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読書の未来

『読書の価値』より 読書の未来

 日本で電子書籍の普及が遅れる理由

  少々話がズレているので、軌道修正しよう。本というものの形態について書いている。判型、文章のレイアウト、文章の読みやすさ、などについて書いてきた。ここに至って、当然出てくるのは、電子書籍だろう。
  電子書籍というのは、二十年以上まえから存在した。僕がデビューした頃に、既にネット配信、あるいはネット連載されている小説もあった。誰もが、本は将来この方向へ進むだろう、と考えていたはずだ。
  ところが、一向に広まらなかった。
  まず、フォーマットの問題があった。デジタルのテキストをそのまま配信すれば、簡単にコピィされてしまう。プロテクトをどうするのか、また、どのように販売するのか。
  こういった問題に対して、出版社はまだなにも考えていなかった。否、考えている人はいただろうけれど、動きとして現れなかった。ネットで、そういった配信をしているのは、むしろ個人の作家であって、グループになっていても数人の単位でしかなかった。
  出版社には、苦手な分野だったこともある。文系で、本好きな人材が集まった組織だから、当時まだパソコンもそれほど活用されていなかった。僕がデビューした一九九六年、電子メールで連絡ができる編集者はごく限られていた。連絡は、手紙かファックスで、緊急の場合は電話だった。
  インターネットは、しかし数年で広まった。今世紀になったところで、ほとんどの人がアクセスするようになりAmazonなどのネット書店も登場する。つまり、ネットが普及しても、まだ印刷書籍を宅配で送りつける販売システムが先行していたのである。このこと自体が、僕には理解しがたい状況だったが、でも、社会というのはそういうもの、すなわち鈍重でなかなか変われないものなのだな、と思うしかなかった。
  各所で、電子書籍の配信が始まったものの、どんな端末、あるいはソフトでそれを読むのか、という点で統一されない。パソコンを使うのが手っ取り早いが、それでは携帯性に問題があって、印刷書籍の便利さに負けてしまう。そのうちに、非常に軽い端末が登場し始めて、この問題は解決するのだが、その値段が下がるのに多少時間がかかった。つい、文庫本の価格の安さと比べてしまう。日本の本は、世界的に見ても安すぎるのである。
  出版業界が消極的だったこともあってか、「自炊」なるものが流行りだした。これは、スキャナで本を一ページずつ読み込ませてデジタル化する行為の俗称であるが、著作権侵害となる行為、つまりデジタル化したデータを他者に配布することが問題となるため、そうではなく、自分一人のためにやっているのだ、という意味で「自炊」と称したのだろう。けれど、製本された本を分解しなければならず、一人用ではやるメリットがほとんどない。やがて、本格的な電子書籍の販売が始まって、自炊の影は薄れた。

 本の未来像

  作家自体は、仕事として残る。これは、小説家に限らず、あらゆる分野のライタが、むしろ増加するはずである。そういったものが、人間に適した、残された職業といえるものだからである。
  たとえば、小説家というのは、作品を一人で制作する極めて珍しい業種である。映画も音楽もアニメもドラマも、大勢の人間が関わらないと作れない。監督などの代表者はいるけれど、その人の才能だけで作られるものではない。その点、小説は、たった一人なのだ。ここが非常に特殊な点である。
  作品に感動すると、読者は作家という個人に興味を持つことが多い。個人の才能に憧れを持つ。アニメで絵が気に入ったとしても、その絵は監督が描いたわけではない。小説は、すべてが一人の頭脳から生まれる。結局、人は人に最も興味を示し、人に憧れ、人に導かれたい、と願うものだ。
  したがって、AIが作品を書けるようになっても、読者はどうして良いかわからないだろう。興味本位で読まれるかもしれないが、憧れて良いものかどうか、もやっとしたままになる。これは、将棋や囲碁の名人をAIが破っても、憧れの対象とならないことでも既に証明されているのではないか。
  そういった意味で、文章を書くこの職業は将来も不滅である、と僕は予想している。ほかのどの職業よりも人間に向いている、といえるかもしれない。おそらく、AIが作品を書くようになっても、それを隠し、人間の作者を装うだろう。
  それよりも、書物をAIが読んで、その内容を掻い摘んで話してくれる、といったアシスタント機能が、読者側でそのうち実現するはずである。質問すれば、それに答えてもくれるだろう。そうすれば、難しい本も読めるし、読む時間を短縮できる。世界中から、自分にとって面白そうな本をAIが見つけてきてくれるだろう(ここに、多少危険性を感じるが)。
  それは、どこに組み込まれるのか、予想できない。本に付随したものになるのか、それともスマホのように、個人に付随した装置になるのだろうか。おそらくは後者だろうけれど、前者であれば、新作に限っては作家が関与できる。つまり、本に作家が付いてくるような形態になって、中身を読んだあと、読者は作家に直接質問ができるのだ。
  ニュートンやアインシュタインが、そのうちキリストのように復活することになるだろう。本の未来像というのは、つまりは作者そのもの、人間に近づいていくのではないか、と僕は想像している。

 出版社は読者集団のままで良いのか

  少し冷静になって考えてみてほしいのだが、国語が得意で、本を沢山読んでいる人たちは多い。たとえば出版社の社員はほぼ例外なくこのタイプだ。
  その出版社が、小説の新人を募集しているのはどうしてなのだろう? 自社の社員に小説を書かせたら良いではないか。そんなに儲かる美味い話ならば、編集者はどうして自分で小説を書かないのか?
  「才能」といったものが存在するのかしないのか、僕にはよくわからない。少なくとも、この言葉のおかげで、「自分には才能がない」と諦めることができるらしい。
  僕にいえることは、たとえば森博嗣であれば、国語が苦手で、小説など大して読んでいなかった(特に国内の作品はほとんど読まなかった)ことが、有利な条件だった、という観測である。だから、国語が得意だとか、小説を沢山読んでいることは、不利な条件だと僕は考えている。そういう人には、もしかしたら向かないのではないかと。
  なにかスペシャルなものを持っている人は向いているだろう。これならば自分が日本一だ、というものを持っていれば、本を出すことができるはずだ。売れるかどうかはわからないが、その一点だけで、出版社を説得でき、少なくとも一冊は本にできる。
  出版というビジネスは、今後はどんどんマイナヘ向かうだろう。「本」に拘っている場合ではないし、「文章」に囚われている場合でもない。大量にコピィして配布するというビジネスモデルも、根本的に見直す必要がある。
  実は、そういった岐路は、二十年ほどまえにあったのだ。だから、今から考えたのでは完全な手遅れではあるけれど、しかし、だからといってこのままずるずると進んでも、消えていく道しかない。
  大切なことは、新しいものを見つけて、それらを試してみることである。当たらないかもしれないが、「当たる」という現象が、既に過去のものだ。もう少し堅実なスタイルに切り換え、長く続けられるモデルを模索しつつ築いていくしかない。ほかにないものを作り出せれば、それにしばらく槌ることができる。
  そして、出版社自体が、コンテンツを産み出す努力を惜しまないこと。外部の才能を探すだけではなく、自分たちで創作するのだ、という姿勢をもっと持ってほしい、と感じる。これは、インプット側の人の集団である今の出版社には難しい課題のようにも見えるけれど、その変革しか出版界を再生する道はないように、僕は思う。
  これまでの出版社は、ある意味で読者集団だったのだ。これからは、作家集団に生まれ変わってはいかがか、という提案である。
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