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パートナーに見る異性嗜癖

『アディクションアプローチ』より

人間関係嗜癖

 人と人との関係は、その状況に応じた役割の分担と交代、コミュニケーションのパターン、人と人との間の境界線や距離感から成り立っています。それを「関係性」といい、状況にあわせて柔軟に変容させることがふつうです。役割でいえば、あるときは友達の相談にのり、あるときは自分の悩みを聞いてもらうというケアの担い手・受け手の関係がありますし、その場を和ませるピエロ役やみんなに頼りにされるリーダ一役もいます。これは、それまでの対人関係のなかで育んできたその人の個性とも重なり、得意な役割というものもできてきます。と同時に、状況に応じて役割の変化や交代が起こるものでもあります。コミュニケーションのパターンや人との距離感の習慣も自分らしさの部分でありながら、相手や状況に応じた態度をとっているものです。それらの関係について、個性というより強迫的にそうしていないといられない状態を「人間関係嗜癖」といいます。

共依存という“間”のとれない関係

 人間関係の悪習慣を形容したものに、「共依存状態・共依存関係」という言葉があります。共依存とは、アルコール依存症の家族研究から理解された関係性で、アルコール依存症の人の配偶者や親たちが、本人のアルコール問題に巻き込まれていき、本人との関係における境界線を意識できなくなってその関係にのめりこみ、アルコール問題をめぐって“間”のとれない関係が自動化している状態を指して使われ始めた言葉です。すべての家族がそうなっているわけではありませんが、アルコールでいえば飲むこと、酔うことの後始末などにかかわり、結果として家族が本人の主体的な回復を妨げるイネイブラー役をしてしまうことかあります。そうした家族に心理教育プログラムを提供して病気の本質を知り、本人への対応を工夫することにより本来の関係を取り戻すのですが、この関係に気づいても変えられない一部の人たちの存在があり、あるいはもともとその関係性を求めて一緒になった人たちがいることが解明されてきたアディクションを総称して「人間関係嗜癖」といいます。人間関係の嗜癖にはいくっかのタイプがあります。順に見ていきましょう。

関係嗜癖

 “間がとれない”には、「常に相手を見ていないと安心しない」という物理的な距離がとれない場合や、「すぐに答えを出してほしい、反応がほしい」という時間的な距離がとれない場合、あるいは、「相手のすべてを知っていないと安心できない」「相手と自分が同じ感情や感覚を持っているのが当然」という心理的な距離がとれない場合があります。

 間をとらない関係がすべて問題なのではありません。赤ちゃんと母親は、一時の間は境界線なく、母親はわが子の感情や感覚に焦点を当て、暑くないか寒くないか、おなかがすいていないかと考えます。でも、子が成長していくとだんだん距離をとるようになり、お互いにその距離を修正していくものです。成人している場合も、親しい相手が困っていて、一時だけ相手に間をおかずに寄り添うといった関係は自然にあります。

 ところが、この関係が修正されず、相手が自分の思いどおりになることを自然と考え、極端な干渉や束縛、お膳立て、後始末を行う結果、子どもの成熟を阻害していたり、暴力が発生したりなど、さまざまな支障が出てきてもそれをやめられない状態を「関係嗜癖」といいます。この状態が長く継続すると、相手の佃既や人格まで、別のものだと認められなくなります。

 相手のコントロールをめぐっては、両者にさまざまな暴力が使われることもあります。逆に、自分の人格を背後に置いて、相手の中に自己を投入して、問題のある相手の状況が自分の状況のように感じられてその事情に巻き込まれて苦しんだり、相手の基準や評価で物事を感じたり考えたり行動したりといった、他者のために生きるという不健康な生き方をしてしまうことになります。

異性嗜癖

 女性として、男性として、常に異性に認められていないといられない状態を「異性嗜癖」といいます。異性嗜癖は愛情嗜癖の変形版といえます。常に異性のパートナーがいないと自分に価値がないように感じられ、異性を求めて複数の人と関係を持つ、いろいろなタイプの異性にアプローチしていくなどの行動があり、対人関係のトラブルになったり、大切なパートナーを傷つけたりすることになります。

 不倫のなかには、事情があって離婚できずに婚外関係を続けているものもあるでしょうが、異性嗜癖の場合、配偶者がいるのに自分と関係すること、またその関係を続けるところに、男性性や女性性を認められた感覚が強く持てることから、不倫が選択されることもあります。その終局に関しても、自分のほうに優位性がある関係性が必要で、自分から別れて同様の不倫関係をくり返すのも異性嗜癖の特徴です。

 人間関係嗜癖をイメージしやすいように、このカテゴリーに含まれるアディクションを1つずつ挙げましたが、「このケースは愛情嗜癖か異性嗜癖か」などと厳密に区分することは意味がないことです。並列して持っていることも当然あります。

 それよりも、本人の心の中にある、どの部分が心地よく感じられ、なぜそれが必要となり、なぜやめられないのか、その背景となっている一次嗜癖はどのような要素なのかといった、ごく個人的な、本人の心の奥深くにあるものが検討されることが重要なのです。

 社会のなかで人生を生き抜く間に、どのようにそのアディクションがその人に必要になったのかは、その人が生きた社会状況や地域性に関係するものであり、厳密に病気かどうかをはっきりさせて、その分類上の位置づけを医学モデルに沿って区分することは、援助職にとってはあまり意味がないことなのです。
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