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孤独死しかない

命の側を駆け抜ける

 今日は暑いです。歩いていると、汗だくだくです。会社から預かった万歩計のカウントアップのために歩いている。壊れている。なぜ、ここで2600歩なのか。よくわからない。

 歩数計アップとデジカメをテストするために豊田市まで往復。

 命の側を駆け抜ける車。これを写真に撮りましょう。

孤独死の本

 孤立と孤独死。なぜ、あんなに問題にするのか。野たれ死ぬのは、人間にとっては当り前です。看取られようともどうしようと、一緒です。

 ウジがわくのと、重油で焼かれるのとどこが違うのか。死に対する尊厳が孤独死という言葉にはないです。孤独なんだから。

 私が先に逝けば、奥さんは多分、葬式ぐらいは上げるでしょう。泣くかどうかは分かりません。私が後なら、何もないでしょう。子どもたちがというのがあるけど、そのためにやっているわけではない。

 社会的に何が問題なのか、よくわかりません。自治会だとか、NPOが看取れるのか。看取ってどうするのか。遺体処理ぐらいしかできない。あくまでもモノです。

 孤立と孤独の世界に生きてきた。死は状態の変化でもない。だから、孤立と孤独死はない。そんなもので、人とか市役所とかNPOに依存するのは馬鹿げている。意味がない。

 孤独死はごみ問題として、認識されるものでしょう。死んだ本人には関係ないです。

 どんなに周りがはしゃいでいても、その人の死はその人自身に属します。ふつうは認知症になってなくなることが多い。その時は周りは関係なく死んでいく。というよりも、その前に死んでいる。どうしても、ゴミ問題になってしまいます。

 孤立と孤独でない人間は生きている時もない。どんな車に乗っていろうとも、どんなサークルに入っていても、人間は孤立と孤独です。

 孤立と孤独から出発しないと、人類は再生しないし、社会も死んだままです。

 宗教の戒律だけが孤独と孤立を助けるかもしれません。ムハンマドを見ていると、そう思われる。キリスト教は違いです。孤立と孤独をネタに搾取しているだけです。南無阿弥陀仏を唱えるだけの宗教にはムリです。

超高齢時代の本

 2030年の超高齢時代の本は新刊書検索で見つけて、予約して、手に入れました。内容は高齢だけです。高齢化社会だけが2030年に起こるわけではない。もっと広範囲で考えないといけない。

 孤独死などの根源も含めて書かれていない。死ぬことの意味から考えていかないと難しいでしょう。設備にしても、公共の考えをどうしていくのか、社会インフラをどうしていくのか、そのために、いかにコンパクト化していくのか。

 高齢者の資産を使うことしかターゲットにない。

本が馴染まない

 本が馴染まないというか、馴染まない本を持ってきたのか。書いてあることがあまりにも当たり前すぎて、読む意味がない。

 やはり、哲学に行くしかないのか。本は自分の持っている疑問に答えようとしてない。

お腹ぽっこり

 名古屋には、お腹がぽっこり出た、男性が多い。赴任時の室長がそうでした。今も、周りに多くいます。彼らを見ていると、棺桶に入った時の姿を描いてしまいます。まあ、そんなもんですよ。それまでの人生を送るのでしょう。

エスカレーターの「開」釦

 世の中の親切な人というのは、エスカレーターの中で、「開」釦を押しながら、皆が出るのを待つ人でしょう。余分なことです。

 早く、自分が出ればいいです。その方が効率がいい。今時のエスカレーターの方がはるかに頭がいい。
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