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生態学における特攻

『生態学のレッスン』より

どの種においても、「殺人をしてはいけない」という行動様式が、構成するすべての個体の脳の中に組み込まれており、「種内で殺し合いをする種はいない」と、古典的動物行動学は結論づけていた。この考えは、「殺人」を「悪」と規定する人間社会の倫理観には違和感なく受け入れられている。

殺人犯は「脳の中に組み込まれているはずの平和主義の回路が切断されている」障害をもった人問なので、いつ何時人殺し行動に走るか予測できない。したがって、彼らをのさばらせておくことは危険で「〈本人ではなく〉人類の生存にとって不幸」であり、このような「行動遺伝子」をもつ人間は、人類社会から排除すべきであるとまで、ローレンツらの主張は発展・暴走した。なお、大量殺人者は「勇敢な善人」なので勲章をもらえることになっているが、この場合、戦争相手国の人間を「鬼畜米英」とか「ジャップ」と呼ばせ、同種内の個体ではなく「別種」とみなすようにマインドコントロールして、「種内の殺し合い」という罪の意識をもたせないようにするらしい。

「平和主義の動物たち」というような解釈は、意識的であろうと無意識的であろうと、動物の振る舞いを、人間の社会的振る舞いと対応させながら解釈する素朴な思考方法である。動物の振る舞いの知識が増えるに伴い、その振る舞いの記載に人間の振る舞いの言葉をあてはめざるをえなくなった結果、人間の振る舞いとの対比はますますさかんとなり、その対比を行なう人々の所属する文化の倫理観が、さらに色濃く反映されるようになってきた。「一寸の虫にも五分の魂」や「やれ打つな、蝿が手をする足をする」は、生物学的には首をかしげても、擬人化した行動記載としては微笑ましいものである。

群れ生活をする動物、とくに哺乳類では、一頭の雄が複数の雌を率いている場合が多い。雌たちは彼によくなつき、彼にかしずき、彼の子どもを産み育てているかのようにみえる。彼は雌たちをよく統率し、体を張って雌と子どもを外〈敵〉から守るので、怪我を負うことすらあった。このような「動物家族」の振る舞いの記載を、「雄」を「男」に、「雌」を「女」に置き換えるとすれば、複数の女性にかしずかれて宮殿に住むようなアラビアンナイトの甘美な世界が想像され、世の男性の羨望の的となるかもしれない。しかし「体を張って」という意味を知ったときに、その羨望は急速に萎んでいくことを保証しよう。

群れ生活をする小動物、とくに昆虫類では、体が小さいので「体を張る」ことは、死と隣り合わせである。それをいとわずに彼らは仲間を守ることが古来知られてきた。そして、その極端な例が「社会性昆虫」といわれるアリやハチの仲間である。彼らの社会はカースト制であり、女王がいてワーカー(労働者)がいた。そもそもこの命名法がまちがいの出発点である。

確かに、「女王」雌は「ワーカー(雌)」にかしずかれ、巣の中にデンとしているだけなのに対し、ワーカーは、せっせと食糧を集め、巣内を清掃し、外敵と戦えば傷ついて倒れていく。雄は、たいてい女王のまわりでうろうろするだけで、ワーカーの仕事は手伝わない。しかしよくみれば、女王は交尾飛翔とコロニー創設時以外はほとんど巣の中にこもって「産卵機械」と化し、「この広い世界いっぱいに咲く花」を満喫することはないので、人間の女王の生活とはまったく異なっている。雄は交尾さえしてくれればもう用なしとなって、巣から追い出され、野垂れ死にする運命しかもっていない。そして、ワーカーは人間の労働者のようにあくせく働き、搾取されているかのようにみえる。

一つの巣を一つの国と考え、女王様がいて労働者階級がいるとすれば、女王様のために臣下が犠牲になるのになんの不思議もなかった時代が人間世界の歴史にはあった。今でも、「(**のために)祖国の英雄となれ」といって国民をはやし立てている国はいくつでも名指しできる。「一寸の虫でさえ女王様のためにわが身を捧げることができる」のだから、人間なら……。

