未唯への手紙
未唯への手紙
絶対孤独を徹底させる
2日休みで会社に行った
いつものように7時45分に会社に到着した。まるで変わっていない。誰も、私が二日間休んだことは知らない。今日も何の会話がないまま、終わるのでしょう。
葬式の後と同じ状況です。孤立と孤独が徹底しています。
ポータルの進み方の確認
ポータルの進み方をSFDC、TM、電算部に確認したところ、3月末までに決まる可能性が見えてこない。何のために結論を延ばしたのか、意味がない。
またしても、Oの悲劇です。
排尿できずに、溢れると腎臓をこわす所だった
それにしても、日曜日も火曜日もやばかった。日曜日の深夜は地域医療センターに駆け付けた。900mlあった。
火曜日は抗生物質で治るかと思ったが、やはり、ダメだった。電話で問い合わせて、トヨタ記念病院の駆け付けた。やはり、900mlあった。これ以上あると、膀胱から溢れて、肝臓がやられるところです。
絶対孤独を徹底させる
絶対孤独であるために、外から自分を見る目もつぶします。全て、内側を見ます。つまり、自分に対して、格好つけない。ひたすら、自分の内部を見ます。
このところ、声を出してしゃべることはしていません。むなしい時に、絶対孤独の時に、ICレコーダーに対して、しゃべります。その分、人との関係では、孤立と孤独で行きます。
インタープリターとしてのSFDC
インタープリターとしてのSFDCに期待しています。ソーシャル分野でのクラウドになって。グーグルとかアマゾンなどと連携してほしい。
ポータルを作るためのシステム会社としてのSFDCではなく、ソーシャルウェブを社会のために展開していく会社に変えていく。他の会社を変えるのは不遜かもしれないけど、それが本音です。その前に、この会社を変えないといけないけど。SFDCの方がマシですよね。
元々のポータルのカタチに、循環の考え方をプラスすれば、カタチはできます。それを示していきます。販売店のシステム会社とは関係なしに、インタープリターとしてのSFDCとTMとその辺のところをやっていきます。
先に店舗コミュニティをする理由は、組織として、店舗があり、人がいるからです。そして、彼らは変わらないといけない時に来ています。スタッフが変わって、お客様との信頼関係ができて、その上で経営者の意識を変えていく。
市民コミュニティの情報共有
そこでは、市民コミュニティにおける情報共有にも活用できる仕組みを見えるようにしていく。市民コミュニティをどう作っていくのか、大きな課題です。これはNPOの立場で考えていきましょう。
コミュニティの中に入ってきた、個人の分化をどう進めるのか。道具は店舗コミュニティで実践していきます。
それを元にして、メーカーのマーケティングそのものを変えていく。メーカーの力を使って、社会コミュニティとの健全な関係を作り上げる。メーカーは社会インフラを行政と一緒になって、再構成しないといけない。
社会が変わっていけば、日本のあるべき姿が見えてきます。新しい民主主義も見えてきます。そのうちに、グローバルのグローバルとしての世界をどう作っていくのかにいきます。
「SNSで世界連邦」という本は、上からしか見ていません。人が入っていない。個人が分化する時に、SNSだけでは無理です。
いつものように7時45分に会社に到着した。まるで変わっていない。誰も、私が二日間休んだことは知らない。今日も何の会話がないまま、終わるのでしょう。
葬式の後と同じ状況です。孤立と孤独が徹底しています。
ポータルの進み方の確認
ポータルの進み方をSFDC、TM、電算部に確認したところ、3月末までに決まる可能性が見えてこない。何のために結論を延ばしたのか、意味がない。
またしても、Oの悲劇です。
排尿できずに、溢れると腎臓をこわす所だった
それにしても、日曜日も火曜日もやばかった。日曜日の深夜は地域医療センターに駆け付けた。900mlあった。
火曜日は抗生物質で治るかと思ったが、やはり、ダメだった。電話で問い合わせて、トヨタ記念病院の駆け付けた。やはり、900mlあった。これ以上あると、膀胱から溢れて、肝臓がやられるところです。
絶対孤独を徹底させる
絶対孤独であるために、外から自分を見る目もつぶします。全て、内側を見ます。つまり、自分に対して、格好つけない。ひたすら、自分の内部を見ます。
このところ、声を出してしゃべることはしていません。むなしい時に、絶対孤独の時に、ICレコーダーに対して、しゃべります。その分、人との関係では、孤立と孤独で行きます。
インタープリターとしてのSFDC
