未唯への手紙
未唯への手紙
無意味と無価値
『精神分析と自閉症』より ヴィトゲンシュタインと嵐の中の歩行者
ミステリーにおけるホームズとワトソンの関係は、自閉症のある人と定型発達者の関係のあり方について、一つの可能性を示しているように思われる。しかしもちろん、この二人の人物はフィクションである。では、歴史上の実在の人物で、その可能性を指し示してくれる事例はないであろうか。私見では、二〇世紀の哲学者であるルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインと、彼についての回想録『回想のヴィトゲンシュタイン』を記したノーマン・マルコム(彼の弟子であり友人でもあったアメリカ人哲学者)との関係が、その事例として考えられるように思われる。
ヴィトゲンシュタインは、その人物像自体が強烈な魅力を持っており、今日に至るまで、哲学界の範囲を超えて多くの人々の関心を惹いてやまない存在である。彼については従来、その〈奇行〉やユニークさから、統合失調症圏の人だったのではないかと考えられることもあった。近年、ヴィトゲンシュタインの伝記的事実や関係者の証言から、彼がアスペルガー症候群(アスペルガー症候群も自閉症スペクトラムの一環をなすと考える立場により、一括して自閉症と記すことにする)であったと考える専門家が現れている。例えば、マイケル・フィッツジェラルドがその一人である。ちなみにフィッツジェラルドは、ルートヴィツヒの姉の一人マルガレーテもまた、自閉症的な性質を持っていたと推測する。そして「彼女がフロイトから精神分析を受けたと広く信じられている。一九三八年のナチスによるオーストリア併合の後、彼女は友人であるマリー・ボナパルト妃と協力して、フロイトのイギリスヘの移住の手はずを整えた」。
ルートヴィッヒに話を戻すと、マルコムの回想に次のようなエピソードがある。「二時間の講義で、ヴィトゲンシュタイン自身も、いつも消耗してしまった。……そのため、講義が終わるやいなや、映画に飛んで行ったものだった。……彼はスクリーンが視野を完全にふさぐように、最前列にすわることを主張した。それは、講義のときに考えたことがらや、自己嫌悪をふりはらうためなのだった。あるとき彼は『こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする』と私にささやいたことがある。映画をみるときも、くつろいだとか、いいかげんな見方をしなかった。からだを前にのり出して食い入るように画面を見つめ、よそ見することなどはほとんどなかった。……要するにただ画面に心を奪われることが彼の目的であって、彼を苦しめ精魂をすりへらす哲学から、ただのひとときなりと解放されるための映画だったのだから」
もし彼が自閉症的であったとする見解が正しいのならば、『回想のヴィトゲンシュタイン』という書物は、ノンフィクションかフィクションかの違いがあるにもかかわらず、自閉症的な資質を持つ名探偵ホームズの言葉や活躍を定型発達者ワトソンが記録した形式を取るホームズ物と同じような位置を占めることになるのかもしれない。
ヴィトゲンシュタインによるユニークな振る舞いは数多く言い伝えられている。例えば、若い頃に独創的な書物を出版して世界を驚かしておきながら、ある時期以降、本を出すのをやめてしまったのは、いかにも世間の常識を越えた天才らしい印象を与える。それでは、なぜ彼は生涯にわたって研究を精力的に続けていたにもかかわらず、書物の形で公刊しようとしなかったのであろうか。フォン・ライトによれば「彼は、自分の考えが、弟子を自称する門下にさえも大体において誤解され曲解されているという意見だった。私もこの意見は間違っていないと思う。それが、将来正しく理解されるだろうとも彼は思っていなかった。現代人とかけはなれていて、ちがった生活環境の中に生きていてちがった考え方をする人を相手に自分は書いているように感じる、と彼はあるとき言ったことがある。まるで違った文化に属する人々相手に書く。これが、晩年の業績を彼が出版しなかった理由の一つであった」。実際、ヴィトゲンシュタインが思考を推し進める際に考案した事例は、普通の人々の意表を突いたものであり、時にSF的とも見える発想法を示している。この指摘は、自閉症のある人グランディンが自らを「火星の人類学者」に喩えたことを思い起こさせる。またフィッツジェラルドは、ヴィトゲンシュタインのパーソナリティについて「彼には非常に厳しい超自我があり、そのため彼は罪責感を持ち、到達不可能な要求水準の高い自我理想を持つことになった。彼が生涯で一冊しか本を出版しなかったことは驚くに値しない」。
