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頼るのは未唯空間だけ

頼るのは未唯空間だけになった。

 未唯空間には本当に、広大なものが拡がっています。社会との接点がなくなったけど、出口のない未唯空間に邁進しましょう。

 話し相手は、いつもとぼけた顔をしているリク君(10歳のオス犬)だけですね。
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数学の歴史は止まっている

『数学の考え方』より ⇒ トポロジーの先が見えてこない。未唯宇宙から「新しい数学」を思考する。対象は哲学と同様に言葉になるはず。

解析幾何学・微積分学の発展と急展開

 第四章「十七世紀の数学」では、十七世紀に創始された解析幾何学と微分積分学とを、細かい計算や技巧はできるかぎり省いて、その考え方だけを浮き彫りにするようにしてみました。

 今日、科学技術の基礎になっているといわれる数学の、そのまた基礎になっているのは、この解析幾何学と微分積分学の考え方です。ふつう、解析幾何学や微分積分学の話をするばあいには、えてしてその細部に立ち入りがちですが、それでは解析幾何学と微分積分学の基本的な概念はつい見失われてしまうので、ここでは、できるだけその考え方だけを抜き出してみたわけです。

 さて数学者たちは、十七世紀に発見されたこの微分積分学を、それにつづく十八世紀・十九世紀を通じて、全力をあげて開拓してきました。この十七、十八、十九世紀を通じての数学の進歩は、他の世紀のそれと比べると、その速さにおいて、数倍、いや数十倍であっただろうといわれているくらいです。

人類史上の画期的な役割

 今日わたくしたちは、列車が走り、汽船が浮かび、自動車が走り、飛行機が飛び、ラジオが聞こえ、テレビが見え、そして人工衛星が上がり、月へ人を送る可能性を論ずることができるという機械文明の世の中に生きているわけですが、今日のこの機械文明をつくり出すことができたのは、十七世紀に発見され、十八世紀・十九世紀を通じて発展してきた、解析幾何学と微分積分学の考えであるといってもいい過ぎではありません。したがって、第四章「十七世紀の数学」で述べた思想は、数学の歴史ばかりでなく、わたくしたち人類の歴史のうえで画期的な役割を演じたものであるということができます。

二千年の伝統を破る幾何学

 さて、数学の思想の流れのなかには、もう一つの他の流れがめばえていました。それは、十九世紀にはいってから、数学は右に述べたようなすばらしい発展をしてゆきましたが、この数学を、ただ先へ先へと進めるだけでなく、その基礎を固めようとした、数学者たちの努力から生まれたものです。

 まずそのおもなものをあげてみましょう。

 本文のユークリッド幾何学の項で述べたように、ユークリッドのかかげた平行線の公理とその幾何学は、それから二千年以上も唯一無二のものと考えられていましたが、その平行線の公理に関する基礎的な考察が、十九世紀になってようやく実を結びました。ロシアのロバチェフスキーとハンガリーのボリアイとは、この平行線の公理を否定しても、そこに一つも矛盾のない幾何学が成立することを示したのです。

新しい発掘と成果続々

 また、ドイツの数学者デデキント(一八三一-一九一六年)は、数、とくに無理数に対して深い考察をあたえ、有理数と無理数とをいっしょにした実数の理論を確立しました。

 同じくドイツの数学者カントール(一八四五-一九一八年)による、一般に物の集まり、とくに無限に多くの物の集まりを論ずる集合論によって、数の本質、無限の本質、無限の段階などが明らかになってゆきました。

 さらにまたドイツの数学者ヒルべルト(一八六二-一九四四年)は、ユークリッド幾何学を、厳密な公理から出発して組み立てるという仕事を徹底的におし進めて「幾何学基礎論」を著わし、数学を公理から組み立てるという態度を確立しました。

現代を象徴する英知の所産

 以上は、十九世紀の後半から二十世紀にかけて行なわれた、数学者の数学の基礎についての反省の、ほんの二、三の例にすぎませんが、とにかく、数学はこうしてここにまた大きな転回を経験したわけです。

 この小さな書物では、こうした新しい思想の流れの全貌を伝えることはとうていできませんので、本書では、最後の三つの章に、この現代的な数学のうちで、その特徴をもっとも端的に表わしていると思われる三つの例をあげてみました。

 つまり、第五章「トポロジー」で述べた話題は、あなたがいままでに知っていた代数学や幾何学の話題とはちょっととびはなれていますが、人間の英知が生み出したものという感じの強いトポロジーを、一筆がきと多面体の定理を例にして説明してみたわけです。