インタープリターとしてのSFDCに期待しています。ソーシャル分野でのクラウドになって。グーグルとかアマゾンなどと連携してほしい。
ポータルを作るためのシステム会社としてのSFDCではなく、ソーシャルウェブを社会のために展開していく会社に変えていく。他の会社を変えるのは不遜かもしれないけど、それが本音です。その前に、この会社を変えないといけないけど。SFDCの方がマシですよね。
元々のポータルのカタチに、循環の考え方をプラスすれば、カタチはできます。それを示していきます。販売店のシステム会社とは関係なしに、インタープリターとしてのSFDCとTMとその辺のところをやっていきます。
先に店舗コミュニティをする理由は、組織として、店舗があり、人がいるからです。そして、彼らは変わらないといけない時に来ています。スタッフが変わって、お客様との信頼関係ができて、その上で経営者の意識を変えていく。
市民コミュニティの情報共有
そこでは、市民コミュニティにおける情報共有にも活用できる仕組みを見えるようにしていく。市民コミュニティをどう作っていくのか、大きな課題です。これはNPOの立場で考えていきましょう。
コミュニティの中に入ってきた、個人の分化をどう進めるのか。道具は店舗コミュニティで実践していきます。
それを元にして、メーカーのマーケティングそのものを変えていく。メーカーの力を使って、社会コミュニティとの健全な関係を作り上げる。メーカーは社会インフラを行政と一緒になって、再構成しないといけない。
社会が変わっていけば、日本のあるべき姿が見えてきます。新しい民主主義も見えてきます。そのうちに、グローバルのグローバルとしての世界をどう作っていくのかにいきます。
「SNSで世界連邦」という本は、上からしか見ていません。人が入っていない。個人が分化する時に、SNSだけでは無理です。
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フッサールがソルボンヌ大学デカルト記念講堂で講演する
『フッサール心理学宣言』より ここで念のため、現象学超入門
ここまで読んで来て、似たような話を聞いたことがあるぞ、と思う読者もいることだろう。そう、一七世紀フランスの哲学者で数学者ルネ・デカルトの、方法的懐疑だ。デカルトは、あらゆる学問にとっての確実な基礎を見出すために、まず一切の知識という知識を疑った。当時の学問的知識はもとよりのこと、この世界が存在するということも、世界は夢かもしれないし悪魔に送りつけられた幻覚かもしれないから疑わしい。自分自身が存在することだって疑わしいではないか。そのように懐疑を重ねていった果てに、デカルトは、疑っているということだけは疑えないことに気づいた。
目の前の花瓶が存在することは疑える。けれども、花瓶の実在を疑っていることだけは疑えない。疑うとは、つまり、思うことの一種である。花瓶の存在について私がいろいろと思っていることだけは、疑いなく確実なのである。そして、私が思うということが確実なら、私が存在することもまた、確実である。我思う故に我あり。そうだ、これをこそ最初に与えられた確実な知識として、あらゆる知識の出発点、あらゆる学の第一原理とした。
これが、デカルトの主著『省察』にある有名な方法的懐疑の話である。
フッサールの現象学的還元の目的もデカルトと同一である。後期の主著『デカルト的省察』を読めば一目瞭然だ。
フライブルク大学を退官して翌年、七〇歳になったフッサールは、パリ・ソルボンヌ大学のデカルト記念講堂において「超越論的現象学入門」という題で講演を行った。その折の原稿を元にして、一九三一年、若きレヴィナスらを訳者としてフランス語版で出版されたのが『デカルト的省察』である。それは次のような一節で始まっている。ここフランスの知の学問にもっとも由緒あるこの場所で、超越論的現象学〔と私が呼ぶ哲学〕について語ることができるのを、私はたいへん嬉しく思うが、それには特別な理由がある。と言うのも、フランスの偉大な思想家ルネーデカルトは、その省察によって超越論的現象学に新たな刺激を与え、すでに生まれつつあった現象学が超越論哲学という新しい形態へと変革を遂げるよう、直接働きかけたからである。したがって、たとえ超越論的現象学が、まさにデカルト的な動機を徹底して展開するために、デカルト哲学のよく知られている学説全体をほとんど拒否せざるをえないことになろうとも、この超越論的現象学を新デカルト主義と呼ぶことができる。(浜渦辰二訳、岩波書店、二〇〇一、一七頁。なお、邦訳は、生前は出版されなかったドイツ語増補版に基づいている)
