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対フィンランド戦争戦訓検討会議

『独ソ戦争はこうして始まった』より

赤軍拙戦の原因究明の必要

 ともかくスターリンは、レニングラード防衛保全のための国境線の変更と、フィンランド湾防衛のためのハソコ島租借という当初の戦争目的は達成した。だが軍事的にはまったくのソ連側の惨敗であった。これまで何百万人ものウクライナ農民を餓死させてまでソ連の重工業化を強行したのも、また、ミハイル・トゥハチェフスキー以下三万人もの有為の軍人を無実の罪で粛清したのも、スターリソにしてみればすべてはソ連の軍備増強のためだった。そして対フィンランド戦争こそは、スターリンがいわば「手塩にかけた」新生赤軍の最初のテストケースだったはずである。それが最初のデビューで総動員数の三〇パーセントを越える損害をだすという体たらくだったことは、スターリンに深刻な動揺をもたらさずにはおかなかった。

 かくてスターリソは赤軍惨敗の原因を究明すべく、国防人民委員ヴォッロシーロフの名で中央軍事評議会拡大会議を開くよう勧告させ、四月十四日から十七日までクレムリンで「ソ連共産党中央委員会・対フィンランド戦争体験収集のための指揮官集会」が開催された。この「戦訓検討会議」の報告者は全部で四六人で、佐官級の部隊長から軍司令官、はては元帥クラスにまで及び、一人当たりの持ち時間は一五分とされた。そして連日、午前と夕方の二部に別れて開かれ、議長もしくは司会者として、始めはヴォロシーロフ、あとの大半は第一代理のクーリクが務めた。ただし、会議の終わりころにはクーリクさえも質問に答えねばならなかったため、モロトフが代わりを務めている。

 スターリンも出席して積極的に議論にくわわり、また会場からの姓名を特定しない参加者の発言も記録されており、相当に大規模な集会だったと推察される。また、赤軍幹部の多数を集めて四日間ぶっ通しで朝から晩まで会議を行うというのも、それだけスターリンの切迫感を反映したものだったと言える。そのことは開会にあたってまずスターリンが「欠陥を指摘すべし」と宣言し、議長としてヴォロシーロフが、「戦争での肯定的側面と同時に否定的側面、すなわち軍の編制、部隊指揮官(最上級の用兵法も含めて)について同志諸君は発言すべし」と述べたことで明らかだろう。会合での質疑応答をしるした議事録によって、当時の赤軍のかかえていた問題点か浮かび上がってくるとともに、スターリンにとって対フィンランド戦争がどのような意味をもっていたかもわかってくる。全部は紹介できないので、特にスターリンが問題視した主題について、どのような報告と質疑があったかを概観してみよう。

報告と質疑① 赤軍の装備、特に小火器について

 キルポノス第七〇狙撃師団長、バトフ第三狙撃軍団長 フィンランド軍は重砲はわずかだったか、十分な数の迫撃砲とスオミ短機関銃のおかげでわが方の歩兵に甚大な損害をあたえた。わが方には短機関銃がなく、軽機関銃は三脚が雪に埋もれて役に立たなかった。

 スターリン わが方の小火器はフィンランドに遅れをとっているのか?

 答 短機関銃は皆無だ。

 スターリン 迫撃砲もか?

 答 そのとおり。製造はやっと一九三九年になってからだ。

 プロスクーロフ諜報本部長 スオミ短機関銃についてはすでに一九三六年の報告にあり。一九三九年の書物には写真と詳細か掲載されている。われわれ自身が自動火器を軽視してきた。

 会場 スオミ短機関銃は一九三六年にわか国でテストされたというか、それは本当か?

 スターリン 短機関銃はアメリカのものが有名だが、それは警察の武器であると考えられ、軍では無視された。だか実際にはその逆のことが起こったのだ。しかもわが諜報部の報告は警察的見地からのみだ。

 クーリク国防相第一代理・兵器担当 自己批判すると、私は現職にある二年半のあいだ迫撃砲の支給も訓練も怠り、デグチャレフ短機関銃についても全然考慮せず。前線でみずからスオミ短機関銃を試してみてはじめて、それか有用なのに気がついた。森の中で囲まれて困惑した時、やっとデグチャレフのことを思い出した。

 スターリン 君がへまをやったのは事実だ。
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ソビエト=フィンランド戦争とは

『独ソ戦争はこうして始まった』より

ソビエト=フィンランド戦争とは

 一九三九年十一月三十日に交戦がはじまり、一九四〇年三月十三日に講和となったソピエト連邦とフィンランド共和国との戦争は、歴史的名称として「ソビエト=フィンランド戦争」の用語が定着しているか、ソ連そして現在のロシアでは「冬戦争」と呼んでいる。また、ソ連とフィンランドは一九四一年の独ソ戦で再度交戦することになるので、それと区別するために「第一次ソピエト=フィンランド戦争」と呼ぶこともある。ここではあくまでソ連側、ことにスターリンの対処を取り扱うため「対フィンランド戦争」の呼称をもちいる。

