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未唯への手紙

未唯への手紙

分権化の波

2012年04月21日 | 3.社会
『現代政治学』より

分権化の波

 現代型の行政的中央集権システムは、やがてその限界にぶつかった。

 第一に、この章の冒頭でも述べたように、市場や環境問題の超国家化(グローバル化)にともなって、国家主権が有効に働かなくなった。公共的な役割を国家・中央政府が独占していては、経済の管理も環境保全もおぼつかなくなったのである。

 第二に、国内では国家行政・官僚制の権限・規模・コストが大きくなりすぎ、中央一地方の結び付きが複雑になって、自由や自治のしくみが弱まり、民主主義の活力が失われた。

 第三に、社会の成熟化(モノの充足、社会の多様化、人口構造の高齢化など)にともなって、金銭的給付や社会資本整備よりも、高齢者の介護やまちづくりへの参加、生涯学習、自己実現的な文化活動などへの国民の要求が高まり、国主導の全国一律行政ではこれに応えられなくなった。

 こうして20世紀末の時代には、国家主権の枠を超えた国際協力システムがつくられる一方、中央集権的な福祉国家の改革による地方や民間への公共機能の移譲、つまり分権化が多くの国で進められるようになったのである。

 第二次世界大戦後の日本では、民主化改革の一環として地方自治(とくに住民自治)の制度が導入され、地方自治の機能も国際的に見て非常に大きなものになった。だが半面、中央政府と地方政府の間の関係、つまり団体自治の面では、国の地方に対する行政的な関与(機関委任事務にもとづく指揮監督や許認可、行政指導など)や、税財源の国への集中にもとづく財政的な中央統制(補助金など)が定着した。権限・財源の集中、機能の分散という独特の性質を持ったシステムが形成されたのである。

 このシステムは、社会資本や基本的な行政サービスを全国的に整備し、経済成長の基盤をっくることに寄与した面もあったが、地方自治体の自律性を妨げ、他の国と同様、行政の複雑化・非効率化・画一化、首都1極集中などの弊害を生み出した。このため日本でも1995年、国会で地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会が設けられて「分権型社会の創造」をめざす改革が試みられ、1999年には地方分権一括法が成立した(地方分権推進委員会, 1996)。

分権改革の光と影

 地方分権改革は、機関委任事務の制度を法的に廃止し、公的事務の多くを自治体の事務とした。国の地方に対する事務の命令的な委任システ。ムは改められ、国の自治体への関与には法的な根拠が必要とされたのである。これによって、従来国の法律で決められ地方に命令委任されていた事務の多くが、自治体の条例にもとづいて行われることになった。2000年ごろから多くの自治体が自治体の憲法ともいわれる「自治基本条例」を策定する動きが広がったのは、このためである。

 半面、日本の分権改革には限界もあった。とくに重要だったのは、国と地方の財政関係の改革が進まなかったことである。戦後日本の国・地方財政関係は、歳出の割合が国3-4割、地方6-7割に対して歳入(税収)が、国6-7割、地方3-4割と逆転しており、地方の財政的な自律性が決定的に不足していた。このギャップは国から地方への財政移転(国庫補助負担金や地方交付税交付金)で埋め合わされていたが、これは地方の国への財政的依存、財政を通じた国の地方への統制をもたらすものであった。こうした税財政関係の改革はあとに残されてしまったのである。

 しかも、分権改革の時期は平成不況といわれた長期不況と重なり、国・地方の歳入が増えなかった。そのため景気対策の目的で公債の発行によって公共事業が行われたので、政府の累積債務は累増し、日本は世界最大の債務国になってしまった。要するに自治体はその仕事は増えたが、財源は制約されたのである。

 この傾向は、分権改革を進めた諸外国にも共通していた。北欧、西欧、アジア諸国でも1980-90年代には、多かれ少なかれ分権改革、事務の地方移譲と国の関与の縮減を主たる内容とする分権改革が行われたが、中央政府が不況対策や国際協調的な財政支出を抑制したため、どの国の自治体も仕事は増え、財政資源はむしろ縮小したのである。

 この結果、自治体の行財政の効率化が世界的な要請となり、公共事務の民営化や自治体の縮小が進められた。それだけではなく、多くの国で自治体の合併や広域連携が進められたのである。日本では1999年ごろから、市町村数を数年で3分の1に減らすことを目標に「平成の大合併」といわれる市町村合併が行われ、市町村数は45%以上減少した。分権改革がいわれながら、自治の主体である自治体が国の方針によって大きく減少させられたのである。日本以外にも自治体合併を計画している国は少なくなく、21世紀初頭は、分権社会の担い手となるべき自治体が大きく再編成される時代となる可能性もある。

組織の人の発想

2012年04月20日 | 5.その他
未唯へ

 今日は居ないので、ゆっくりと反映を行います。そう思っていたら、ゲート前からリモートコントロールの電話が入りました。あまり、向くタイプではないけど、1年半前のタダ券を使いに行ったみたいです。