フッサールの現象学も、まさにデカルト的な動機、あらゆる知識の確実な根拠の探求という動機に導かれているのである。ちなみに、現象学的還元については、フッサール中期の主著『イデーンー』(一九一三) に詳しいが、詳しすぎてひどく分かりにくくなってしまっている。そこで本章では、講演をもとにしているだけあって読みやすいこの『デカルト的省察』と、後に出てくる『ブリタニカ草稿』に依拠したことをことわっておきたい。
それにしても、この冒頭の一節もけっして分かりやすくはない。まず、フッサールは自分の現象学を超越論的現象学と呼んでいるのだが、「超越」というと日本語では、現世を超越した気高い境地といった宗教的超自然的イメージがあるうえに、「論」がつくからますます物々しく響く。心理学の本ではまず絶対使えない言葉だ。
超越論とはもともとカント哲学に由来する語なのであるが、哲学史の話はひとまず置いて、わたしなりに噛み砕いて説明しよう。まず「論」のつく以前の「超越的」をドイツ語辞書で引いてみると、①経験(知覚) できる範囲を越えた、とあり、その後に《哲》超越的な、《俗》超自然的な、とある。日本語の語感としてはこの「超自然的な」に近いわけだが、やはり、経験もしくは知覚できる範囲を越えた、という意味が妥当だろう。
生命発生以前の宇宙は、私たちに直接経験される可能性がないという意味で、まさに超越的世界である。そんな極端な例を出さなくても、テーブルの上の花瓶もまた、目に見えない裏側という、知覚できる範囲を越えた「超越的」側面によって初めて「実在する」という意味が与えられる。そもそも、私は目をつぶっても、それどころか私が死んでも、世界は存在し続けていると信じているのだから、超越的世界の実在を信じていることになる。そこで、これに「論」を付けて「超越論的」とすると、そのような超越的存在についての信念に、根拠は、妥当性はあるのか、そのような知識はいかにして得られるのかといった、超越的存在をめぐる論という意味になる。
フッサールは、自分の哲学を超越論的現象学と呼んだ。それは、「テーブルの上の花瓶の、今、知覚している面という現象」を徹底的に反省することによって、その現象の構造の内部に、裏側を備えた超越的存在としての花瓶を、誰も見ていなくとも存在している花瓶という客観的実在を、私が信じている根拠を見出すという課題が、最初のテーマになるからにほかならない。
ここまで読んで来て、似たような話を聞いたことがあるぞ、と思う読者もいることだろう。そう、一七世紀フランスの哲学者で数学者ルネ・デカルトの、方法的懐疑だ。デカルトは、あらゆる学問にとっての確実な基礎を見出すために、まず一切の知識という知識を疑った。当時の学問的知識はもとよりのこと、この世界が存在するということも、世界は夢かもしれないし悪魔に送りつけられた幻覚かもしれないから疑わしい。自分自身が存在することだって疑わしいではないか。そのように懐疑を重ねていった果てに、デカルトは、疑っているということだけは疑えないことに気づいた。
目の前の花瓶が存在することは疑える。けれども、花瓶の実在を疑っていることだけは疑えない。疑うとは、つまり、思うことの一種である。花瓶の存在について私がいろいろと思っていることだけは、疑いなく確実なのである。そして、私が思うということが確実なら、私が存在することもまた、確実である。我思う故に我あり。そうだ、これをこそ最初に与えられた確実な知識として、あらゆる知識の出発点、あらゆる学の第一原理とした。
これが、デカルトの主著『省察』にある有名な方法的懐疑の話である。
フッサールの現象学的還元の目的もデカルトと同一である。後期の主著『デカルト的省察』を読めば一目瞭然だ。
フライブルク大学を退官して翌年、七〇歳になったフッサールは、パリ・ソルボンヌ大学のデカルト記念講堂において「超越論的現象学入門」という題で講演を行った。その折の原稿を元にして、一九三一年、若きレヴィナスらを訳者としてフランス語版で出版されたのが『デカルト的省察』である。それは次のような一節で始まっている。ここフランスの知の学問にもっとも由緒あるこの場所で、超越論的現象学〔と私が呼ぶ哲学〕について語ることができるのを、私はたいへん嬉しく思うが、それには特別な理由がある。と言うのも、フランスの偉大な思想家ルネーデカルトは、その省察によって超越論的現象学に新たな刺激を与え、すでに生まれつつあった現象学が超越論哲学という新しい形態へと変革を遂げるよう、直接働きかけたからである。したがって、たとえ超越論的現象学が、まさにデカルト的な動機を徹底して展開するために、デカルト哲学のよく知られている学説全体をほとんど拒否せざるをえないことになろうとも、この超越論的現象学を新デカルト主義と呼ぶことができる。(浜渦辰二訳、岩波書店、二〇〇一、一七頁。なお、邦訳は、生前は出版されなかったドイツ語増補版に基づいている)