 また第六章「集合」では、イギリスの数学者ブール(一八一五―六四年)が暗示し、まえに述べたカントールによって完成された集合の理論の一端を紹介しました。

数学のための数学が巨大な実用へ

 そして最後の第七章では、むかしからある概念ではありますが、第六章で述べた集合と論理学の関係を使えばひじょうに明快になると思われる確率の概念を説明してみました。

 以上に述べた現代数学は、いわば、数学のための数学であったかもしれません。

 しかし一見、それがどんなに現実ばなれのした数学の概念や結果であっても、それらは、いつかは現実と結びつき、しかも、そこに雄大な応用の世界が現われてくるという考えは、数学者の確信であるといってもよいと思います。

 ところが、この現代数学の応用は、二十世紀にはいっていくばくも待たずに見いだされてゆきました。

 第六章の最後に述べた、集合と論理学の関係から生まれたプール代数の、スイッチ回路への応用は、そのもっともよい例ということができるでしょう。これはさらに発展して、今日の電気計算機の原理となっているのです。

こうして高度な日常性を獲得

 今日、数学ブームが起こっているという声は、おそらくもうあなたの耳にもはいっているでしょう。この数学ブームということばには、科学技術における数学の重要性がますます認められてきたことのほかにも原因があります。つまり、ここに述べた新しい数学の新しい応用が、科学技術以外の方面、たとえば、一般のビジネスにも、会社の経営にも、種々の計画を立てるうえにも、続々と見いだされているということです。

 あなたが本書によって、数学を、その思想の流れという面から見ると、数学というものはひじょうにすっきりとした、見通しのよいものであることを認識なさり、それを基礎にして、新しい数学の新しい応用に意欲を燃やされるよう、心からお祈りします。

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真の女性活躍をめざして

『職務格差』より 「女性の活躍推進」になにが必要なのか

本書の検討をふまえ、職場や仕事に焦点をあてて「女性の活躍推進」を考えた場合、なにが必要なのか考えてみたい。第一に、男性と女性に昇進や仕事のわりあてにおいて、同じ基準を用いることである。第二に、性別職務分離を解消していくことだろう。男性と女性の職務のわりあてに留意することが必要であり、女性にもやりがいのある仕事、責任を持てる仕事をわりあてる必要がある。女性の特性、女性の視点を強調した「女性の活用」は性別職務分離を強化するだけで、真の「女性活用」にはつながらない。

第三に、制度的に女性が不利になっていることを解消することである。人事制度上、女性が多くを占める仕事に対して不利な状況がないかを検証し、是正していくことである。もっている能力で評価する職能資格制度の問題点は指摘されており、職務を評価する賃金制度の導入を考える必要もある。また、評価する場合、なにによって評価するのかを十分吟味し、その評価基準が男性と女性で同一であるかを検証する必要がある。

第四に、職場や仕事遂行上、決められていることの前提や根拠をもう一度見直すことである。たとえば、旅行業では渉外営業は「十年やって一人前」といわれた。中途採用ではすでに社内にいるメンバーより年齢が低いものが好まれた。音楽産業では若年層をターゲットにするときは年齢の若いものを担当につけようとしていた。これらの「なんとなく」の決まりごとによって、渉外営業から女性は排除され、中途採用では中高年が排除されている。現在年齢制限は禁止されているが、年齢制限の例外項目によって年齢制限を設ける余地はある。「なんとなく」の決まりごとの根拠を見直し、根拠のない決まりごとをなくしていくべきである。

第五に、人々の意識はその人の立場、置かれている状況に大きく影響されることを常に考え、政府や企業は施策をしていく必要がある。人は手に入りそうで入らないものであれば、手に入れようとがんばるが、もう手に入れられないことがはっきりしているものを手に入れようとはしない。人々を、昇進ややりたい仕事がもう手に入れることはできないというような立場や状況に置かないことが重要である。

さらには、ワーク・ライフ・バランスの遂行、「積極的改善措置(ポジティブ・アクション)」の実施、税制や社会保障における被扶養者に対する優遇措置、ジェンダー予算の遂行、男女共同参画における目標設定と達成の検証が重要であろう。

