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なぜ、「ロビンソン・クルーソ」を借りたのか

豊田市図書館の23冊

 月末は本が少ない。その上、図書館に到着したのは5時です。とりあえず、袋の中に入れたけど、9番台の文学が多くあった。それもロビンソン・クルーソとかゲーテです。

 それといぜん借りた本が3冊もありました。これで、1477冊です。日曜日に岡崎市図書館で10冊借りても、1487冊です。心理的に疲れているので、無理せずに、行きましょう。

 159『僕らの時代のライフデザイン』

 134.6『自分を救う幸福論』

 933.6『ロビンソン・クルーソー(上)』

 933.6『ロビンソン・クルーソー(下)』

 940.26『ゲーテとの対話(上)』

 940.26『ゲーテとの対話(中)』

 940.26『ゲーテとの対話(下)』

 914.6『マス・イメージ論』

 953.7『失われた時を求めて ③』

 134.95『デカルト的省察』

 914.6『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

 289.1『思考都市』

 293.59『アムステルダム・ブリュッセル』

 112.04『哲学の自然』

 361.3『協力がつくる社会』

 369.31『文明の渚』

 023『マニフェスト 本の未来』

 498.07『医療をたかるな』

 116.3『意味・真理・存在』

 104『超人の倫理』

 369.31『3・11行方不明 その後を生きる家族たち』

 134.95『フッサール「現象学の理念」』

 335.1『ヤバい経営学』

なぜ、「ロビンソン・クルーソ」を借りたのかを、考えていた。

 孤島へ上陸後に、悪い点と善い点を併記している。孤独と孤立を前向きに捉えていた。

悪い点

 私はおそろしい孤島に漂着し、救われる望みはまったくない。

 私は全世界からただ一人除け者にされ、いわば隔離されて悲惨な生活をおくっている。

 私は全人類から絶縁されている孤独者であり、人間社会から追放された者である。

 身にまとうべき衣類もない。私は人間や獣の襲撃に抵抗するなんらの防禦手段ももたない。

 私には話し相手も、自分を慰めてくれる人もいない。

善い点

 しかし、他の乗組員全員が溺れたのに、私はそれを免れてげんにこうやって生きている。

 だが自分一人が乗組員全員から除外されたからこそ死を免れたのだ。奇蹟的に私を死からすくってくれた神は、この境遇からもすくいだすことができるはずである。

 だが、食うものもない不毛の地で餓死するという運命を免れている。

 だがさいわい暑い気候のところにいる。ここでは衣類があってもまず着ることもできまい。

 だが私がうち上げられたこの島には、たとえばアフリカの海岸でみたような人間に害を加える野獣の姿はみられない。もしアフリカの海岸沖で難破していたとしたら私はどうなっていたであろうか。

 だが有難いことに神が浜辺近く船をおし流してくれたため、多くの物資をとりだすことができた。これだけあれば生きているかぎり自分の必要をみたすこともできるし、またなんとか必要なものを手にいれることもできる。

深層心理で借りたのでしょう。

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万人平等という一大革新

『哲学者キリスト』より キリストの哲学

イエスは、「すべての人間が等しく尊重される権利を有する」と力説することで、普遍救済主義の立場を明らかにするとともに、全人類を対象とする倫理を打ち立てた。それは当時の道徳--哲学的であれ宗教的であれ--との決別でもあった。それまでは同じ民族、同じ階層、同じ地域に属する仲間や身内の中にしか、隣人と呼べる人間はいなかったからである。当時のユダヤ人にとって、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の間に平等など存在しなかった。古代ギリシャ人にとっても、ギリシャ人とバルバロイ(蛮族)の間には、また男と女、市民と奴隷の間にも、平等はあり得なかった。しかしイエスにとっては、すべての人が同じ父なる神の子であるから、人は皆兄弟であり、それゆえ皆平等である。

人は皆兄弟というこの考え方、つまり人類という倫理概念は、西洋の思想ではまったく新しいものであった。私が「西洋の」と言ったのは、表現の仕方は違えども、この考え方はすでに存在しており、特に仏陀と中国の思想家である孟子に、はっきり見られるからである。いずれにせよ、当時の文化的背景から隔絶したこの考え方は、キリストの教え全体の基底をなすだけでなく、神の国を表わす根本原理でもある。イエスが宣言した「神の国」という新しい社会は、この考え方を礎石にして、その時からすぐに建設が始まったのである。

