未唯への手紙
未唯への手紙
「今日の私」が行かないと決めた
主人公は「今日の私」
主人公は「今日の私」。だから、いつでも変えられる。今そることで変えていく。カタチに捉われない。
「昨日の私」からの名古屋行きは止めました。
今、6時です。昨日の私からの指示では、名古屋に出掛ける時間です。サンロードのIさんに挨拶して、スターウォーズを最前列でキャラメルポップコーンをたべる予定だった。全てを止めました。
名古屋に行くのは、その日の私が行きたくなったら、行きましょう。Iさんは関係なく、上映時間を気にします。何しろ、未唯とパートナーが動き出さないと、私は動けない。それに応えてきたつもりです。その上での今でしょう。多分。
10.6「個人と超国家」
10.6「個人と超国家」。これは存在と無と同じです。端と中央がつながる時に、中間の存在がどう動くか。メーカーと2000万人のお客様がつながる時に、中間の存在としての販売店がどう動くのか。
決して、これはハイアラキーではない。配置です。いかにそれが固定的なものでも。存在と無と言った時に、それが合わさるところは自分と言うもの、その構図から来ています。だから、ムスリムとしても、神とつながる時に、個人としてつながるだけでなく、中間の場として、コミュニティが存在する。それが在る時に、ISであったりする。元々は、王国と家庭国であった。新しい所はどうなるのか。
中間の場と安定性
中間の場をどのようにするかで安定性が異なる。個が生きていける時代になっている。
暗闇の中で考える
今一番、考えやすいのは暗闇の中です。と言っても布団の中に、Blue Shadeのキンドルを入れ込みます。これは見やすいです。
10.7「全てを知る」
10.7「全てを知る」。この構造は、そのために未唯空間から未唯宇宙に行った。全てを知って、そして、先に進む。詳細の所は、これ以上、短くすると。あまりにも抽象的になってしまう。ハンドリングのためには短くするしかない。そうなると右の?を使うことにします。
10.8「未唯空間」
10.8「未唯空間」は存在と無から始めることをやっています。だから、出発点は「存在と無」であるということ。キーワードとしては、存在と無です。そうなると、右の方で、「存在と無から始まる」にしておいて、左側はもっと端的にする。
そのなかに、未唯空間にまとめるという言葉があります。「まとめる」という言葉がキーワードです。未唯空間はもう一つ上の配置です。未唯空間の色々なところに「まとめる」という言葉が出てきます。それが連鎖します。
その結果として、まとめる場所として、「内なる世界」を使います。そうなると、「内なる世界」がキーワード。
仕様に当たる分もありますから、あれを連携させておいて、空間にしておきます。
中項目をまとめる
文章を右に作ります。これらの中項目をまとめるものとして、左側に文章を書きます。文章のかなりの部分が造語になっています。何しろ、ロジックそのものだから。自分でわかりやすいモノを入れます。
反映の入れ込みが遅れている
反映も同じように考えないといけない。単に割り振るだけでなく、未唯空間の中で、どう位置づけられるのか。12月分が溜まっています。まあ、受ける母体はできたのだから、これにゆっくり、当てはめていきましょう。そのためにどうやって見るかです。
布団の中のキンドル
もしかすると、2台のキンドルを使うことになるかもしれません。「反映」と「未唯空間」を示します。軽さから、ペーパーホワイトが出てくる可能性があります。未唯空間は絵を使っているので、カラーでないとダメです。「反映」は文章だから、白黒で十分です。
10.5「変節点」
10.5「変節点」は従来の意思の力でゴリゴリとやってきた。進化してきたために、それが通用しなくなった。
それに対して、私が存在している意味が、歴史を変える時に来ているということです。だから、「変節点」を向かえる。その先に在るのは、存在の力です。だから、存在の力が隠れています。そういうことは、存在の力と意思の力との差は、配置かハイアラキーかの違いになってきます。個人の方は大きいということです。部分が全体よりも大きい。
Iさんからのメール再考
三週間に10分以下の接触なのに、なぜ、わざわざ、メールしてきたのか。女性心理の分析は封印しているはずなのに。
ハレーすい星の気を感じない
全然、このケータイはなる気がしていない。ハレー彗星も1か月間、行方不明。現れる雰囲気がない。
最初の年なのに
年末年始に未唯もノブも現れず。最初の年ですよ。母体のため?
