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孤独と家族・結婚

『孤独とセックス』より

18歳の問い

 結婚する意味や意義が分かりません。自分の親を見ていても、とっくの昔に関係が冷え切っていて、ロクに会話もしていない家庭内別居の状況。将来自分が結婚しても、幸せになれるとはとても思えません。子どもを育てるのも大変そうだし、本当に結婚しなければいけないのでしょうか?

結婚はコスパが悪い?

 あなたと同じように、「両親の関係が全く魅力的に見えない」「結婚することに意義を見出せない」と感じている18歳男子は少なくないと思います。

 1980年代までは、日本は「皆婚社会」と呼ばれていました。男女の生涯未婚率(50歳の時点で結婚経験の無い人の割合)はいずれも5%未満で、ほとんどの人が当たり前のように結婚していました。

 しかし、2015年の生涯未婚率は、男性23・4%、女性14・1%まで上昇しています。2030年には、生涯未婚率は男性の約3割、女性の約2割に達すると予測されています。

 こうした社会情勢の中で、「ある程度の年齢になったら結婚する」「結婚したら子どもを作る」といった価値観は、若者世代の間では大きく揺らいでいます。

 確かに現代社会においては、結婚という制度自体が、硬直性が非常に高く、コストパフォーマンスも悪いものになっているという事実は否めません。

 異性愛者同士でないとできない。夫婦別姓も選択不可能。女性のみに再婚禁止期間もある。一度結婚すれば、配偶者以外の相手との恋愛やセックスは禁止。子どもが生まれた場合、育児負担と教育費が重くのしかかる。別れる際にも相当な精神的・時間的・金銭的負担(慰謝料や養育費)がかかる。つまり、個人の多様な生き方や価値観に対応できるような制度になっていないわけです。

 多様性に耐えうる制度にできるよう、夫婦別姓や同性婚、パートナーシップ制度など他国で認められている制度を日本でも導入しようという動きはありますが、少なくとも短期的には実現の可能性は低いでしょう。

諸刃の剣としての結婚

 結婚が制度疲労を起こしている一方で、それに代わるオルタナティブな制度が無い。こうした状況下で、孤独に追いやられる人は増え続けています。

 既存の制度の中で愛するパートナーとの暮らしを実現することができずに孤独になってしまう人、あるいは結婚による退職や出産・育児によって社会とのつながりを失い、かえって孤独になってしまう人もいます。

 また「結婚することのできた私たちは偉いが、できなかったお前たちはダメ人間だ」というように、結婚が人格の評価やマウンティングの材料に使われてしまうこともあります。そして、結婚できたことをドヤ顔で自慢する人たちが、幸せな結婚生活を送っているのかと言えば、必ずしもそうではない。

 「日本人であること」以外に誇れる点が何も無いために、Twitterで排外主義的な言動をまき散らすネット右翼のように、「結婚していること」以外に誇れる点が無いため、結婚していない誰かを叩くことで自己肯定感を満たすという不毛な振る舞いを繰り返している「結婚右翼」も少なくありません。

 こうした状況下では、「結婚する意味そのものがわからない」という18歳男子が増えることは必然だと言えます。結婚という名の罰ゲームにわざわざ参戦するよりは、独身で居続けるほうが楽、AV・アニメ・ゲームなど、男性の性的欲求や承認欲求を満たすためだけに作り込まれた商品やメディアに耽溺しているほうが圧倒的に楽、という人は多数存在します。

 結婚は社会システム維持のための制度であって、必ずしも個人の幸福のための制度ではありません。それによって社会と制度的につながることのできるメリットがある反面、逆に社会からの孤立を招いてしまうリスクもはらんでいる「諸刃の剣」です。現在は、結婚のリスクやコストの側面だけが目立ってしまう時代なのかもしれません。

「性的孤独の連鎖」はなぜ起こるのか

 さて、あなたのと両親は、日常の会話自体がほとんど無い家庭内別居の状態ということなので、ほぼ間違いなくセックスレス状態にあると思います。

 私たちの国は世界に冠たる「セックスレス大国」であり、日本人の夫婦の半数近くがセックスレスの状態にあると言われています。

 2016年に行われた一般社団法人日本家族計画協会の「男女の生活と意識に関する調査」では、婚姻関係にある男女のセックスレスは47・2%。前回調査より2・6ポイント増え、過去最高を記録しました。