フッサールの現象学も、まさにデカルト的な動機、あらゆる知識の確実な根拠の探求という動機に導かれているのである。ちなみに、現象学的還元については、フッサール中期の主著『イデーンー』(一九一三) に詳しいが、詳しすぎてひどく分かりにくくなってしまっている。そこで本章では、講演をもとにしているだけあって読みやすいこの『デカルト的省察』と、後に出てくる『ブリタニカ草稿』に依拠したことをことわっておきたい。
それにしても、この冒頭の一節もけっして分かりやすくはない。まず、フッサールは自分の現象学を超越論的現象学と呼んでいるのだが、「超越」というと日本語では、現世を超越した気高い境地といった宗教的超自然的イメージがあるうえに、「論」がつくからますます物々しく響く。心理学の本ではまず絶対使えない言葉だ。
超越論とはもともとカント哲学に由来する語なのであるが、哲学史の話はひとまず置いて、わたしなりに噛み砕いて説明しよう。まず「論」のつく以前の「超越的」をドイツ語辞書で引いてみると、①経験(知覚) できる範囲を越えた、とあり、その後に《哲》超越的な、《俗》超自然的な、とある。日本語の語感としてはこの「超自然的な」に近いわけだが、やはり、経験もしくは知覚できる範囲を越えた、という意味が妥当だろう。
生命発生以前の宇宙は、私たちに直接経験される可能性がないという意味で、まさに超越的世界である。そんな極端な例を出さなくても、テーブルの上の花瓶もまた、目に見えない裏側という、知覚できる範囲を越えた「超越的」側面によって初めて「実在する」という意味が与えられる。そもそも、私は目をつぶっても、それどころか私が死んでも、世界は存在し続けていると信じているのだから、超越的世界の実在を信じていることになる。そこで、これに「論」を付けて「超越論的」とすると、そのような超越的存在についての信念に、根拠は、妥当性はあるのか、そのような知識はいかにして得られるのかといった、超越的存在をめぐる論という意味になる。
フッサールは、自分の哲学を超越論的現象学と呼んだ。それは、「テーブルの上の花瓶の、今、知覚している面という現象」を徹底的に反省することによって、その現象の構造の内部に、裏側を備えた超越的存在としての花瓶を、誰も見ていなくとも存在している花瓶という客観的実在を、私が信じている根拠を見出すという課題が、最初のテーマになるからにほかならない。
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新たな公共
『日本行政学』より
公共選択論的アプローチ
一方、新しい公共選択論的アプローチは、公共性を追求するのは政府だけではないと考える。公共性の担い手は民間企業も含め的確な主体は多様に存在すると考える。市場の失敗の方が「政府の失敗」よりもましだとも考える。したがって、できるだけ市場原理に委ねようという立場に立ち、小さな政府をめざす。ここでは官と民を分ける蓋然性がないので脱二元論的思考を原則にしているといってもよい。
尺間委託などを例とし仮に公共領域に官民が関わるべきだという考えに立ったとしても、従来の官民パートナーシップ論は、官が指示し民が作業を行うという厚生経済的アプローチをとっていた。だがNPMでのパートナーシップ論は、公共選択の立場から、原則として官と民という分け方をしない。いずれが優位であるかで判断しようという考え方をとる。また、官民の協働という考え方をとる。
厚生経済学的アプローチは主体論であり、公共選択論的アプローチは関係論とも言える。主体論に立つと、官だから公共性を追求する、民だから私的利益を追求するという考えになる。しかし関係論では、民でも住民との間で約束によって公共性を担保できると考えるのである。
協働の考え方
これからの公共経営を考えるときに、「協働」という考え方は大切である。しかし、これまで日本でパートナーシップに伴う協働がうまくいかなかった理由は、従来の法体系が主体論を支える二元論で成り立っているからだと言える。公権力の主体は役所だけであり、それに関わる行政は役所の守備範囲に属するという考え方に立っていたからである。