主人公は「今日の私」。だから、いつでも変えられる。今そることで変えていく。カタチに捉われない。
「昨日の私」からの名古屋行きは止めました。
今、6時です。昨日の私からの指示では、名古屋に出掛ける時間です。サンロードのIさんに挨拶して、スターウォーズを最前列でキャラメルポップコーンをたべる予定だった。全てを止めました。
名古屋に行くのは、その日の私が行きたくなったら、行きましょう。Iさんは関係なく、上映時間を気にします。何しろ、未唯とパートナーが動き出さないと、私は動けない。それに応えてきたつもりです。その上での今でしょう。多分。
10.6「個人と超国家」
10.6「個人と超国家」。これは存在と無と同じです。端と中央がつながる時に、中間の存在がどう動くか。メーカーと2000万人のお客様がつながる時に、中間の存在としての販売店がどう動くのか。
決して、これはハイアラキーではない。配置です。いかにそれが固定的なものでも。存在と無と言った時に、それが合わさるところは自分と言うもの、その構図から来ています。だから、ムスリムとしても、神とつながる時に、個人としてつながるだけでなく、中間の場として、コミュニティが存在する。それが在る時に、ISであったりする。元々は、王国と家庭国であった。新しい所はどうなるのか。
中間の場と安定性
中間の場をどのようにするかで安定性が異なる。個が生きていける時代になっている。
暗闇の中で考える
今一番、考えやすいのは暗闇の中です。と言っても布団の中に、Blue Shadeのキンドルを入れ込みます。これは見やすいです。
10.7「全てを知る」
10.7「全てを知る」。この構造は、そのために未唯空間から未唯宇宙に行った。全てを知って、そして、先に進む。詳細の所は、これ以上、短くすると。あまりにも抽象的になってしまう。ハンドリングのためには短くするしかない。そうなると右の?を使うことにします。
10.8「未唯空間」
10.8「未唯空間」は存在と無から始めることをやっています。だから、出発点は「存在と無」であるということ。キーワードとしては、存在と無です。そうなると、右の方で、「存在と無から始まる」にしておいて、左側はもっと端的にする。
そのなかに、未唯空間にまとめるという言葉があります。「まとめる」という言葉がキーワードです。未唯空間はもう一つ上の配置です。未唯空間の色々なところに「まとめる」という言葉が出てきます。それが連鎖します。
その結果として、まとめる場所として、「内なる世界」を使います。そうなると、「内なる世界」がキーワード。
仕様に当たる分もありますから、あれを連携させておいて、空間にしておきます。
中項目をまとめる
文章を右に作ります。これらの中項目をまとめるものとして、左側に文章を書きます。文章のかなりの部分が造語になっています。何しろ、ロジックそのものだから。自分でわかりやすいモノを入れます。
反映の入れ込みが遅れている
反映も同じように考えないといけない。単に割り振るだけでなく、未唯空間の中で、どう位置づけられるのか。12月分が溜まっています。まあ、受ける母体はできたのだから、これにゆっくり、当てはめていきましょう。そのためにどうやって見るかです。
布団の中のキンドル
もしかすると、2台のキンドルを使うことになるかもしれません。「反映」と「未唯空間」を示します。軽さから、ペーパーホワイトが出てくる可能性があります。未唯空間は絵を使っているので、カラーでないとダメです。「反映」は文章だから、白黒で十分です。
10.5「変節点」
10.5「変節点」は従来の意思の力でゴリゴリとやってきた。進化してきたために、それが通用しなくなった。
それに対して、私が存在している意味が、歴史を変える時に来ているということです。だから、「変節点」を向かえる。その先に在るのは、存在の力です。だから、存在の力が隠れています。そういうことは、存在の力と意思の力との差は、配置かハイアラキーかの違いになってきます。個人の方は大きいということです。部分が全体よりも大きい。
Iさんからのメール再考
三週間に10分以下の接触なのに、なぜ、わざわざ、メールしてきたのか。女性心理の分析は封印しているはずなのに。
ハレーすい星の気を感じない
全然、このケータイはなる気がしていない。ハレー彗星も1か月間、行方不明。現れる雰囲気がない。
最初の年なのに
年末年始に未唯もノブも現れず。最初の年ですよ。母体のため?
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なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか
『犯罪の世間学』より
なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか。私の答えは簡単である。それは「世間」があるからだ。本書でいいたいことは、これに尽きる。
二〇一一年の東日本大震災のときに海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然おこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことだった。つまり、諸外国と比較したときの日本の犯罪率の圧倒的低さや治安のよさだった。
いったいなぜなのか。日本には外国には存在しない「世間」があり、法よりも「世間」のルールのほうがはるかに優先されるため、法秩序が崩壊した状態でも、それが外国のように略奪や暴動にただちに結び付かないのだ。日本人はみな、法のルール以前に、「世間」のルールに縛られているのである。
世間学の創始者である阿部謹也がいうように、日本には社会という言葉があるが、それは一八七七年ごろに society の訳語として造られたものである。いうまでもなく、江戸時代に社会は存在しなかった。
その実質は、百四十年近くたったいまでも日本には根づいていない。その代わりに伝統的に存在し続けてきたのが「世間」だった。その「世間」に、日本人はいまだがんじがらめに縛られている。現在、先進工業国のなかでダントツの治安のよさを誇っているのは、この「世間」が存在するからである。
