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討議理論と熟議政治

『政治思想の知恵』より ハーバマス--公共性と正統性の政治理論

ハーバマスは『事実性と妥当性』(一九九二年)で、法を、民主主義の原理的理解と結び付け、熟議政治という理念を展開する。確かにハーバマスは、生活の細部に至るまで法制化される傾向に批判的であった。なぜなら法制化が拡大深化すれば国民が官僚行政のクライアントと化し、市民の公共的自律を脅かすと考えたからである。しかし法を、民主的な意見形成・意思決定過程によって産出される結果として理解すれば、法制化は、必ずしも生活世界を植民地化する道具になるとは限らない。

ハーバマスは『事実性と妥当性』で、法制度をひとつの行為システムと捉え、生活世界の社会的構成要素に数え入れる。というのも、そもそも法制度は、生活世界のコミュニケーション的行為で用いられる日常言語と結び付いているからである。法は生活世界に根をもつ要求を、行政システムと経済システムを制御する形式へと変換する媒体と考えられるのだ。つまり生活世界とシステムを媒介する蝶番の役割を果たす。こうして法制度は民主的な社会統合の機能を果たすと理解される(『事実性と妥当性』第二章)。

こうした法理解を基礎にすれば、民主的法治国家を支える規範は、正当な法を制定する手続きで示される。つまり、法を正当化する政治的意思決定過程が民主主義の原理的理解に結び付けられる。それが民主主義原理である。それ自体が法的に組織化された討議による法制定過程において、全ての法仲間の同意を得ることのできる制定法だけが、正統的な妥当性を有する。(『事実性と妥当性』第三章)

民主主義原理に表される討議は、複雑化し価値多元化した現代社会に合わせて多様な局面をもつ。法や公共政策を正当化する「実践的討議」は、概念的に細分化される。道徳的討議、倫理的-政治的討議、実用的討議、そして交渉へと区別化される。

この区別化は、次のようになされる。そもそも現代社会では人々の価値観が多様化した。それゆえ、なにが「正しい」かに応える「正義」と、なにが「善い」かに応える「善」とを区別しなければならない。これに対応して「道徳的討議」と「倫理的討議」とが区別される。つまり実践的討議は、正義を求めて普遍的合意を志向する道徳的討議と、「われわれ」の政治的共同体の社会的文脈でなにが「善い」規範であるか、そしていかなる法や政治決定が正当かを問う「倫理的-政治的討議」とに区別される。更に、所与の条件下で所期の目的を達成するためにどの手段が有効かを問う「実用的討議」が区別される。しかしこれら討議は相互に連関し合う。もし実用的討議の目的それ自体が問われるなら、その議題は「倫理的1政治的討議」に移行する。

更にその倫理的--政治的価値判断で対立する場合は、その議題は「道徳的討議」に移行する。道徳的討議では、参加者が抱く価値観や、それを背景で支える文化的価値から離れ、全ての人が受容可能な行為規範が探求される。しかしこれらの討議が困難な場合、「交渉」が行われる。交渉では全ての利害関係者に平等に参加する機会と影響力を保障する手続きに従って、公正な妥協が目指される。ただし、これらの討議で、あくまで道徳的討議が最上位に位置付けられる。法や政治決定の規範的正当性を問う倫理的-政治的討議でも、その結論は道徳的規則と両立しうるものでなければならないからである(『事実性と妥当性』第四章)。

