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パートナーのことを考えましょう

このまま、亡くなるのか

 このまま、謎が解けない内に、亡くなっていくのか。未唯空間で解くとしたら、この謎でしょう。自分篇をもっと、追いつめないといけない。

タブレット+ICレコーダー

 タブレットにICレコーダーを完全にドッキングさせる。

 ICレコーダーで常時録音可能にしているが、これを映像で出来るものがアマゾンで売っている。日本製で安いのはないのか。

パートナーのことを考えましょう

 今、考えないといけないのは、パートナーかもしれない。パートナーというもの、絶対的存在者として、パートナーとしてやり遂げてほしいこと。そして、女性としての幸せ。女性であることも含めて。

 それも未唯空間の中に織り込みます。女性の部分はどうしても受身的になりがちです。「パートナー」は4カ所ぐらいにばらまいています。それらを連結させます。それぞれは小さくなっています。高度サービスなどを含めて、中間の存在として、クローズアップを図ります。こうなってくると、キーワード空間が問題になってきます。

 ケータイを見る度に悲しくなります。こうなったら、グレよう。

スタバでノート書き

 たまには、ちゃんと見えるようにしないといけない。だから、ノートに書きましょう。1.1から10.8まで。

7.5「女性への思い」

 7.5「女性への思い」になっているけど、これはどちらかというと、内なる世界からいかにして、外なる世界との接点を作り出すかから出ています。独我論から情報を得て、女性への思いをキーにして、社会との接触を図る。

7.4「生きる」

 7.4「生きる」になっている。生きることはどういうことかというと、内なる世界に生きることと外の世界に向かうことと、外からの情報を得ることと内と外の関係になっています。7.4と7.5はかなり、くっついています。そういうことでは、7.3から7.5まで一連で考えないといけない。

キーワード空間の「テーマ」再構築

 何か、難しくなってきています。もっと、簡単なところから始めないといけない。大項目でも80もあるのだから、こんなところに嵌り込んだら、複雑になるだけです。何処でもしていない体系化を配置で行うとしているのだから。

 そういう意味で「テーマ」を再構築しましょう。

豊田市はソドムの街

 バス停の前の石の上に座って、ソドムの街を眺めている。なぜか、この街の車の前には、同じようなマークがついています。おまじないですか。

貧乏ダイエット

 貧乏ダイエットが一番かもしれません。お金の出を記述する「ぎりぎり」というものを作ります。それを明日の私に記録として、渡します。

未唯へ

 あなたはナカイのファンでしたね。スナップでなくなったら、ナカイは単なる音痴のおじさんですよ。
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OCR化した17冊

『司書はゆるりと魔女になる』

 長野県小布施町図書館(まちとしょテラソ)

 佐賀県武雄市図書館

 佐賀県伊万里市民図書館

『アディクションアプローチ』

 人間関係嗜癖

 共依存という“間”のとれない関係

 関係嗜癖

 世話焼き嗜癖

 役割嗜癖

 愛情嗜癖

 異性嗜癖

『犯罪の世間学』

 はじめに

『森と山と川でたどるドイツ史』

 ゲルマンの森とその神話

 東方植民はなぜ必要だったのか

 魔女迫害の真相

 なぜドイツは魔女が多かったのか

 塩が支えた都市の発展

 実を結ばない社会改革

 温泉好きのゲーテ

 「清潔なる帝国」

 ナチと自然保護

 遅れてきた国民

『ソーシャルメディア論』

 キャンペーン--ソーシャルメディア社会の透明な動員

 システム--システムで新たなつながりを作る,

 人--「別の顔」を制度化する

『18歳からの社会保障読本』

 社会保障に対するアプローチ

  将来世代のことをどこまで考えるか

  「世代会計」という悪夢

 働くことの意味を問い直す

  働くことは幸せか

  非正規雇用とセーフティ・ネット

  専業主婦という生き方

『私たちはどこまで資本主義に従うのか』

 アンバランスヘの不満と変革への提言

 私たちはゆでガエルになっていないか

 消費による消耗

 法人と人的資源

 報道機関

 広告攻勢による思考停止

 なんでもかんでも商業化

 去勢された政府

 グローバル企業のためのグローバリゼーション

 二五年後のアメリカの民主政治

 地球のための民主主義?