ところが巷で人気がある考え方によれば、「世間」は「第一の開国」としての明治以降の近代化とともに徐々に解体し、最終的には消滅すべきものだとされている。現代社会は犯罪が増加し治安が悪化しつつあるが、それはたとえば昭和三十年代(一九六〇年前後の十年)をテーマにした『三丁目の夕日』で描かれているような牧歌的時代に比べて、「世間」の人々のつながりが希薄になり、個人がバラバラになったためだとされる。
しかし一九五〇年代からの歴史を考えてみても、現在に至るまで犯罪は明らかに減少傾向にあるし、「世間」は解体も消滅もしていない。九〇年代末以降顕著になった日本の刑事司法での厳罰化も、①人々のつながりの希薄化、②そのための犯罪の増加や凶悪化、③それを防止するための厳罰化、という図式からは説明できないのだ。
そこでまず本書で明らかにしたいのは、現在の日本で生じている厳罰化か、犯罪の増加や治安の悪化によるものではなく、もともとあった「世間」が前景化したこと、すなわち「世間」の「復活」によるものだったことである。
その最大の理由は、一九九〇年代末以降の「第二の開国」ともいうべき、グローバル化にともなう新自由主義の本格的台頭である。成果主義に代表される新自由主義は、人々を「万人の万人に対する闘争」ともいうべき競争的環境に叩き込んだ。「世間」は無理難題を強いられ、そのため「世間」のさまざまなルールの肥大化がおきた。その結果、「世間」全体が深刻なストレスをため込んでいき、異質なものを排除する同調圧力が強まったのである。
もう一つ、本書で明らかにしたいのは、「世間」という〈共同幻想〉のチカラの巨大さ・強固さ・執拗さである。日本の「世間」はあらゆる反抗や反逆や反乱を、最終的に秩序に回収していく強大なチカラをもっている。しかもいま「世間」は、辺見庸がいう「新しいファシズム」を胚胎する土壌になりつつある。
私は一九五一年生まれで、団塊の世代の少し下にあたる。学生時代には青や黒(どーだ、懐かしいだろう)のヘルメットをかぶって、当時後退局面にあった全共闘運動に多少関わり、七〇年代初めには、ちょっとした学内の出入りに連座して警察の留置場にブチこまれたり、大学から処分をくらったりしていた。いまは一応由緒正しい刑法学者だが、刑法を本格的にやろうと思ったのは、このときの個人的ウラミによるところが大きい。
それはともかくとして、私たちの世代は、大学では、どちらかといえばあまりおいしい目にはあえなかったように思う。上の世代がやりたい放題にしていった廃墟のなかで、いわば引っ越しの荷物整理とか掃除とかいった、後始末ばかりやらされていたような気がする。
総じて団塊の世代は評判が悪い。学生時代には好き勝手をし、就職のために長い髪を切り、企業に入って組合運動をやったりもする。が、そのうち管理職になると、そのときの経験を生かして今度は組合を弾圧したりする。さらに退職したあとは、急に昔を思い出して反原発デモに参加し始めたりする。
節操がないといえばそうなのだが、それを非難したいわけではない。ここで問題なのは、連合赤軍事件に象徴されるように、一九七〇年以降の全共闘運動は敗北の歴史といっていいが、それでは全共闘はいったい何に負けたのか、ということである。学生のデモ隊が、機動隊の壁をぶち破れなかったから負けたのか。つまり国家権力という強大な暴力装置に負けたのか。
そうではない。日本人ががんじがらめに縛られているが、同時にごくありふれたものである「世間」という権力に負けたのだ。これは日本では、全共闘にせよ、暴走族にせよ、ヤンキーにせよ、ロック少年にせよ、あらゆる若者の反抗や反逆や反乱が単なる「若気の至り」として、結局のところ「世間」という日常的な秩序に圧倒的に回収されていくことを示している。
私はかつて、「世間」を「日本人が集団になったときに発生する力学」と定義したことがあるが、これは、「世間」がある種の権力として作動していることを意味する。そのため「世間」は、個人を集団に従わせる強力な同調圧力をもつ。とくに一九九〇年代末以降、この同調圧力がひどく強まっているのを、ひしひしと感じる。「世間」がもつこの巨大さ・強固さ・執拗さを、本書全体を通じて浮き彫りにしたいと思う。
なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか。私の答えは簡単である。それは「世間」があるからだ。本書でいいたいことは、これに尽きる。
二〇一一年の東日本大震災のときに海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然おこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことだった。つまり、諸外国と比較したときの日本の犯罪率の圧倒的低さや治安のよさだった。
いったいなぜなのか。日本には外国には存在しない「世間」があり、法よりも「世間」のルールのほうがはるかに優先されるため、法秩序が崩壊した状態でも、それが外国のように略奪や暴動にただちに結び付かないのだ。日本人はみな、法のルール以前に、「世間」のルールに縛られているのである。
世間学の創始者である阿部謹也がいうように、日本には社会という言葉があるが、それは一八七七年ごろに society の訳語として造られたものである。いうまでもなく、江戸時代に社会は存在しなかった。
その実質は、百四十年近くたったいまでも日本には根づいていない。その代わりに伝統的に存在し続けてきたのが「世間」だった。その「世間」に、日本人はいまだがんじがらめに縛られている。現在、先進工業国のなかでダントツの治安のよさを誇っているのは、この「世間」が存在するからである。
ところが巷で人気がある考え方によれば、「世間」は「第一の開国」としての明治以降の近代化とともに徐々に解体し、最終的には消滅すべきものだとされている。現代社会は犯罪が増加し治安が悪化しつつあるが、それはたとえば昭和三十年代(一九六〇年前後の十年)をテーマにした『三丁目の夕日』で描かれているような牧歌的時代に比べて、「世間」の人々のつながりが希薄になり、個人がバラバラになったためだとされる。
しかし一九五〇年代からの歴史を考えてみても、現在に至るまで犯罪は明らかに減少傾向にあるし、「世間」は解体も消滅もしていない。九〇年代末以降顕著になった日本の刑事司法での厳罰化も、①人々のつながりの希薄化、②そのための犯罪の増加や凶悪化、③それを防止するための厳罰化、という図式からは説明できないのだ。