しかしこうして概念的に多様な局面をもつ実践的討議は、民主主義原理といかに関連するのか。民主主義原理は、それだけ読めば、国民の全体総会を想定しているようにみえる。しかしもちろんハーバマスは、古代民主政のような、市民が全体総会で法を形成する直接民主制を想定してはいない。現代の法治国家では政治的意思形成過程の制度は、三権分立を前提にした間接民主主義の議会制である。つまり拘束力のある政治決定を公式的に正当化する過程は議会に見出される。あくまで国民主権は手続き的に捉えられる。とはいえ民主的政治過程は議会にのみ存在するのではない。ハーバマスは公共圏が形成される二つの局面を構想する。一方は、議会や内閣や政党といった制度化された組織で形成される公共性である。他方は、NGOや社会運動、市民結社やマスメディアなどが主体となった、市民社会で非制度的・自発的に形成される市民的公共性である。つまり政治過程が二層的に捉えられている。政治過程は、議会とその政治決定を執行する行政機構が担う政治システムと、市民社会とそこで形成される複数の公共圏が担う政治的公共性とから成り立つ。政治システムと市民社会は、コミュニケーションと討議を通じて相互に依存する関係と理解される。多様な公共圏で形成される公論が制度的な政治決定へと変換されるとき、その政治的影響力はコミュニケーション的権力と呼ばれる。こうした政治過程が全体として熟議政治として構想されるのである。

この熟議政治の理念は、ハーバマスによれば、自由主義的要素と共和主義的要素を統合した民主的政治過程を意味する。自由主義的要素は、国家と社会の区別を前提に個人の自由を基本権として保障する点である。これに共和主義的要素が加わる。それは自由で平等な法的地位を相互承認し合う市民が連帯して自己決定する政治実践を重視する点である(『他者の受容』第九章)。

とはいえあくまで国家市民としての公共的自律は、私的な道徳的-倫理的自律とは区別される。法は、道徳や倫理とは完全に同じではない。法が法として妥当性を有するには、法が実際に制定され、しかも国民一般に対し強制勺を背以に帆行されなければならない。それゆえ法はひとたび施行されれば国家市民には所与として現れる。しかしもちろん、政治権力の正統性は合法性に還元されない。その法がなぜ正当か、またその適用解釈は適切か、反省を通じて確かめられる。つまり政治権力の正統性は熟議政治の過程に源泉をもつ。

したがって熟議政治の構想で重要なのは、熟議を通じて架橋される二つの公共圏が緊張関係を保ちながら連絡することである。そのために、制度化された政治一行政システムや市場経済システムから区別された活動領域として、生活世界に根をもつ市民社会が存在しなければならない。市民社会を基盤に自律的公共圏が形成され、連帯を不断に創出していくことで、社会的統合が実現される。そうして熟議政治は市場経済や官僚行政に対抗的力を発揮し、法を通じて制御できる。つまり熟議政治は既存の権力関係を批判的に反省する過程でもある。社会システムの統合機能を、民主的な法制定過程を通じて社会的統合に繋ぎとめることが、熟議政治の課題なのである。
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本・図書館のテーマ

本・図書館のテーマ
 第6章の本・図書館のテーマは簡潔だけど、どういうカタチに持っていくかというところは非常に深いです。個人の分化を図るには、本・図書館は欠かせない。だけど、図書館は機能していない。では、何が必要なのかは、ここから答えが出せそうです。図書館人が自主的に動かないと、抽象的なところから、具体的なところに持っていけない。
 6.6.1の個人環境にしても、いかに個人が自分たちのデジタル化を図るのか、大量の本を同様に処理していくのか。それでもって、本の未来だけでなく、自分たちの学習に対して、どう参画していくのか。その辺のところを言葉で作り出していく。それが共感を得られるか分からないけど、自分の中では何が足りないのかをまとめることができます。
 これが、図書館関係のことを10年以上、行ってきたことに意味になります。本というコンテンツと知りたいという思いとつなげていく。そのシナリオです。
 個人の分化にとっては、孤独な作業ですけど、それをいかにして意識を上げていくかです。仕事しているよりもはるかに意味のあることです。

聞くこと
 なぜ、個人は発信しないのか。それ以前に、なぜ、聞かないのか。本を読むということは、要望を聞くということと一緒です。スタッフであり、お客様とつながりたいという、経営者の心があるのであれば、聞かないといけない。
 ツールとして、お客様ポータルを作っても、それから、要望を受けるというのは、方向が逆です。お客様は要望を訴える必要はない。つぶやくだけで十分です。それに対して、どう応えるか。どうやって、拾ってくるのか。著者のように、自分が言いたいことをまとめていうお客様はいません。