 フィンランドも第一次世界大戦末期の一九一七年に革命に乗じてロシアから独立を宣言した国家だったが、独立の後押しをしたのは連合国側ではなくドイツだった。そのため第一次世界大戦後もずっとドイツ=フィンランド関係は親密であった。にもかかわらずヒトラーは浅はかにも、不可侵条約付属秘密議定書でフィンランドをあっさりとソ連の勢力範囲と認定してしまい、それがやがてはフィンランドをめぐる独ソ間ののっぴきならぬ対立を引き起こす原因になる。

 ポーランド東部侵入と併合、バルト諸国への駐兵がとんとん拍子に運んだところで、スターリンの次の目標はフィンランドということになった。そして十月の初めからモスクワでフィンランド側との間に、領土交換とフィンランド湾内の島の租借または割譲について交渉が行われた。この交渉でのソ連側の要求をまとめてみると、

  一、レニングラード保全のため国境をフィンランド側にあと二〇~二五キロだけずらす。

  二、フィンランド湾の保全のため重要ないくつかのフィンランド領の島をソ連に貸与もしくは割譲する。

  三、その代わりにソ連側は内陸の領土をフィンランドに割譲する。
 
 というものである。この、ソ連側の一方的な都合による領土交換要求にフィンランド側か応ずるわけもなく、十一月二十九日にソ連側はモロトフの名で国交断絶をつたえ、翌三十日早朝、ソ連軍は「フィンランド側からの砲撃に反撃するため」、一斉に空爆と砲撃にはいった。

 のちに国防人民委員第一代理グレゴリー・クーリクが証言しているように、レニングラード軍管区の部隊が対ポーランド作戦に参加しなかったのは後方の控えだったからではなく、次に予定した対フィンランド作戦の準備に専念するためだった。しかも軍管区司令官キリル・アファナショヴィッチ・メレツコフが準備の命令をうけたのは九月半ばというから、ソ連側の対フィンランド作戦はほぼ予定通りの行動だったといえよう。

赤軍の拙戦

フィンランド攻撃に投入された赤軍は、南側からカレリア地峡のフィンランド湾側に第七軍(ヤコブレフ指揮)、ラドガ湖側に第一三軍(グレンデル指揮)、ラドガ湖北方に第八軍(シュテルソ指揮)、さらにのちに第一五軍(はじめミ(イルーコヴッリフ、のちクルデューモフと交代)が新設される。中部フィンランドには第九軍(ヴァシーリー・チュイコフ指揮)、最北には北極海沿岸のニッケル鉱山の都市ペツァモ攻撃のため第一四軍(フロロフ指揮)が配置された。最初に投入された兵力は二一個師団と言われる。これら各軍の総指揮をとるのはレニングラード軍管区司令官メレツコフである。

だか喧伝された〝無敵赤軍〟とは裏腹に、赤軍部隊は随所で悪路と豪雪、そしてフィンランド側か構築した永久堡塁群と阻塞陣地帯にはばまれて撃退され、あるいは逆に包囲寸前の状態での退却が続出した。そして間隙を縫って行われるフィンランド軍のスキー部隊の狙撃兵による「ヒット・エンド・ラン」戦法に翻弄されてしまった。

もっとも極端だったのは、第九軍南下でフィンランド分断を狙って中部のスオミサルミヘと侵入した第四四狙撃兵(注一歩兵のこと。伝統的にこの名で呼ぶ)師団(ヴィノグラードフ指揮)で、ラーテ街道上に戦車、大砲、輸送車が一列縦隊をなして立ち往生し、そこを前後左右からフィンランド軍スキー部隊に攻撃されてほぼ全滅した。そして師団指揮官ヴィノグラードフと同師団の連隊長や大隊長はモスクワから派遣された赤軍最高政治委員メフリスの手で銃殺された。

もっとも南で最大の兵力が配置されたカレリア地峡では、赤軍は「マンネルヘイム線」と呼ばれるフィンランド側のコンクリート製永久堡塁群に前進をはばまれ、無駄な正面突撃を繰り返してはいたずらに損害を重ねるだけであった。これはフィンランド軍最高司令官カール・フォン・マンネルヘイム元帥が戦前から構築しておいた堡塁群で、ラドガ湖とフィンランド湾にはさまれたカレリア地峡を横断して約九〇キロにおよぶ。フィンランド側にしてみれば、すぐ南はレニングラードであり、ソ連側の攻撃がカレリア地峡に集中するであろうことは一目瞭然だった。しかしソ連側はこの要塞線の詳細をほとんど知らなかったことがのちに判明する。かくて数日間で終結するはずだった対フィンランド戦争は、年内にはとても決着せず、根本的な冬季戦準備の練り直しが求められる状況となった。
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複雑性とポータル・コミュニケーション