そこでまず本書で明らかにしたいのは、現在の日本で生じている厳罰化か、犯罪の増加や治安の悪化によるものではなく、もともとあった「世間」が前景化したこと、すなわち「世間」の「復活」によるものだったことである。
その最大の理由は、一九九〇年代末以降の「第二の開国」ともいうべき、グローバル化にともなう新自由主義の本格的台頭である。成果主義に代表される新自由主義は、人々を「万人の万人に対する闘争」ともいうべき競争的環境に叩き込んだ。「世間」は無理難題を強いられ、そのため「世間」のさまざまなルールの肥大化がおきた。その結果、「世間」全体が深刻なストレスをため込んでいき、異質なものを排除する同調圧力が強まったのである。
もう一つ、本書で明らかにしたいのは、「世間」という〈共同幻想〉のチカラの巨大さ・強固さ・執拗さである。日本の「世間」はあらゆる反抗や反逆や反乱を、最終的に秩序に回収していく強大なチカラをもっている。しかもいま「世間」は、辺見庸がいう「新しいファシズム」を胚胎する土壌になりつつある。
私は一九五一年生まれで、団塊の世代の少し下にあたる。学生時代には青や黒(どーだ、懐かしいだろう)のヘルメットをかぶって、当時後退局面にあった全共闘運動に多少関わり、七〇年代初めには、ちょっとした学内の出入りに連座して警察の留置場にブチこまれたり、大学から処分をくらったりしていた。いまは一応由緒正しい刑法学者だが、刑法を本格的にやろうと思ったのは、このときの個人的ウラミによるところが大きい。
それはともかくとして、私たちの世代は、大学では、どちらかといえばあまりおいしい目にはあえなかったように思う。上の世代がやりたい放題にしていった廃墟のなかで、いわば引っ越しの荷物整理とか掃除とかいった、後始末ばかりやらされていたような気がする。
総じて団塊の世代は評判が悪い。学生時代には好き勝手をし、就職のために長い髪を切り、企業に入って組合運動をやったりもする。が、そのうち管理職になると、そのときの経験を生かして今度は組合を弾圧したりする。さらに退職したあとは、急に昔を思い出して反原発デモに参加し始めたりする。
節操がないといえばそうなのだが、それを非難したいわけではない。ここで問題なのは、連合赤軍事件に象徴されるように、一九七〇年以降の全共闘運動は敗北の歴史といっていいが、それでは全共闘はいったい何に負けたのか、ということである。学生のデモ隊が、機動隊の壁をぶち破れなかったから負けたのか。つまり国家権力という強大な暴力装置に負けたのか。
そうではない。日本人ががんじがらめに縛られているが、同時にごくありふれたものである「世間」という権力に負けたのだ。これは日本では、全共闘にせよ、暴走族にせよ、ヤンキーにせよ、ロック少年にせよ、あらゆる若者の反抗や反逆や反乱が単なる「若気の至り」として、結局のところ「世間」という日常的な秩序に圧倒的に回収されていくことを示している。
私はかつて、「世間」を「日本人が集団になったときに発生する力学」と定義したことがあるが、これは、「世間」がある種の権力として作動していることを意味する。そのため「世間」は、個人を集団に従わせる強力な同調圧力をもつ。とくに一九九〇年代末以降、この同調圧力がひどく強まっているのを、ひしひしと感じる。「世間」がもつこの巨大さ・強固さ・執拗さを、本書全体を通じて浮き彫りにしたいと思う。
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パートナーに見る異性嗜癖
『アディクションアプローチ』より
人間関係嗜癖
人と人との関係は、その状況に応じた役割の分担と交代、コミュニケーションのパターン、人と人との間の境界線や距離感から成り立っています。それを「関係性」といい、状況にあわせて柔軟に変容させることがふつうです。役割でいえば、あるときは友達の相談にのり、あるときは自分の悩みを聞いてもらうというケアの担い手・受け手の関係がありますし、その場を和ませるピエロ役やみんなに頼りにされるリーダ一役もいます。これは、それまでの対人関係のなかで育んできたその人の個性とも重なり、得意な役割というものもできてきます。と同時に、状況に応じて役割の変化や交代が起こるものでもあります。コミュニケーションのパターンや人との距離感の習慣も自分らしさの部分でありながら、相手や状況に応じた態度をとっているものです。それらの関係について、個性というより強迫的にそうしていないといられない状態を「人間関係嗜癖」といいます。
共依存という“間”のとれない関係
人間関係の悪習慣を形容したものに、「共依存状態・共依存関係」という言葉があります。共依存とは、アルコール依存症の家族研究から理解された関係性で、アルコール依存症の人の配偶者や親たちが、本人のアルコール問題に巻き込まれていき、本人との関係における境界線を意識できなくなってその関係にのめりこみ、アルコール問題をめぐって“間”のとれない関係が自動化している状態を指して使われ始めた言葉です。すべての家族がそうなっているわけではありませんが、アルコールでいえば飲むこと、酔うことの後始末などにかかわり、結果として家族が本人の主体的な回復を妨げるイネイブラー役をしてしまうことかあります。そうした家族に心理教育プログラムを提供して病気の本質を知り、本人への対応を工夫することにより本来の関係を取り戻すのですが、この関係に気づいても変えられない一部の人たちの存在があり、あるいはもともとその関係性を求めて一緒になった人たちがいることが解明されてきたアディクションを総称して「人間関係嗜癖」といいます。人間関係の嗜癖にはいくっかのタイプがあります。順に見ていきましょう。
関係嗜癖
“間がとれない”には、「常に相手を見ていないと安心しない」という物理的な距離がとれない場合や、「すぐに答えを出してほしい、反応がほしい」という時間的な距離がとれない場合、あるいは、「相手のすべてを知っていないと安心できない」「相手と自分が同じ感情や感覚を持っているのが当然」という心理的な距離がとれない場合があります。
間をとらない関係がすべて問題なのではありません。赤ちゃんと母親は、一時の間は境界線なく、母親はわが子の感情や感覚に焦点を当て、暑くないか寒くないか、おなかがすいていないかと考えます。でも、子が成長していくとだんだん距離をとるようになり、お互いにその距離を修正していくものです。成人している場合も、親しい相手が困っていて、一時だけ相手に間をおかずに寄り添うといった関係は自然にあります。
