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OCR化した10冊

404エ 『Xイベント』
 XイベントのXが意味するもの
 「普通」に潜む複雑性の罠
 大きな影響をおよぼす予想外の事象
 Xイベントを構成する三つの要素
 衝突するシステム
 複雑性の七つの顔

382.27キム 『震災の公共人類学』
 防災の公共性に向けて 暗い未来に抗して ⇒ トルコの地域コミュニティについては興味あり
 揺れ、つながり、関係性
 MAG ⇒ MAGはマハレ単位で災害直後の72時間、つまり市民防衛隊や軍、あるいはAKUTなどの専門の救助チームが現地で活動できるようになるまで、自前で救急救助活動を行うためのローカルなチームを作るこ=とを目的としたプロジェクト
 ゼイティンブルヌにおけるMAG
 公共性を維持し続けること
 生み出されつつある関係性

295.3ト 『トクヴィルが見たアメリカ』
 ボストン--精神の状態としてのデモクラシー

191.2テ 『哲学者キリスト』
 キリストの哲学
 宗教とは別の二つの側面
 キリストの教えの精神性
 わたしについて来なさい
 神の国のパラドックス
 死と苦しみに新しい意味を与える
 キリストが教えた普遍的な倫理
 万人平等という一大革新
 個人の自由
 女性の解放
 社会的公正
 宗教権力と政治権力の分離
 非暴力と赦し
 境界なき隣人愛
 人格という概念

313.1エ 『SNSが世界を統一する』
 ウェストファリア体制の限界
 世界統一の提要
 「主権国家体系」と地球の無秩序化
 「個人主権」の確立
 電脳コミュニティー(進化型SNS)の創造

112.04ナカ 『哲学の自然』
 〈原子力時代〉から先史の哲学
 グリーンアクティブともうひとつのインターナショナリズム
 原発信仰と「贈与性」の抹消
 「市場」から「市場」へ
 ハイデッガーの技術論と量子力学
 哲学と考古学の出会い
 人間と自然の最適解
 ラジカリズムと「普通」のこと

023マク 『マニフェスト 本の未来』
 形なき本で図書館を作るということ
 エングージメント・エコノミー
 公共図書館の終わり(私たちが知っていたように?)
 忘れられた消費者

361.3ベン 『協力がつくる会社』 
 協力というビジネス
 GMとトヨタの協力会社NUMMIの成功例
 トヨタのどこが正しかったか
 なぜオープンソースが機能するか
 サウンドオブミュージック
 政治の様相が変わる

498.02ムラ 『医療にたかるな』
 日本の医療はなぜ「高い」のか?
 「医療費が高い地域」に同情するな
 健康意識は「施し」からは生まれない
 医療施設では人の健康は守れない
 医療批判に隠された「ごまかし」 ⇒ 北欧型の福祉政策を述べている

914.6モリ 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』
 「具体」から「抽象」へ ⇒ 抽象の良さを説いている。
 「抽象的」とは「わけがわからない」という意味ではない
 「抽象」とは「ものの本質」に注目すること
 「抽象」するためには「想像」が必要
 「抽象」の大切さ
 「抽象」を具体的に説明する
 抽象的なことを伝えるには
 イメージを限定しない
 抽象的にものを見る
 抽象化したものは広く応用がきく
 問題を解決する発想
 抽象化が「発想」を促す
 抽象化は思考を要求する
 抽象的思考が生み出す「型」
 アイデアはどこから来るのか
 アイデアのための備え
 具体的な情報が多すぎる
 「見えるもの」が既に偏っている
 冷静になって考えてみよう
 自由に考えられることが本当の豊かさ
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ハイデッガーの技術論と量子力学

『哲学の自然』より 〈原子力時代〉から先史の哲学

國分-先ほど、原発のことを考える際に僕は『日本の大転換』と並んでハイデッガーの技術論を参照していたと言いました。僕の考えでは、核エネルギーのことを技術の本質的な問題として考えていた哲学者はハイデッガーだけです。一応、(ンナーアレントなども『人間の条件』で原子力発電について少しだけ書いていて、中沢さんと似たような定義をしていたりもするのですが、どこか大雑把な印象を受けます。アレントは結局「世界疎外」とか大きな枠に持っていってしまって、技術の本質的な問題としては考えていない気がするんです。また、アレントの最初のパートナーだったギュンター・アンダースなども原発について多少触れていますが、これらはみなハイデッガーの近くにいた人ばかりです。