『市民ホスピスへの道』

 増えるがんによる死

 なだらかな死・突然の死

 終末期のがんの特徴

『ユダヤ人の歴史と職業』

 生涯学習を求めて--聖書よりピーター・ドラッカーまで

 シュテトルと生涯学習

 流浪(ディアスポラ)と生涯学習

 移民と生涯学習

 イスラエルと生涯学習

 ドラッカーと生涯学習

『人間の条件 そんなものはない』

 人は違うものを信じている

  人は違うものを信じている

  他者がいた方がよいと思っている

  たんに私は生きたいと思っている

  譲れないもののために分けられる

 世界の分け方

  世界を分ける

  人数で割ってしまえ

  A:苦労に応報いる+人数割り~同じだけ働いて同じだけ受け取け取る案

  苦労した分余計に受け取るという案

  なかなかそうもいかない→B

  税を使ってBをAに近づけるという方法

『働く女子の運命』

 均等世代から育休世代へ

 女性総合職の本格化とOLビッグバン

 転勤と間接差別

 夫は「ワーク」、妻は「ライフ」の分業システム

 ワークライフバランスの逆説
 マミートラックこそノーマルトラック

『ぼくらの仮説が世界をつくる』

 作品に親しむ「分人」を引き出す

 分人主義とは何か。

 人生における「居場所」の大切さ

 自分の居場所をどうやって見つけるのか?

『世界が終わるを夢に見る』

 分人たちの原罪 平野啓一郎『決壊』を読む

 身体感覚としてのサスペンス

 悲劇とは何か?

 有罪性と分人
 分身と使嗾

 宿命としての自殺

『限界マンション』

 マンションという居住形態の非合理性

 空き家の利活用支援策と空き家関連ビジネス

 コンパクトシティ政策との連動

『ほんほん本の旅あるき』

 〈まちの本棚〉が生まれた 石巻・仙台(宮城県)

  本に連れられて石巻へ

  さまざまな人の協力で

  本から始まる場所に

 水の町から海のある町へ 松江・隠岐(島根県)

  本好きが松江に集まる秋

  キンニャモニャの夜

  ハーンが愛した島

  海に面した暮らし

『自衛隊史』

 新たな安全保障体制に向けて

 戦後平和主義をどう考えるか

 進む日米防衛協力

 政治と軍事の新たな時代へ

 自衛隊は「軍隊」になるのか

 これからの安全保障論議に求められるもの

『クルアーンを読む』

 クルアーンとは何か

  比較という方法

  四大文明を比較する

  ウェーバーの新しさ

  ウェーバーヘの批判

  カエサロパピズムをめぐって

  正典としてのテキスト

  どの言語で書くか

  キリスト教は翻訳を認める

  ヴェーダ聖典とカースト

  漢字と儒学

  クルアーンの戦略

  聖書とナショナリズム

  正典を読む

  漢字のパワー

  山本七平との出会い

  正典と取り組む
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クルアーンでわかる世界史

『クルアーンを読む』より クルアーンでわかる世界史

中田 大きな流れで言うと、一九世紀から二〇世紀にかけて、イスラームがヨーロッパ文明に負けてというか、国民国家ができてきてイスラームが退潮している流れの中で、イスラームを抑えるために西欧が応援してきた反イスラームの独裁政権群に、もう無理がきたのだということだと思います。

 イスラームを抑えるという名目で、独裁だけどまぁいいやと目をつむってきたのですけれども、そうするとイスラームとは関係なく、社会的に虐げられている人びとが、これはもうたまらんという話になって、それで革命が起きるわけです。それはイスラーム主義とは関係がなかった。

 しかし、ずっと独裁政権だったので、一九六〇年代、七〇年代にアラブ社会主義が出てきた時、共産主義、社会主義の運動をつぶすために、政治にかかわらないイスラーム、モスクの中だけのイスラームというグループを育てたのです。その人びとしか、グループをつくることが許されなかった。

 そうしてずっと結社の自由かなかったので、残っている勢力はこのイスラーム的なグループだけだったんです。それは非政治的なグループとしてつくられたのですが、反体制とか政治的な活動をするための受け皿がそれしかなかったので、それが出てきたのですね。

 そうすると、本当はイスラーム主義が国民国家にとって一番の敵なわけですから、それが出てきてはまずいと、いま一生懸命潰しにかかっている。そういう流れなのです。だから、もともとはイスラーム主義とは関係なかったのですけど、長いタイムスパンで見ていくと、イスラーム主義の非常に歪んだ形の、政治を排したものを育てたので、それが出てきたという形になっています。

橋爪 日本の近代化を考えてみますと、江戸時代は身分制で、一般の人には参政権なんかなかった。明治維新になって、四民平等になって、二〇年で議会が開設されて選挙をやっているわけです。以後、民主主義が途絶えていない。この素早いキャッチアップと持続性を考えてみると、湾岸で起こっていることと大変対照的だと思います。