ところが、この関係が修正されず、相手が自分の思いどおりになることを自然と考え、極端な干渉や束縛、お膳立て、後始末を行う結果、子どもの成熟を阻害していたり、暴力が発生したりなど、さまざまな支障が出てきてもそれをやめられない状態を「関係嗜癖」といいます。この状態が長く継続すると、相手の佃既や人格まで、別のものだと認められなくなります。
相手のコントロールをめぐっては、両者にさまざまな暴力が使われることもあります。逆に、自分の人格を背後に置いて、相手の中に自己を投入して、問題のある相手の状況が自分の状況のように感じられてその事情に巻き込まれて苦しんだり、相手の基準や評価で物事を感じたり考えたり行動したりといった、他者のために生きるという不健康な生き方をしてしまうことになります。
異性嗜癖
女性として、男性として、常に異性に認められていないといられない状態を「異性嗜癖」といいます。異性嗜癖は愛情嗜癖の変形版といえます。常に異性のパートナーがいないと自分に価値がないように感じられ、異性を求めて複数の人と関係を持つ、いろいろなタイプの異性にアプローチしていくなどの行動があり、対人関係のトラブルになったり、大切なパートナーを傷つけたりすることになります。
不倫のなかには、事情があって離婚できずに婚外関係を続けているものもあるでしょうが、異性嗜癖の場合、配偶者がいるのに自分と関係すること、またその関係を続けるところに、男性性や女性性を認められた感覚が強く持てることから、不倫が選択されることもあります。その終局に関しても、自分のほうに優位性がある関係性が必要で、自分から別れて同様の不倫関係をくり返すのも異性嗜癖の特徴です。
人間関係嗜癖をイメージしやすいように、このカテゴリーに含まれるアディクションを1つずつ挙げましたが、「このケースは愛情嗜癖か異性嗜癖か」などと厳密に区分することは意味がないことです。並列して持っていることも当然あります。
それよりも、本人の心の中にある、どの部分が心地よく感じられ、なぜそれが必要となり、なぜやめられないのか、その背景となっている一次嗜癖はどのような要素なのかといった、ごく個人的な、本人の心の奥深くにあるものが検討されることが重要なのです。
社会のなかで人生を生き抜く間に、どのようにそのアディクションがその人に必要になったのかは、その人が生きた社会状況や地域性に関係するものであり、厳密に病気かどうかをはっきりさせて、その分類上の位置づけを医学モデルに沿って区分することは、援助職にとってはあまり意味がないことなのです。
人間関係嗜癖
人と人との関係は、その状況に応じた役割の分担と交代、コミュニケーションのパターン、人と人との間の境界線や距離感から成り立っています。それを「関係性」といい、状況にあわせて柔軟に変容させることがふつうです。役割でいえば、あるときは友達の相談にのり、あるときは自分の悩みを聞いてもらうというケアの担い手・受け手の関係がありますし、その場を和ませるピエロ役やみんなに頼りにされるリーダ一役もいます。これは、それまでの対人関係のなかで育んできたその人の個性とも重なり、得意な役割というものもできてきます。と同時に、状況に応じて役割の変化や交代が起こるものでもあります。コミュニケーションのパターンや人との距離感の習慣も自分らしさの部分でありながら、相手や状況に応じた態度をとっているものです。それらの関係について、個性というより強迫的にそうしていないといられない状態を「人間関係嗜癖」といいます。
共依存という“間”のとれない関係
人間関係の悪習慣を形容したものに、「共依存状態・共依存関係」という言葉があります。共依存とは、アルコール依存症の家族研究から理解された関係性で、アルコール依存症の人の配偶者や親たちが、本人のアルコール問題に巻き込まれていき、本人との関係における境界線を意識できなくなってその関係にのめりこみ、アルコール問題をめぐって“間”のとれない関係が自動化している状態を指して使われ始めた言葉です。すべての家族がそうなっているわけではありませんが、アルコールでいえば飲むこと、酔うことの後始末などにかかわり、結果として家族が本人の主体的な回復を妨げるイネイブラー役をしてしまうことかあります。そうした家族に心理教育プログラムを提供して病気の本質を知り、本人への対応を工夫することにより本来の関係を取り戻すのですが、この関係に気づいても変えられない一部の人たちの存在があり、あるいはもともとその関係性を求めて一緒になった人たちがいることが解明されてきたアディクションを総称して「人間関係嗜癖」といいます。人間関係の嗜癖にはいくっかのタイプがあります。順に見ていきましょう。
関係嗜癖
“間がとれない”には、「常に相手を見ていないと安心しない」という物理的な距離がとれない場合や、「すぐに答えを出してほしい、反応がほしい」という時間的な距離がとれない場合、あるいは、「相手のすべてを知っていないと安心できない」「相手と自分が同じ感情や感覚を持っているのが当然」という心理的な距離がとれない場合があります。
間をとらない関係がすべて問題なのではありません。赤ちゃんと母親は、一時の間は境界線なく、母親はわが子の感情や感覚に焦点を当て、暑くないか寒くないか、おなかがすいていないかと考えます。でも、子が成長していくとだんだん距離をとるようになり、お互いにその距離を修正していくものです。成人している場合も、親しい相手が困っていて、一時だけ相手に間をおかずに寄り添うといった関係は自然にあります。
ところが、この関係が修正されず、相手が自分の思いどおりになることを自然と考え、極端な干渉や束縛、お膳立て、後始末を行う結果、子どもの成熟を阻害していたり、暴力が発生したりなど、さまざまな支障が出てきてもそれをやめられない状態を「関係嗜癖」といいます。この状態が長く継続すると、相手の佃既や人格まで、別のものだと認められなくなります。
相手のコントロールをめぐっては、両者にさまざまな暴力が使われることもあります。逆に、自分の人格を背後に置いて、相手の中に自己を投入して、問題のある相手の状況が自分の状況のように感じられてその事情に巻き込まれて苦しんだり、相手の基準や評価で物事を感じたり考えたり行動したりといった、他者のために生きるという不健康な生き方をしてしまうことになります。