 少し補助線を引くと、僕は原子力の歴史を考える上で、「一九五〇年代の思想」というものを考える必要があるのではないかと思っているんです。つまり、五〇年代に哲学者は何をしていたのかを考える必要があるのではないか。

 一九四五年に広島・長崎に原子力爆弾か投下され、世界に大きな衝撃を与えました。しかし、それからたった八年後の一九五三年には、アィゼン(ヮーが国連で「原子力の平和利用Atoms forPeace!という有名な演説をおこないます。アィゼン(ヮーは「核戦争の危機が迫っているからこの技術を軍事のためではなくて平和のために使っていこう」と述べた。しかし、もちろんそんなことは口先だけの話であって、これは核軍備競争だけではソ連に対して優位に立てないという政策的判断からなされたものです。その背後には、核技術を提供することで西側の結束を固める、また第三世界を西側の味方につけるという目的がありました。それにアメリカが核の軍事利用から「平和利用」へと舵を切ったということでは毛頭なく、水爆実験は続けていたし、第五福竜丸事件は二九五四年三月です。

 しかし「核の平和利用」というスローガンはかなり人々の心をつかんだように思われます。いまも昔もアメリカはこういうのがとてもうまい。実際、日本では「唯一の被爆国である日本こそが先頭に立って核の平和利用を実現していかなければならない」という類のことまで言われた。「平和利用」という言葉によって、核エネルギー技術そのものの問題が覆い隠されてしまったわけです。

 軍事利用であろうと「平和利用」であろうと、そもそも原子力技術とは何なのか? こういうことを考えるのは哲学者の役割であるはずです。では核干不ルギーの「平和利用」がまさに実用化されようとしていた一九五〇年代、哲学者たちはそれについて何を考えていたのか、考充ていなかったのか。そのことがもっと詳しく検証されるべきではないか。歴史に「もし」はあり得ませんけど、あの時期にそうした議論が徹底してなされていたら、何かが変わっていたかもしれないと少し思うのです。いずれにせよ、「一九六〇年代の思想」というのはやたらと論じられますが、「一九五〇年代の思想」というのはほとんど聞いたことがありません。これ自体がもう何事かを意味している気すらします。

 もちろん核兵器のインパクトがあまりに強かったため、原子力発電の問題にまで目が届かなかったという面はあるかもしれません。実際、反核(兵器)運動はずっとあったわけですから。先ほどのアンダースにせよ、あるいはバートランドーラッセルにせよ、哲学者たちも核兵器については盛んに発言していたのです。こうして考えていくと、「平和利用」だろうが何だろうが、核干不ルギーを使うこと自体に問題があるのだとはっきり語ったハイデッガーの洞察が際立ってくる。ハイデッガーは戦後、様々な機会で核干不ルギーを論じています。そもそも彼は現代を「原子力時代」と呼んでいました。

 一九六三年に『読売新聞』(九月二二日付)に掲載されたハイデッガーの「原子力時代と「人間性喪失」」という文章に、非常に印象的な言葉があります。

 「たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人になったということになるでしょうか。断じてそうではありません。その管理の不可欠なことがとりもなおさず、〈立たせる力(Macht des Stellens))[世界を技術化し、自然を計量可能な場に「立たせる」力]を証明しているのであり、この力の承認を表明しているとともに、この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露しているのです」

 この文章は、いま僕らが直面している事態、そして、原子力発電の本質をまさしく言い当てていると思います。核燃料は冷やし続けねばなりません。「管理」し続けねばならない。この事実そのものが「この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露している」のです。なのに、人間はまるで原子力を飼い慣らしたかのように思い込んでいた。実際、今回の福島第一原発の事故も、水で核燃料を冷やせなくなったために起こったものです。そして、いまもいつ同じ事態が起こるか分かりません。また、メルトダウンした燃料が、どういう状態で、どこにあるのかも分からないし、そもそもそういう状態になった燃料を取り出す技術もない。技術開発からはじめなければならない。何か「技術の主人」だろうか。ハイデッガーの言うとおりです。

 とにかく、他の哲学者たちがまったく何も言わなかった時期に彼だけが核エネルギーについて深く思考していたということは非常に重要なことだと思います。

中沢-ハイデッガーの原子力批判の大きなポイントは、現代の科学を突き動かしている「計算性」というものでしょう。『技術への問い』や『野の道』などを読むと、ハイデッガーは現代の科学技術は「存在」を干不ルギーのような「計算性」の中に取り出してしまうと言って批判しています。そして、「存在」が科学技術によって「計算性」の中に組み替えられるというのは、まさに先ほどお話しした市場の中で起こっていることI事物が交換価値という尺度によって数値化されるということIと同様の効果を持っています。ハイデッガーの中では自然科学がエネルギー概念を形成する過程で、市場と同じことをしてしまっているという理解があったのだと思います。

