goo

孤立する自由 みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない

『15分間哲学教室』より 孤立する自由

 高潔に生きるための二つのアプローチ

  いつの時代にも、高潔な生活を送るうと努力する人たちがいる。そのためのアプローチは、大ざっぱに分けて二つある。
  一つは、他者に奉仕することに自分の人生を捧げること。または他者と正直に向きあって生きること。
  もう一つは、日々の暮らしに流されることなく、瞑想や祈りを通して悟りや心の平安を求めることである。
  四軒の家とヨットを所有して、高潔に生きた哲学者などいない。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(「マタイによる福音書」一九章二三節)わけだから。

 無私無欲という身勝手

  古代ギリシアのディオゲネスは、浮世離れした暮らしを極限レベルで実行した哲学者だ。彼は究極の苦行者だった。
  市場の大きな甕のなかに家をつくり、生活に必要な最低限のものだけを所有した。敷物を一枚か二枚、飲み物を入れる器を一つ。一説によると、最初は器を一つもっていたが、あるとき両手で水をすくって飲んでいる少年を見かけ、器も贅沢品だと気づき、地面にたたきつけて割ってしまったらしい。
  彼はまったくお金を稼がなかった。それは、彼が軽蔑する物質主義を受け入れることになるからだ。食べ物については、人からもらうか、自分で見つけたものですましていた。
  ディオゲネスは、幸福への道は「自然に従うこと」だと教えた。衣食住すべてにおいて必要最低限で暮らし、何も所有せず、何にも愛着をもたず、人とのつながりも避ける、ということだ。彼は自分の信奉者たちに、あえて人から軽蔑されたり、あざけられたりするような行為をさせた。孤独に耐える練習だ。
  修行僧や隠者の場合と同じく、ディオゲネスがそうして生きていけたのは、他人の寛大さのおかげである。しかし修行僧とは違って、彼の禁欲生活は共同体を利するような、広く認められた精神修行ではない。彼はたんに自分が至高の境地に至りたかっただけだ。
  ディオゲネス本人はそれでよかったとしても、ちょっと不公平ではないだろうか。彼が俗世を超越して真理を手にできるのは、必要に応じて彼に食べ物などを提供する人がいるおかげだった。
  もし誰もが働くのをやめ、自分の財産を投げ捨て、自分が暮らすための甕を探しはじめたとしたらどうだろう。社会の発展は止まり、食べ物も甕もなくなってしまうだろう。

 苦行者を許さないカント

  カントは、ディオゲネスのような生活を決して認めない。カントの定言命法は、私たちが従ういかなるルールも、すべての人に適用できるものでなければならないと述べている。
  もしすべての人が打ち捨てられた甕のなかで生きることを選び、社会に背を向け、生産的な労働をまったくしなければ、社会はたちまち崩壊してしまう。それは肯定できる生き方ではない、ということだ。
  とはいえ、そういう問題が現在進行形で起こっているわけではない。市場で生活場所にするための甕を探しまわっている人を目にすることはない。全財産を慈善団体に寄付し、あらゆる社会的なきずなを断ち切る人もいない。結局、ほとんどの人はディオゲネスのような生活を送りたいとは思わないのだ。いまや物乞いをして生きる苦行者のための居場所はないということだろうか。
  おそらく、それは時代状況による。中世ヨーロッパでは、托鉢をする修道士が大勢いたし、修道士はほどこしを受けるかわりに、それを提供してくれた世俗の人たちのために祈りを捧げた。彼らが食べ物やその他の必需品と交換した祈りは、当時の人々にとってありかたいものだった。
  世俗の人々は、自発的に托鉢に応じていた。自分の慈善行為は気高く、その行為と引き換えにいくらかの赦しが得られることを期待していたのもたしかだ。
  ある意味で、苦行者は社会に奉仕していたとも考えられる。善行をほどこす機会を人々に提供し、寄付する人たちに精神的な満足を与えていたのだ。
  ディオゲネスのような哲学者でさえ、自分が軽蔑している社会と一種の取引をしていたと考えられる。食べ物などと引き換えに、自分の知見を披露していたのだから。
  こうしたシステムがうまく機能するためには、苦行者たちが提供する精神的・知的な恩恵を求める人が一定の数いて、「甕のなかで暮らしたいと望む人」が多すぎないことが条件になる。

 みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない

  カントの定言命法は、一般的にはディオゲネス的なものとは別種の「利己的ライフスタイル」を批判する際にもちだされることが多い。
  つまり、もしすべての人が億万長者のように生活すれば、社会はうまくいかなくなるということだ。実際につい最近、私たちはその実例を目にした。二〇〇八年の金融危機で明らかになったのは、あまりに多くの人が「億万長者のように」暮らしていたということだ。つまり、自分の収入や現在の生産性ではとてもまかなえないような生活である。
  私たちの社会制度は、多数の人が「正しいこと」をする前提で成り立っている。社会保障の給付は多数の人が掛け金を払い、本当に必要とする人だけが給付を受けとるかぎりにおいてきちんと機能する。国のワクチン接種プログラムは、集団免疫をつくりだすことで危険な病気が蔓延するのを制御する。
  社会には少数の人が「公共善」に背を向けるだけの余地はある。その数が少ないかぎりは、社会は健全に保たれる。しかし、社会に背を向けて生きる権利が万人に与えられるわけはない。
  登塔者シメオンやディオゲネスは国の配給に頼って生きていたわけではない。

 人々が自発的に彼らにほどこしを与えたのだ。

  カントの考えは部分的には正しいが、おそらく彼は多くを求めすぎている。誰もが消防士になることを望んでも、社会はうまく機能しないのだ。
  社会が機能するのは、人々が欲するものが多様だからだ。他人に依存して生きるという選択もあれば、彼らを支える側にまわるという選択もある。大切なのはバランスをとることだ。極端に寄りすぎれば災難を招く。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

21世紀の企業像

『企業論』より 「社会的器官」としての企業 ・21世紀の企業像を求めて

 企業市民 企業と地域社会

  企業市民という考え方の登場

   1980年代あたりからであろうか、アメリカにおいて「企業市民」(corporate citizenship)という考え方が急速にクローズアップされ、企業にも個人と同様に、市民としての意識・活動が要求されるようになってきており、日本でもよく聞く言葉となってきている。そこには次のような背景がある。
   (1)企業活動の規模が大きくなり、企業の社会に与える影響が大きくなった。
   (2)教育・福祉・文化などのさまざまな領域で、政府の活動だけでは不十分になっている。
   (3)伝統的に市民・住民の手により、コミュニティ・地域社会をっくりだし、守ってきた。
   これまでは「よい質の製品・サービスを安く消費者に提供し、労働者によい職場を提供し、政府に税金を納める」企業がよい企業だったが、それ以外に、そして、それ以上に広範囲のさまざまな社会的貢献も要求されるようになってきた。それが、「企業もよき市民でなければならない」という企業市民の考え方である。

  企業の社会的貢献活動

   現在、アメリカの多くのコミュニティは、犯罪の増加、麻薬・アルコールの乱用、教育の荒廃、失業、貧困など実に多くの問題を抱えている。
   これらの社会的問題の解決や、上述した芸術・文化などへの積極的な社会的貢献を行うことは、単なる慈善にとどまるのではない。企業が行うのには十分な理由が存在している。
   企業が社会的貢献活動を行う理由は、企業規模の巨大化による社会的影響力の増大による「株主(shaxeholder)から利害関係者(ステークホルダー:stakeholder)へ」という流れや、企業市民という思想、すなわち、義務的・規範的理由によることは確かであろう。だが、それ以外にも以下のような「啓発された(もしくは見識ある)自己利益」(enlightened self-interest)という経済的・功利的な考え方も存在するのである。
   (1)寄付などの社会的貢献活動は、それ自体としては直接的には企業に利益をもたらさないだろう。しかし、労働者の意識・誇り等の上昇・低下防止などが企業にとって大きなメリットになる。このことに代表されるように、社会的貢献活動は、長期的に社会をよくすることにより、最終的には企業のメリットとなるだろう。
   (2)環境問題に配慮し、取り組んでいる企業や、社会的貢献活動を行っている企業は、雑誌・レポートなどのメディアにより、消費者にその社名と評価が知らされる。その評価により購買活動をする消費者も多い。
   (3)「よい会社」であるという評価・評判は、従業員のモラールアップをもたらしたり、優れた人材を招き寄せたりする。
   (4)環境保護団体などで組織された環境保全グループが、環境保全のための行動原則=セリーズ原則を打ち出しているように社会的貢献活動を積極的に行っている企業は、社会性を重視する投資家・投資顧問会社に投資先として好感をもたれる。