異性嗜癖
女性として、男性として、常に異性に認められていないといられない状態を「異性嗜癖」といいます。異性嗜癖は愛情嗜癖の変形版といえます。常に異性のパートナーがいないと自分に価値がないように感じられ、異性を求めて複数の人と関係を持つ、いろいろなタイプの異性にアプローチしていくなどの行動があり、対人関係のトラブルになったり、大切なパートナーを傷つけたりすることになります。
不倫のなかには、事情があって離婚できずに婚外関係を続けているものもあるでしょうが、異性嗜癖の場合、配偶者がいるのに自分と関係すること、またその関係を続けるところに、男性性や女性性を認められた感覚が強く持てることから、不倫が選択されることもあります。その終局に関しても、自分のほうに優位性がある関係性が必要で、自分から別れて同様の不倫関係をくり返すのも異性嗜癖の特徴です。
人間関係嗜癖をイメージしやすいように、このカテゴリーに含まれるアディクションを1つずつ挙げましたが、「このケースは愛情嗜癖か異性嗜癖か」などと厳密に区分することは意味がないことです。並列して持っていることも当然あります。
それよりも、本人の心の中にある、どの部分が心地よく感じられ、なぜそれが必要となり、なぜやめられないのか、その背景となっている一次嗜癖はどのような要素なのかといった、ごく個人的な、本人の心の奥深くにあるものが検討されることが重要なのです。
社会のなかで人生を生き抜く間に、どのようにそのアディクションがその人に必要になったのかは、その人が生きた社会状況や地域性に関係するものであり、厳密に病気かどうかをはっきりさせて、その分類上の位置づけを医学モデルに沿って区分することは、援助職にとってはあまり意味がないことなのです。
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新しい図書館を観る目
『司書はゆるりと魔女になる』より
長野県小布施町図書館(まちとしょテラソ)
なにかと話題の小布施町図書館、長野市から長野電鉄への乗り換え、のんびりした風景を眺めながら30分ほどで小布施に着いた。冬なのに結構観光客が歩いている。それも外国人が多い。昔風の建物が軒を連ねる町の風情は、山形県の金山町にどこか似ている。
その図書館は、2011年のライブラリーオブザイヤー受賞、日本図書館協会建築賞も受賞、全く図書館畑でない館長の快挙と称える新聞記事が記憶にあった。件の館長、その前歴はTVの映像作家、巧みな話術でそれまでの経緯を語った。
住民1万2000人の町に来る観光客が、年間120万、半端ではない。すでに観光地としての素地のある場所に、それに見合った図書館を建てる。それも住民を巻き込んで、その発足までの議論(図書館建設運営委員会)をくまなく反映し、建てられた図書館。従来の図書館の概念を崩し、地域の交流の拠点として、また図書のみではなくあらゆるメディアの提供をめざして。そして日本一の図書館に選ばれた。
建物はワンフロア、光が差し込み中央部に書架が並ぶ。周りに椅子、柱は樹をデザインしたしやれた白い枝状のものが、天井を支える。その天井を覆うのは見事に貼られた細くて長い材木である。コーナーにはさまざまな椅子が置いてあり、ちょっとしたイベントコーナーにも早変わりする。多目的室など、これもワークショップなどに活躍しているようだ。
NII(国立情報学研究所)の「想」という検索システムも取り入れている。これはさまざまの情報源から本を探すサイトである。情報提供は町の図書館であれ世界レベル? を目指す意気込みなのか。そして司書が考えて収集したという妖怪コーナーも人気らしい。さらに、当地に書店がないため、本も販売する。
さて肝心の書棚を見て回った。あれ?はて?という疑問が湧く。書棚がこちらを呼ばないのである。蔵書の磁力のようなものが感じられない。おまけに書棚がかなり乱れており、書架整理がしたくなるほどであった。イべントも図書館要素の一つというけれども、芯になるものはやはり本でしょう。
聞くところによると、お掃除も外注せずに職員がするとか、掃除も大切、ただし最低でも書架の乱れを防ぐシェルフリーディングも大切である。書架整理は単に整理するのみではない、見えない力を育むのだ。蔵書を知ることが司書の潜在力になるのである。
ランガナ・タンの図書館の五原則のひとつ「図書館は成長する有機体である」を、今一度思い返すべきである。図書館は作ってそこで終わりではない。選書をして蔵書を構築するという日々の基本的作業を忘れてはならなのである。名物館長の任期も切れ、これからの動向が気になる所である。(2013・1・23訪問)
佐賀県武雄市図書館
こちらも一時マスコミの話題を席巻した武雄市図書館、見ないことには何も始まらないと、福岡で図書館大会があったのを機にでかけた。博多駅からJR特急で1時間強、武雄温泉駅で下車、降り立った町の雰囲気は、鄙びた感じである。
歩いて15分ほど、不思議な形をした御船山のふもとに、その図書館はあった。入口を入ると、マスコミでシンボル的に取hソ上げられたBL(British Library)を模した円形の書棚は、何故か目に入らない。書店の狼雑な雰囲気がその場を支配し、いい図書館へ入った時の、あの蔵書に呼び込まれるような感覚が皆無だったせいだろう。
分類が気になっていたので、検索機を使い資料にあたることにした。試しに、〝図書館概論〟と入力、塩見昇著のそれを探すことにした。検索機からスリップが吐き出され、指示されたのは教育の棚だった。その場所がクロポチのついているのは、書店での指示と同じである。図書館学が教育?と判然としない気持ちを抱いたまま、その教育の棚に行ってみた。2連になったその書棚、以前に使用していたNDC仕様のラベルが貼ってあるものもある。
でもどうやって探すのだ。われわれはプロだが、書架記号がない本を探せない。連れがコンシェルジェに聞いてきますと、カウンターに行った。一緒に戻ってきた制服の黒のベストを着たコンシェルジェ(ツタヤではこう呼ぶ)、棚の最初から指さしでI冊ずつあたっている。しばし探しても駄目で、二度カウンターに戻った。件の『図書館概論』は塩見昇著、JLA図書館情報学テキストシリーズ:3(2008)。シリーズ名もスリップには明記されないことを言うと、事務用には出るそうだけども……、そしてかなりの時間を要した後に、2冊のそれがバラバラの所に見つかった。それも版違いである。同書名同著者なら、2冊並べてあるのが当然で、おまけに古い版のものは書庫へ行くということがなされていない。もちろん、武雄市図書館に、以前あった書庫スペースがほとんどなくなったという話であるから、自明ともいえる日常的処理ができないのだ。