クライシスが起きても、日本人は変わらないのか
 車社会がこれでいいとは思えない。コストが掛かりすぎているのは確かです。保険にしても高すぎます。車を持っていることが、ステータスだから、だからいいんだという世界ではなくなっています。
 本当に、ハイパーインフレが起こらないと、日本人の心は変わらないのでしょうか。地震も起こらないと対策しないし、起れば、それの「復興」するだけです。全然、進歩しない。そんな快適な生活を誰も保証していない。
 甘えていてはいけない。先のことを考えて、やるべきことをやっていかないと。そのための公共図書館です。イギリスから生まれた、シェアの世界です。

地域インフラ
 本のデジタル化が始まっている。どういうカタチにしていくかです。それによって、知識と意識を集合させて、それを武器にするかです。
 三輪ビークルを作るだけでおしまいにするのではなく、これを快適に走らせるには、今の道路というインフラを再構成しないといけない。それは簡単です。電信柱をなくして、区切りの線を引けばいいだけです電信柱が境界になっている。境界を再設定するのです。。
 歩道をどう作るのかです。その下にインフラを作るのであれば、柔軟でないといけない。何でもかんでも、コンクリで固めるのは正解ではない。
 ベルギーのダービー市の2000年前からの石畳、ゲッティンゲンの街でのインフラ工事は、素人でもできるものでした。皆が手軽にできるようにしないと、毎回、重機で掘り起こしていては金がかかる。
 ネットワークインフラにしても日本は早めにやったので、地上回線が作られているが、アフリカ辺りでは、太陽光の中継で無線です。インフラは変わっていく。常に変える姿勢がないと、先行することがデメリットになる。
 今後は、知育のコミュニティが参画して、儲けられる仕組みです。コペンハーゲンのNPOは風力発電とか二重窓を商売にしていた。グリーンコンシューマの役割まで考えた、地域インフラです。

企業の新しい責任
 三輪ビークルを売るだけで、いいとこどりする時代は終わりました。過去の成功体験で、税金で作った道路に負担をかけてきた。グーグルのインターネットタダ乗り以前の論理です。このメーカーが先に進む以上は、ちゃんと責任をいかないといけない。

使う人のイメージを持つこと
 システム設計とか企画で重要なのは、出来上がった後のイメージをどこまで、自分で持つかです。イメージさえ明確ならば、聞かれれば応えることで、充分、システムはできます。
 逆にそうでないとできない。全てを言葉とかマニュアルにするのは無意味です。コーディングレベルはどんどん変わります。使う人によって、まったく異なります。

電子書籍からの変革
 本のところで、大きく変えないといけないのは、電子書籍です。あれがどう変わっていくかです。大きく変わるはずです。何しろ、16世紀のグーテンベルグ以来の変革です。印刷そのものが変わることは、読み方が変わり、対応が変わり、コラボレーションが変わってきます。
 6.5.3の情報センターの中に電子書籍ネットを入れ込みました。そうなってくると、6.5.4の場の確保も違ってきます。サイバーネットを意識します。

サイバーネットのアゴラ
 その意味では、アレキサンドリア図書館前のアゴラと大きく違っています。キリスト教徒が奇蹟でインパクトを掛ける場になっていた。全て、リアルの世界です。そして、キリスト教徒に女性数学者は惨殺させられた。
 図書館で市民の役に立つ、一番のことはグループ活動になるでしょう。場所とコンテンツが無料で提供されます。このグループをネットで市民コミュニティとすれば、知識と意識が集まってきます。

中分類のロジック
 Think Locallyからのプロセスが考えるのは無理があるけど、ターゲットが大きくなればなるほど、的確なものになります。これ以外のロジックにすると、パターン分けすることになり、モデルにならない。だから、辻褄を合わせます。
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