 セックスに対して積極的になれない理由を尋ねたところ、男性では「仕事で疲れている」(35・2%)、「家族(肉親)のように思えるから」(12・8%)という回答が多数を占めました。一方、女性では「面倒くさい」(22・3%)、「出産後何となく」(20・1%)という回答が多くなりました。

 セックスレスの大きな理由の一つに、長時間労働があると言われています。前述の通り、長時間労働は父親の家事・育児への参加の大きな妨げになり、産後うつの引き金にもなるので、結婚や育児にとって一番の大敵と言えるでしょう。

 パートナーと性的なコミュニケーションができないことは、言うまでもなく性的孤独につながります。建前上、結婚した男性は他の女性とセックスしてはいけないことになっているので、結婚生活の外で相手を探すこともできない。

 親自身が性的孤独に陥っている状況下では、子どもとも性に関する話はなかなかできないはずです。自信を持って性教育を行うこともできなくなる。

 結果として、性的に孤独な夫婦から、同じように性的に孤独な子どもが育つ、という性的孤独の連鎖が生じることになります。その意味で、セックスレスは次世代に連鎖する=夫婦だけの問題ではなく、子どもへの影響もあると言えるかもしれません。

「性を切り離さずに関係を育む作法」を知らない私たち

 その理由の一つに、私たちが「性を切り離さずに関係を育む作法」を知らない、ということが挙げられます。

 異性の他者と関係性を築く上で「性を切り離す作法」は、大人であれば誰もが身についている作法です。学校や職場で、異性の相手と一緒に学んだり仕事をする場合、いちいち恋愛感情や性的欲求に囚われていたら、勉学や仕事に支障が出てしまいます。そのため、「クラスメート」「同僚」「生徒と教師」「上司と部下」という役割に沿ってお互いが振る舞うことで、不要なトラブルを回避することができます。

 その一方で、私たちは「性的関係のある相手と、フラットな関係を築く作法」「特定の相手と中長期的に性的な関係を持続させる作法」を身につけていません。

 二人の関係にセックスが絡んだ途端、その関係は良く言えば「特別な関係」、悪く言えば「排他的な関係」になり、一気に風通しが悪くなります。特定の相手と性的な関係になることで、他の相手や周囲との人間関係が壊れてしまう場合もあるでしょう。

 一度セックスをしたから、というだけの理由で相手に対して独占欲を抱くようになり、過度に行動を束縛してしまうこともあります。食事やデートとは異なり、セックスが絡むだけで、お互いにフラットな関係を築くことは」気に難しくなります。

 いわゆるセフレ(セックスフレンド)や不倫、愛人契約といった形で、特定の相手とセックスありのフラットな関係を築こうという試みに取り組んでいる男女は少なくありませんが、なかなか長続きしないのが現状です。

 そして、特定のパートナーと長期継続的に性的な関係を保つことも困難を伴います。不倫や浮気が長続きしないのは言うまでもなく、結婚生活の中で同じ相手と10年、20年とセックスをし続けることも、決して全ての夫婦ができるこJUではありません。

 結婚という制度に二人の関係性が押し込められることによって、性が生活に負ける。そして、愛も生活に負ける。残るのは、義務としての生活だけ。そうなってしまった関係は、言うまでもなく寒々しいものです。

 性が絡むからこそ人は家族になれるはずなのに、いったん完成した家族関係には性を絡めないという風潮、そして性を絡めない方が家族が安定するという矛盾があります。

 性を切り離したほうが関係は長期的に持続するが、それではお互いの関係が」定の深度以上には深まらず、結果としていつまで経っても家庭内の性的孤独から抜け出せない……というジレンマに、多くの男女がぶつかっているのではないでしょうか。
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ナチス政権の「ツィゴイナー」概念

『ジプシー史再考』より ナチス政権のジプシー政策 ナチス政権によるジプシー大虐殺(=ポラィモス)

ナチス政権の「ツィゴイナー」もまた、右のような歴史的な「ツィゴイナー」概念を反映して、最後まで「人種的観点によるツィゴイナー」と「ツィゴイナー風に放浪する者」の双方、すなわち「人種的観点」と「社会的観点」の両方を混在させた曖昧な概念であり続けた。その結果、その時々に恣意的に「ツィゴイナー」と特定されたさまざまな人間がその政策の犠牲となった。