 そうして見ると、彼の全思想は存在の「贈与性」を切り捨てていく人間社会のネガティブな効果について語っているものだという気がします。ハイデッガーはドイツ語の「~がある」(エスーギプト)という言葉から存在の「贈与」性を導き出していますが、彼にとっての「存在」とはイコール「贈与性」でした。だから、ハィデッガーが科学技術によって「存在」が「計算性」の中に切り詰められるというのは、「存在」からその「贈与性」が隠蔽されるという意味にもなります。

 クロィツァー記念講演の中で「自然科学の方法だとこの問題は超えられない」という主旨のことをハイデッガーは言っていますが、ハイデッガーの中で「計算性」が大きな問題となっているのは、実は核エネルギーの発見過程で重要な働きをした量子力学と関係しています。原子核エネルギーの開発には別に量子力学を使わなくても、流体力学と熱力学とアィンシュタィンの吻=ヨーの関係で十分だという言い方もされますが、たしかにそれを準備したのは量子力学です。いまではほとんど強調されなくなっていますが、量子力学というものが物議を醸したのは、もともとは「非計算性」が理論の中に組み込まれているという点にありました。「不確定性原理」や「非可換性」などの概念がそれで、(ィゼンペルグが量子力学をつくるときの決定的なアイディアとなったのは、交換関係が成り立だない「非可換性」の発見でした。

 量子力学は物質の世界の中で「非計算性」が根源的にあることを示しています。そのプロセスを時間として取り出すとものすごく短いのですが、それが間断なく繰り返される過程として物質の世界を描き出そうとしました。ハイデッガーはハイゼンベルグの本をよく読んでおり、不確定性原理や波動力学の理論などが彼の存在論のイメージに影を落としていることはたしかだと思います。しかし、ハイデッガーは自分の哲学と量子力学との関係性、量子力学にある「非計算性」の取り込みという問題をクローズアこフすることはありませんでした。もしハイデッガーがこの問題を取り出して、「これからの自然科学はこちらの方向にいくのだ」ということを強調していたら、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)を大きく先に推し進めることができただろうと考えることもありますが、それができなかったところが、ハイデッガーの一つの限界だったのかもしれません。

國分-僕もハイデッガーの技術論を読んでいてすごく感心するのですが、同時に引っかかるところがたくさんあります。新しい方向性が見えそうで見えない、結局、最後は「農夫の思考」とでも言うのでしょうか、そういうところに着地してしまう。

 ハイデッガーは「技術」と「現代技術」を区別しています。そして、「現代技術」は自然を「挑発」するのだと言って、これを批判する。しかし、その直後に彼は、「農夫は自然を挑発したか? 風車は自然を挑発したか? いや、していない」と言うんですね。それはどうなのかと思うんです。風車に戻れって言われても(笑)。実際、彼の技術論では石炭とウランか並んで出てくるんですね。

中沢-僕はそれを何とか鮒分けしたいのです。僕も國分さんと同じで、ハイデッガーの技術論を大変すばらしいと思いつつ、「どうしてここでそっちに曲がってしまうのだろう?」という限界性も感じていました。それを乗り越えていくためにどうしたらいいかということを、もう二〇年くらいずっと抱えていたのですが、福島の事故が起こったときに、それを乗り越える道が見えてきた気がしました。ハイデッガーの技術論、原子カエネルギー論には先があるという確信が湧いてきたのです。そこでもう一度(ィゼンベルグの頃の初期の量子力学を勉強し直してみると、(ィデッガーの目指していた「非計算性」を組み込んだ思考というものが、そこですでに予見されていたことが見えてきました。その先にこそ「農夫性」の中にUターソするのではなく、むしろIターンしていく新しい思考のあり方が可能なのだと思います。

國分-僕はハイデッガーの「技術」に対する評価そのものには少し分からないところもあるんです。ハイデッガーはいわゆる「ヒューマニズム」とは無縁で、はっきりとヒューマニズムに反対しています。ではいわゆる「自然回帰」なのかと言うとそういう感じもしない。テクノーフォビア(技術嫌ぃ)なのかと思えば、そうでもない気もする。テクノーフォビアな気持ちもありつつ、「技術」を認めないわけにはいかないというところでしょうか。この点、ハイデッガーの「技術」と「自然」への態度には非常にアソヴィバレントなものを感じます。