日本の長時間労働は世界でもトップクラスであり、男性の働き方を基準にして、その基準に女性があわせて働いてもみな不幸である。現状では、男性の長時間労働に女性が合わせて働くことが求められている状況である。女性が事実上家庭責任を負うなか家族重視モデルからみれば、ここに女性が労働市場から出ていかざるを得ない一因がある。男性の長時間労働を変えることは女性が労働市場にとどまることを促進し、さらには男性の職業生活および家庭生活を豊かに、家族を幸せにすることでもある。男性の長時間労働の削減は最重要課題である。

「積極的改善措置(ポジティブ・アクション)」の実施は、活動に参画する機会の男女間の格差を改善するために、必要な範囲において男女のいずれか一方に対して活動に参画する機会を積極的に提供するものである。現在、国の審議会等委員への女性登用のための目標設置や女性国家公務員の採用・登用の促進が行われているが、企業の女性の管理職登用にも広げていくことが必要であろう。近年、所得税や社会保障制度の改革のなかで、被扶養者への優遇措置の見直しが議論されているが、ジェンダーに中立な税制、社会保障制度にしていくべきである。

ジェンダー予算の視点で政策を検証することが必要である。ある政策が実施されたら、その結果がジェンダー平等にどの程度寄与したかをみるべきであり、その結果をふまえて次の予算を組んでいくことが重要である。ジェンダー統計をもとに実態を把握し、政策を実行し、その結果なにが起きたのかをジェンダー平等の視点から検証する一連の作業によってより有効な予算となるだろう。

また、現在様々な政策において「成果目標」がかかげられ、数値の目標が設定されることも多い。数値目標が多いことは現状を可視化する意義があると指摘されているが、達成すべき目標が低すぎないか、数値目標がどのように設定されているかに留意しつつ、男女共同参画における目標設定と達成の検証を行うべきである。

最後に、「女性の活用」「女性の活躍推進」は、女性が現在の男性の基準にそって仕事をして、内部労働市場で働き、管理職になっていく、ということではない。現在の日本の男性の長時間労働を前提とした働き方を基準に男性が働き続け、そこに女性が参入しても誰も幸せにはなれない。なぜ女性が「活躍」できないのかを考えることは、男性の働き方や生き方を見直す機会でもある。この機会に、よりよい男性の働き方、女性の働き方を考えていくべきだろう。
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フリードリヒ・ハイエクと自由主義

『哲学と対決する!』より

--彼の大規模な社会計画に対する批判がどのようなものか大まかに説明していただけますか?

 C:そうですね、ハイエクはオーストリアの経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの重要な洞察を足がかりにしました。ミーゼスは一九二〇年に『社会主義』と呼ばれるきわめて貴重な本を書いて出版した人物です。その本の中で、ミーゼスは社会主義の経済では、経済計画を立てるのは不可能であることを示そうとしました。市場価格というものがないため、どれだけ生産したらいいかを正確に生産者に告げるシグナルがないからです。何が必要とされ、どんな需要があるのかを知らせてくれるフィードバックのメカニズムが働かないのです。

 ハイエクはこの考えをさらに推し進め、情報の質の問題がもっと重要であることを示そうとしました。どのような情報が出回っているかのかすかな手がかりすらつかめないのが問題だったのです。テクノロジーがそのような計画にまつわる問題を解決してくれるだろうと多くの社会主義者は主張しました。どんどん強力になるコンピュータが、人々の好みや需要、生産資源などに関する情報に接続し、社会の資源を配分する最善の方法をどうにかして見出すのを可能にするだろうと考えたのです。

 ハイエクが示そうとしたのは、情報は散乱してしまっているので集めてコンピュータに入力するのは難しいということだけではなく、単に制度から独立して存在しているものではないということでした。情報は四六時中、生み出されては消えていくものです。多くの情報はつかのまに消え去っていきます。トラックのオーナーであるあなたは、配達しようとしていた品物を持っているはずの人物がその品物を持っていないことに突然気づくかもしれません。空のトラックを走らせるのを避けるため、クレイグスリスト(インターネット上の掲示板)に「バーミンガム行きの空のトラックがあります。何でも運びます」という告知を載せたとしましょう。この情報は約二時間で消滅します。あなたはそれを収集することはできません。不可能なのです。それが市場の働く仕組みだとハイエクは考えます。人々は絶えず自発的に自分たちの活動を協調させようとします。それがもっともダイナミックな市場のあり方だとハイエクは考えました。計画はそうした要素を抑え、全員に不利益をもたらします。あなたにできるのは良い制度を作る計画を練ることだと彼は考えました。だけど、人々の交流結果はコントロールできないと考えました。

--では、良い制度は何を生み出すのですか? リベラルな思想家から期待しうるような自由を生み出すのですか? 平等性や正義を生み出すのですか? 私たちが目指す良い結果とはどんなものでしょう?