 メグリアで買い物をしたら、小銭252円ピッタリです。

 うぐいすと白いパンツ。ほーほけきょ♪

再来週の予定

 さ来週の水・木・金は休みです。これを黄金週間と呼ぶらしい。月・火は普通です。テーマを決めましょう。

 勝手なミッションステートメントを実行します。私のミッションです。会社にはプリンターがある会社にします。何をプリントするかです。

 フェイスブックなどの社会を変えるための準備をします。昼休みにiPadの完全マニュアルを買ってきた。1800円です。買うと本は読まないけど。

 お休みの水・木・金は詳細からの吸い上げです。会社につもりで8時~5時で行いましょう。反映が追いついたら、一連の作業を行います。

組織の人の発想

 グループのもう一人には心を閉ざします。あまりにも組織に従順すぎる。自分から動くものとパートナーからの依頼で動くモノの二つしかない。組織は関係ないです。

 絶対的存在以外は感情を持つことはしない。言い訳はしない。

 連休中に、自分の主張を社会にオープンさせることを仕掛けます。最低でも、図書館関係者とのコミュニケーションです。

話が長いGの弊害

 前の人との話が盛り上がったからといって、次の人の枠を潰して、平気なのは許せない。これは上司と部下とか関係ないです。人間のモラルの問題です。昨日も似たようなことがあり、30分の予定が5分になりました。私は5分で片づけました。

 ほとんどがムダなおしゃべりです。上司として、部下の時間をムダにしているだけでなく、次に予定している人の権利も奪っている。単に上司ということだけで、拘束するのは許せない。適当な上司だからと言って、それに従って、自分の時間を潰すことは自分を潰すことです。

 自分が何のために生きているのか、何を目的にその瞬間に生きているのかの選択肢は本人が持つべきものです。話好きな名古屋人では済まなくなるでしょう。

 私が時間を貰って、Hシステムの将来の姿、社会の姿を対面で話した時も、後半、碌でもない話しにすり替えていた。その時に、この人は考えない人であると判断した。過去の経験を無作為に話をするだけの名古屋人と判断した。それ以来、まともな話はしていない。名古屋にはインタープリターはいない。

 存在を掛けるという言葉を彼は使っていた。本当に存在を掛けたことがあるのか。組織の中で、存在を掛けるということは、単に辞めることではない。弊害をなくすことです。つまり、除去することです。一杯、弊害がある時はトップを除去することです。研究開発部門では体を張ってやってきました。

社会を変えるツール検討

 組織の人間も自分で考えて、行動できるように、社会を変えていくための、フェイスブックです。そういう意味では、上司が部下の時間を潰した件の続きはブログで! という社会になるでしょう。組織の中の問題ではない。

中国でのクルマのシェア

 何故、中国は車の種類を統一しなかったのか。13億人全体に車を渡すことは国の破壊につながるので、シェア社会をイメージできなかったのか。単なる、資本主義的発想を放置したのは、世界最大のMBAとしての共産党らしくない。土地の共有化(国有化)に比べれれば、容易だと思うけど。

豊田市図書館

 今日は、3週の金曜日だから、新刊書は期待できない。2・4週目が傾向としては多いですね。ネットの新刊書検索でフォローできるようになったのは、強いですね。それにしても、めぼしい本は私が借りています。

 4時半に図書館に着きました。結局、18冊です。ゆったりできそうです。土曜日中にOCRを含めて追えましょう。日曜日は因数分解の後処理です。

豊田市図書館の18冊

 501.6『エネルギーの世紀 探究 上』

 501.6『エネルギーの世紀 探究 下』

 302.23『トルコを知るための53章』

 002『学ぶとはどういうことか』

 070.14『戦後日本のメディアと市民意識』「大きな物語」の変容

 319.53『キッシンジャー回顧録 中国(上)』

 319.53『キッシンジャー回顧録 中国(下)』

 302.22『現代中国を知るための40章』

 681.3『自転車はここを走る!』自転車で安全に走るためのガイドブック これでわかる! 車道の安全な走り方

 425『光の科学』

 350.9『地図でみる世界の地域格差』

 369.7『ボランティア白書2012』寄付文化の日本における可能性

 002.7『図解表現使いこなしブック』手描きで考え、伝える カジュアル表現の筋力を鍛える。

 674『ブランドネーム誕生物語』

 311『現代政治学』具体的でおもしろく、政治学研究の今日的水準をカバーしたテキスト。

 311.1『現代政治理論』自由とは何か、公正な社会とは何か……われわれが直面しつつあるさまざまな政治課題は、政治的価値、理念、規範に関わる問題を含んでいる。リベラリズムとデモクラシーに関係するテーマを中心に現代の政治理論の重要な主題や概念を取り上げて解説する本格的入門書の新版。

 361.7『人類生態学』

 209.5『独立宣言の世界史』』

人間集合力とコミュニティの探求

2012年04月20日 | 3.社会
『環境問題の知識社会学』より

人間集合力を活かす

 電力エネルギー関連に次ぐ第二の復興再生課題としては、解体した被災地における人間集合の再生としてのコミュニティづくりがある。被災者を含む被災地全体の構成員への無限配慮を特質とする社会学におけるコミュニティ論と、社会システム論を基礎とする社会計画論の融合により、実態として何か見通せるか。