 まず最初に日本で成立したのは独裁政権だから、だいたい同じです。薩長藩閥という、武力による独裁政権です。だけど、すぐに自由民権運動が起こった。これは、各地域社会の代表が、それぞれの地域社会を自主的に運営して、国政に参画する権利をくれという運動です。議会政治というのは、各地域に選挙区というのがあって、地域代表を議会に送って、それで税額とか法律とか、そういう日本の近代化のジェネラル・プランについて、発言権を与えろということですね。独裁政権は、その要求を呑まざるをえなかった。独裁政権発足から一五年にして、議会の開設を約束し、実際にその手続きをして、大日本帝国憲法ができた。その憲法が効力をずっと持っていて、戒厳令が数回発動されたけれども、憲法停止とか反政府クーデターが成功したとか、そういうことは一度もなく、今日まで来ているわけです。偉大なパフォーマンスだと思います。

 こういう、日本人にとって当たり前なことが、イスラームではできにくい。それは、イスラーム文明に内在する構造上の問題だと思う。イスラーム文明の中で、こういうことができている国はほとんどない。トルコとか、エジプトとか、それに近いような国はいくつかあるけれども、脆弱です。

中田 ひとつには、外国支配の問題がやっぱり大きいのです。イスラエルもそうなのですが、敵は外にあるという、その論理をずっと言い続けている。それで、内部の改革に向かえないというのがひとつ大きくあるのです。

 みんなイスラエルを敵だって言っているけど、それを言ってれば角が立たないから、言っているだけで、本当はどうでもいいのです。真面目に戦っている人はいません。内輪の問題のほうが大変なので。パレスチナ人ぐらいなものです。でも、口先では、やはりイスラエルが敵だと言っています。そうすると、内部の問題から目をそらされてしまう。それが大きいのですね。それともうひとつは、外国植民地主義が悪いという、そっちのほうにいってしまって、内部の改革に向かわない。これはやはり大きい要因です。

 本来のイスラームの意味での改革に戻そうと思うと、やはりカリフ制とシャリーアという話になってきます。これは本質的に、西欧的な民主主義とは対立します。ですので、本来イスラーム的に内部の改革運動として出てくるべきイスラーム改革運動というのは、ふたつの方向から排斥されます。

 ひとつは、アラブの独裁政権からです。カリフ制になると独裁政権をすべて崩されますから、当然困るのです。同時に、欧米あるいはイスラーム世界の中にもいる欧米の民主主義を受け入れた者だちからも、反近代あるいは反民主主義として、排斥されてしまう。独裁政権からと、西欧から見た時の民主主義勢力からと、どちらからも排斥される。イスラーム世界の独裁政権と、民主主義勢力と言われるものに共感する西欧諸国の両方の権力が、イスラーム運動をいままで抑えてきたというのが現状です。

 それでイスラーム世界では、本来の意味でのイスラームの改革運動が起きてこなかった。それがいまやっと、イスラーム本来の在り方というか、カリフ制に戻る、法の支配に戻るという方向への模索が始まったところなのです。いままではそういうことを言うことすらできなかったんですね。言論の抑圧があって。なので、まだ議論は深まってないのですけれども、やっとこれから、そういう議論ができてくるというところです。その議論を強制するような状況をつくったのが、ISです。

 ISができてきたのは、スンナ派政権がおかしくなって、その隙に乗じてシーア派が出てきたからです。そのことに対する危機感を一番先鋭に感じて、スンナ派の本来の栄光というか、統一性と法の支配を取り戻そうとして、ISが出てきたということだと思います。
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クルアーンとは何か 正典と取り組む

『クルアーンを読む』より クルアーンとは何か

聖書とナショナリズム

 中田 人類学者のベネディクト・アソダーソソが『想像の共同体』(一九八三年)のなかでナショナリズムの成立について、正典言語の観点から議論をしています。西方キリスト教世界で正典言語ラテン語が成り立ち、その正典言語の地位が下がってくると、各国語によって正典が読まれるようになります。ルターが翻訳を始めるわけですけれども、そのあと各国語の力が強まって、それによってナショナリズムが勃興してくる。そしてそのナショナリズムが、いま世界を覆っています。

  先生がおっしゃった戦略の中で、もともとキリスト教は実は言語にこだわらないというが、そもそも神学的にはイエス自身が言葉であるというのですから、聖書ですら重要ではありませんでした。神の言葉というのはイエス自体であって、聖書ではありません。ですから、聖書とクルアーンは、全く位置づけが違います。キリスト教的には、われわれが言うところの言葉というのは、あまり重要じゃないのですね。本当の神の言葉はイエスであるという考え方で、ヨハネ福音書を根拠にイエスはロゴスと同一視されるわけです。その意味では、われわれのこの地上の言葉にはあまり重要性がありません。ですから、そもそもイエスの言葉も、イエスの言葉としては保存されていないわけですね。彼自身はアラム語、あるいはヘブライ語のアラム語的な表現、方言でしゃべったというふうに言われているわけですけど、それはほとんど聖書の中には残っていません。本当にわずかですね。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とか。聖書がそもそもギリシャ語で書かれている時点で、すでに言語観というか正典観を表しているわけですけれど、もともとそういうものでしたので、それが各国語に訳されても、そう大きな抵抗感はなかったわけです。