 C:簡単に言えば、何か二つというのではありません。良い政府を持てば、自由がある社会、正義が行われる社会を持てるようになります。また、繁栄するだけではなく、平等が行き渡るよう人々の目的が調整される社会が実現します。平等性はハイエクにとってとても重要です。けれども、彼の場合、経済的な成果の平等性というより法の前の平等を、自由主義のもっとも大切な業績と考えます。

 ハイエクやほとんどの自由主義者が懸念することの一つは、自由主義社会、さらに言えば市場社会が生み出すことになっているたった二つの理想もしくは理想の束があるとする考えです。私たちが多くの異なった目的を持ち、さまざまな価値観を持っているとするなら、問題なのは、いかにして私たちの行動を協調させるかです。

--彼は法律にどんな役割を割り当てているのですか?

 C:法律は人々の関係をスムーズにするためにあります。私たちはさまざまな目的や目標を持ち、さまざまな願望を持っています。それゆえ、衝突することもありえます。だから法律があるのです。問題は仲良くする方法をいかにして見出すかです。法律は、市場が経済的目的の調整を可能にするメカニズムであるように、それを可能にするメカニズムです。

--市場が実際に結果の深刻な不平等を生み出す可能性があるという事実に関し、ハイエクは何と言うでしょう?

 C:概して、彼は分配の結果にはさして関心を持っていません。事実、特定の結果を操作するのは危険だと考えるのです。けれども市場の結果が二部の人にとって極貧を意味しうることに関心を持っていました。彼は社会主義や福祉国家を批判したにもかかわらず、全体として見れば、人々が一定の生活水準以下にならないよう、また、市場の恩恵を受けられなかった人たちが困窮しないように最低限の保証をする生活保護のような制度を擁護しました。

--それでは、ハイエクを保守派の思想家と決めつけ、マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンの味方とみなすのは少々お角違いだと言ってよろしいでしょうか?

 C:そうですね。その二人のリーダー自身、ハイエクの考えに興味を持ち、共感しました。しかし、彼らが彼のところにやってきたのはすでにそれらの考え方に共感していたからです。でも、彼が実際に彼らにどの程度影響を及ぼしたかは別問題です。むろん政治家は自分の目的に合いそうな考え方をつねに選びます。先に挙げた二人の人物は自分の政治課題を持っていて、ハイエクの考えが自分たちの目的に合っていたため、彼に近づいたのでしょう。ハイエクは喜んで受け入れました。でも、彼らが賛成しなかった問題もあります。たとえば、サッチャーはハイエクよりはるかに保守的でした。

--あなたのお話を聞いていると、あなたがハイエクに共感していないと信じるのは難しいです。あなたはハイエク信者なんですか?

 C:私はハイエクの考えにとても共感を抱いていますが、初めてハイエクの話を聞いた時のことをいつも思い出すんです。私はオックスフォードの学生だったんですが、ハイエクを主賓として招く夕食会が催されたんです。こぢんまりした中華料理店でした。会が終わりに近づいた頃、誰かが立ち上がり、ハイエク教授に乾杯をしました。もちろん、ハイエクはそれに応じなければなりませんでした。彼はしぶしぶ立ち上がりました。当時すでに八十代になっていましたので、その種の経験をたくさんしていたんだと思います。彼はどうもありがとうと言い、感謝の言葉を述べました。そして、あることを言いました。この世からハイエク信者がいなくなることを望むということです。なぜなら、弟子はつねに師よりも劣るからです。マルクス主義者はマルクスよりはるかに劣っていましたし、ケインズ主義者はケインズよりはるかに劣っていました。ですから、ハイエク信者がいなくなることを本気で望んだのです。そのことを念頭に置くと、私自身をハイエク信者と呼ぶのはためらわれますが、彼の考えに著しい影響を受けたのは間違いありません。
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインについて

『哲学と対決する!』より

--サッカーは勝者と敗者、チーム、ボールがあるゲームです。野球も同じです。そこにはたくさんの類似性があります。しかし、たった二人で壁に向かってボールを投げ、それをキャッチするというゲームもあります。それには勝ちも負けもありません。ですから、私たちがゲームと呼ぶものには、たくさんの異なった特徴があります。これらのものをすべてゲームにする単独の本質もゲームの本質も存在していません。