 理論と現実との両面から災害復旧復興過程を概観すると、外的な自然力が人間社会を襲うことを踏まえた具体的処方便は、被災地内の人々と全国からの支援者が行う社会復興再生活動を軸とせざるをえない。ここではこれを外的ストレスに対処可能な「人間集合力」と総称する。これは世界からのそして日本全国からの精神的支援、物質的支援、金銭的支援、人的支援などの複合による、コミュニティづくりを取り込んだ人間集合再生活動になる。確かに「選択的文化目標は、社会的文化的体系を安定化させる基礎を与える」ことは事実である。

 理論社会学からのコミュニティの地域関連機能は、(生産-分配)消費、②社会化、③社会統制、④社会参加、⑤相互扶助に分類され、これら全てが都市においても村落でもコミュニティの主要な機能とみなされ、しかも相互に緊密に結びついた状態にあるとされる。それはコミュニティの社会システムと表現された。

コミュニティの機能論応用

 この五分類を用いれば、家族はすべてに関連するとしたうえで、

  (1)生産-分配-消費には、産業構造、職業構造、職場、働き方

  (2)社会化には慣習・習慣・伝統の機能、学校教育、生涯学習

  (3)社会統制には治安、近隣、リーダーシップ、社会統合の問題

  (4)社会参加には交通、通信、ソーシャルキャピタル、社会的支援

  (5)相互扶助には医療、福祉、介護、ボランタリー・アクション

 などが該当する。これらの機能は、空間的な構造要素として団体や機関が担い、その開放された活動によって、被災者やその他の構成員に対してさまざまなサービスが提供される。

 被災地での復興再生過程において、コミュニティ機能のどの組み合わせが被災地独自の復活強化につながるか。その基本は個人間の親しさに支えられた地域社会の人間集合の目標共有と協働の存在にある。なぜなら、社会システムは成員がもつ諸役割の遂行によって機能の維持を果たすからである。

集合的な目標の共有と協働

 そのような特質を内在化させたコミュニティの創造には、個人間の互いの親しさだけではなく、人為的で集合的な目標の共有と協働こそが肝要である。また、社会システムは諸役割の遂行によって機能的成果を確保するから、役割の遂行はシステム過程から始まりシステム構造に及ぶとみられる。

 調査結果と既存の成果を融合させて、被災者への社会的支援に結実させる第一歩として、子どもと高齢者も含んだ全世代の被災者のための新しいコミュニティの創造が課題となる。この段階の先行研究の成果として、「災害によって地域社会の団結は強まり、対立抗争は弱まる。まず何をすべきかが明確になり、愛他心と希望の高まりと再生への推進力が生まれる」は有益であろう。

情報機器の積極的活用

 非市場化原理とともに、日本復興再生にとっては、コミュニティレペルにおける情報機器の積極的活用がある。情報機器は高齢者を含む地域支援事業にも有効である。先端事例として、二〇一一年四月から始まった福岡県豊前市などでの情報化安心確認システムがある。

 このシステムでは、一人暮らし高齢者宅にセンサーを設けて、「外出ボタン」が押されないままに、八~一二時間、センサーによって人の動きが感知されなければ、信号が豊前市の京築広域圏消防本部のサーバに送信される。そこから登録済みの近親者や民生委員のメールに、安否確認の依頼がなされる。そこでの情報拠点は消防本部であり、町内会がもつ公民館であり、社会福祉協議会であった。

 これに加えて、都市部の直営郵便局のうち中央局だけでも、このような福祉情報拠点化への取り組みができないものか。なぜなら、郵便局、小中学校、公民館・コミュニティセンター、交番、消防署などは日本の地域社会の優良資産であり、これらをネットワーク化したうえで地域福祉拠点を造ることは、「三・一一」の被災地における高齢者の安心機能を高め、コミュニティづくりにも効果があると考えられるからである(金子SSご)。

社会システムと社会的共通資本

2012年04月20日 | 3.社会
『環境問題の知識社会学』より

習慣と慣習の枠組みからの環境論

 ここでは、習慣と慣習の枠組みからの環境論を活用して、電力エネルギー問題や二酸化炭素地球温暖化論を知識社会学的に解明して、その意図せざる効果を明らかにしてみよう。なぜなら、この試みこそが、今日の過度に単純化された風力発電への讃歌や二酸化炭素温暖化説を解明する際の基盤になるからである。その意味で、「脱・廃・反原発」の主張と風力発電や太陽光発電への過大な期待表明は、今のところは現実的な習慣と慣習の変更を引き起こす結果をもたらしえない。二〇年先や一〇〇年先の希望的観測だけでは人間は動かないのである。

 レジ袋廃止の代わりのエコバッグが見える形で業者から提供されたため、削減効果はともかく二酸化炭素排出規制の一環として、レジ袋使用控えや古紙リサイクルをはじめとする各種資源リサイクル運動が、この数年間全国的に展開されてきた。それらは地球温暖化を防止するという名目で、個人習慣や社会慣習を見直させる社会実践の意義をもち、自然環境変化への社会環境対応の形態として存在した。