 個人・社会・自然と調和した企業 21世紀の企業像

  組織=大企業の時代

   企業が大規模化し、個人的存在であったものから組織となった20世紀、企業の盛衰が社会の運命を決めるに至った。 20世紀前半に起こった2つの世界大戦において、その国の生産力・工業力と軍隊システムの優劣により勝敗が決定したのは、そのよき証左である。かっては、気候・災害・疫病など、自然が人々の生活に決定的影響を与えていた。人間の生きる環境は自然であったが、企業は市場という環境に適応することにより生存するものである。そして、人間はこの企業を通じて自然環境の影響から逃れ、また、自分の都合に合わせて自然を改変するようになった。
   企業が小規模で個人の所有物であったときは、市場の動向か直ちに企業に影響し、その行動・存続を左右した。企業の大規模化は、この市場の影響を可能なかぎり吸収し、市場の盛衰が企業の盛衰とはならないようにする環境適応の過程であった。そしてついには、企業は市場の変化を先取りするどころか、市場自体をつくりだす力をもつに至ったのである。顧客の創造とはまさにこのことを意味している。人間は市場に生きる企業によって自然環境からの脱却をはかり、そして、企業はその市場という環境を自らつくりだすことにより、いかなる環境にも左右されず永遠の命を獲得することをめざした。日本企業はその「家」という性格により、目的を企業の維持・発展におき、その観点からあらゆるシステムを構築し、他の国の企業との競争に次々と打ち勝ってきた。

  現代企業の構造的問題

   だが、21世紀を迎えた今日、企業の環境適応から生まれた顧客の創造=環境創造は、その成功のゆえに予想もしなかった事態を引き起こすに至った。企業は市場の外から資源・エネルギーを取り込み、生産過程から生じた廃熱・廃水・排ガスや廃棄物を市場の外に排出する。その量はエネルギー資源をわずか数百年で食いつぶし、また、二酸化炭素、フロンガス、ダイオキシン、そして、産業廃棄物により自然環境を破壊するほどになった。このような事態を引き起こしたのは、次のような構造にほかならない。
   (1)企業は環境に適応しようとするが、その最も合理的な方法は、自らに都合のよい環境を創造することである。その環境とは市場である。
   (2)企業が生き残るためには、市場における競争に勝ち残らなければならない。そのためには、次々に消費者に商品を買わせていくことが必要である。ここにマーケティングとイノペーションによる無限の市場創造が要請される。消費者(人間)が必要なものだけを購入するなら、そのうちに市場は飽和化し、企業は存続できなくなる。次々に欲しいと思わせるものをつくりだしてこそ、企業の存続・発展が可能となる。
   (3)市場で交換されるのは商品であり、欲しい人がいるから価値があるとされ,“goods”(商品)と呼ばれる。誰も欲しくないもの、すなわち、価値のないものは市場の外に捨てられる。廃水・廃熱・排ガスなどの廃棄物がそうである。また、価値があったとしても、企業にとって利益をもたらさないのであれば廃棄される。新商品が出たときの旧モデルのスクラップ化などがこれに該当する。
   市場と組織は優れたシステムである。「豊かさ=財・サービスの提供」という観点からは、実に合理的システムといわざるをえない。だが、優れていればいるほど、合理的であればあるほど、引き起こす随伴的結果もまた実に大きなものとなってしまう。

  転倒する企業と社会

   環境破壊の問題はすでに述べたので繰り返さないが、地域社会の問題もまた無視しえない重大な問題である。ドラッカー(p.F. Drucker)のいうとおり、現代企業は人々に地位・収入・機能を与える。日本企業ではとくにその傾向が強い。しかし、収入は別として、人々が企業によってのみ地位と機能を得られるとしたら、企業以外に生きる多くの人々はどうなるのだろうか。たとえば、会社を辞め、家庭で育児・家事に専念するようになった女性や、定年退職したサラリーマンの毎日はどんな意味をもつのだろうか。あるいは、勤めているところが大企業か中小企業かで、さらに会社のポストだけで人々の社会的地位が決定する社会ははたして健全といえるだろうか。
   また、マーケティングとイノベーションが企業の維持・発展のための主要手段であってよいのだろうか。いかなる社会をっくっていくのかというビジョンがまずあって、それに必要なものが生み出されるのではなく、企業の維持・発展のために携帯電話などの情報機器や食品添加物などが生み出され、われわれの生活を変えていく。その商品をっくりだす人々は、本当にその商品が欲しくてつくりだしたわけではあるまい。新しい技術が可能となったから、それを使って商品を生み出せないかと知恵を絞り、っくりだした商品を欲しいと思わせるようにマーケティング技法を駆使する。ここでは企業と社会、企業と人間が転倒しているといわざるをえない。