 B:ええ、その通りです。子供たちがするリング・アラウンド・ザ・ロージー(訳注‥日本のかどめかどめに似た遊び)は一種のゲームですが、勝ちも負けもありません。何度もやっているうちにだんだんうまくなるというものでもありません。一定の活動を何度も反復するだけのように思えます。ゲームに本質がないという考えは、ウィトゲンシュタインを言語の本質についての議論に導きます。というのも、彼が興味を抱いている道徳は言語に本質がないという事実だからです。『論理哲学論考』の中で、彼は言語を、完璧に整理された論理的な機能システムとみなしていました。ここでは、たくさんの異なった使用法が言語に託されているのが見られますが、それらが共通して持っているものは一つもありません。言語に通低する本質はないのです。彼はまた、どうして言語が二つの有機物なのかについての素晴らしい隠喩を持っています。彼は都市の中にいて、公園から出発し、さまざまな区域に移動し、それらの一部をよく知り、いろいろな方向からそれらに再度出くわすことについて語っています。そして、都市が同じ時期の建物を持っておらず、新しい建築様式によって度々建て替えられていること、これらのさまざまな時代と空間に入り込む道を見出すのは、言語の有機的な成長とその成果を見ることに等しいと気づいたことについて語っています。

--同じに見えるけど、さまざまな紐を引っ張るメカニズムが異なるレバーのイメージもあります。これらのイメージはウィトゲンシュタインが哲学をした尋常ならざる方法に特徴的なものです。

 B:それはきわめて独特です。彼は何よりも実例によって作業する傾向があります。しかし、吉六の哲学はその実例が何を意図しているかを理解しようとします。言語がどう働くとわれわれが信じるかではなく、言語がどう働くかを思い出さなければならないと彼は考えます。バートランド・ラッセルやおそらく初期の彼は、言語の真の本質は、言葉が物体を表すこと、名づける関係、名前と物との関係--これがすべての言語の基盤だと考えました。ところが、彼の死後の一九五三年に刊行された『哲学探究』を見ると、言葉が単に物体を表す以上の用法を持っていることが分かります。言葉は活動を描写することもできるのです。『哲学探究』の冒頭で、彼は大工とアシスタントを想像します。大工はアシスタントにもっと材料を持ってくるよう頼み、「slab(広い厚板)」と言います。「slab」は彼が求めるコンクリートのかたまりの名称でもありえますし、slabを持ってきてくれというリクエストであるかもしれません。あるいは、slabがもう残っていないので、アシスタントがそれを持ってこなければならないことをほのめかす合図だということもありえます。まったく同じ言葉がさまざまな機能を果たしうるのです。それが物語の一面です。もう一つの側面は、表面上、言語が同じに見えるゆえ、実際に同じ機能を果たしているとは考えないことです。時々、われわれは現実のあり方を表現する文章を書きます。それはこの部屋にあるたくさんの本を描写することかもしれませんし、家具の配置を描写することかもしれません。だけど、同じように叙実的に見えるけれども、実際には出来事の状態の叙述ではない文章もあります。

--例を挙げてもらえますか?

 B:分かりました。われわれは心の状態を述べるために心理学的な述語を用いる時、たとえば、頭痛がする、痛みがある、ニコラス・サルコジが次の選挙で選ばれるかどうか心配していると言う時、それらは叙事的な文章のように見えます。鉄道の時刻表や天候や家具の配置を述べる方法と同じように見えます。けれども、ウィトゲンシュタインにとってはそうではありません。それらの文章は、事柄の状態を、あたかも私が吟味し、それについてコメントできる対象であるかのように表現してはいません。実際のところ、それらは私の心の状態を表現しています。そのような文章は自分で観察したものについての報告ではありません。文字通り自分の心を語り、他人のために公にするものだとウィトゲンシュタインは考えます。

--今、おっしゃったようなことはすべて『哲学探究』の中にあります。その本の中で、ウィトゲンシュタインはまったく新しい哲学の見解を述べています。哲学の核心は、言語を誤って使ったり、無理にひねり出したりすることで、人々がはまり込む問題を解決することです。哲学は一種のセラピーになりました。彼は、ハエ取り壷にはまったハエに出口を教えることについて語っています。

