『現代政治学』より
分権化の波
現代型の行政的中央集権システムは、やがてその限界にぶつかった。
第一に、この章の冒頭でも述べたように、市場や環境問題の超国家化(グローバル化)にともなって、国家主権が有効に働かなくなった。公共的な役割を国家・中央政府が独占していては、経済の管理も環境保全もおぼつかなくなったのである。
第二に、国内では国家行政・官僚制の権限・規模・コストが大きくなりすぎ、中央一地方の結び付きが複雑になって、自由や自治のしくみが弱まり、民主主義の活力が失われた。
第三に、社会の成熟化(モノの充足、社会の多様化、人口構造の高齢化など)にともなって、金銭的給付や社会資本整備よりも、高齢者の介護やまちづくりへの参加、生涯学習、自己実現的な文化活動などへの国民の要求が高まり、国主導の全国一律行政ではこれに応えられなくなった。
こうして20世紀末の時代には、国家主権の枠を超えた国際協力システムがつくられる一方、中央集権的な福祉国家の改革による地方や民間への公共機能の移譲、つまり分権化が多くの国で進められるようになったのである。
第二次世界大戦後の日本では、民主化改革の一環として地方自治(とくに住民自治)の制度が導入され、地方自治の機能も国際的に見て非常に大きなものになった。だが半面、中央政府と地方政府の間の関係、つまり団体自治の面では、国の地方に対する行政的な関与(機関委任事務にもとづく指揮監督や許認可、行政指導など)や、税財源の国への集中にもとづく財政的な中央統制(補助金など)が定着した。権限・財源の集中、機能の分散という独特の性質を持ったシステムが形成されたのである。
このシステムは、社会資本や基本的な行政サービスを全国的に整備し、経済成長の基盤をっくることに寄与した面もあったが、地方自治体の自律性を妨げ、他の国と同様、行政の複雑化・非効率化・画一化、首都1極集中などの弊害を生み出した。このため日本でも1995年、国会で地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会が設けられて「分権型社会の創造」をめざす改革が試みられ、1999年には地方分権一括法が成立した(地方分権推進委員会, 1996)。
分権改革の光と影
地方分権改革は、機関委任事務の制度を法的に廃止し、公的事務の多くを自治体の事務とした。国の地方に対する事務の命令的な委任システ。ムは改められ、国の自治体への関与には法的な根拠が必要とされたのである。これによって、従来国の法律で決められ地方に命令委任されていた事務の多くが、自治体の条例にもとづいて行われることになった。2000年ごろから多くの自治体が自治体の憲法ともいわれる「自治基本条例」を策定する動きが広がったのは、このためである。
半面、日本の分権改革には限界もあった。とくに重要だったのは、国と地方の財政関係の改革が進まなかったことである。戦後日本の国・地方財政関係は、歳出の割合が国3-4割、地方6-7割に対して歳入(税収)が、国6-7割、地方3-4割と逆転しており、地方の財政的な自律性が決定的に不足していた。このギャップは国から地方への財政移転(国庫補助負担金や地方交付税交付金)で埋め合わされていたが、これは地方の国への財政的依存、財政を通じた国の地方への統制をもたらすものであった。こうした税財政関係の改革はあとに残されてしまったのである。
しかも、分権改革の時期は平成不況といわれた長期不況と重なり、国・地方の歳入が増えなかった。そのため景気対策の目的で公債の発行によって公共事業が行われたので、政府の累積債務は累増し、日本は世界最大の債務国になってしまった。要するに自治体はその仕事は増えたが、財源は制約されたのである。
この傾向は、分権改革を進めた諸外国にも共通していた。北欧、西欧、アジア諸国でも1980-90年代には、多かれ少なかれ分権改革、事務の地方移譲と国の関与の縮減を主たる内容とする分権改革が行われたが、中央政府が不況対策や国際協調的な財政支出を抑制したため、どの国の自治体も仕事は増え、財政資源はむしろ縮小したのである。
この結果、自治体の行財政の効率化が世界的な要請となり、公共事務の民営化や自治体の縮小が進められた。それだけではなく、多くの国で自治体の合併や広域連携が進められたのである。日本では1999年ごろから、市町村数を数年で3分の1に減らすことを目標に「平成の大合併」といわれる市町村合併が行われ、市町村数は45%以上減少した。分権改革がいわれながら、自治の主体である自治体が国の方針によって大きく減少させられたのである。日本以外にも自治体合併を計画している国は少なくなく、21世紀初頭は、分権社会の担い手となるべき自治体が大きく再編成される時代となる可能性もある。