中沢-古代ギリシア人自身がそんな風なアンヴィバレントを生きていたのではないでしょうか。古代ギリシアの都市などを見ていると、木をあらかた伐採してしまって、ペロポネソス半島はすでに荒れ地になってしまっていた。そういう場所で古代人は「自然」の問題を考え直そうとしています。実は、プラトン以前の哲学は緑豊かなクレタ島やマルタ島でおこなわれていました。プラトンよりも数百年も前の話ですから、ポリスがまだ発達していない頃です。ハイデッガーの中には古代ギリシアのポリスの前、ギリシア哲学以前のものへの予感があります。

しかし、いまの考古学はそのことを明らかにしつつあります。古典ギリシア以前のギリシアはクレタ島などを中心にミノア文明を展開させた緑豊かな世界でした。その文明では面白いことに、インド文明やヽスンダラン円のようなアジア文明のもとになった諸文明とひとつながりになっていたようです。プラトンのした仕事の中に『ティマイオパ』というエジプトの神官から聞いた話をもとにした本があります。エジプトの神官の知っていた知識はギリシア文明以前の人類世界-原ョーロで(、原ギリシア、原アジアが二つの時代だったときーに蓄積されたデータベースを基礎にしています。『ティマイオス』の中に「コーラ」などの変な概念がたくさん出てくるのはおそらくそのためでしょう。プラトンはそのとき先史時代に触れていました。

最近、考古学の世界でそういう研究書が出はじめていてすごく面白いですよ。例えば、メアリー・セティゲストの『先史学者プラトン』のような本も出ています。僕はこれらの考古学の発見が哲学史をつくり変えていくと思っています。ハイデッガーの時代はそういう考古学はまだ発達していなかったから、残念ながらギリシア以前の先史時代に十分に触れることはできませんでしたが、それがいまは次第に見えてきているんです。僕はそれをもっと先に進めて見たいと思っています。

でも不思議ですねえ。ハイデッガーは古代ギリシア人でもない近代人、ヘルダーリンの詩のドイツ語の中に、とてつもなく古い意識層の存在をかぎあてるのですよ。ハイデッガーは本当に天才的な「意識の地質学者」だと思います。近代ヨーロで(に露頭している地層の中に、古代ギリシアとつながっている層を見つけ出す能力を持っているのですから。日本語でそんなことができたのは折口信夫くらいでしょう。残念ながら西田幾多郎さんや田逞元さんたち「日本哲学」の人たちには、そういう能力はありませんでしたね。

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電脳コミュニティー(進化型SNS)の創造

『SNSが世界を統一する』より ウェストファリア体制の限界

インターネットの出現によって、状況は一変しつっある。インターネットの発達に伴い、国や民族の枠組みを超えた不特定多数のコミュニケーションが成り立つようになってきたからである。現在、われわれはインターネットを通じて世界中から情報を集めることができるだけでなく、個人が世界中に情報を発信できるようにもなっている。机の上のパソコンたった一台で一人の人間がデジタル地球と一体化し、ネット上ではすでに地球は二つである。つまり、インターネット上ではすでに世界統一が実現しているのである。

もっとも現時点でインターネットに常時接続できるのは、地球人口の約五パーセント程度にすぎないという。しかし、IT革命の潮流は先進国だけでなく、中国など統制色の強い政治体制の国や宗教色の強いイスラム教国など、いわゆる開発途上国にも広がりをみせている。彼らは情報化が生む様々な格差(デジタルーデバイト)に危機感をいだいているからである。そのため各国とも情報ネットワークのためのインフラ整備に力を入れている。

ちなみに、国連の専門機関の一つである国際電気通信連合(ITU)が発表した「世界情報社会報告二〇〇六年度版」によると、携帯電話所有の人口比率、インターネット料金、コンピューターをもつ家庭の比率、インターネット普及率などを総合したIT化指数(デジタル利用機会指数)の国別順位では世界一位が韓国、二位が日本、三位がデンマークとなっていた。この五年以上前のデータが立証しているように、情報ネットワークのインフラさえ整備すれば、韓国などいわゆる中進国と呼ばれる国でも日本などの先進国よりも優れた情報ネットワークをすぐにも構築することができる。中国のインターネット人口もアメリカを追い抜き、いまや世界一のネッ卜王国である。後述するように、世界連邦の樹立にはおそらく数十年もの歳月がかかる。したがって、情報ネットワークの基盤をこの間に整備していけぼ、地球上のあらゆる人々がインターネットに接続できるようになっていくだろう。