そのあと館内を見ているうちに、レファレンス資料が一般資料と混排されているのに気づいた。もちろん、資料が重複している場合は、混排もかまわないけれど、信じられない。レファレンスコーナーなるものがないのだ。『日本国勢図会』、一見して相当古いものが1冊あった。これはすぐれたレファレンスツールで、日本の現状、自然、気候、人口、交通等の統計が一目でわかるものなのだが、こんな古いものは、普通なら書庫行のはず。さらに新しいものを補填していくのが、司書の仕事であろうに……。
ある棚に来て、書棚の下の方に『日本国語大辞典』の片割れが2冊ある。これは全13巻プラス別巻まである日本語に関して一番情報量のある辞典なのだが、さて本体はどこだと見まわしたところ、その部屋の向かい側の、高い棚のガラス戸の中に入っているではないか。調べる資料がないがしろにされていて、憤りさえ覚える。次に新聞の縮刷版の所へ行くと、これは見上げるような高さの所に排架され、一部はこれも離れた下の棚においてあった。本が可哀そうというのが、実感だった。図書館では、資料が使われてナンボである。そんな手立てもない排架をしている本の並びだった。
2階からつまり、ちょうどその縮刷版のあった棚の所から、図書館全体が見渡せる。「書店とスタバに間借りしている図書館ですね」と連れが言う。本当にそうだ。シェルフリーディングをしようにも、それができない図書館、レファレンス・コーナーがない図書館。
児童書コーナーも全く魅力的ではない。だいたい棚が全体に高い。基準から言ったら、上に一棚多い。利用者側の視線は皆無だった。そして、そこを利用している親子は見かけなかった。わくわく感のない蔵書を、この児童書コーナーも如実に語る。一番象徴的だったのは、案内板、武雄市図書館の下にスタバマークがついていた。(2013・11・20見学)
長野県小布施町図書館(まちとしょテラソ)
なにかと話題の小布施町図書館、長野市から長野電鉄への乗り換え、のんびりした風景を眺めながら30分ほどで小布施に着いた。冬なのに結構観光客が歩いている。それも外国人が多い。昔風の建物が軒を連ねる町の風情は、山形県の金山町にどこか似ている。
その図書館は、2011年のライブラリーオブザイヤー受賞、日本図書館協会建築賞も受賞、全く図書館畑でない館長の快挙と称える新聞記事が記憶にあった。件の館長、その前歴はTVの映像作家、巧みな話術でそれまでの経緯を語った。
住民1万2000人の町に来る観光客が、年間120万、半端ではない。すでに観光地としての素地のある場所に、それに見合った図書館を建てる。それも住民を巻き込んで、その発足までの議論(図書館建設運営委員会)をくまなく反映し、建てられた図書館。従来の図書館の概念を崩し、地域の交流の拠点として、また図書のみではなくあらゆるメディアの提供をめざして。そして日本一の図書館に選ばれた。
建物はワンフロア、光が差し込み中央部に書架が並ぶ。周りに椅子、柱は樹をデザインしたしやれた白い枝状のものが、天井を支える。その天井を覆うのは見事に貼られた細くて長い材木である。コーナーにはさまざまな椅子が置いてあり、ちょっとしたイベントコーナーにも早変わりする。多目的室など、これもワークショップなどに活躍しているようだ。
NII(国立情報学研究所)の「想」という検索システムも取り入れている。これはさまざまの情報源から本を探すサイトである。情報提供は町の図書館であれ世界レベル? を目指す意気込みなのか。そして司書が考えて収集したという妖怪コーナーも人気らしい。さらに、当地に書店がないため、本も販売する。
さて肝心の書棚を見て回った。あれ?はて?という疑問が湧く。書棚がこちらを呼ばないのである。蔵書の磁力のようなものが感じられない。おまけに書棚がかなり乱れており、書架整理がしたくなるほどであった。イべントも図書館要素の一つというけれども、芯になるものはやはり本でしょう。
聞くところによると、お掃除も外注せずに職員がするとか、掃除も大切、ただし最低でも書架の乱れを防ぐシェルフリーディングも大切である。書架整理は単に整理するのみではない、見えない力を育むのだ。蔵書を知ることが司書の潜在力になるのである。
ランガナ・タンの図書館の五原則のひとつ「図書館は成長する有機体である」を、今一度思い返すべきである。図書館は作ってそこで終わりではない。選書をして蔵書を構築するという日々の基本的作業を忘れてはならなのである。名物館長の任期も切れ、これからの動向が気になる所である。(2013・1・23訪問)
佐賀県武雄市図書館
こちらも一時マスコミの話題を席巻した武雄市図書館、見ないことには何も始まらないと、福岡で図書館大会があったのを機にでかけた。博多駅からJR特急で1時間強、武雄温泉駅で下車、降り立った町の雰囲気は、鄙びた感じである。
歩いて15分ほど、不思議な形をした御船山のふもとに、その図書館はあった。入口を入ると、マスコミでシンボル的に取hソ上げられたBL(British Library)を模した円形の書棚は、何故か目に入らない。書店の狼雑な雰囲気がその場を支配し、いい図書館へ入った時の、あの蔵書に呼び込まれるような感覚が皆無だったせいだろう。
分類が気になっていたので、検索機を使い資料にあたることにした。試しに、〝図書館概論〟と入力、塩見昇著のそれを探すことにした。検索機からスリップが吐き出され、指示されたのは教育の棚だった。その場所がクロポチのついているのは、書店での指示と同じである。図書館学が教育?と判然としない気持ちを抱いたまま、その教育の棚に行ってみた。2連になったその書棚、以前に使用していたNDC仕様のラベルが貼ってあるものもある。
