に取り組むものとして重要な位置づけが与えられたのが「教育」である。

 教育普及に最も大きな影響力をもったのは近代国家=国民国家であり、多様な人々を「国民」として統合するために国民国家としての「正統性」を創造・維持するために何よりも「教育」を必要としたのである。もちろん、近代化を具体的に進めるための国家組織(官僚機構)の担い手形成のためにも、軍事組織形成のためにも、そして、近代産業を推進するためにも、[学校]を中核とする教育制度が必要とされた。その基本的な社会的機能が国民の「能力形成・評価」と「人材配分・移動」、そして[社会的・国家的統合]であることは今日でも変わらない。

 近現代社会は「政治的国家と市民社会の分離」を基本的特徴としている。したがって、社会制度の歴史的形成過程をみれば、国家の側からのものと市民社会の側からのものがある。全体的にみれば、大きな権力と財政をもつようになった国家の側からその政策を推進するために組織化された社会制度が支配的である。近現代の国民国家にとって教育は、政治・経済・軍事・地方統治などとならんで重要な政策課題である。それゆえ、関連する法が制定され、それに基づくものとしての制度、つまり「法制度」が一般的なものとなる。教育制度とくに学校制度はその代表的なものであり、「教育法体系」を前提として組織化されているといえる。これに対して批判的な、あるいは代替的な市民社会(民間)の活動から生まれた教育制度(たとえば、私塾・私立学校・自由大学)も重要な役割を果たしてきた。しかしながら、法制度によって認められていない教育は、教育の世界では周辺化される傾向があった。

 歴史的存在である教育制度は、歴史とともに変化する。日本では明治維新後に近代学校制度を中心する教育制度が生まれたが、欽定憲法・教育勅語・臣民(皇民)教育によって特徴づけられる戦前の教育制度は、戦後の民主憲法・教育基本法・国民(=主権者)教育制度に大きく変わった。その制度も戦後の歴史のなかで変容しっづけ, 2006年には、骨格となってきた教育基本法も大幅改定となり、現政権は憲法の改定さえ政治日程にあげてきている。こうしたなかで教育制度を支える社会的条件とその変容をふまえつつ、教育制度が果たしている、果たすべき役割、そして今後の教育制度改革のあり方を考えていく必要がある。

(2)社会構造のなかで理解する

 社会制度を運営する組織は、国家機構と諸個人・諸集団の間にある「中間組織・中間団体」と呼ばれている。国家は「地方政府(地方公共団体)」や教育関係団体をとおして教育制度を普及しようとしてきた。これに批判的な教育運動が市民社会のなかから生まれ、しばしば独自の組織化・制度づくりを進めてきた。今日では、民間非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動が社会の形成・発展に不可欠のものであることが理解されてきている。政策的には、それらをも国家の側から位置づけ、取り入れた(「民間活力」を利用しようとする)政策が支配的になってきており、実際には政治的国家と市民社会の両者の側からの組織化の複合的な社会制度が多い。

 そこでは、国家的要請と市民的要請、それらの背後にある経済的要請が措抗し、相互の緊張や矛盾をかかえたものとなっている。その関係は今日、国民国家の枠をこえたグローバリゼーションが進展するなかでより複雑なものとなり、国家間の相互依存的かつ競争的関係、その背景にある多国籍的企業や国際的諸機関の動向を無視することができなくなってきている。

 現代社会における教育制度の位置をモデル的に示すならば、図0.1のようである。ここで示した教育制度(教育委員会と学校・社会教育)は、「広義の教育実践を(第1次的に)組織化する」地方教育制度である。一般に教育制度には、より広い地方教育行政(第2次的組織化)から国家レベルの教育機構や教育関連法など(第3次的組織化)を含むものと理解される。本書でもこれら全体を「教育制度」と考えることにしよう。

 社会構造のなかで教育制度を理解する際に忘れてならないのは、第一に、階級・階層的視点である。教育制度には近現代社会の多様な階級・階層の要求が集約されている。とくに教育制度が普及した先進国の多くでは市場的・資本主義的体制がとられており、その内部には、大きな階級・階層的格差があるから、どこの誰に対する何のための教育制度であるかが問題とされてきた。 21世紀には地球的規模で、先進諸国にも広がる「社会格差」問題への取り組みが重要課題となってきている。 1980年代に「一億総中流化」といわれてきた日本は、いまや先進国で最も高い貧困化率を示すグループに属している。とくに子どもの貧困化率は先進国で最悪のレベル(約6人に1人)である。非正規雇用が広がり(とくに青年層では半数以上)、社会から形式的にあるいは実質的に排除される「社会的排除問題」が克服すべき重要課題となっている。こうしたなかで、本来「自由と平等(と友愛)」を実現するためであったはずの教育制度のあり方が問われているのである。