  文字で書き留められて固定されるのが正典なわけですけれども、各国語訳になってしまうと固定されません。ルターが訳した言葉も古くなります。英語にしても、『欽定訳聖書』(KJV)が一番権威があったのですけども、若い人には、もう古くなって読めないわけです。日本語でも同じことですね。日本語の文語訳、口語訳、共同訳、新共同訳、どんどん変わっていき、共通の理解が同じ国民ですら持てなくなってしまう。

  そうすると、そもそも正典自体がないということになるわげで、これがキリスト教がイスラームと全く違うところですね。正典を読める人間が力を持つのが、もとはすべての文明圏の在り方だったわけです。それがなくなってしまうことによってナショナリズムが現れてきて、さらに民主主義という、正典を読める人だけが権威を持つのではなくて、誰でも同じであるという考えが出てくる。このように、現代の西欧キリスト教文明は、聖書かできるところにさかのぼって考えることができます。それとイスラームは全く違う。西欧化に抵抗している。そのもとになるのはクルアージであるということだと思います。

正典を読む

 橋爪 日本人は、正典が大事だという自覚が、とっても薄いですね。

  国際社会に出ていけば、正典は、必ずみんな持ってるものです。自分たちにぱ、ない。

  ところが、ない、ってことが感じられないんです。大変だ、相手には正典がある、どんな正典があるんだろう、とまず思わなきゃいけない。クルアーンだけではない。クルアーンに相当するものは、ほかの文明にもありますから。どの正典もみな、大事なんだということです。

  さて、いまの日本人はこんなふうにだらしないんですけど、昔からこんなにだらしなかったかというと、昔はもうちょっとまともだったと思う。なぜなら仏教が伝わって以来、仏典は文字ですから、これを正典として読み抜き、自分たちの規準にしなげればならないと、日本人は思った。それで必死で、仏教の経典を、読んで読んで読み抜いて、そのロジックと語彙と知識を身につけて、日本国を、そして民衆の生活を、よりよくして行こうと頑張って、一〇〇〇年以上奮闘した。そのあと江戸幕府が、お前たち武士は指導者ならば四書五経を読め、儒学(朱子学)をこれから勉強しなければならない、と命令した。武士は戦争をやめて、文字を読む知識階級として生まれ変わることになった。江戸時代の三〇〇年間を通じて真剣に、教養としてでなく、自分たちの思考と行動の規準として、儒学のテキストを読んで読んで読み抜いたんじゃないでしょうか。

正典と取り組む

 中田 そういう考え方が、すべての文明圏にあったわげです。ところが、現代の日本はそうじゃない。わかることを教える。簡単なことを教える。そうすると、わからないのは自分が悪いのではなくて、説明できない人間が悪いというふうになってくる。これは現代の一番の問題です。正典の効用は、自分にはわからないことがあるということを教えてくれることです。わからなくてもいいわけですね。どんなに頑張ってもわからないものってあると、人間というのはそういうものであるということをわからせてくれる。そういうものを持っているか持ってないかというのが、非常に大きな違いになる。日本にはそれがどこにもない。そうすると、何の内容もない、日本人であることの誇りとか、そういうことを言うようになる。それが実際に何なのかは提示できなくて、結局、他民族を既めることでしか自分たちのことを誇れないというふうになってしまう。それもまたひとつ、正典の学というか、そういうわからないものに対する畏敬がなくなってしまったことの、ひとつの現れじゃないかというふうに思っています。

  山本先生は、日本では珍しい、しかも戦争の時代にクリスチャンだった方です。いまの日本のムスリムが置かれているよりもはるかに厳しい立場に置かれていたわけです。しかし戦時中でも、聖書を覚えているおかげで、自分ひとりだけでもクリスマスを祝えるという言葉がありまして、非常に印象的に覚えています。

  クルアーンというのはまさにそういうものであって、クルアーンを読めることによって、どこにいてもひとりぼっちでも礼拝ができる。そうすると、どんな環境に置かれても、神と自分との関係が揺るがない。イスラームだけじゃなくて、正典を持っている文明というのは、全部それができるのです。そして現代の日本人にはそれがわからなくなってしまっている。これは非常に重要な問題だというふうに思います。

 橋爪 正典中の正典は、クルアーンです。しかし、クルアーンの存在理由がわからない。クルアーンをどう読んだらいいかわからない。クルアーンを読むことの意義と価値がわからない。これがまず、日本人の現状ではないか。

  そこで、クルアーンはどう読めばいいのか。いよいよこれから、手ほどきをお願いします。
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