「はじめに言葉ありき」。すべての信頼の基礎には必ずコミュニケーションが介在する。これまで異なる国の民衆同士のコミュニケーションの少なさが無用な誤解と偏見を生んできた。また、歴史は国家の指導者間、あるいは二部のエリートだけのコミュニケーションにとらわれ、草の根のコミュニケーションによって歴史が作られることはなかったので、それが無益な戦争や殺戮などの悲劇をもたらしてきた。

しかし、これからは違う。デジタル地球の本質はコミュニケーションモのものだからである。この地球規模の新たなコミュニケーションの手段を利用すれば、まったく新しい人間関係やぷ7を人類全体に張り巡らせることができるはずである。

連邦樹立のためにはまず、〝主権〟の〝共有空間〟の構築が必要である。前述した「個人主権」を世界中の人々に付与するためには、そのための〝電脳空間〟が欠かせないからである。そこで、世界中で二十四時間絶え間なくおこなわれているネッ卜上のコミュニケーションを世界連合という新たな機構が吸い上げ、国籍を問わず彼ら一人ひとりに人類の一員として世界政治に参加できるぷ惟利へすなわち〝主権〟をネッ卜を通じて直接付与すればどうか。しかも、そのコミュニティーが金儲けの機会を含む様々な恩恵やサービスを個人に対して直接提供し、非常に魅力あふれるものになればどうか。前述したような〝パワーメーカー〟を地球規模で生み出すことも不可能ではない。詳しくは次章で述べるが、本章ではこの〝主権〟の〝共有空間〟を〝電脳コミュニティー〟あるいは〝進化型SNS〟と定義している。

ちなみに、周知のことだろうが、SNS(ソーシャルーネットワーキングーサービス)とは、インターネット上で築かれる社会的ネットワークのことで、人と人とのつながりを促進・サポートするコミュニティー型の会員制のサービスを指す。世界で最も有名なのが「フェイスブック」であり、日本ならば「ミクシィ」だろう。この「フェイスブック」が中東の民主化の原動力の一つになったことは記憶に新しい。「フェイスブック」はいまや九億千万人もの会員がいて、人口規模でならば世界第一位の中国(十三億四千七百六十万人)、二位のインド(十二億四千百五十万人)に続いて、本来ならば第三位のアメリカ(三億千三百十万人)を六億人以上も上回り、〝世界第三位〟の〝国家〟に成長している。

ある意味で、〝電脳コミュニティー〟とは「フェイスブック」の〝世界連合版〟と見なしてもいいだろう。しかしながら、この。電脳コミュニティーsは「フェイスブック」のような営利を追求する私企業ではなく、どちらかというと、〝連邦公社〟とでもいうべき存在で、両者の主だった違いは、こちらが世界連邦樹立を最終目的とするSNSであり、会員(主権者)には地球規模の〝権力^が付与され、〝世界市民〟としての地位か保障されること、さらに、連邦警察軍を実質的に保有し、共有できることなどか挙げられる。その意味で、この電脳コミュニティーそれ自体を進化型SNSと定義できるはずである。電脳コミュニティーが世界連合の中核機関をなすが、仮にこれと「フェイスブック」をはじめとする既存のSNSが地球規模で提携・連合できれば、いずれ人口規模で〝世界第一位〟の〝超国家〟へと発展する可能性をも秘めていると言えるかもしれない。

いずれにしても、本書で電脳コミュニティーを構想した理由は以下のとおりである。

 ①〝主権〟を共有する〝電脳空間〟が必要である。

 ②〝人類間の交流・対話の場〟あるいは〝意思疎通の場〟を新たに設けられる。

 ③個人が権力を行使し、多数決で決する新たな次元での〝民主主義の(実験)場〟すなわち〝電脳議会〟を作ることができる。

 ④参加者の増加に応じて膨大な数の〝世界市民〟を生み出すことが可能になる。

 ⑤〝人類の意志〟に基づいて世界史の方向性を決定し、様々な地球統治に直接関与してもらえる、

 ⑥地球規模の単一の電脳マーケットを生み出せる

 ⑦貧困の撲滅に一役買うことができる
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