 第二に地域的・空間的視点である。資本主義的な社会経済は地域的・空間的不均等発展を基本的な特徴とする。急速な近代化を進めてきた日本はその典型例であり、戦後日本の高度経済成長がもたらした過疎・過密問題や、1990年代以降の経済的グローバリゼーションの展開のなかでの「東京一極集中」現象などに端的にあらわれている。 21世紀に入って問題はより深刻化し、市町村の「平成の大合併」政策を経て「限界集落」問題や「地方(市町村)消滅丿予測などが提起され、安倍政権は「地方創生」を重点政策に掲げざるをえなくなっている。しかし、その政策は「選択と集中」を基本としており、さらに地域格差を拡大し、実際に多くの「地方消滅」を生み出すおそれがある。これまでの学校制度は地域の人材を中央に送り出す「地域を捨てる学力」(東井義雄)の形成をしてきたのではないかと批判され、「地域を育てる学力」「地域にねざす教育」のあり方が問われてきた。それは今日、とりわけ東日本大震災などの大災害被災地で重要課題となっているが、超少子高齢化が進み、学校統廃合が政策的に進められている日本のどの地域でも大きな実践課題になっていることである。「持続可能な教育制度」は「持続可能で包容的な地域づくり教育」とともにあってはじめて現実のものとなるのである(鈴木敏正『持続可能で包容的な地域づくりのために』北樹出版, 2012年)。

(3)教育全体のなかで学校制度を考える

 そもそも教育制度は、国民とくに子どもを中心とした地域住民のためのものであるというだけでなく、地域住民の学習活動とそれを援助・組織化する教育実践があってはじめて現実に存在するものである。その理解は21世紀に入ってますます重要なものとなり、2008年に大幅改定された教育基本法でも、「生涯学習の理念」(第3条)が新設されるとともに具体的な教育活動においては「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」(第13条)が重視されている。ここでは教育制度として学校教育を中心に考えていくが、こうした動向をみるならば、学校教育以外の教育(戦後日本では「社会教育」と呼ばれてきた)、さらには「教育」として制度化されていない領域で展開されている学習・教育活動も含めて、いったん学校教育を相対化したうえでそのあり方を検討していくことが必要である。

 ここでは前提となる理解として、表を上げておく。この表は1950年代に学校教育と社会教育の独自性をめぐって議論されたこと(とくに「社会教育構造論争」)を整理したものであるが、第一に、現在の教育制度の基本構造をも示している。「教師一教育内容(教育手段)一生徒」という教育関係が基本となり、「教育専門労働」を担う教師が位置づけられている学校教育制度の特殊性が理解できよう。

 しかし、第二に学校制度は近代以降に発達したもので、その前提に非制度的(インフォーマル)教育と社会教育があることを示している。歴史的には、まず非制度的教育があり、次いで近代以前の社会教育(学校以外の組織的教育=ノンフォーマル教育、「社会教育」という用語と制度はむしろ、学校教育成立後に生まれた)、そして近代学校教育というように発展してきたのである。第三に現代における学校教育の基盤に、社会において行われている教育(非制度的教育と社会教育)があることを示している。ここから、「大人と社会が変わらなければ子どもは変わらない」という関係の理解の必要性も生まれる。第四に、教育専門労働者としての教師の活動は、子どもの社会的形成を基盤とし、学校においては学習者の主体的な学び(相互教育と自己教育=戦後社会教育の本質とされてきたもの)があってはじめて意味あるものとなることを示している。最近の学校教育政策では「主体的・対話的で深い学び」が強調されているが、そもそも子どもが学ぼうとしなければ学校での教育実践が成立しないことは、教師が日々経験していることであろう。