ところが、このように自分と他者一般に対して厳格な超自我を発揮したヴィトゲンシュタインは、例外的にマルコムとは、断続的ながらも長い期間にわたって交友関係を維持し続けることを望んだ。マルコムの回想によれば、二人はいつも仲が良かったわけではない。時にヴィトゲンシュタインは、マルコムに対して攻撃的に振る舞ったり、愛想を尽かしたかに見えるし、マルコムの方も意地を張ったりしたこともあったようである。しかし、その度に双方が忍耐強く関係を続けていく努力を繰り返していた。それほど二人にとって、この交友はかけがえのないものだったのであろう。二人の関係は、ヴィトゲンシュタインの死の直前まで続いた。その結果生み出されたのが、『回想のヴィトゲンシュタイン』である。
ミステリーにおけるホームズとワトソンの関係は、自閉症のある人と定型発達者の関係のあり方について、一つの可能性を示しているように思われる。しかしもちろん、この二人の人物はフィクションである。では、歴史上の実在の人物で、その可能性を指し示してくれる事例はないであろうか。私見では、二〇世紀の哲学者であるルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインと、彼についての回想録『回想のヴィトゲンシュタイン』を記したノーマン・マルコム(彼の弟子であり友人でもあったアメリカ人哲学者)との関係が、その事例として考えられるように思われる。
ヴィトゲンシュタインは、その人物像自体が強烈な魅力を持っており、今日に至るまで、哲学界の範囲を超えて多くの人々の関心を惹いてやまない存在である。彼については従来、その〈奇行〉やユニークさから、統合失調症圏の人だったのではないかと考えられることもあった。近年、ヴィトゲンシュタインの伝記的事実や関係者の証言から、彼がアスペルガー症候群(アスペルガー症候群も自閉症スペクトラムの一環をなすと考える立場により、一括して自閉症と記すことにする)であったと考える専門家が現れている。例えば、マイケル・フィッツジェラルドがその一人である。ちなみにフィッツジェラルドは、ルートヴィツヒの姉の一人マルガレーテもまた、自閉症的な性質を持っていたと推測する。そして「彼女がフロイトから精神分析を受けたと広く信じられている。一九三八年のナチスによるオーストリア併合の後、彼女は友人であるマリー・ボナパルト妃と協力して、フロイトのイギリスヘの移住の手はずを整えた」。
ルートヴィッヒに話を戻すと、マルコムの回想に次のようなエピソードがある。「二時間の講義で、ヴィトゲンシュタイン自身も、いつも消耗してしまった。……そのため、講義が終わるやいなや、映画に飛んで行ったものだった。……彼はスクリーンが視野を完全にふさぐように、最前列にすわることを主張した。それは、講義のときに考えたことがらや、自己嫌悪をふりはらうためなのだった。あるとき彼は『こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする』と私にささやいたことがある。映画をみるときも、くつろいだとか、いいかげんな見方をしなかった。からだを前にのり出して食い入るように画面を見つめ、よそ見することなどはほとんどなかった。……要するにただ画面に心を奪われることが彼の目的であって、彼を苦しめ精魂をすりへらす哲学から、ただのひとときなりと解放されるための映画だったのだから」
もし彼が自閉症的であったとする見解が正しいのならば、『回想のヴィトゲンシュタイン』という書物は、ノンフィクションかフィクションかの違いがあるにもかかわらず、自閉症的な資質を持つ名探偵ホームズの言葉や活躍を定型発達者ワトソンが記録した形式を取るホームズ物と同じような位置を占めることになるのかもしれない。
ヴィトゲンシュタインによるユニークな振る舞いは数多く言い伝えられている。例えば、若い頃に独創的な書物を出版して世界を驚かしておきながら、ある時期以降、本を出すのをやめてしまったのは、いかにも世間の常識を越えた天才らしい印象を与える。それでは、なぜ彼は生涯にわたって研究を精力的に続けていたにもかかわらず、書物の形で公刊しようとしなかったのであろうか。フォン・ライトによれば「彼は、自分の考えが、弟子を自称する門下にさえも大体において誤解され曲解されているという意見だった。私もこの意見は間違っていないと思う。それが、将来正しく理解されるだろうとも彼は思っていなかった。現代人とかけはなれていて、ちがった生活環境の中に生きていてちがった考え方をする人を相手に自分は書いているように感じる、と彼はあるとき言ったことがある。まるで違った文化に属する人々相手に書く。これが、晩年の業績を彼が出版しなかった理由の一つであった」。実際、ヴィトゲンシュタインが思考を推し進める際に考案した事例は、普通の人々の意表を突いたものであり、時にSF的とも見える発想法を示している。この指摘は、自閉症のある人グランディンが自らを「火星の人類学者」に喩えたことを思い起こさせる。またフィッツジェラルドは、ヴィトゲンシュタインのパーソナリティについて「彼には非常に厳しい超自我があり、そのため彼は罪責感を持ち、到達不可能な要求水準の高い自我理想を持つことになった。彼が生涯で一冊しか本を出版しなかったことは驚くに値しない」。