  21世紀の企業像

   企業は市場で生まれた。その市場は、個々の人間が利己的に振る舞っても神の「みえざる手」で調和が保たれるものとされてきた。地域社会や自然環境を考慮に入れないかぎり、その考えは正しかったかもしれない。
   20世紀になると、企業は資本や技術を次々に取り込み、大企業へと成長した。個人のものであった時代の企業は、つぶれやすかったかもしれないが、その影響もまた、たかが知れていた。だが、大企業となり、個人の限界・制約を克服することにより、その性格を財産から組織へと変えた企業は、未曾有の繁栄をわれわれにもたらした。それゆえに社会主義体制の限界・欠陥をも明らかにし、崩壊させることになった。祖父母の代では夢にも考えられなかった生活をわれわれに提供してくれるこの現代大企業は、意図しなかったにせよ、同時に、われわれの生活・生命をも脅かす結果をもたらしたのも事実である。
   では、21世紀の企業像はどうなるだろうか、あるいは、どうあるべきであろうか。ここまで本書で検討してきたことからまとめてみると、以下のようにいえるだろう。
   (1)個人のレペルを大きく超えない。大人数、大規模は必ずしも望ましいものではない。
   (2)地域を手段とするのではなく、地域・社会の一員として活動する。
   (3)自然環境と共存する。
   すなわち、21世紀の企業は、市場と地域社会の両者の上に立つことにより、機能性を残しつつ、社会から要請される役割を果たし、かつ、自然環境と共存を可能にすることが求められているのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