 今日、確かに無料のレジ袋は廃止されたが、その行為による総合的な二酸化炭素削減がどこまで地球温暖化傾向を防いだかは未知数のままである。最新のデータとして、二〇〇六年の環境省推計による総保有台数七四〇〇万台のうち営業車を除いた自家用車からの排出量合計は、実に年間一億二四四六万卜ンであったから、レジ袋廃止による数百トンの二酸化炭素削減は統計的には誤差の域をでない。

 この事実から、人間習慣の一部である買い物におけるレジ袋控えは環境としての気持ちの面では確かに重要だが、二酸化炭素による温暖化防止にはノーカーデーのほうに軍配が上がる。ただし、毎日のレジ袋控えはできるかもしれないが、毎日のノーカーデーは非現実的であることはまちがいない。

レジ袋辞退は誤差の範囲

 かりにリッター当たり一五キロの燃費の小型車で、一キロ先のスーパーやコンビニにビール六缶を買いに出かけると、片道で一五七g。往復では三一四gの排出量になる。ビール関連分と合計すれば、二〇八四gの二酸化炭素排出量である。かりにレジ袋を辞退すれば二酸化炭素六gの節約にはなり、これは差し引き二〇七八gである。もちろんこれは誤差の範囲を出ない。この場合、地球全体への二酸化炭素排出量を本気で削減させるのであれば、缶ビール購入をせいぜい一缶で我慢したうえに、乗用車の利用をやめるしかないであろう。

 このように、飲食物や買い物商品の製造・輸送・販売の過程には、かなりの二酸化炭素排出量が伴う。苦労してエコポイントを貯めても、それを飲食や買い物で使えば、実際には大目標の二酸化炭素排出量の削減は全く期待できない。スーパーやコンビニでのレジ袋をただでもらうという個人習慣を変え、買い物客にただであげるという社会慣習を変更しても、この程度の二酸化炭素排出節減ならば、地球環境の温暖化防止には意味を成さないのではないかという疑問を私は主張してきた。なお環境省の試算では、レジ袋一枚で六二gの二酸化炭素排出量になる。

ナイーブになっている

2012年04月19日 | 1.私
ナイーブになっている

 やることが多くて、一つ一つがナイーブです。自分を維持しながらやっていく。確固たる自信がなく、他人から見られる視線とかがない状態で、浮遊しながら考えています。浮遊しないと考えられないでしょう。拘りは不要です。

 そのためには、やはり、無為に戻ってきます。考える存在でありたい。カントのように、日常生活を一定にして考えることはムリですね。ウィゲントシュタインのように、心のままに考える、デカルトは旅をしながら考える。彼らは考えるために存在した、

 宗教家は行動するために考えたのかな。ムハンマドは多分、そうでしょう。砂漠の民をいかにして助けるか。キリストは元々、ユダヤ教の亜流にすぎない。ただ、それで神になってしまった。三位一体だけど。その神も死んでしまった。絶対的なよりどころはなくなった。その意味ではイスラムの方が上ですね。頼るものが自分であるということとコミュニティであることを知っているから。

 全てが幻想の中で生きているのが日本人です。何かを唱えていれば、どうにかなると言うのは、幻想です。そんなことをしても、超法規的なものは動き出さないです。神風は吹きません。国債で潰れます。今はへたるだけです。自分たちで考えて、自分たちで変えていくことに切り替えていかないと。そのためには、自分の価値観を持って、価値観で集まって、行動して、ニッチの世界を埋めていく。その上で、既存システムをオセロのように逆転させる。

論理的であること

 パートナーに言いたいのは論理的に考えろ! 考えていないS、その時の思い付きで生きているSに対しては、徹底的に論理的に攻める。こらえきれずに、テーブルを叩けば、我々の勝ちです。

 周りが感情的に動いている時に、Hのために論理的に考える人に対抗できるはずがない。Sには、自分のミッションで論理的に考えてほしいけど、それはムリですね。パートナーはそれだけの力を持っています。

歴史をどうまとめる

 ローカルとグローバルに分けた。それらがいかに周辺から起こっていくのか。ロシア革命の時にドイツとの関係も、一気にロシアの戦線が崩れたのではない。ロシア革命そのものも厭戦気分が先にあったということ。それらの動きが偶々、歴史的な事実とつながった。歴史に偶然は多く存在します。

 今までの歴史は偶然からできています。最後は必然になってきます。今後の歴史はそれとは異なり、今までを分析して、社会モデルを作り、先を読んでいくことです。というか、歴史を作っていきます。そのための思考になります。

 政治形態も、偶々、共和制になったり、民主主義になったりした感覚があります。では次はどういう形態にするかを偶然に任せていては、全てが崩壊します。その意味では共産主義と似ているかもしれない。ソ連はマルクスの資本論とは全く別モノになってしまったが。まあ、じっくり考えていきましょう。

歴史をどうまとめる

2012年04月19日 | 4.歴史
つぶやくこと

 自分で考えたことを全て、つぶやくと言っても、自分に対してとμに対してですね。今日、新たなものがあるか、頑張りましょう。今までなかったことにつながる。この最近は宗教系が多いですね。本の世界で広がってきたというのは確かです。宗教系の新刊書が多いということでしょう。その分、狭くなった人との関係は殆どないです。