イエスが平等を説くとき、貧乏人、病人、疎外された人たちなど、当時の「下層民」を前面に出しているのは、教えの重要性と革新性を、聞き手によく理解させるためである、イエスは、「天国を閉ざして人々を入らせない」(マタイニ三章一三)律法学者やファリサイ人の、差別的な慣行を激しく批判した。彼の平等主義は、その時代の社会規範に反し、ひいてはモーセの律法とも対立するものだった。ユダヤ教の浄・不浄の区別を拒否し、らい病患者、徴税人、娼婦のもとを訪れ、弟子たちが師への敬意から遠ざけようとした子どもたちにも進んで話しかけ、信徒たちの集まりの中に異教徒を迎え入れた。異教徒ローマ人であるカファルナウムの百夫長の話を聞いて、「イスラエル人の中にも、わたしはこれはどの信仰を見たことがない」(マタイハ章一〇)と、驚きの声を上げている。

イエスは年齢、社会的地位、性別、人種による差別をなくそうとした。彼が関心を持っていたのは、神によって造られ、神から無条件に愛された一人ひとりの人格である。イエスの他者性のとらえ方は革新的で、「他者は誰であろうと私の隣人である」と考えていた。隣人という言葉の意味を尋ねた律法学者に、イエスは善きサマリア人のたとえ話で答えている。

ある人が盗賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、死んだ者として道端に捨てられていたが、通りかかった司祭とレビ人は、この可哀想な男から顔をそむけて遠ざかった。そこに、ユダヤ人たちから汚れた異邦人として扱われていたサマリア人が現われる。この見知らぬ男を気の毒に思ったサマリア人は、彼に近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱した後、宿屋の主人に世話に必要な費用を渡した。「この三人のうちの誰が、盗賊に襲われた人の隣人として振る舞ったと思うか」というイエスの問いかけに、相手は「その人に慈悲深い行ないをした人です」と答える。そこでイエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカー○章二九圭二七)と命じる。この一大革新を、パウロは次のように端的に言い表わしている。「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリストーイエスにおいて一つだからである」(ガラテヤ人への手紙三章二八)。

「神の前ではすべての人が平等である」というこの根本原理を、原始キリスト教徒たちは直ちに実行に移した。会食の時も、少し後に始まった聖餐式〔パンとぶどう酒を聖体に変える儀式〕に際しても、参加者間の序列は撤廃されたので、貧乏人も金持ちも、有力者も平民も、みな隣り同士で同じ食卓を囲んだ。万人平等の必要性は、混成共同体の形成とともに増していく。もとはユダヤ教徒であれ異教徒であれ、すべての信徒に同じ尊厳を認めるには、この原則が不可欠だった。四世紀には聖ジェロームが、平等は「すべての人間の本性が単一であることを示す印」であるとし、以下のように端的に表現している。「われわれが軽蔑し、一緒にいることが耐えられない人、一目見るだけでも吐き気を催すような人でも、われわれと同じ人間であり、まったく同じように土から造られ、同じ要素で構成されている。その人が耐え忍ぶすべては、われわれもまた耐え忍ぶことができる」。
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ボストン--精神の状態としてのデモクラシー

『トクヴィルが見たアメリカ』より

当時ボストンは人口六万で、ニューヨークのせいぜい四分の一であり、ヨーロッパからの来訪者はその旧世界的な魅力と清潔を評価した。そのうちのひとりは、通りが「われわれの訪問したほかのすべての都市の大通りと違って、日夜豚が歩き回ることはない」と指摘している。ワクワクさせるものではあったが、つらい二か月の旅の後、トクヴィルとボモンは都市文明をとても愉快なものに感じた。もっとも、招待状を持たずにやってきたので、地元のエリートに何者か理解させるのに数日を要した。ボモンは母への手紙でこう書いている。「ここでは、これまでにアメリカで出会ったことがないもの、ヨーロッパ社会の口調と作法をもつ上流階級を見つけました。ど想像のように、あまり多くないのですが、それでもボストンには本当にいます。絶対的な平等という原理に基づいて創設された共和主義社会のなかに、彼らはまるで偶然投げ入れられたかのように存在し、そのなかで奇妙な例外をなしているのを見ると、いっそう興味をひかれます」。この階級は少数で例外的だったかもしれないとしても、それは「日どとひっきりなしに続く社交の約束」をもたらした。トクヴィルとボモンは朝食が七時三十分に出されたため朝早く起き(最初はマルボロホテルで、すぐにもっと高級なトレモントホテルに移動した)、その後ボストン・アシニアム図書館で数時間本を読んだり、公式の訪問を行なったりして、それから社交に取りかかった。ほぼ毎日、彼らは晩餐に招かれ、それは午後二時頃に始まり、飲酒と歓談が午後六時まで続いた。別の家でお茶をして二、三時間過ごした後、舞踏会用の衣装に着替えるためホテルに戻ることになる。「毎日、舞踏会というかダンス付きの夜会があり、ときには同じ日に二度ありました」。