複雑性とポータル・コミュニケーション

 Hの経営者に言いたいことをイメージでまとめています。いくらスタッフに情報を渡す仕組みを作っても、発言しないことには、新しい世界は始まらないでしょう。それぞれの人が考えていることを発言を元に共有していくことです。そのベースです。それが3年前に提案したことです。

 2年前の富山はそれに対して、スタッフのごちゃごちゃ言っていることを経営者として、構っておられるかというところでした。

 その後に、チュニジア・エジプト革命が起き、3.11でローカルの重要性と政府のだらしないことが判明した。ファイスブックが日本でも展開されて、商品からのつながるをメーカーが仕掛けている。どうしていくのかという、日本の行き先がありません。

 企業から、マーケティングから変えていくしかない。そのためには、皆のために発言することです。それを聞くということ、それを渡すということ。あまりにも、商売を狭く考え過ぎです。ローカルのローカルから社会を変え、日本を変え、歴史を変えていく。そこまでの気概を持たないと。

 複雑性は単に売るだけでなく。売ることで、お客様に反応を起こして、次の施策に影響を与えます。それが複雑性の分野です。

豊田市図書館

 図書館に本を返しに行ったついでの、2冊借りてきた。だけど、あまり、ピンときません。31冊は今日で終わりそうです。

 皆、世の中の人への脅しだけです。内容がない。それと理念と理論がない。

 335.6『都市に村をつくる』「協同組合コミュニティ」に根ざした国づくりのために

 304『日本の現場』地方紙で読む 2012

岡崎図書館

 朝の9時ちょうどに到着。9月レベルの新刊書を借りてきました。

 309.0『共同研究 転向3 戦中篇 上』

 309.0『共同研究 転向4 戦中篇 下』

 367.9『愛と欲望のナチズム』

 675『スマートフォン対策完全ガイド』IT知識ゼロでOK! 売上アップ&業務効率化のための 中小企業が依頼できる制作・開発会社50社掲載 スマホ向けウェブサイト制作が得意な会社27社 スマホのアプリ制作が得意な会社18社 スマホでの業務効率化が得意な会社8社 

 918.6『帝国日本と朝鮮・樺太 哭』戦争文学

 B104『超訳「哲学用語」事典』すっきりわかる!

 I410.4『数学による思考のレッスン』

 304『盛衰 日本経済再生の要件』

 302.2『ロシア極東 ハンドブック』

 361.5『メインストリーム』文化とメディアの世界戦争

数学と思考

 老人ホームで『数学による思考のレッスン』を読んでいた。母親はベッドで寝ていたけど、栗欲しさに起きてきました。数学で考えるという、割とまともな本でした。

 考えることは簡単です。存在を考えることです。生きることは考えること。考えることは生きること。それ以外の考えることは、俗です。考えるに当たらないことです。

 『数学による思考のレッスン』の抜粋を図書室で行っていた。あとがきで、①思考とは断片しか見られない人間の、全体性回復への挑戦である。②思考とは時間的構造を空間化する、イメージ世界の自由なデフォルメである。いい線はいっています。ずっと、全体というモノに悩んできた。当初考えた、偶然=必然に戻って救われた。

ムハンマドと民主主義

 ムハンマドは、LL(ローカルのローカル)とGG(グローバルのグローバル)をつなげようとしたのではないか。それに対して、キリスト教はローカルとグローバルです。教会と国家です。だから、民主主義はムハンマドの方が究極に近い。それが民主主義と言えるかどうか。

エコットのセミナー

 12時半にエコット到着。13時半からのセミナーまでの間、岡崎図書館の本を読んでいた。

 セミナーは「世界を変える」だそうです。この時の世界は「内なる世界」なのか「外なる世界」なのか。概念的な世界を支援するということらしい。それなら、「内なる世界」です。そこに留めてほしい。なんか、講演するためのネタを作っている。世界は変わらない。

 私が言いたいものは、人間は小さいモノではない。内なる世界では、個人はその中に世界を抱えている。いくらでも変えられる。考えるは自分で空間を作れば、自分のモデルを作れば、何でもできます。

 小さな枠で、知ったかぶりでは、答にはならない。行動することで、世界が変わると思えない。考えることで、歴史は変わるけど。いかに多くの人がどのように生きていけるようにするかだけを考えればいいんです。
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