 後ろ側に内なる世界があるから、人との関係を持ちたくないのは確かです。そんな狭い所。全世界の人と会えるわけではない。会ったところでどうなるものではない。偶々行ったエジプトとかギリシャとかで、啓示を受けたことを考えると、もっと多くのところに行きたい。

 奥さんとの制約があるので、行きにくくなっているのは確かです。こうなると宝くじしかない。当たる運命にはなっているはずなのに当たらない。買わないと当たらないか。外から見た年になってきています。自分は全然変わっていないのに。先が見えていると、後ろの世界は関係なくなります。どっちみち、変わっていくのだから。フロントに来ている人たちも関係なくなります。

先を見ていく

 重要なのは先を見ていくことです。どんな形にしていくのか。そこに入っていくしかないのだから。それが私のポイントです。今やっている雑多なことはそういう人に任せる。どうなっていくかが分かっているのだから。その時によく言われるのは、そうならなかったら、どうなるのですか、ということです。そうならなかったら、それまでのことです。潰れるモノはつぶれる。

 だけど、私のミッションは関係しています。その人の能力によって、変わっていくだけです。できなければ、それまでのことです。それが組織の見方です。皆、そこで偶然の中で考えているように見えるけど、先が見えていれば、何が偶然なのか、何が必然なのかが見えてきます。それを押すだけです。日常でやっていることはスポイルします。関係ないです。小さな葛藤も大きな葛藤も関係ない。どっちへ向かっていくかだけです。

考えるということ

 考えるというのはどういうことなのか。仕事のことを考える、生活のことを考える、人生を考える。色々あるけど、私の考えるは先を考える。と言っても、今を出発点としてではなく、もっと、大きな範囲から考えます。今をベースで考えると、この狭い範囲にでしかないし、自分ができることとなり、行為だけになります。行為は選択肢を縮めるだけだから、意味がない。

 他がやっていることに対して、コメントを挟むつもりはない。先を考えるのにそんなものは要素ではない。今、どうなっているかに対して、どっちへ持っていくかではなく、どういう空間になっていくのかを考えます。これは決して、コーディネーターではない。

 今はどうなっているか、それに対して、どういうファクターが働いているのか、それよりも大きなファクターでやってきた。そうなると過去に戻ったり、先に行ったりします。そこでの論理の一貫性なんでしょうね。だから、考える時にアナロジーをよく使います。自分の頭の中だけで考えるのではなく、他の空間とのアナロジーを使います。

 それと本の情報をよく使います。皆がどういう意見を持っているかではなく、ある個人がどういう意見を持っているかです。皆がという多数決ほど当てにならないものはない。それぞれの考えているレベルが異なります。哲学者は考えているだろうから、使わせてもらいます。それ以上のことを考えないといけない。

 在る哲学者がこう言っていたという人は哲学者ではない。単なるコメンターです。テレビの中の評論家と一緒です。その哲学者は何に悩んでいたのか、どうしたかったのかというところもあるし、哲学者はあくまでも、自分はこう考えるとしか言っていません。それをもっと、拡大して、社会はどうなっていくのか歴史はどうなっていくのか、人はどうなっていくのかの道筋を示すことです。

 だから、考えたことを実現しようとは、思っていない。それは自分の範囲でも、自分の生きている世界でもムリです。言っているだけではない。

 内なる世界がある限り、何を言ってもいい。自分の世界だから、私は言う責任を持ちます。今、絡んでいること全てがヒントです。パートナーとのケンカもヒントです。これはつらいけど。ミッション・ステートメントで考えることもヒントです。そのヒントで考えて、自分の空間を作り出すことです。一番のヒントは本だけど、本から何を抽出してくるかという技術は本質的なところから出てきました。副産物です。

誰も来ない

2012年04月19日 | 7.生活
パートナーはスーパーバイザー

 必要なのはパートナーのようなスーパーバイザーです。それがネットワークにいないことは分かっている。それなら、パートナーのコントロールに従うことです。そこで、考えている振りをされると、面倒くさい。キャリア会社はネットワーク会社が使っていかないといけない。それがお仕事です。

電柱が邪魔

 電柱も町の風景からすると邪魔です。これをなくすにはどうしたらいいのか。自分たちで電気を起こせば、電気をもらう為の電柱は不要になる。地域コミュニティで電力をまかなえばいい。トポロジー型です。電線を埋めるのではなく、なくすことです。

 その上で、邪魔になるのは、家です。カラフルでバラバラの作られている。それで始めて、環境社会が実現する。

大学での数学

 数学が真理を求めることよりも、数学が不変なものを定義することを最初に教わった。教養部のストライキ実行中に自主講座で「数学とは何か」から入った。
 
 学部に進級して、一年掛けて、不変とは何か、不変は単なる不変ではなく、不変によって、類を作ることになった。グループが一つの体系になる。その体系をいくらでも変えることができる。不変はいくつもある。そんなことを三角形一つで教わった。だから、混沌とした空間で、答を求めるのではない。そこで整理していく、位相を作っていくことです。