ボモンは、戯れの恋愛活動を衰えることなく頑張り続けた。そして彼はトクヴィルもそうだったと仄めかしている。途方もないボストンの金持ちが所有するビーコン・ヒルの「宮殿」(それはビーコン通り四二番地で、今はサマセットクラブがある場所)で開かれたある夜の晩餐会の席上、ボモンを特にひきつけたのは、主の可愛らしい姪だった。とはいえ、こうした出会いがはかないものであることが彼を倦み疲れさせ始めていた。「私は彼女といっぱいおしゃべりしましたが、いつか再び彼女に会えるかどうかさえ分からないのですから、それは完全に無駄な感情でした。私が出会うすべての美しい人についてまさに同じことが言えます。そして私たちは社交界で多くの美しい人を目にするのです。一週間のうち三、四回は彼女たちに心を奪われ、私たちはお互いに煽り立てるのですが、それはつねに新顔なのです。そして(失礼ですが)、私たちはブルネットの人に青ざめた顔色をほめて金髪の人に真っ黒の髪を褒めてしまう危険を覚悟で、つねに同じこと語っていると思います」。彼は考え抜いたうえで皮肉を込めてこう付け加えている。「こうしたととはすべてほんの些細なことです。第一級の思索に全力を注ぐ二人の政治生活のなかでは、ほんのわずかな部分を占めているにすぎません」。彼らが会った若い女性のひとりは母親に対して、フランス人の訪問客は「知識と情報、非常に心地よい作法をもった人たち」だったと手紙に書いている。

こうした人びとは、のちにオリヴァー・ウェンデル・ホームズがボストン教養人と呼ぶととになるタイプの人で、ひとつの階級というよりはカーストを代表していた。ジョン・アダムズは半世紀前にこう書いた。「われわれのなかにこれまで国王は一度もいなかったし、貴族も一度もいなかった。これまで国のなかに世襲制が存在したこともないし、今後も国がとういったものを必要とすることも認めることもないだろう」。そして合衆国憲法〔第一条第九節〕は、「いかなる貴族の称号も合衆国によって授与されてはならない」と明記している。けれども、これらの人びとはみずから意識して貴族的になっている有力者たちだった。フランスから来た二人の若者は、自分たちの貴族という身分が彼らにどれほど威厳を与えていたかおそらく気づいていなかった。ボモンは次のように書いている。「彼らはとこではニューヨークにおけるほど外国人に媚を売るようなことはないのですが、もっと真に礼儀正しいように見えます。この社会では、商人の傍らに別の人がいます。彼らはここで美術や文学に時間を使っています。商業や産業に没頭しない階級があるのです。彼らの時間の過ごし方は終始、進んだ文明が提供する快適なあらゆる設備を使って生活するというものです」。トクヴィルの反応もまったく同じだった。

少なくともわれわれが招かれた社交界は--もっとも上流のものだと思う--ヨーロッパの上流階級とほとんど同じである。豪華さと優雅さが行き渡っている。ほぼすべての女性がフランス語を上手に話し、今までのところわれわれが会った男性はすべて、これまでにヨーロッパに行ったことがあった。彼らの作法には気品があり、会話は知的事象についてめぐる。ニューヨークの社交をあれほど俗っぽくしている商業の習慣と金融の精神から解放される感じがする。ボストンには、仕事をせず精神の快楽を追求する人びとがすでに一定数存在するのだ。
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