ところが、このように自分と他者一般に対して厳格な超自我を発揮したヴィトゲンシュタインは、例外的にマルコムとは、断続的ながらも長い期間にわたって交友関係を維持し続けることを望んだ。マルコムの回想によれば、二人はいつも仲が良かったわけではない。時にヴィトゲンシュタインは、マルコムに対して攻撃的に振る舞ったり、愛想を尽かしたかに見えるし、マルコムの方も意地を張ったりしたこともあったようである。しかし、その度に双方が忍耐強く関係を続けていく努力を繰り返していた。それほど二人にとって、この交友はかけがえのないものだったのであろう。二人の関係は、ヴィトゲンシュタインの死の直前まで続いた。その結果生み出されたのが、『回想のヴィトゲンシュタイン』である。
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グローバルのグローバル、ローカルのローカル
グローバルのグローバル、ローカルのローカル
数学の先行きを考えた時のキータームを見い出しました。
無限次元空間に住むとか、グローバルとローカルの間の位相空間に持っていくという循環まできました。さらにグローバルのグローバル、ローカルのローカルをつなげていくこと。
予測としては、グローバルとグルーバルのローカルのローカルは同一になります。縦型の循環です。
社会として、生活として、それがどういう意味合いを持つのか。それを考えたけど、まだ、答には至っていない。あまりにも突飛です。
理論化するにしても、グローバルとローカルのレベルなら、トポロジーをそのまま、取り入れれば、連続性だけを保障すれば、容易にできます。
ローカルとグレーバルのレベルを上げるためには、グローバルをローカルと見て、もう一つ上のグローバルとの関係を見ていく。同様に、ローカルとグローバルにして、もう一つ下のローカルとの関係として、解釈しました。要するに、三階層のイメージでつなげていくことです。実際は多段ですけど、
グローバルを国だとすると、グローバルのグローバルは超国家になります。ローカルとグループとすると、ローカルのローカルは個人になります。個人をローカルにした時には、ローカルのローカルは分化した個人になります。
グループの意味合いは微妙です。国とか個人は固定できるが、グループは変幻自在です。位相というところのローカルをつなげたチェーンです。
ローカルのローカルとした時の個人に対してのチェーンで個人の見方が変わってきます。個人の多面性になってきます。グローバルもチェーンを持ちます。一つには国の連携でしょう。それは歴史編で展開していきます。
問題は、超国家と分化した個人が一緒になるかどうかです。あまり、一緒ということに拘る必要はないかもしれない。何しろ、縦に繋がります。横に繋がるのであれば、トーラスでみていけばいいけど、縦のトーラスをどう作ればいいのか。
今後の世界から考えると、グループというモノをどう持っていくかです。地域とか会社の組織が前提であった。その限界を変えていきます。
時間つぶしのミーティング
何か、テーマが与えられて、それで時間つぶしをしているグループで、仕事になっているのか。別のところで得たエネルギーに依存している。そんなミーティングは寝るに限ります。そこからは何も生まれません。
個人の分化
個人に対して、サブ・グローバルとして持っていく時に、個人は多様な面を持っているので、グローバルから、逆の関数でみると、個人が分化できます。
多分、そこが重要なんでしょう。個人を分化させていく。分化された、さまざまな個人の集めて、一つの空間にしていく。一人はひとりでなくてもいい。色々な面を持った個人が一つのところに住んでいることになります。一つという概念もないのでしょう。
個人の分化するのは、グループから見れば、容易です。それがフェイスブックなどからできるような世界になっている。個人は色々な局面をもつ。
それは個人を武装化することで、分化する。分かれたものは一つのモノではなく、矛盾を起こさないように持つということだけです。意味合いは個人で持つのではなく、グループで持つということです。
そこでの役割を人間の中で、別々に持てばいい。一つにしようとすると難しい。だから、逆反射ですね。
数学モデルを社会に還元
数学モデルをいかに、社会に還元していくのか。
今までのツリーだけの社会から、インターネットではないけど、ローカルの世界から組み立てる、トポロジーの世界に持っていきます。なにしろ、トポロジーの世界が先にある。数学理論から。新しいカタチにまとめていけばいいのです。
生活者と消費者
生活者としての個人はその中に入ってきます。生活者である限りは、色々なグループに属します。
消費者は作るモノから支配されています。そのハイアラキーの元に居るだけの人です。生活者は逆のピラミッドになります。
多くの人が生きていく
目的によって、色々なグループに入っている。グループからすると、その分だけ、人が居ることになります。