タイムラグを感じている

 寝ている時には時間のラグを感じています。4時だと思った時は2時前後です。トイレもそれに合わせています。夢もタイムラグです。退職になって、誰も来ないという夢だった。これを脅威と感じていた。私の中の本音かもしれない。今でも来ないのに。あまり意味のある夢ではなかった。

誰も来ない

 自分の葬式に誰も来ないイメージです。これだけ、人との接点がないのだから、死んでも他人には分からないでしょう。次のシーンでは、家族が誰もいないよね、と話していた。そこで、すぐに、自分は死んでいるのだから、そんなことは分からないことに気付いたシーンが続きます。それらも含めて、死んでいるのだから、分からないというのが実感です。

 あるところで、それに囚われることは止めようとした。関係ないし、その中に生きているわけではないということから、自分の世界を作り始めた。死の瞬間に囚われている人は多いです。自分の葬式に多くの人に来てもらうために、一生懸命に努力している。本人はなくなっているという感覚がなくなっています。

 この社会の一つの特徴かもしれません。お互いに依存している。だからどうなるのかというところを考えていないです。

大乗仏教

 日本の大乗仏教はそれにコミットしています。法然ではないけど、南無阿弥陀仏に大きな力があって、それを唱えれば、あなたは救われると述べている。それを信じようとします。当時の底辺にいた人にとっては、大きな救いです。修行しないとできなかったことが、南無阿弥陀仏で済むのだから。その代わりに考えなくなった。

 それでコミュニティを作って、葬式にバスで出かけていって、南無阿弥陀仏を唱えるようになった。それに参画していれば、自分の時も皆に来てもらえるという安心感が得られた。これがコミュニティの求心力になって、やっているけど、生かされているかどうか分からなくなっている。私の父の時も、近所の老人クラブの人が南無阿弥陀仏を唱えに来た。

 これ自体が今の日本にとって、個人の力を発揮できない元になっている。現実に救われるためのことは何もしていません。戒律があるのではなく、それを唱えているだけです。それが今後、どうなっていくのかです。「動員の革命」というのは、そういったところをインターネットを使って、動員する、デモすることが変わってくるということでしょう。それにしても、「動員」というのは上から目線ですね。

 個人が何をするのかを考え始めたら、もっと変わっていくのでしょう。既存の組織の制約から脱却してきます。そのために、何を学習して、近傍になって、集まっていくのです。現在は、日本の宗教が日本人の体質を作っている。それが変わっていきます。元々の釈迦の考えに近づいていきます。それで自分を持ち上げていきます。

イスラームの水-類まれな水管理

2012年04月19日 | 4.歴史
『水と人類の一万年史』より

「われらは水からすべての生き物を創った」と、クルアーン〔コーラン〕は述べている。アラビア語の水、「マー」はクルアーンのなかで六〇回登場し、川を表わす言葉は五〇ヵ所以上ある。水はアッラーフ〔アラー〕の慈悲の象徴なのだ。「アッラーフ」こそ風を送り、それで雲を起こされる御方である。それから御心のままに天にそれを広げ、粉微塵にそれを打ち砕かれる。するとあなたはその合間からでてくる雨滴を見る」。アッラーフは水を不毛の地に送って作物を実らせ、それから「地中に入らせて泉となされた」。天国の四つの川は「腐ることのない水の川、昧の変わることない乳の川、飲む者に快い酒の川、純良な蜜の川」なのだ。

天国はそのようなところなのである。イスラームの祖国の、たいていは乾燥した暑くて過酷な環境に暮らす人びとにとって、天国は緑のオアシスであり、地中から泉が奇跡のように湧きでている場所であって、安らぎと幸福の理想の場所なのだ。アラビア語の古い格言は心を喜ばせる三つのものを挙げている。「水、緑の草木、そして美しい顔」である。数え切れないほどのイスラーム詩人が、水の美徳を露や雨、川や泉のかたちで慈悲深い恵みとしてたたえてきた。彼らの多くは、永遠の命を授け、若さを取り戻してくれる「生命の水」の探求について書いている。水はアッラーフの二面性を反映していた。すなわち、怒りからもたらされ、「不道徳で不信心な者」に向けられた激しい嵐や洪水と、慈悲の行為として与えられた穏やかな雨と豊かな水である。水が当然の権利だったことは決してなく、ただ飲んだり濯漑したりする以上のはるかに多くのことを意味していた。清めの儀式(ウズー、祈りの前に〔部分的に体を〕洗うこと)は、イスラームの宗教的な慣習の中心部分でありっづけている。預言者ム(ンマド自身もハディース〔預言者言行録〕の一つで、日々の祈りを水の浄化作用にたとえている。

