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なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか

『犯罪の世間学』より

なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか。私の答えは簡単である。それは「世間」があるからだ。本書でいいたいことは、これに尽きる。

二〇一一年の東日本大震災のときに海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然おこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことだった。つまり、諸外国と比較したときの日本の犯罪率の圧倒的低さや治安のよさだった。

いったいなぜなのか。日本には外国には存在しない「世間」があり、法よりも「世間」のルールのほうがはるかに優先されるため、法秩序が崩壊した状態でも、それが外国のように略奪や暴動にただちに結び付かないのだ。日本人はみな、法のルール以前に、「世間」のルールに縛られているのである。

世間学の創始者である阿部謹也がいうように、日本には社会という言葉があるが、それは一八七七年ごろに society の訳語として造られたものである。いうまでもなく、江戸時代に社会は存在しなかった。

その実質は、百四十年近くたったいまでも日本には根づいていない。その代わりに伝統的に存在し続けてきたのが「世間」だった。その「世間」に、日本人はいまだがんじがらめに縛られている。現在、先進工業国のなかでダントツの治安のよさを誇っているのは、この「世間」が存在するからである。

ところが巷で人気がある考え方によれば、「世間」は「第一の開国」としての明治以降の近代化とともに徐々に解体し、最終的には消滅すべきものだとされている。現代社会は犯罪が増加し治安が悪化しつつあるが、それはたとえば昭和三十年代(一九六〇年前後の十年)をテーマにした『三丁目の夕日』で描かれているような牧歌的時代に比べて、「世間」の人々のつながりが希薄になり、個人がバラバラになったためだとされる。

しかし一九五〇年代からの歴史を考えてみても、現在に至るまで犯罪は明らかに減少傾向にあるし、「世間」は解体も消滅もしていない。九〇年代末以降顕著になった日本の刑事司法での厳罰化も、①人々のつながりの希薄化、②そのための犯罪の増加や凶悪化、③それを防止するための厳罰化、という図式からは説明できないのだ。

そこでまず本書で明らかにしたいのは、現在の日本で生じている厳罰化か、犯罪の増加や治安の悪化によるものではなく、もともとあった「世間」が前景化したこと、すなわち「世間」の「復活」によるものだったことである。

その最大の理由は、一九九〇年代末以降の「第二の開国」ともいうべき、グローバル化にともなう新自由主義の本格的台頭である。成果主義に代表される新自由主義は、人々を「万人の万人に対する闘争」ともいうべき競争的環境に叩き込んだ。「世間」は無理難題を強いられ、そのため「世間」のさまざまなルールの肥大化がおきた。その結果、「世間」全体が深刻なストレスをため込んでいき、異質なものを排除する同調圧力が強まったのである。

もう一つ、本書で明らかにしたいのは、「世間」という〈共同幻想〉のチカラの巨大さ・強固さ・執拗さである。日本の「世間」はあらゆる反抗や反逆や反乱を、最終的に秩序に回収していく強大なチカラをもっている。しかもいま「世間」は、辺見庸がいう「新しいファシズム」を胚胎する土壌になりつつある。

私は一九五一年生まれで、団塊の世代の少し下にあたる。学生時代には青や黒(どーだ、懐かしいだろう)のヘルメットをかぶって、当時後退局面にあった全共闘運動に多少関わり、七〇年代初めには、ちょっとした学内の出入りに連座して警察の留置場にブチこまれたり、大学から処分をくらったりしていた。いまは一応由緒正しい刑法学者だが、刑法を本格的にやろうと思ったのは、このときの個人的ウラミによるところが大きい。

それはともかくとして、私たちの世代は、大学では、どちらかといえばあまりおいしい目にはあえなかったように思う。上の世代がやりたい放題にしていった廃墟のなかで、いわば引っ越しの荷物整理とか掃除とかいった、後始末ばかりやらされていたような気がする。

総じて団塊の世代は評判が悪い。学生時代には好き勝手をし、就職のために長い髪を切り、企業に入って組合運動をやったりもする。が、そのうち管理職になると、そのときの経験を生かして今度は組合を弾圧したりする。さらに退職したあとは、急に昔を思い出して反原発デモに参加し始めたりする。

節操がないといえばそうなのだが、それを非難したいわけではない。ここで問題なのは、連合赤軍事件に象徴されるように、一九七〇年以降の全共闘運動は敗北の歴史といっていいが、それでは全共闘はいったい何に負けたのか、ということである。学生のデモ隊が、機動隊の壁をぶち破れなかったから負けたのか。つまり国家権力という強大な暴力装置に負けたのか。

そうではない。日本人ががんじがらめに縛られているが、同時にごくありふれたものである「世間」という権力に負けたのだ。これは日本では、全共闘にせよ、暴走族にせよ、ヤンキーにせよ、ロック少年にせよ、あらゆる若者の反抗や反逆や反乱が単なる「若気の至り」として、結局のところ「世間」という日常的な秩序に圧倒的に回収されていくことを示している。

私はかつて、「世間」を「日本人が集団になったときに発生する力学」と定義したことがあるが、これは、「世間」がある種の権力として作動していることを意味する。そのため「世間」は、個人を集団に従わせる強力な同調圧力をもつ。とくに一九九〇年代末以降、この同調圧力がひどく強まっているのを、ひしひしと感じる。「世間」がもつこの巨大さ・強固さ・執拗さを、本書全体を通じて浮き彫りにしたいと思う。
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