多くの人が生きていくためには、それが必要です。その中で、それぞれが生きていけばいいんです。ということで、お金を使うだけの世界とは異なる世界になっていきます。
身体を休める
そんなことを考えているので、多分、今日も眠れないでしょう。本は身につかない状態です。身体を休める打かにしましょう。
なかなか、ICレコーダーを外せない。頭の中はゆっくり回っています。
数学の先行きを考えた時のキータームを見い出しました。
無限次元空間に住むとか、グローバルとローカルの間の位相空間に持っていくという循環まできました。さらにグローバルのグローバル、ローカルのローカルをつなげていくこと。
予測としては、グローバルとグルーバルのローカルのローカルは同一になります。縦型の循環です。
社会として、生活として、それがどういう意味合いを持つのか。それを考えたけど、まだ、答には至っていない。あまりにも突飛です。
理論化するにしても、グローバルとローカルのレベルなら、トポロジーをそのまま、取り入れれば、連続性だけを保障すれば、容易にできます。
ローカルとグレーバルのレベルを上げるためには、グローバルをローカルと見て、もう一つ上のグローバルとの関係を見ていく。同様に、ローカルとグローバルにして、もう一つ下のローカルとの関係として、解釈しました。要するに、三階層のイメージでつなげていくことです。実際は多段ですけど、
グローバルを国だとすると、グローバルのグローバルは超国家になります。ローカルとグループとすると、ローカルのローカルは個人になります。個人をローカルにした時には、ローカルのローカルは分化した個人になります。
グループの意味合いは微妙です。国とか個人は固定できるが、グループは変幻自在です。位相というところのローカルをつなげたチェーンです。
ローカルのローカルとした時の個人に対してのチェーンで個人の見方が変わってきます。個人の多面性になってきます。グローバルもチェーンを持ちます。一つには国の連携でしょう。それは歴史編で展開していきます。
問題は、超国家と分化した個人が一緒になるかどうかです。あまり、一緒ということに拘る必要はないかもしれない。何しろ、縦に繋がります。横に繋がるのであれば、トーラスでみていけばいいけど、縦のトーラスをどう作ればいいのか。
今後の世界から考えると、グループというモノをどう持っていくかです。地域とか会社の組織が前提であった。その限界を変えていきます。
時間つぶしのミーティング
何か、テーマが与えられて、それで時間つぶしをしているグループで、仕事になっているのか。別のところで得たエネルギーに依存している。そんなミーティングは寝るに限ります。そこからは何も生まれません。
個人の分化
個人に対して、サブ・グローバルとして持っていく時に、個人は多様な面を持っているので、グローバルから、逆の関数でみると、個人が分化できます。
多分、そこが重要なんでしょう。個人を分化させていく。分化された、さまざまな個人の集めて、一つの空間にしていく。一人はひとりでなくてもいい。色々な面を持った個人が一つのところに住んでいることになります。一つという概念もないのでしょう。
個人の分化するのは、グループから見れば、容易です。それがフェイスブックなどからできるような世界になっている。個人は色々な局面をもつ。
それは個人を武装化することで、分化する。分かれたものは一つのモノではなく、矛盾を起こさないように持つということだけです。意味合いは個人で持つのではなく、グループで持つということです。
そこでの役割を人間の中で、別々に持てばいい。一つにしようとすると難しい。だから、逆反射ですね。
数学モデルを社会に還元
数学モデルをいかに、社会に還元していくのか。
今までのツリーだけの社会から、インターネットではないけど、ローカルの世界から組み立てる、トポロジーの世界に持っていきます。なにしろ、トポロジーの世界が先にある。数学理論から。新しいカタチにまとめていけばいいのです。
生活者と消費者
生活者としての個人はその中に入ってきます。生活者である限りは、色々なグループに属します。
消費者は作るモノから支配されています。そのハイアラキーの元に居るだけの人です。生活者は逆のピラミッドになります。
多くの人が生きていく
目的によって、色々なグループに入っている。グループからすると、その分だけ、人が居ることになります。
多くの人が生きていくためには、それが必要です。その中で、それぞれが生きていけばいいんです。ということで、お金を使うだけの世界とは異なる世界になっていきます。
身体を休める
そんなことを考えているので、多分、今日も眠れないでしょう。本は身につかない状態です。身体を休める打かにしましょう。
なかなか、ICレコーダーを外せない。頭の中はゆっくり回っています。
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