効果的な水の管理はイスラーム世界を動かす触媒であり、イスラーム法の重要な一部となっていた。クルアーンは水を独り占めする者にたいし警告する。預言者ムハンマドは、水を余分にもっているのに旅人たちに与えなかった者は、復活の日にアッラーフに無視されると教えた。すべてのイスラーム教徒は牧草、水、および火を共有していると(ディースは宣言する。水の権利については明確に定義されている。第一は喉の渇きにたいする法で、人間が喉の渇きを癒す権利である。第二は牛などの家畜が同様のことをする権利だ。第三は潅漑の権利だ。水は植物を潤す贈り物でもある。同時に、クルアーンは神が定められた量の水を与えていることを指摘する。これはつまり、水の供給は管理しなければならず、決して無駄にしてはいけないことを意味している。預言者自身もわずか〇・二ガロン(〇・七五リットル)の水で体を洗っており、流れの速い川沿いで清めの沫浴をするときでも、水は無駄にしないように戒めている。協議を通して実践することに強い力点が置かれているので、中世以降のイスラームの水管理はそのほとんどが地方レベルで行なわれていた。こうした指示のもとでは、水は社会的な物資であって神からの賜物であり、その使用はクルアーンの水の法によって管理されていた。イスラームの教えは水資源の管理と公平で持続可能な方法による保全を強調しており、日々の暮らしにおいても精神生活においても水が中心的な位置を占めていることを認めている。

西暦六一〇年のラマダーンの期間に、四十歳のムハンマドはマッカ〔メッカ〕の近くのヒラー山中の洞窟で、最初の電撃的な天啓を受けた。そこに現われたお告げは単純なものだった。慈善、ウンマ〔ィスラーム共同体〕のためのザカート〔喜捨〕、日々の祈り、そして「アッラーフのほかに神はない。ムハンマドは神の使徒である」と宣言するシャハーダ〔信仰告白〕である。六二二年に預言者はマッカからマディーナ〔メディナ、古名ヤスリブ〕ヘヒジュラ〔聖遷〕したが、八年後に故郷へ凱旋して絶頂期を迎えた。マッカのカーバはもはや土着信仰の神殿ではなくなり、新しい宗教の精神的な中心地になった。

この画期的な出来事は、壮大な政治レーダーに依存し、何十年も前から総力戦に夢中になっていたギリシャ・ローマやペルシャの君主たちの眼中に入らないところで起きた。だが、ムハンマドの遺産は、この地を征服したどんな王が残したものも凌駕するだろう。預言者は六三二年に後継者を指名せずに死去したが、彼の宗教は拡大しつづけた。六五六年にはクルアーンは一一四のスーラ〔章〕からなる最終的な形態にまとめられた。「正しい道への手引き」は読んだり唱えられたりすることで、部族内の忠誠心を超え、あらゆる信者をより大きな部族へ、すべての人びとのなかで最大の集団、つまりイスラーム教徒にまとめあげる説得力のあるメッセージを伝えるものだった。イスラームの道における精神的な戦いであるジハードは、抑え切れない勢力となった。ムハンマドの死から一世紀もたたないうちに、商業、金融、交易を通した緩い結びつきにもとづく広大なイスラームの地域は、中央アジアのサマルカンドや中国との国境地方から、インド西部のシンドや、北アフリカの大西洋岸のタンジールまで広がっていた。ジハードの戦士たちは驚くほどの速度で帝国や王国を駆逐していった。それは一部には宗教的な熱意と富への欲望に駆られたものだったが、イスラームの敵が何世紀にもわたって不毛な戦争に明け暮れていたせいでもあった。

新しい公共性実現のための行政の役割

2012年04月19日 | 3.社会
『生涯学習社会の展開』より

新しい公共性実現のための行政の役割

 21世紀における新しい公共をめざす学習社会に向けて、行政はどのような役割と課題を果たす必要があるのだろうか。生涯学習政策は、地域の中でさまざまに展開されている個人の生涯学習を出発点としつつも、公民館や生涯学習センターで進められているボランティア活動や学習活動を尊重し、それらを相互に結びつけていくことが求められつつある。

 教育行政の役割は、これまでのように生涯学習の学級・講座を提供することよりは、学習情報の提供や学習相談を充実させる方向に、さらには学級・講座を提供する場合であっても、ボランティア養成講座やファシリテーター養成講座を設け、地域で生涯学習活動を支援する人々を養成するようになっている。

 ただし、以上の方向性のままでは、市民がサービスの受け手のままでいる側面が残される。行政の役割はこの段階からさらに進み、行政、市民、NPO ・ ボランティア団体の協働を支援し、ネットワーク化が進むように支援するコーディネート役割をもつものへと転換する必要がある。

 (1)ネットワーク型行政

  地域にある多様な生涯学習資源、団体が相互に連携し、ネットワークをはかる、ネットワーク型行政へとシフトすることが求められている。

  2008年の中央教育審議会答申「新しい時代を切り拓く生涯学習の振興方策について」では、「地域における教育力向上を図る上で、行政がその調整役となり、関係者が連携をし、多様な地域の課題等に応じた機能を持つネットワークを構築することにより、個別の課題に関係する地域の人々が目標を共有化した上で連携・協力し、課題解決等を図っていくことは有効」であると指摘する。

