『フクシマの正義』より
戦後日本の若者論において、若者の扱い方は「都合のいい協力者」か「異質な他者」かそのどちらかで揺れ動いてきました。開沼さんの本を読んでいて、フクシマという場所も似ているなと思いました。特に原子力ムラは、「都合のいい協力者」としての面が強くて、中央から見て確かに「こちら側」にいるんだけれども、完全に「こちら側」ではない。現在の論じられ方も、復興をネタにして天下国家語りをしている人があまりにも多くて、実は何も構造は変わっていないのではないかという気がしています。
その二分法は重要ですね。一方で「福島では子育てができなくて親たちが困っている! 救わなければならない」と、実際何か行動を起こすわけでもなく言いながら気持ちよくなっている人がいる。他方で、中央の原子力ムラ(東電や政府)を異質な他者として批判する。しかし、「それは3.11までのお前らの顔だ。あなたたちは、無意識に自分の顔を見ずに生きてきたんじゃないか」と、地元の人は思っているわけです。「今まで全く鏡を見ようともしなかったのに、今さら鏡を見て自らの醜さに気づいたからってヒステリックになってくれるな」と。クリーンでエコなエネルギーという謳い文句に乗っかって生きてきた。それをいきなり異質な他者として扱っている状況。逆に、近親憎悪的なものがあるから、あれだけ叩きたくなる。自らの嫌な部分、普段出ない弱さを見てしまったから、徹底的に叩くみたいな心理ですよね。
そういう意味では、福島を、ある時は都合のいいように他者表象し、またある時は自分のきれいに化粧した「善意」の顔を映す鏡にして気持ちよくなるのに利用する。3.11以前には自分自身であったはずの東電や政権を、あたかも他者であるかのように扱いながら急に叩き、スケープゴートにするという奴れた構造の中で、問題が論じられている。
話は変わりますが、『「フクシマ」論』を読んでいて、角田光代さんの『空中庭園』(文春文庫)を思い出したんです。とっくに壊れてしまった家族が、表面上は平凡で明るい一家を装う小説です。「戻れるなら戻ってやりなおしたいって幾度も考えた。けど、どこに戻ったらうまくやりなおせるのか、考えてるといつも分からなくなってしまう」というセリフが出てきます。中央と福島の関係も実はそうなのかなと思いました。どこまで戻ればいいのか、本当に難しい。原子力を含めたエネルギー政策がなければ、日本もこういう形で発展したかどうか分からない。オルタナティブがなかったとは言わないけれど、確かに僕たちは原子力の恩恵を受けてここまでやってきた。もちろん、過去にそのいびつな共犯関係を断ち切ろうとする動きもあった。
これは、今回の原発以後の話にもしばしば起こりうることです。善意だと思ってやったことが、実は搾取の構造、抑圧の構造を強化してしまう。そうした状況では、先はども言いましたが、現場・当事者のリアリティを押さえないことには始まらない。あの映画の一番大きなポイントは、ナイルパーチをヨーロッパに輸出した飛行機が、帰りに武器を積んできて、その武器によって内戦を拡大させているということでした。それで資本家が富を得る構造が、ますます強化される。たぶんそういう地に足の着いた状況認識をまず目指すことが重要です。簡単ではないけれど、しかし正しい状況認識をした時点で解決策の半分ぐらいは見えてくるんじやないか。安易に叩きのめすべき悪者を見つけ出し、理想と希望を描くことの危険性は強く意識していました。
まさに学者がやるべきことですよね。ただ、これまでは現場と中央の論理をつなぐブリッジ的な研究があまりなかった。
戦後日本の若者論において、若者の扱い方は「都合のいい協力者」か「異質な他者」かそのどちらかで揺れ動いてきました。開沼さんの本を読んでいて、フクシマという場所も似ているなと思いました。特に原子力ムラは、「都合のいい協力者」としての面が強くて、中央から見て確かに「こちら側」にいるんだけれども、完全に「こちら側」ではない。現在の論じられ方も、復興をネタにして天下国家語りをしている人があまりにも多くて、実は何も構造は変わっていないのではないかという気がしています。
その二分法は重要ですね。一方で「福島では子育てができなくて親たちが困っている! 救わなければならない」と、実際何か行動を起こすわけでもなく言いながら気持ちよくなっている人がいる。他方で、中央の原子力ムラ(東電や政府)を異質な他者として批判する。しかし、「それは3.11までのお前らの顔だ。あなたたちは、無意識に自分の顔を見ずに生きてきたんじゃないか」と、地元の人は思っているわけです。「今まで全く鏡を見ようともしなかったのに、今さら鏡を見て自らの醜さに気づいたからってヒステリックになってくれるな」と。クリーンでエコなエネルギーという謳い文句に乗っかって生きてきた。それをいきなり異質な他者として扱っている状況。逆に、近親憎悪的なものがあるから、あれだけ叩きたくなる。自らの嫌な部分、普段出ない弱さを見てしまったから、徹底的に叩くみたいな心理ですよね。
そういう意味では、福島を、ある時は都合のいいように他者表象し、またある時は自分のきれいに化粧した「善意」の顔を映す鏡にして気持ちよくなるのに利用する。3.11以前には自分自身であったはずの東電や政権を、あたかも他者であるかのように扱いながら急に叩き、スケープゴートにするという奴れた構造の中で、問題が論じられている。
話は変わりますが、『「フクシマ」論』を読んでいて、角田光代さんの『空中庭園』(文春文庫)を思い出したんです。とっくに壊れてしまった家族が、表面上は平凡で明るい一家を装う小説です。「戻れるなら戻ってやりなおしたいって幾度も考えた。けど、どこに戻ったらうまくやりなおせるのか、考えてるといつも分からなくなってしまう」というセリフが出てきます。中央と福島の関係も実はそうなのかなと思いました。どこまで戻ればいいのか、本当に難しい。原子力を含めたエネルギー政策がなければ、日本もこういう形で発展したかどうか分からない。オルタナティブがなかったとは言わないけれど、確かに僕たちは原子力の恩恵を受けてここまでやってきた。もちろん、過去にそのいびつな共犯関係を断ち切ろうとする動きもあった。
これは、今回の原発以後の話にもしばしば起こりうることです。善意だと思ってやったことが、実は搾取の構造、抑圧の構造を強化してしまう。そうした状況では、先はども言いましたが、現場・当事者のリアリティを押さえないことには始まらない。あの映画の一番大きなポイントは、ナイルパーチをヨーロッパに輸出した飛行機が、帰りに武器を積んできて、その武器によって内戦を拡大させているということでした。それで資本家が富を得る構造が、ますます強化される。たぶんそういう地に足の着いた状況認識をまず目指すことが重要です。簡単ではないけれど、しかし正しい状況認識をした時点で解決策の半分ぐらいは見えてくるんじやないか。安易に叩きのめすべき悪者を見つけ出し、理想と希望を描くことの危険性は強く意識していました。
まさに学者がやるべきことですよね。ただ、これまでは現場と中央の論理をつなぐブリッジ的な研究があまりなかった。