そうではなく、NPMの公共性の考え方は個人主義に基づいている。これは、個から発して個に帰することである。個に帰するというのは利益だけではなく、責任にっいてもである。公共性とは住民も担うものであり、住民が公共性とは何かを考えるということになる。
NPMでいう顧客主義の「顧客」を「住民」と捉えると厚生経済的アプロ-チになるが、公共選択論的アプローチでは、住民は単に受け手(受益者) ではなく、責任も負う「主体者」「参画者」と捉えるのである。そこでは自治体と主体者である住民、企業、NPO、NGO、ボランティアなどを対等のパートナー、協働の担い手と捉えるのである。
もとより、NPMの考え方は直ちにこれが「行政の民間化」を意味する訳ではない。公共サービスヘの民間参入を拡大することではあるが、行政が責任まで放棄する話でもない。自治体でいうなら、柔らかな「新たな公共」の考えを取り入れ、従来の直接事業を直営的に執行する事業官庁から、執行を民同等に多く委ねそれをマネージメントする政策官庁に脱皮して行くことが求められる。
行政はもともと利潤機会が乏しく、民間ではできない、民間がやってはならない公益性の高い分野を担うのが本来の仕事である。行政自体が民間の論理一辺倒になっては、行政そのものの存在意義を失うことになる。そうではなく、あくまでNPMの潮流は事業執行の効率性を高める点に主眼があるということを忘れてはならない。
「新たな公共」の考え方の整理
いろいろ述べたが「新たな公共」について、もう一度要点を整理しよう。
官民二元論の立場から公共を説明しようという考え方を「厚生経済学的アプローチ」とする。これに対し新しい公共経営(NPM) の考え方を「公共選択論的アプローチ」とする。この2つのアプローチは、対照的であり、公共性に対する考え方がまったく違うといってよい。
すなわち厚生経済学的アプローチでは、政府だけが公共性を追求できる主体だと考える。ここでは官と民を明確に分ける二元論的思考を原則としている。民間の領域は市場原理によって処理するが、公共の領域は市場原理が働かない領域(市場の失敗) で官に問題処理を委ねる。結果として、公共領域は「官」独占となる。ただ、政治のメカニズムに意志決定を委ねると、大衆民主主義の結果、それに基づく福祉国家論は大きな政府になりやすい。
一方、公共選択論的アプローチは、公共性を追求するのは政府だけではないと考える。公共性の担い手は民間企業も含め的確な主体は多様に存在すると考える。市場の失敗の方が「政府の失敗」よりもましだとも考える。従ってできるだけ市場原理に委ねようという立場に立ち、小さな政府をめざす。ここでは官と民を分ける蓋然性がないので脱二元論的思考を原則とする。
公共領域と私的領域
よく考えてみると「公共」領域といえども、もともと「民」を排除して官が独占すべきだという根拠はうすい。むしろ採算ベースに乗らないから民が参入しないだろうという仮説に立っている。または利益を求めて行動すると望ましい結果が得られないから官が支配すべきだと考え、民を排除している。
しかし、「公共」領域を国、自治体が独占することは良い結果を生まないという考えが台頭してきた。 1980年代以降、英国やニュージーランドを中心とした改革の流れを「NPM」と呼んでいる。
|新たな公」について、イメージを図表3-1に示してみた。相互に入り組んだ斜線の部分が徐々に拡大しているのが現代社会の特徴とも言える。公的部門、民間部門がそれぞれの領域に入り組んでおり、「新たな公共」とひと言で述べてもその性質は微妙に異なっていると言えよう。ただ今後、こうした新たな公共領域は拡大していくものと思われる。そこでの官民の関わり方に関するルールづくりはこれからの課題である。
公共選択論的アプローチ
一方、新しい公共選択論的アプローチは、公共性を追求するのは政府だけではないと考える。公共性の担い手は民間企業も含め的確な主体は多様に存在すると考える。市場の失敗の方が「政府の失敗」よりもましだとも考える。したがって、できるだけ市場原理に委ねようという立場に立ち、小さな政府をめざす。ここでは官と民を分ける蓋然性がないので脱二元論的思考を原則にしているといってもよい。
尺間委託などを例とし仮に公共領域に官民が関わるべきだという考えに立ったとしても、従来の官民パートナーシップ論は、官が指示し民が作業を行うという厚生経済的アプローチをとっていた。だがNPMでのパートナーシップ論は、公共選択の立場から、原則として官と民という分け方をしない。いずれが優位であるかで判断しようという考え方をとる。また、官民の協働という考え方をとる。