 B:セラピーの考えはすでにトラブルに巻き込まれ、助けを必要としている人たちの助けになるのではないかと思います。哲学をセラピーとみなすウィトゲンシュタインは、まず第一に、困難に陥った人々をおだてて、哲学者のように考えることがなぜ魅力的なのかを理解させます。次に、言語の誤った使用がなぜ偽りの問題を引き起こすのかを人々に説明します。もし彼らが自分たちの陥っている状況や自分たちがしていること、また、自分たちが没頭している活動を正しく理解すれば、問題に悩まされなくなるからです。でも、問題を理解するにはまず過ちを犯さなければなりません。そのためウィトゲンシュタインは独特の文体を駆使して巧みに過ちを犯すようわれわれをそそのかします。そして、問題にがんじがらめにされている自分を感じるよう促します。それを感じられるようになれば、その時こそ、そこから脱出する真の哲学をすることができるのです。

--哲学者がどのようにして言葉に魅了されるかの実例はありますか?

 B:ウィトゲンシュタインの学生で遺作管理者であるエリザペス・アンスコムから受けた質問に答える時に彼が持ちだした良い例があります。アンスコムはウィトゲンシュタインにこう言います。「あなたは、太陽が地球の周りを回っていると人々がなぜ考えたか理解できます」。「本当かい? どうして?」と彼は言います。「そのように見えるからです」とアンスコムは応じます。「もし地球が太陽の周りを回っていたらどう見えるだろう?」とウィトゲンシュタインは言います。この例は全体像が見えないと、われわれの思考が誤った方向に向かう可能性があることを示しています。そして、事実の変化ではなく、見方を変えることで、問題は消え去るのです。

--私たちは二一世紀にいます。ウィトゲンシュタインは二〇世紀の哲学者でした。後続の哲学者たちに彼はどんな影響を与えたのですか?

 B:ワィトゲンシュタインは実に良い問題を提起してくれたと多くの哲学者が思っています。いまだにわれわれはそれらの問題につきまとわれ、試されています。これらの問題を抵抗すべきもの、あるいは解決する必要があるものとみなすのが公式のウィトゲンシュタインの道徳だったかもしれませんが、哲学者たちはそれらが重要な難問であることに気づき、取り組み続けています。けれども彼の永遠に消えることのない遺産は、おそらく哲学を超えたもので、すべてを説明し尽くしたいという欲求を諦めようとする考え方だと思います。現在、われわれは、科学が多くの物事、たとえば脳や感情の状態を解明するだろうと確信しています。ウィトゲンシュタインは説明が必要でないことや、助けにならないこともあるのだということを、大変詩的に、そして上手に思い出させてくれます。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』を引き合いに出して彼はこう言っています。「恋に落ちた人間に、助けになるのは何だろう? 説明だろうか?」。それは明らかに次のような答えを誘う質問です。「いや、説明ではない。説明なんか必要ないし、助けにもならない」。
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豊田市図書館の30冊

319『大収斂』膨張する中産階級が世界を変える

509.04『日本型インダストリー』

673.3『ルポ コールセンター』過剰サービス労働の現場から

311『政治学の第一歩』

198.22『サンタクロース物語』歴史と伝説

182『仏教通史』「弘法さん かわら版」講座

292.79『イスラエル 聖書と歴史 ガイド』

131.3『知の教科書 プラトン』

374.35『先生、日本ってすごいね』教室の感動を実況中継!

491.3『時間医学とこころの時計』心身ともに老化を遅らせ、健康に導く

367.3『日本の親子』不安・怒りからあらたな関係の創造へ

130.4『哲学と対決する!』

209.74『ブラッドランド【下】』ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実

367.97『ふたりで安心して最後まで暮らすための本』同棲パートナーとのライフプランと法的書面

448.9『地図の世界史 大図鑑』

376.48『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』

809.2『TEDに学ぶ最強のプレゼン術』心に響かせる世界標準の伝え方!

361.85『今日からワーキングプアになった』底辺労働にあえぐ34人の素顔

786.18『生還』

490.14『医者と患者のコミュニケーション論』

440.2『ガリレオ裁判』--400年後の真実

159『自分の人生を生きられないという病』「生産的」いい人と「非生産的」いい人!

673.94『女子大生風俗嬢』若者貧困大国・日本のリアル

721.4『若沖』

159.4『こころの定年」を乗り越えろ』40歳からの「複業」のススメ

406.9『自然史博物館事典』動物園・水族館・植物園も収録

778.09『ネットフリックスの時代』配信とスマホがテレビを変える

135.25『パンセ(中)』

193.1『文語訳 旧約聖書Ⅲ 諸書』ヨブ記 詩篇 箴言 

304『森鴎外 椋鳥通信(下)』伝道之書 雅歌

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