問題の根本は、インターネットの構造にある

『子どもがネットに壊される』より サイバーフロンティアで待つものは

 問題の根本は、インターネットの構造にある

  問題の根本は、インターネットの構造にあると私は考えている。インターネットはウイルスのように広がり、現在のような姿になったのは意図されたことではない。EUはそれを、鉄道や高速道路と同じインフラと見なしている。ただ、インターネットは多くの側面を持つものの、単なるインフラではない。
  このことを説明するのに私がよく使う2つのたとえがある。1つは、「インターネットは牛道(家畜か歩いた道)が広がって、馬車が走る村道になり、やがてクルマが走る車道になって、さらに拡張されて高速道路になったようなもの」だ。最初は小さかったものが、次第に大きくなったというわけである。そうしたもののご多分に漏れず、私たちが無理に拡張したインターネットは複雑なアーキテクチャになってしまい、現在の目的に最適なものとはなっていない。
  ジョン・スラーはこう言っている。「インターネットはこれまでも、そしておそらくこれからも、多くの人にとって無法の地であり続けるだろう。つまり保安官のバッジが、射撃の練習の的になるような場所というわけだ。このことは、インターネットの本質的な設計に関係していると私は考えている」
  また、サイバーリバタリアン主義者のジョン・ペリー・バーロウは、こんなふうに表現している。「インターネットは検閲を異常なものとして扱い、それを迂回している」
  私はインターネットの自由に賛成しているが、いかなる犠牲を払ってでもそれを守るべきだとは考えていない。私たちは、自分をより良い親、より良い教師、より良い思想家にしてくれる機械を要求しているわけではないのだ。
  19世紀の医師で社会運動家だったハヴロックーエリスは、こんなことを言っている。「現代文明に突きつけられた最大の課題は、機械を人間の主人にするのではなく、それがあるべき姿、つまり人間の奴隷にすることである」
  もし、より多くの女性がその設計に関わり、シェリー・タークルの研究成果を考慮していたら、どれほどインターネットが今日とは違った姿になっていただろうか、と考えずにはいられない。20世紀初頭、多くの婦人参政権論者が闘いを繰り広げ、女性の権利を勝ち取った。それからおよそ100年後、アイコンタクトを取るのが苦手な男性たちによって設計され、占拠されている空間に、人々は移住しようとしているのである。
  私たちの人間性は最も貴重で、最も壊れやすい資産だ。テクノロジーの変化によってそれがどのような影響を受けるのかについて、私たちは+分注意しなければならない。自分たちが使う機器や、そのメーカーや開発者に対して、十分な要求を出しているだろうか?
  人間であるとは、どういうことか。それを私たちが理解すればするほど、何を要求すべきなのかが明らかになる。赤ちゃんに対する注意を奪うことのないスマートフォンや、数千人ものアジアの若者たちの人生を壊すほどの中毒性を持だないゲーム、そして性犯罪者たちが優位に立つようなことのないサイバー空間を要求できるようになるだろう。
  私たちは社会的なコントロールの一部を取り戻し、サイバー組織犯罪者たちが私たちを「被害の偏在」状態に置くことを困難にできるだろう(実はたったいま、私はこの文章を書きながら、自分自身のサイバー詐欺事件に対処している。私のクレジットカード番号が、カリフォルニアの家電小売店ベストバィで、昨夜の午前3時に使用されていたのである。
  私たちを脆弱な状態にし、リスクに直面させるようなサイバー空間を許しておく理由はない。
  私たちが何の声も上げなければ、テクノロジー・コミュニティの判断にすべてを委ねることになるだろう。そこにいるデザイナーや開発者、プログラマー、起業家は、優秀で驚くほどの才能があり、請求書の払い方、ゲームの遊び方、ディナー・の予約の仕方、友人のつくり方、調査の仕方、デートの仕方などについて、新しい方法を生み出している。彼らがこれまで成し遂げた業績は、素晴らしいものだ。しかし私たちは、より多くを求めることができる。
  単なる利便性や、娯楽性を実現するだけでは十分ではない。
  インターネットや端末の設計者たちが作る製品はたしかに魅力的だが、人間の最善の部分を常に引き出すことができる製品を作るのに十分なほど、彼らは人間心理を理解しているわけではない。
  私はこれを、「テクノ行動効果」と呼んでいる。開発者と彼らが開発する製品は、私たちの脆弱性と衝動に関係する。彼らは私たちの強さではなく、弱さのほうに目を向ける。彼らは私たちに無敵になったような感覚を与えつつ、実際には私たちの力を弱めることができる。そして人生において重要なものや、幸福感の根幹となるもの、生きていくために不可欠なものから、私たちの注意をそらしてしまうことができる。では、社会についてはどうだろうか? 私たちは立ち止まって、社会的な影響(私はそれを「テクノ社会効果」と呼んでる)をきちんと考えてきただろうか?

 規制なく、テクノロジーで問題を解決できるか?