ナチス政権の「ツィゴイナー政策」の基本を定めたのは、上述のように、「ツィゴイナー問題の最終的な解決策を講ずる」として一九三八年コー月八日に親衛隊長官ヒムラーが出した布告「ツィゴイナー禍の撲滅」であった。布告は、冒頭で「今日までに蓄積された経験、および人種生物学的研究から得られた知識」は「ツィゴイナー問題がその人種の本質を基礎にして規定されなければならないことを示している」として、ナチス政権の「ツィゴイナー政策」が「人種科学」によって裏付けられたものであることを強調した。

ここでヒムラーの言う「人種の本質」とは、「もっとも高い犯罪率を有する」のは「混血ツィゴイナー」で、「とりわけ強い移動本能をもつ」のが「純血ツィゴイナー」であるということであった。「よって、ツィゴイナー問題の最終的な解決策を講ずるにあたってば、純血ツィゴイナーと混血ツィゴイナーを区別して取り扱う必要がある」。その後の具体的施策の展開過程を見れば、彼は、この「人種の本質」にもとづいて、「移動本能の強い……純血ツィゴイナー」は混血が生じないよう隔離して「保護」し、「もっとも犯罪率の高い……混血ツィゴイナー」は強制収容所に収容して根絶することが「ツイゴイナー問題の最終的解決」となると考えたようである。

布告は、この前提に立って、「ドイツ帝国内に居住する個々のツィゴイナー、およびツイゴイナー風放浪者の人種的所属を確定しなければならない」として、「すべての定住および非定住のツィゴイナーとツィゴイナー風放浪者」の「ツィゴイナー禍撲滅局」への登録を義務付けた。個々人が「人種的」にどの「ツィゴイナー」範躊に属するかの最終的な判定は専門家の鑑定にもとづいて帝国刑事警察局が下すとされた。これに続く各条項で、「〔純血〕ツィゴイナー、混血ツィゴイナー、およびツィゴイナー風放浪者」のすべてのカテゴリーが当局への報告や指紋採取、「人種生物学的検査」その他を義務付けられ、あるいは集団での移動を禁止された。こうして、以後「ツィゴイナー」は、「〔純血〕ツィゴイナー」、「混血ツィゴイナー」、「ツィゴイナー風放浪者」のいかんを問わずすべてが、旅券などの証明書類の発給、営業許可証、自動車運転免許証の取得などを規制され、社会生活のさまざまな側面において厳しい制約を課されることになった。

こうした基本方針にもとづいてジプシー問題の「最終的解決」が始まった。画期をなしたのが一九四二年一二月一六日のヒムラーのいわゆる「アウシュヴィッツ令」である。「混血ツィゴイナー、ロム・ツィゴイナーおよびバルカン・ツィゴイナーの強制収容所への収監」と題されたこの布告は、その執行条例第一条によって、「ドイツ血統ではない」混血ジプシーその他の強制収容所への収監を命じ、「収容されるべき者を『ツィゴイナー的人物』と呼ぶ」と定めた。第二条で、「収容から除外される者」としてまず「純血ツィゴイナー」が指定され、ついで八類型の「ツィゴイナー的人物」が挙げられていた。その際の類型区分の基準は、「ツィゴイナー的観点からみて良質」、「ドイツ血統者と正式な婚姻関係にある」、「社会的に適応した生活を送り、定職があって定住する」、「自家で製造した物品を販売する」、「まだ兵役にある」等々で、「人種の本質」とはおよそ無関係な「社会的」条件であった。

ようするにヒムラーは、「純血ジプシー」、そして恣意的に限定した一部「混血ジプシー」を除いて、ドイツ国内の「ツィゴイナー的人物」全員のアウシュヴィッツ収監を命じたのである。ここは「絶滅収容所」であったから、このことは「混血ジプシー」の「最終的解決」が動き始めたことを意味した。

このように、ヒムラーの「ツィゴイナー」概念には、最後まで、「純血」と「混血」の、またドイツ国籍からバルカン半島出身にいたるまでの、「人種的観点」からするさまざまな「ツィゴイナー」にくわえて、「人種の本質」とはおよそ無関係に「社会的」に定められた「ツィゴイナー的人物」、「ツィゴイナー風放浪者」、「その外見と風俗からしてツィゴイナーと……判断される者」など多種多様な人間集団が含まれていた。それは、基本的に、「人種的観点によるツィゴイナー」と「ツィゴイナー風に放浪する者」の双方を「ツィゴイナー」とするとした一九一一年の「ツィゴイナー会議」以来の「ツィゴイナー」定義、そしてこれを踏襲したバイエルンの一九二六年州法の規定を継承したものであった。こうして、特定の「人種」や「民族」に限定されない、きわめて広範かつ曖昧な概念にもとづいて「ツィゴイナー問題の最終的解決」が始まったのである。

これら布告に際してヒムラーが依拠した「人種生物学的研究」とは、主として、帝国保健省遺伝学研究所の所長で人口優生学・犯罪生物学の専門家ロベルト・リッターの学説であった。

リッターの学説では、第一に、遺伝的に継承される「劣等性」の形質というものがあって、そのようなものとして虚弱体質やアレルギー体質などの病的な体質や精神的な障害にくわえて、いわゆる「反社会性」が強調された。この「反社会性」には、放浪癖、盗癖、虚言癖、不規則就労、アルコール・麻薬中毒、賭けごとへの熱中、宗教的狂信、売春、自殺、その他が含まれた。第二に、このような「劣等性」は混血によってきわめて深刻な問題となるとされた。「健全な家族」が「社会的あるいは医学的に劣等」な人間と交われば、つねにこの「劣等性」が貫徹して急速に拡散する。つまり、混血が「悪の根源」とされたわけである。第三に、この問題を解決するためには「優生学」の手法が不可欠とされた。「劣等性」の諸結果を無害化するためには少なくとも四世代にわたって「健康な血」とかけあわせることが必要であり、究極的には「劣等性」の血をもった人間を隔離し、断種・不妊化の措置を施して子孫の再生産を阻止することが必要である、と。

リッターは、何よりも「ツィゴイナー」において以上三つの要素すべてが決定的であると考えた。彼は、もともと、グレルマンが定式化したジプシー像の特徴を備えた「真のジプシー」が存在すると考えていた。しかし研究の過程でそのような「本物のツィゴイナー」を見つけることはできなかった。当時、ジプシーに認められるとされていた固有の特徴、たとえば、集団としての放浪、独自の言語、昔からの慣行と習慣、それとわかる人相学的特徴、特有の職業、独特の名前などをすべてはっきりと示す人間集団は存在しなかった。それどころか、調査の結果はむしろ、ドイツ人のなかにもこうした基準の多くを満たすさまざまな集団や個人が存在することを明らかにした。他方、ジプシーであるとされながらも、定住生活を送り、外見からはほかのドイツ人と区別がつかないなど、ようするに昔からいわれてきたイメージとほとんど合致しない人たちもいた。

リッターはこれを、長いあいだの混血の結果であると考えた。実際、リッターがドイツで見出すことのできた「ツィゴイナー」は九〇パーセント以上が混血であると判断された。彼らは、本来はインドの出身であり、その意味でかつてはアーリア人であったが、西方への移動の過程で放浪生活を送る劣等な人種と混血し、その結果として反社会的で犯罪的な存在となったとされた。ドイツに居住するようになってからは、浮浪者集団や犯罪者集団、精神異常者などドイツ人の下層階級とさらに混血して、その「劣等性」はいっそう顕著なものとなった。これら混血ジプシーは「劣等性」を拡散させてドイツ人の「血と健康」にとって重大な脅威をなすから、彼らをドイツ人と交わることのないよう閉鎖的な居住区に封じ込め、かつこれ以上子孫が増えないよう「優生学的措置」を講じる必要がある--これがリッターの結論だった。

こうして何よりも「混血」が「悪の根源」とされて、この「悪の根源」を根絶するために個々の「ツィゴイナー」の「混血」の度合いを判定することが不可欠となった。そのために彼が向かった先がドイツ警察の伝統であった系図学的研究である。「ツィゴイナー」に顕著な犯罪志向や浮浪生活、アルコール中毒、売春などの「反社会性」は祖先からの遺伝によるとして、系図をたどることによってこうした「反社会的人間」の「ツィゴイナー度」を決定しようとしたのである。一九世紀以来ドイツ各地、とくにバイエルン州で蓄積されてきた系図学的情報のデータがその基礎となった。

この系図学的研究に基づいて、「ツィゴイナー」、「混血ツィゴイナー」、「非ツィゴイナー」という三つの範躊を区別する「人種診断書」が作成された。警察当局および「ツィゴイナー禍と闘う帝国中央局」は、この「人種診断書」に基づいて「ツィゴイナー」を摘発し、範躊区分に応じて強制収容所に送るなどの措置をとることとされた。

リッターの判定基準はこうだった。

 ツィゴイナー=祖父母に純血ツィゴイナーが三人以上いる人間。

 混血ツィゴイナー(+)(第一級)=祖父母に純血ツィゴイナーが一人または二人いる人間。

 混血ツィゴイナー(-)(第二級)=祖父母に混血ツィゴイナーが二人以上いる人間。

 非ツィゴイナー=上記以外のすべての人間。

最後の「非ツィゴイナー」という範躊は一見わかりにくい。「人種診断」上は「ツィゴイナー」とはされないが、「ツィゴイナー風」として「ツィゴイナー政策」の対象とされるべき人間範躊であった。

こうした鑑定結果にもとづいて刑事警察局が指紋の押捺された特別身分証を発行した。証明書は、純血ジプシーは褐色、混血ジプシーは淡青色の線が入った褐色、そして「ツィゴイナー風放浪者」は灰色だった。強制収容所によっては、「ツィゴイナー」には茶色の、「反社会的分子」には黒の三角形の標識表示を強制したところもあった。

ただし、ナチス政権の実際の「ツィゴイナー政策」がこのような区分と分類に忠実に従って遂行されたと考えてはならない。ヒムラー白身、最終的にはヒトラーの意向を忖度して「純血ツィゴイナー」の特別扱いをあきらめていた。また法令施行の実際においては、混乱する戦場や占領地はもとより、ドイツ国内においてさえ、現場の指揮官がそうみなした人間すべてが「ツィゴイナー」として収容所送りその他とされた。このことは、リッターのもとで一九四五年一月まで作成が続けられた「人種診断書」の最後が第二四四一一号でとどまり、彼が家系を登録できたジプシーの数も最終的に三万五〇〇〇人にすぎなかったという事実からも明らかである。実際には、これよりはるかに多くの「ツィゴイナー」が強制収容所に送り込まれていたのである。

そもそも「純血ツィゴイナー」なるものが「アーリア人」という「人種神話」にもとづく虚構にすぎなかったという点は別としても、いかに系図学的データが蓄積されつつあったにせよ、個々のジプシーについて「純血」か「混血」かの判定を下すことなどおよそ不可能であった。結局、ヒムラーの布告は、「人種の本質」にもとづく「〔純血〕ツィゴイナー」と「混血ツィゴイナー」の区別という一見科学的な、しかしそのじつまったく非現実的な区別を導入することによって、実際には「ツィゴイナーおよびツィゴイナー風放浪者」という「人種問題」と「社会問題」を混在させたナチス政権の「ツィゴイナー」概念の曖昧さを覆い隠す役割を果たしたのである。

以上から浮かび上がるのは、ナチス政権の政策担当者とそのイデオローグが、まさに「ツィゴイナー」の実体の曖昧さに振り回されていたという事実である。彼らは、ひと口に「ツィゴイナー」といっても実際にはきわめて多様な人間集団であるという現実を前にして、最後まで彼らを「人種的」に絞りきることができなかった。「人種の本質」にもとづいて「純血ジプシー」と「混血ジプシー」を区別しようとしたものの、結局は「ツィゴイナー的人物」や「ツィゴイナー風放浪者」といった「社会的」定義をも残さざるをえなかったのである。その結果、「人種的」および「社会的」なさまざまな観点から「ツィゴイナー」ないし「ツィゴイナー風」とレッテルを貼られた多種多様な人間か無差別に「ツィゴイナー政策」の犠牲とされたと考えてよい。

その代表例の一つがイェニッシュと自称するドイツ(およびスイスなどその周辺地域)の土着の遊動民集団であった。彼らは、さまざまな事情によって一九世紀に入る頃までに主流社会の傍らで遊動の生活を送るようになったドイツ人集団とされる。農業労働や行商、刃物研ぎ、楽師などを生業として、いわゆるロートヴェルシュ語に近い独特の言葉を使った。ドイツを中心に数十万人を数え、独自のアイデンティティを主張したが、その外見や生活様式が似ていたことからしばしばツィゴイナーと同一視ないし混同された(リッターもこの両者を明確に区別しなかった)。ナチス政権もまた彼らを「ツィゴイナー」として厳しく迫害したのである。
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歴史の特徴--連続と偶然

『ありえない138億年史』より これまでの歴史がすべて起こる可能性は?

これまでの章でビッグヒストリーのあらゆる領域を見てきて、最後にこんな疑問を抱く人がいるかもしれない。

過去の歴史の展開に規則性はあるのか? それとも、歴史にはまとまりも秩序もなく、単なる「悲惨な出来事の繰り返し」でしかないのか? 歴史の展開を左右する法則はあるのか?

一七世紀のアイザック・ニュートン以降、科学者たちは、物体の運動やエネルギーの変換を支配する不変の数学的法則を発見してきた。すると、予想できないように見える日常生活の出来事にも何らかの秩序が働いているのではないか、歴史そのものにも基本的な法則があり、それを発見することもできるのではないか、と考える人が出てきた。

しかし今のところ、こうした歴史法則を探る研究はあまり成功していない。

惑星が恒星の周りを回る、氷河が山腹をゆっくり下降するといった現象は、「宇宙」や「地球」の領域の歴史に属する。この領域の出来事は物理学の法則に従っており、その運動を計算できる。

だが、ビッグヒストリーのある時点で、性質の異なるものが現れた。それによって、数学的に公式化された歴史の法則が発見される可能性どころか、そんな法則が存在する可能性さえ奪われてしまったようだ。

事態を一変させたのは、生物の登場である。生物の世界では、単細胞生物あるいは多細胞生物それぞれが、独立した主体として行動する。エネルギーや栄養を獲得し、できれば自分の特徴を子孫に伝えようとして、ほかの主体と争いを繰り広げる。

地球は、自然法則で説明できる物質の四態(プラズマ、気体、液体、固体)の領域を超え、それよりはるかに複雑な形で組織された物体(生物)を生み出した。これを機に、ビッグヒストリーにおける新たな領域(「生命」と「人間」)が始まった。自然法則などまるで存在しないと思われる領域である。

まさにそれが正しく、生物や人間の歴史を決定的に支配する法則などないとすれば、歴史を理解・把握する方法はほかにないのだろうか? たとえば、歴史の展開に規則性やパターンはないのか?

スティーヴン・ジェイ・グールドは、その刺激的な著書『時間の矢・時間の環』の中でこう述べている。

過去の見方については以前から、歴史には方向性があると考える人と歴史には周期性があると考える人がいた。この二つの見解は、人間の歴史を解釈する学者に影響を与えるだけでなく、地球を初めて本格的に理解しようとした初期の地質学者の間にも大きな対立を引き起こした。

時間の矢(歴史には方向性がある)と時間の環(歴史には周期性がある)という二分法は、地質学者や歴史学者が言葉でしか過去を表現できなかった時代には妥当だった。「ローマの衰退」や「帝国の盛衰」といった表現は、時間の矢や環を連想させ、知的好奇心を刺激する。

しかし現在、特に地質学では、数値データがきわめて豊富にある。地球が過去にどう変化してきたのかを示す数値である。それをもとに歴史を見るかぎり、時間の矢・時間の環という二分法を歴史の基本とするのは、もはや難しいといわざるを得ない。

問題は時間の取り方にある。たとえば、地表の温度の歴史を見ると、選ぶ時間枠によって方向性があるとも周期性があるともいえる。

過去一万年の温度は、実に安定している。しかし過去一〇○万年の温度となると、一〇万年周期で氷河期と間氷期を繰り返している。また、もっと短い時間枠あるいはもっと長い時間枠で見れば、それによって寒冷化している方向性も温暖化している方向性も見られる。

そこで、ビッグヒストリーの全領域にわたる歴史の展開を見る際には、別の二分法を提案したい。それは「連続」と「偶然」である。

連続とぱ方向性と周期性から成り、それらがさまざまな時間枠において、さまざまな形で結びついている。偶然とは、事前には予測できない、歴史に重大な影響を及ぼすまれな出来事を指す。

偶然はどこにでもある。私たちは私生活の中で、長期にわたり連続を経験している。毎日仕事に出かけては帰宅するというパターン(周期性)を繰り返すうちに、徐々に年を取り、知恵をつけていく(方向性)。だがその間に、まったく思いがけない偶然が襲いかかる。はしごを踏み外す、恋に落ちるなど、二度と起こらないようなことが起こる。

人間の歴史は偶然に満ちている。これが、歴史を左右する法則を見つけられない理由の一つである。戦争では、偶然がとりわけ大きな力を発揮する。戦闘の結果は、風向き(アルマダの海戦)や偶然失われた指令書の発見(アメリカ南北戦争)といった予測できない状況によって決まる。

偶然は私たちの身の周りにあり、それに気づくことも多いが、偶然を明確に定義するのはなかなか難しい。私にはまだ、満足できる定義を見つけることも、それを自ら決めることもできない。だが、とりあえず現段階では、ある出来事が偶然に発生したと考えるには、三つの要素が必要だと考えている。

第一に「まれ」であること、第二に「予測不能」であること、第三に「重大」な意味を持つことである。

ただし、この三つの要素それぞれにあいまいな部分がある。それに、偶然の要因について考えると、ビッグヒストリーの中の無生物の領域(「宇宙」と「地球」)と生物の領域(「生命」と「人間」)とでは、状況がまったく異なるように思われる。

そこでまずは、恐竜を絶滅させた隕石衝突を例に、「宇宙」と「地球」の領域の偶然について考察することにしよう。そのあとで、スペインの無敵艦隊を例に、「生命」と「人間」の領域の偶然について検討する。そして最後に、地球上の私たち二人ひとりの存在の背後にある驚くべき偶然について考える。

それぞれのケースで、先ほど挙げた偶然の三つの要素がどの程度当てはまるのかを確認していくことにしたい。
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未唯宇宙 5.1.3~5.1.4

5.1.3「夢をカタチに」

 東富士で課長昇格時の修で、それまでを振り返って、自分の役割を きめた。それが「皆の夢を自分の夢に、自分の夢を皆の夢に、夢をカタチに」であった。

 夢を聞くことから始めた。これは難しいことです?夢を持ってない人の多いこと。夢は聞き出す技術が必要になる。その夢を自分の夢にすることは次のステップ。自分の夢にすることによって、形が変わってくる。多くの人の夢がひとつの夢になる。その自分の夢をみんなの夢にすると言う、シナリオ。そこにあるように語れるかが重要。その上で形にしていく。真っ当な夢であればそのための準備は全て終わっている。

 F3Eの風土で素晴らしいのは、夢を持つものに従うというもの。大きな夢を持てば持つほど、職層関係なしに、それぞれの専門分野に持って、夢に従っていく。専門分野を組み合わせることで、今までなかったものができていく。未知の領域を創出する。見えるものになればさらにアイデアが加わる。S2レーシングマシンの開発プロセスで感じた。

 それで夢をカタチにできる。これを私の生業にすることにした。

5.1.4「数学は役立つ」

 数学は本当に役立つ。と言っても計算ではないです。数学は先が見えてくる。シンプルな考えをたどっていけば、先が見える。一種のシュミレーション。答えは必ずある。できないということも含めた答え。自分の役割は それまでのプロセスを仲介してるだけ。自分の世界を作り出していく だからプロセスを説明できる。

 数学は汎用的だから技術者の環境を整えることできた。皆は自分で 考えて発見していけばいい。そうすれば自ら環境を進化させることできる。システムを作ると言っても、結局、ディスクにビットを立てるだけのこと。それからの 反省として、作るよりも使うことにシフトしていった。つまりモノよりもコト。

 作るで考え止めていては悪くなるだけ。使うことでよりよくしていく 知恵が人類にとっては必要だ。そこに数学は使えないか、というアイデアが生まれた。
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