厚生経済学的アプローチは主体論であり、公共選択論的アプローチは関係論とも言える。主体論に立つと、官だから公共性を追求する、民だから私的利益を追求するという考えになる。しかし関係論では、民でも住民との間で約束によって公共性を担保できると考えるのである。
協働の考え方
これからの公共経営を考えるときに、「協働」という考え方は大切である。しかし、これまで日本でパートナーシップに伴う協働がうまくいかなかった理由は、従来の法体系が主体論を支える二元論で成り立っているからだと言える。公権力の主体は役所だけであり、それに関わる行政は役所の守備範囲に属するという考え方に立っていたからである。
そうではなく、NPMの公共性の考え方は個人主義に基づいている。これは、個から発して個に帰することである。個に帰するというのは利益だけではなく、責任にっいてもである。公共性とは住民も担うものであり、住民が公共性とは何かを考えるということになる。
NPMでいう顧客主義の「顧客」を「住民」と捉えると厚生経済的アプロ-チになるが、公共選択論的アプローチでは、住民は単に受け手(受益者) ではなく、責任も負う「主体者」「参画者」と捉えるのである。そこでは自治体と主体者である住民、企業、NPO、NGO、ボランティアなどを対等のパートナー、協働の担い手と捉えるのである。
もとより、NPMの考え方は直ちにこれが「行政の民間化」を意味する訳ではない。公共サービスヘの民間参入を拡大することではあるが、行政が責任まで放棄する話でもない。自治体でいうなら、柔らかな「新たな公共」の考えを取り入れ、従来の直接事業を直営的に執行する事業官庁から、執行を民同等に多く委ねそれをマネージメントする政策官庁に脱皮して行くことが求められる。
行政はもともと利潤機会が乏しく、民間ではできない、民間がやってはならない公益性の高い分野を担うのが本来の仕事である。行政自体が民間の論理一辺倒になっては、行政そのものの存在意義を失うことになる。そうではなく、あくまでNPMの潮流は事業執行の効率性を高める点に主眼があるということを忘れてはならない。
「新たな公共」の考え方の整理
いろいろ述べたが「新たな公共」について、もう一度要点を整理しよう。
官民二元論の立場から公共を説明しようという考え方を「厚生経済学的アプローチ」とする。これに対し新しい公共経営(NPM) の考え方を「公共選択論的アプローチ」とする。この2つのアプローチは、対照的であり、公共性に対する考え方がまったく違うといってよい。
すなわち厚生経済学的アプローチでは、政府だけが公共性を追求できる主体だと考える。ここでは官と民を明確に分ける二元論的思考を原則としている。民間の領域は市場原理によって処理するが、公共の領域は市場原理が働かない領域(市場の失敗) で官に問題処理を委ねる。結果として、公共領域は「官」独占となる。ただ、政治のメカニズムに意志決定を委ねると、大衆民主主義の結果、それに基づく福祉国家論は大きな政府になりやすい。
一方、公共選択論的アプローチは、公共性を追求するのは政府だけではないと考える。公共性の担い手は民間企業も含め的確な主体は多様に存在すると考える。市場の失敗の方が「政府の失敗」よりもましだとも考える。従ってできるだけ市場原理に委ねようという立場に立ち、小さな政府をめざす。ここでは官と民を分ける蓋然性がないので脱二元論的思考を原則とする。
公共領域と私的領域
よく考えてみると「公共」領域といえども、もともと「民」を排除して官が独占すべきだという根拠はうすい。むしろ採算ベースに乗らないから民が参入しないだろうという仮説に立っている。または利益を求めて行動すると望ましい結果が得られないから官が支配すべきだと考え、民を排除している。
しかし、「公共」領域を国、自治体が独占することは良い結果を生まないという考えが台頭してきた。 1980年代以降、英国やニュージーランドを中心とした改革の流れを「NPM」と呼んでいる。
|新たな公」について、イメージを図表3-1に示してみた。相互に入り組んだ斜線の部分が徐々に拡大しているのが現代社会の特徴とも言える。公的部門、民間部門がそれぞれの領域に入り組んでおり、「新たな公共」とひと言で述べてもその性質は微妙に異なっていると言えよう。ただ今後、こうした新たな公共領域は拡大していくものと思われる。そこでの官民の関わり方に関するルールづくりはこれからの課題である。
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