(4)グローカルな視点をもつ

 グローバリゼーション時代といわれてきた今日、国際的動向を視野においた教育制度改革が求められている。「地球的視野で考え、地域で行動せよ;Think Globally, Act Locally !」「地域のことを考えて、地球大で行動せよ;Think Locally, Act Globally !」という[グローカルな視点]が今日の教育制度改革でも重要な意味をもつようになっている。先進諸国で取り組まれている制度づくり、発展途上国で追求されているよりよい仕組みづくり、それらと交流・学び合いをしながら、あるべき「国のかたち」と制度改革のあり方を考えることが必要となってきているのである。

 21世紀は地球的規模での「知識基盤社会」あるいは「知識循環型社会jと呼ばれていて、|日来の教育制度が提供するものだけが学ぶ場や条件ではなくなってきている。教育においても規制緩和・地方分権化への対応が問われるなかで、多様な人々が多様にかかわる教育制度改革が進められている。代表的な公的教育制度としてイメージされる学校や教育委員会なども「社会に開かれた制度」であることが求められ、学校にはとくに「グローバル人材」の育成が政策的に要請されている。そして、教育改革に向けた地道な国際交流とは別に、国際的経済競争の激化のなか、国際学カテスト(あるいはそれに対応した全国学力・学習状況調査)に好成績をあげるための教育政策が進められていることなどにみられるように、教育制度は国際的連関のなかで考えることが求められている。かくして、「教育制度」の役割もかたちも大きく変化せざるをえなくなっているのである。

 今日、グローカルな視点から共通に求められているのは、「持続可能で包容的な(他者を排除しない)社会」づくりであり、国際的には「国連・持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development:ESD)」が取り組まれてきた。これらにかかわる世界各国・各地での活動の成果と課題をふまえた教育改革が求められている。この点については、後述する。

(5)現場の教育実践から考える:学校のなかで、学校を超えて

 教育改革時代にある今日、教育制度について学ぶことの意義は大きいが、その改革の方向は教育現場で取り組まれている実践をふまえたものでなければならない。教育制度改革はよりよい教育実践を推進するためのものであり、現場の実践とはかかわりのない単なる制度いじり(たとえば、選挙対策や予算の取り合いのための「新制度」)はかえって現場を混乱させるものになりかねないからである。「子どもの最大限の利益」(国連・子どもの権利条約、1989年、日本の批准は1994年)を中心においた制度改革と制度運用が必要である。

 学校教育制度を理解するうえでは表の全体を視野に入れておく必要があるが、それは単に これら諸制度の「連携協力」の必要のためではない。これまでの学校教育においても社会教育的な教育関係(学習内容一学習者、学習者-学習者)が位置づけられてきたが、子どもの主体的・対話的な学びとして課題解決型学習やアクティブ・ラーニングが重視されてきている今日、そのことはますます重要な課題となっている。学校内外の生活過程で子どもが何をどのように学んでいるか、子どもが生活をとおしてどのように「社会的に形成」されているかという「子ども理解」は、学校教育実践を進める場合に不可欠なことである。「子どもの貧困」が社会問題化し、多様な困難をかかえた子どもが増加してきており、その必要性は強く理解されてきている。

 こうしたなかで進められる教育実践の発展という視点から教育制度を問い直し、求められている「連携協力」によって進められる教育制度改革に着目し、そこから地方と全国にわたる教育制度のあり方を検討する必要がある。本書でも紹介するようにすでに各市町村・各学校でさまざまな取り組みがなされている。まず現場から学び、学び合うことから教育制度改革を進めていかなければならない。
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土日の過ごし方

土日の過ごし方

 土日はOCRと乃木坂で終わってしまった。 今週、借りた本は極端だった。意味のない本が2/3を占めていた。シェアに関する本が少しずつ増えてきた。社会変革との絡みを含めて。日曜日の乃木坂は夕方6時に始まって、夜中の1時半までほぼ連続です。その間ずっとOCR作業をすすめていた。12時前に 三十冊の処理終わった。

米軍の爆撃とソホクリスの言動のシンクロニシティ

 今、ダマスカスとベイルートの距離が100キロというのが気になっている。米軍の爆撃とソホクリスの言動のシンクロニシティ。朝、無事にアテネに戻ったというメールが妹からあった。よかった。

久々のダイアリー

 あまりの空白。体重と 散歩と考えたことだけを書きましょう。昨日までと今日は別。明日はさらに別です。だってそうなんだもん。

体重を減らしたいのに

 ヨーロッパ旅行のために、体重を減らそうとした途端に、夕食の皿が倍になった。これは奥さんの阻止するための企み。そういうことにしておこう。
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