  ネットワーク型行政という場合、何と何をネットワークすることになるのだろうか。ネットワークの範囲についてまとめてみることにしよう。

  ①教育委員会内部でのネットワーク

   教育委員会内部でのネットワークには、従来の社会教育内部でのネットワーク化があり、社会教育施設(公民館、図書館、博物館、青少年教育センター、女性教育施設、スポーツ施設など)の連携が求められる。

   近年は、学校、家庭、地域の連携を軸とする、学校(初等中等教育機関)と社会教育とのネットワーク化が注目される。

   さらには、学習内容の高度化に対応し、また地域の学習ニーズと大学での研究・教育資源の結びっきを促進するために、高等教育機関とのネットワーク化が求められる。大学の他、後述する民間企業やNPOの事業を含めて多様な組織・機関のネットワーク化をもとに、地域をキャンパスとする「生涯学習大学」も設立されている。こんにちではさらに、市町村を横断する生涯学習のネットワーク化の構築も進んでいる。

  ②教育行政以外の行政機関・事業との連携

   教育行政に関わる他行政とのネットワーク化も必要になる。学習ニーズの多様化への対応、内容の重複の調整のための、社会福祉関連の機関・事業、保健関連の機関・事業、産業関連の機関・事業、観光関連の機関・事業、自治関連の機関・事業、防犯関連の機関・事業、男女共同参画関連の機関・事業、青少年関連の機関・事業などである。

  ③民間企業、民間非営利団体(NPO)との連携

    公共の機関や事業のほか、カルチャーセンター、語学スクール、資格・免許関連施設などの民間営利機関や事業とのネットワーク化のほか、民間非営利団体(NPO)との連携も進められている。直接的な連携というよりは、学習プログラムについての情報提供という形での連携が多いといえる。

 (2)行政と市民との協働

  協働は、cooperationという英語を日本語にしたもので、「協力して働くこと」(広辞苑)と定義される。ここでは、行政と市民、行政とNPO、行政と民間企業などが協働するという意味で用いることにしたい。入江直子は、住民(市民)が行政と協働することの意味を、以下のように指摘する。

  「行政課題の策定、行政計画の立案や遂行に住民として関わることであり、今までのような、計画の策定に参画し意見を言う審議会委員という関わり方ではないことになる。行政計画の遂行という実際の事業に関わり、そこから見えてくる行政課題を指摘していくことまで想定することができる」

  つまり、「行政の手伝いをするとか、行政の下働きをするということではなく、行政と対等な立場で住民として活動するということ」5)が大事であるというのである。

少子化の実感

2012年04月18日 | 3.社会
クルマと地域コミュニティ

 クルマ自体を地域コミュニティに参加させることです。発電装置は有力な武器になります。クルマだけでなく、販売拠点、マーケティング、お客様との接点、それらが全て対応できます。

 ポイントは一点です。「売ること」を止めることです。どっちみち、売れないんだから。作るのは作ればいい。売ることを止めるだけです。いかにして、ローコスト・ローエネルギーを実現するかです。地域コミュニティで使ってもらえばいい。

世界を変えるための図書館

 必要なのは当然ながらライブラリです。グーグルではないけど、検索機能も必要です。知の体系化というよりも、それを使って、移動しなくても情報が活用できるようにすることです。自分たちをまとめるための映像などに使います。

 あわせて必要なのはアゴラです。図書館前の広場です。そこでは、異教徒が自分の言いたいことを言える場ということです。議会ではなく、もっと大きな世界です。

あいち環境塾

 あいち環境塾の情報がメールできました。去年と同じ内容、陣容です。チューターも写真入です。思い出に取っておきましょう。去年の総括はしたのでしょうか。何が得られたのでしょうか。何となく、惰性的に行われています。一緒に商売です。発展しないのはそのためなのでしょう。

 何が変わったのか? それが歴史に対して、どのような影響を及ぼすのか。私は明らかに変わりましたけど。

ゲーム化からコミュニティ化

 皆、スマホにしても自分のニーズだけで使っていくのか。それを人に見せびらかすために使っていくのか。ゲーム化が主です。そこからコミュニティ化を狙う人間が出てくるはずです。フェイスブックのように。

少子化の実感

 日本の人口は28万人減った。その内に、100万人単位で減っていくのでしょう。現実になった時の衝撃はフクシマ以上でしょう。国債が売れつづけるとは思えない。ギリシャ以上に狙いやすい国であるということと、どの国も助けてくれないという覚悟がいります。

 周りがこれだけ老人だらけならば、十分認識できます。10年後にはすべていなくなる世界です。そのイメージを持つ政治家はいないみたいです。

次に注目すること

 注目するのはエジプト第二革命です。これで、いかに次を見えるようにしていくのか。それと中国での分裂革命。そこで、どのようなニッチを狙うのか。

未唯へ

 34階から7時45分から太陽を見ている。同じ太陽なのにこんなにも違うのか。太陽と地球の間にいるモノで違うのでしょう。組織で言うとどんな連中なんでしょうか。

釈迦と大乗仏教の教義の差

 どの教義をとっても、その人の勝手だ。ムハンマドだろうと釈迦だろうと大乗仏教だろうとも。それによって政治経済が変わるということ。宗教が本当に道具なのか。一生だけの話なのか。