セイヨウミツバチのワーカーによる自己犠牲は有名である。巣の蜜を略奪にきた大型哺乳類に対しての特攻隊は、昔の人たち、とくに権力者を歓喜させたらしい。今では、針の先が釣り針のように返しがついているため「いったん刺したら抜けない針」と「千切れた腹から出る警報フェロモン」が、結果としてワーカーを特攻隊員にしてしまうメカニズムの主要因であることがわかっている。しかし、それにしてもワーカーは「(チの一刺し」で死んでしまう。彼らは「護国の鬼」となって巣を守り女王様を守るために〈言い含められ、檄を飛ばされ〉水杯を受けて特攻出撃したのだろうか。

「そうではない」と生物学はいいたかったようである。もし自己犠牲が、巣のため世のため人のためならば、「愛の動物界」には自己犠牲を行なう個体をもつ種がもっとたくさん進化してきたに違いない。ところが、このような種は動物界の異端児である。
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パートナーの先行き

GG=LLの意味するもの

 GG=LL、この方程式。これはヒアリングで得た、三段ループそのものです。

 答えとしては、お客様の心とメーカーがつながることを意味します。お客様が変われば、メーカーが変わる。メーカーが変われば、お客様が変わる。

 表のロジックはあくまでも、Hとかスタッフを通します。だから、三段ループ、本当は多段ループです。

 上に運ぶために、コラボレーションがあり、それを戻すために、ライブラリがある。ここまでは3年前にロジックはできています。今回、ポータルのコミュニケーション・ツールとして、コラボレーションと多様ライブラリの二つがあることは意味があることです。

私の起源

 137億年の歴史の本には宇宙の起源とか、人類の起源は書いてあるけど、私の起源は書いてない。この意識はどこから生まれてくるのか。

存在と無の数学的な意味

 究極にすると、状態になります。無限大とか、極小とかと同じです。その意味では、∞×1/∞=1です。こうはならないですね。0=1になる。これは無と存在です。

パートナーの先行き

 パートナーの先行きが見えてきました。あえて、何も言いません。パートナーが言って来たら、それに応えるだけです。

 まあ、一番は、あのおちょこちょいです。あれに掛かったら、どうなるかわからない。それはどうでもいいです。

 半年前の5月も、去年の12月にも、存在を諦めているので、この状態には慣れています。自分の身の振り方も分かっています。Oには渡せないです。Gは誤解しているけど。Oは裏の存在です。今までも、今後も。それに比べて、パートナーは表の存在です。本人がそれに気づくことはないでしょう。

 先週の心変わりは、それで説明できます。本当に疲れる。組織は従順でありたいという思いが強すぎる。組織を超えている存在なのに。

Sの身の振り方

 パートナーの異動が気になって、Sにそれとなく打診した。異動は何も決まっていない。それよりも、S自身の身の振り方が気になっているようです。

 その時に、電算部は1年半、何もやっていないと言っていた。だから、電算部はいらないことを強調していた。電算部にすべて渡すか、電算部をつぶすかに来ているという認識です。

Oの幸せな役割

 ポータルでのOの役割はシステム会社と一緒になって、部品つくりしているが幸せです。企画とか運用はパートナーでないと無理です。

おっちょこちょいにかき回されている

 しかし、Gのおっちょこちょいには参ります。偶々、聞きかじったことを言っているだけです。パートナーが吟味して作った資料を説明したことに、訳の分からないことをかぶせてきます。意味がない。

 パートナーの異動に関しても、おっちょこちょいの典型です。こういう時は、Sに聞くのが一番です。人のことよりも、S自身のことが乗るかそうかです。

新しい民主主義

 新しい民主主義は個人所有の限界を感じて、そこに公共の概念をいれる。
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