分権化の波
現代型の行政的中央集権システムは、やがてその限界にぶつかった。
第一に、この章の冒頭でも述べたように、市場や環境問題の超国家化(グローバル化)にともなって、国家主権が有効に働かなくなった。公共的な役割を国家・中央政府が独占していては、経済の管理も環境保全もおぼつかなくなったのである。
第二に、国内では国家行政・官僚制の権限・規模・コストが大きくなりすぎ、中央一地方の結び付きが複雑になって、自由や自治のしくみが弱まり、民主主義の活力が失われた。
第三に、社会の成熟化(モノの充足、社会の多様化、人口構造の高齢化など)にともなって、金銭的給付や社会資本整備よりも、高齢者の介護やまちづくりへの参加、生涯学習、自己実現的な文化活動などへの国民の要求が高まり、国主導の全国一律行政ではこれに応えられなくなった。
こうして20世紀末の時代には、国家主権の枠を超えた国際協力システムがつくられる一方、中央集権的な福祉国家の改革による地方や民間への公共機能の移譲、つまり分権化が多くの国で進められるようになったのである。
第二次世界大戦後の日本では、民主化改革の一環として地方自治(とくに住民自治)の制度が導入され、地方自治の機能も国際的に見て非常に大きなものになった。だが半面、中央政府と地方政府の間の関係、つまり団体自治の面では、国の地方に対する行政的な関与(機関委任事務にもとづく指揮監督や許認可、行政指導など)や、税財源の国への集中にもとづく財政的な中央統制(補助金など)が定着した。権限・財源の集中、機能の分散という独特の性質を持ったシステムが形成されたのである。
このシステムは、社会資本や基本的な行政サービスを全国的に整備し、経済成長の基盤をっくることに寄与した面もあったが、地方自治体の自律性を妨げ、他の国と同様、行政の複雑化・非効率化・画一化、首都1極集中などの弊害を生み出した。このため日本でも1995年、国会で地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会が設けられて「分権型社会の創造」をめざす改革が試みられ、1999年には地方分権一括法が成立した(地方分権推進委員会, 1996)。
分権改革の光と影
地方分権改革は、機関委任事務の制度を法的に廃止し、公的事務の多くを自治体の事務とした。国の地方に対する事務の命令的な委任システ。ムは改められ、国の自治体への関与には法的な根拠が必要とされたのである。これによって、従来国の法律で決められ地方に命令委任されていた事務の多くが、自治体の条例にもとづいて行われることになった。2000年ごろから多くの自治体が自治体の憲法ともいわれる「自治基本条例」を策定する動きが広がったのは、このためである。
半面、日本の分権改革には限界もあった。とくに重要だったのは、国と地方の財政関係の改革が進まなかったことである。戦後日本の国・地方財政関係は、歳出の割合が国3-4割、地方6-7割に対して歳入(税収)が、国6-7割、地方3-4割と逆転しており、地方の財政的な自律性が決定的に不足していた。このギャップは国から地方への財政移転(国庫補助負担金や地方交付税交付金)で埋め合わされていたが、これは地方の国への財政的依存、財政を通じた国の地方への統制をもたらすものであった。こうした税財政関係の改革はあとに残されてしまったのである。
しかも、分権改革の時期は平成不況といわれた長期不況と重なり、国・地方の歳入が増えなかった。そのため景気対策の目的で公債の発行によって公共事業が行われたので、政府の累積債務は累増し、日本は世界最大の債務国になってしまった。要するに自治体はその仕事は増えたが、財源は制約されたのである。
この傾向は、分権改革を進めた諸外国にも共通していた。北欧、西欧、アジア諸国でも1980-90年代には、多かれ少なかれ分権改革、事務の地方移譲と国の関与の縮減を主たる内容とする分権改革が行われたが、中央政府が不況対策や国際協調的な財政支出を抑制したため、どの国の自治体も仕事は増え、財政資源はむしろ縮小したのである。
この結果、自治体の行財政の効率化が世界的な要請となり、公共事務の民営化や自治体の縮小が進められた。それだけではなく、多くの国で自治体の合併や広域連携が進められたのである。日本では1999年ごろから、市町村数を数年で3分の1に減らすことを目標に「平成の大合併」といわれる市町村合併が行われ、市町村数は45%以上減少した。分権改革がいわれながら、自治の主体である自治体が国の方針によって大きく減少させられたのである。日本以外にも自治体合併を計画している国は少なくなく、21世紀初頭は、分権社会の担い手となるべき自治体が大きく再編成される時代となる可能性もある。