  インターネットの構造を示すために私が使っている2つ目のたとえは、「渓流」である。水は低いほうへ低いほうへと、少しずつ流れていく。そして長い時間をかけて、その流れは曲がりくねった水路や渓谷を生み出す。小さな流れだったものが、次第に大きくなり、うねるような流れになるのだ。
  私がこのたとえをあるカンファレンスで披露したら、国際的なサイバーセキュリティ専門家のブライアン・ホーナンから、「流れというたとえは美しすぎだ! インターネットは沼というほうが近い!」と言われてしまった。
  インターネットの構造が根本的な問題であるのなら、私たちは幅広い人々を集めた大きなチームを作り、それをどう再設計するのが最も望ましいかについて議論すべきだ。インターネットを「ユーザーに優しい」というより、「人間に優しい」ものにしてはどうだろうか。それによって、いま抱えている多くの問題に取り組むことができるだろう。
  規制すべきか、すべきでないか、それが問題だ。おそらく現実の世界は、規制によって安全な状態が保たれているのだろう。英国ではそれを、「過保護国家」などと呼んで揶揄している。私たちは過度に保護され、どんな場所でも安全を感じているというわけだ。歩道の縁石からパズルのピースの大きさ、あらゆる道の制限速度、水の容器に使われるプラスチックの厚さに至るまで、あらゆるものが規制されている。
  そしておそらく、サイバー空間が手に触れられる危険の伴う物理的な空間ではないという事実が、さらなる安全の幻想を生んでいるのだろう。私たちは快適な自宅やオフィスから、クルマや通勤中の電車の中から、つまり慎重に規制された場所からサイバー空間にアクセスする。しかしサイバー空間には数えきれないほどのリスクが潜んでいる。政府がギャンブルやドラッダ、ポルノ、さらには豊胸手術に対して課しているような基本的な規制ですら、そこには存在しない。
  本書ではいくつもの安全に対する懸念やリスクについて解説してきたが、私が特に注力しているのが、若者たちを守ることだ。彼らは私たちの未来であり、人間とは何かを示す存在になる。プールですら、子ども用の浅い部分が用意してある。インターネットでそれに当たる部分は、どこにあるのだろうか?
  近い将来、たとえば次の10年を考えた場合、私たちの前には多くのチャンスが待っている。人間の本質や行動について学べる、素晴らしい啓蒙の時代になるかもしれない。最も洗練された形で人間と共生するだけでなく、人々がより良い世界を生み出すのを助けてくれるようなテクノロジーをデザインするための、最良の方法がどのようなものかを見出せる可能性もあるだろう。もしそうしたバランスを実現できれば、サイバー空間はユートピアをもたらしてくれるはずだ。
  希望は、テクノロジーが大きく進化している部分にある。特に期待が持てるのは、テクノロジーが悪化させてしまっている問題に対して、テクノロジー自体がスマートな解決策を実現している点だ。この10年間で、資金調達の分野で多くの革新的な方法が生まれたが、なかでも目を見張るのがクラウドファンディングである。デジタル利他主義は素晴らしいものであり、私が期待しているもののサンプルとも言える存在だ。
  「クラウドファンディング・インダストリー・レポート」によれば、全世界で100万件を超える資金調達がクラウドファンディングを通じて行われ、合計で数十億ドルが集まったそうである。オンラインの匿名性は多くのサイバー効果を生み出す原動力となっているが、その中にはオンライン上での寄付といった良い効果も含まれている。私たちはまだ、その一端を垣間見ているにすぎない。
  私たちを社会から切り離したり、中毒にさせたりするようなゲームではなく、バーチャルリアリティ(VR)の将来を考えると、それを何らかの問題を抱えた子どもたちを支援したり、法執行機関や軍隊の最前線で活動する人々をトレーニンダしたり、あるいは彼らのPTSDを治療したりするために使うことも可能だろう。
  私の同僚で、アーティストでありVRに関する新しいアイデアを考案しているジャッキー・フオード・モリーは、NASAのために研究プロジェクトを実施しているのだが、その中で宇宙旅行の単調さや孤立感に対抗するための環境の構築を手掛けている。これは、NASAが2030年代の実現を目指している、火星への有人飛行計画のために行われているもので、宇宙空間での旅は6~18ヵ月にも及ぶと考えられている。
  一見すると関係のないような分野における進歩が、問題の解決策をもたらす可能性に、私は魅了されてきた。たとえば、NASAに蓄積されている過去50年間の宇宙探査の経験が、サイバー空間の文脈でも役に立つのではないだろうか? 人間の宇宙空間における行動と、サイバー空間における行動の類似点は何だろうか? これは非常に理論的な話に聞こえるかもしれないが、2015年に私は、NASAの12代目長官であるチャールズ・フランク・ボールデン・ジュニアに対してプレゼンテーションを行い、このアイデアを彼と共有した。
  テクノロジーが持つ可能性は無限大だ。私たちがすべきことは、適切な場所で、適切なソリューションを探すことだけなのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

みんなは一人のために。でも、一人はみんなのためではない

「みんなは一人のために。でも、一人はみんなのためではない」

 これは数学者を目指した時の私の感覚。これが正しいあり方。

 多様であることが重要。平等を求めた。マルクスに欠けていたのはこの部分。

『子どもがネットに壊される』

 インターネットの構造はトポロジーそのもの。ハイアラキーの元では不可能な構造をしている。トポロジーから作られたモノです。次元の呪いを超えることができた。

 インターネットの次のためには、トポロジーを超える新しい数学が必要となる。リーマン幾何学から量子力学が生まれたように、数学は世界に先行する。

『企業論』

 売ることから使うことに市場が変化することで、企業が主役でなくなるのは確実です。企業の目的は支援になる。インフラに只乗りすることで社会のエンジンであり続ける。

 企業の変革は、インフラそのものを変える時に訪れる。インフラそのものを支えるものになる。

『15分間哲学教室』

 孤立する自由で「みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない」が出てきた。みんなとか全体はあるものではなく、一人から合意で作られるモノ。

 政治形態は合意形成から作られていく。全てがあって、多数決は否定される。多層な中間の存在が社会を決めていく。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )