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コラボレーション

『心理臨床事典』より

コラボレーションとは、通常、協働、協力、共演、合作などをさす言葉であり、しばしば芸術などの分野で用いられる言葉である。心理臨床の現場においては、主として「協働」として訳されることが多い。 1970年代に米国で広まり、日本でも2000年代になり、心理臨床の現場が医療だけでなく教育,福祉、司法などに広まるにつれて非常に重要視されてきた考えである。

 ●コラボレーションの定義

  心理臨床の世界におけるコラボレーションの定義は、クライエントとなる人びとの周りの専門家と心理臨床家がつながり、クライエントをよりよくするという目標をともにもち支援を行うということを意味する。そのためコラボレーションの主たる業務は、クライエントをめぐる他職種との連携となる。心理臨床における主たる業務といえる個人療法と異なり、コラポレーションにおいては、セラピストはクライエントの周りにある人的・社会的資源(ソーシャルサポート)を探し出し、クライエントの周りに支援の輪という形でのネットワークを構築することが必要となる。

  コラボレーションはそのネットワークの対象によって、同一機関、他機関、他領域でのコラボレーションと大きく3つに分けられている。学校現場でのコラポレーションを例にして示す。同一機関内のコラボレーションとは、心理臨床家が児童・生徒に対して支援を行い、その担任や養護教諭、管理職といった学校組織内のほかの専門家と児童・生徒支援を行うネットワークをつくることを意味する。同一機関内でのコラボレーションは、管理職による指揮系統の一本化や同じ空間での児童・生徒の状態把握といった点でも行いやすいという特徴がある。他機関とのコラボレーションでは、その児童・生徒が通う教育相談室や適応指導教室といった学校内ではないが同じ教育現場という領域内でのネットワークをさす。他機関とのコラボレーションの際には,情報共有の問題や、児童・生徒の状態をめぐる見解の相違に注意をする必要がある。不登校という現象1つをとってみても、学校に行かせたい専門家と今は休みのときであると考える専門家では当初の対応は異なるからである。最後の他領域とのコラボレーションは、病院などの医療機関、児童相談所や養護施設といった福祉機関において児童・生徒と関わる専門家(医師や看護師、保健師やソーシャルワーカーなど)とのネットワークをさす。他領域とのコラボレーションは上記2つのコラボレーションにおける注意点に加え、専門家どうしが使う言葉の意味の相違などや守秘義務の守られる範囲の見極めなども重要となってくる。

  このようにコラボレーションには、クライエントを取り巻く支援のネットワークをどこまで広げるかによって、ありようが異なっていくが、「誰のために」「何を目的として」「いつ」「どこで」「誰によって」行われているのかを常に意識することによって、そのネットワークと目的に合った支援を行う必要がある。またコラボレーションは専門家どうしの連携ともいわれるが、クライエントの利益になるのであれば、非専門家ともコラポレーションをし、支援のネットワークを構築していく必要もある。

 ●コラボレーションの実際

  心理臨床家がコラボレーションを行う際には、他者を理解する専門家であるというところに大きな利点がある。多くの専門家は自らの専門性に自信をもって日々支援を行っている。そうした専門家同士が連携する際には時に専門家同士ゆえのぷつかり合いも起こり得る。

  そのためコラボレーションを担う人びとは、説明する用語を簡易化し、誰もが聞いてもわかる用語を用いることや、一方で個々の専門性を理解し、他機関・他領域の方法を尊重する必要も出てくる。つまりマニュアルのような対応は存在せず、その場その場でほかの専門家の意向を理解し、連携を行う必要がある。そして、この方法は個人臨床において心理臨床家が得意とする、相手を理解しようとする姿勢や語りを待つ姿勢、また信頼し合える関係作りの姿勢が重要となるのである。また日々の心理臨床実践で用いる力動的視点や病理的状態への理解などのアセスメントも、コラポレーションによって生まれたネットワーク内で起きていることや足りないことへの理解に大きく寄与する。心理臨床家がコラポレーションを生み出す場合でも、コラボレーションを依頼される場合でも、こうした姿勢がよりよいコラボレーションを生み出し、クライエントにとって真に利益のある支援へとつながる。

  コラボレーションは,心理臨床家の専門性である心理療法,心理アセスメント、地域援助を余すところなく発揮できる概念である。そしてほかの専門家とのコラボレーションをもとにした研究実践を行うこともよりよいコラボレーションを生み出していくことを忘れてはならない。
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存在の支えが一つ、なくなった

日本はグローバルのグローバル

 日本はグローバル国家になれなかった。アメリカに妨害された。だから、グローバルのグローバルの国家をめざすのです。全体の循環をさせることの調整役です。

ICレコーダー録音分

 唐突に母親がなくなります。下から奥さんが「おばあちゃん、なくなったよ」。昨日、ホームに行ったばかりです。その時は痛いのだけが目立っていた。その時の寝たままの恰好で亡くなっています。

 88歳だそうです。私は、25歳の時の子供なのか。

 真理子の正式な名前を医者も間違えていた。

存在の支え

 今まで、私が生きている最大の理由は、私が亡くなったら、一人だけ悲しむ人がいるということです。そのタガが外れました。

 まあ、毎週、ホームに行って、一時間は居たということだけです。話すこともないし、本を読んでいただけです。隣で本を読んで、1時間で帰ってくる。6年間で300回、行っていたけど、お見舞いというよりも、なごみです。アテネの玲子さんは、実家での体験で、私の気持ちは分かっているみたいです。通えなくなって、残念ですねと言ってきます。

 これで岡崎図書館に行かなくなれば、車に乗る理由はなくなります。だから、免許証はいりません。

私は個人葬でしょうね

 今度の場合は家族葬だけど、私の場合は個人葬でしょう。まあ、関係ないけど。

存在は見えていない

 誰からも見えていない状態を私は明確に分かっている。だけど、これはすべての人に対して言えることです。つまり、哲学です。見えていると思って、あがいているけど、誰も見えていない。

 それが生まれてきたことであり、死んでいくこととイコールです。そういったところを本気で考えたら、これは当然の結果です。

 モノを作ったり、職位が上がったりすることは、その時点では見えている振りをするけど、実は何も見えていない。それが本来の存在と無の定義です。要するに、無なんです。宇宙から見なくても、前にいる人から見ても、無なんです。

 今日も誰とも話していない。奥さんに言わせると、ドンドン範囲を狭めている。それでもって、何が起こるのかを期待しています。
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