でもどうやって探すのだ。われわれはプロだが、書架記号がない本を探せない。連れがコンシェルジェに聞いてきますと、カウンターに行った。一緒に戻ってきた制服の黒のベストを着たコンシェルジェ(ツタヤではこう呼ぶ)、棚の最初から指さしでI冊ずつあたっている。しばし探しても駄目で、二度カウンターに戻った。件の『図書館概論』は塩見昇著、JLA図書館情報学テキストシリーズ:3(2008)。シリーズ名もスリップには明記されないことを言うと、事務用には出るそうだけども……、そしてかなりの時間を要した後に、2冊のそれがバラバラの所に見つかった。それも版違いである。同書名同著者なら、2冊並べてあるのが当然で、おまけに古い版のものは書庫へ行くということがなされていない。もちろん、武雄市図書館に、以前あった書庫スペースがほとんどなくなったという話であるから、自明ともいえる日常的処理ができないのだ。
そのあと館内を見ているうちに、レファレンス資料が一般資料と混排されているのに気づいた。もちろん、資料が重複している場合は、混排もかまわないけれど、信じられない。レファレンスコーナーなるものがないのだ。『日本国勢図会』、一見して相当古いものが1冊あった。これはすぐれたレファレンスツールで、日本の現状、自然、気候、人口、交通等の統計が一目でわかるものなのだが、こんな古いものは、普通なら書庫行のはず。さらに新しいものを補填していくのが、司書の仕事であろうに……。
ある棚に来て、書棚の下の方に『日本国語大辞典』の片割れが2冊ある。これは全13巻プラス別巻まである日本語に関して一番情報量のある辞典なのだが、さて本体はどこだと見まわしたところ、その部屋の向かい側の、高い棚のガラス戸の中に入っているではないか。調べる資料がないがしろにされていて、憤りさえ覚える。次に新聞の縮刷版の所へ行くと、これは見上げるような高さの所に排架され、一部はこれも離れた下の棚においてあった。本が可哀そうというのが、実感だった。図書館では、資料が使われてナンボである。そんな手立てもない排架をしている本の並びだった。
2階からつまり、ちょうどその縮刷版のあった棚の所から、図書館全体が見渡せる。「書店とスタバに間借りしている図書館ですね」と連れが言う。本当にそうだ。シェルフリーディングをしようにも、それができない図書館、レファレンス・コーナーがない図書館。
児童書コーナーも全く魅力的ではない。だいたい棚が全体に高い。基準から言ったら、上に一棚多い。利用者側の視線は皆無だった。そして、そこを利用している親子は見かけなかった。わくわく感のない蔵書を、この児童書コーナーも如実に語る。一番象徴的だったのは、案内板、武雄市図書館の下にスタバマークがついていた。(2013・11・20見学)
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豊田市図書館の30冊
379.7『脳が認める勉強法』「学習の科学」が明かす驚きの真実!
318.29『戦う民意』
289.3サ『道程』オリヴァー・サックス自伝
159.4『ぼくらの仮説が世界をつくる』
104『哲学がかみつく』
648.9『モツの歴史』「食」の図書館
596.23『ローマ美食散歩』永遠の都を食べ歩く
322.1『「拷問」「処刑」の日本史』
723.35『僕はモネ』芸術家たちの素顔
369.28『精神保健医療福祉白書2016』精神科医療と精神保健福祉の協働
070.16『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』--取材現場からの自己検証
778.25『スター・ウォーズ学』
766.1『ワーグナー さまよえるオランダ人』オペラ対訳ライブラリー
490.15『市民ホスピスへの道』<いのち>の受けとめ手になること
783.48『新・スクラム』進化する「1cm」をめぐる攻防
335.8『私たちはどこまで資本主義に従うのか』市場経済には「第3の柱」が必要である
788.3『努力は天才に勝る!』
702『しぐさで読む美術史』
288.3『コーク一族』アメリカの真の支配者
319.1『世界にも日本がなかったら』歴史の真実 アジアの真実
366.35『働く女子の運命』
364『18歳からの社会保障読本』不安の中の幸せをさがして
367.75『親には一人暮らしをさせなさい』
914.6『世界が終わる夢を見る』
167.3『クルアーンを読む』カリフとキリスト』
365.35『限界マンション』次に来る空き家問題』
159.7『人間の条件 そんなものない』
368.6『犯罪の世間学』なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか』
010.4『司書はゆるりと魔女になる』
234『森と山と川でたどるドイツ史』
318.29『戦う民意』
289.3サ『道程』オリヴァー・サックス自伝
159.4『ぼくらの仮説が世界をつくる』
104『哲学がかみつく』
648.9『モツの歴史』「食」の図書館
596.23『ローマ美食散歩』永遠の都を食べ歩く
322.1『「拷問」「処刑」の日本史』
723.35『僕はモネ』芸術家たちの素顔
369.28『精神保健医療福祉白書2016』精神科医療と精神保健福祉の協働
070.16『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』--取材現場からの自己検証
778.25『スター・ウォーズ学』
766.1『ワーグナー さまよえるオランダ人』オペラ対訳ライブラリー
490.15『市民ホスピスへの道』<いのち>の受けとめ手になること
783.48『新・スクラム』進化する「1cm」をめぐる攻防
335.8『私たちはどこまで資本主義に従うのか』市場経済には「第3の柱」が必要である
788.3『努力は天才に勝る!』
702『しぐさで読む美術史』
288.3『コーク一族』アメリカの真の支配者
319.1『世界にも日本がなかったら』歴史の真実 アジアの真実
366.35『働く女子の運命』
364『18歳からの社会保障読本』不安の中の幸せをさがして
367.75『親には一人暮らしをさせなさい』
914.6『世界が終わる夢を見る』
167.3『クルアーンを読む』カリフとキリスト』
365.35『限界マンション』次に来る空き家問題』
159.7『人間の条件 そんなものない』
368.6『犯罪の世間学』なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか』
010.4『司書はゆるりと魔女になる』
234『森と山と川でたどるドイツ史』
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