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地域コミュニティからテーマ・コミュニティヘ

『沈まぬアメリカ』より もうひとつの「アメリカ後の世界」

具体的なテーマとして今回取り上げたのは七つ。うち高等教育における「リベラル・アーツ」については、かつてアメリカに学び、そして現在、大学で教鞭を執る者としての個人的な想い入れもあり二章にわたって記してある。テーマの選定にあたっては、もちろんハリウッドやディズニーランド、マクドナルド、スターバックス、野球、アマゾン・ドット・コム、ソーシャル・メディア(インターネット)なども検討したが、あまりに定番に過ぎる嫌いもあり、今回はあえて外した。

逆に、地理学を普及すべく一八八八年に創設され、かの山本五十六も会員だったナショナル・ジオグラフィック協会(本部ワシントンD.C.)のような、自然・環境系のテーマ・コミュニティについても調査取材を行なった。米西部に位置するイエローストーンは世界初の国立公園として知られるが、そもそも「国立公園」という制度自体が、一八七二年、ユリシーズ・グラント大統領の時代のアメリカで誕生し、その後、世界に広まった。アメリカはこの分野でも興味深い規範や制度を創り出してきた。このテーマについては別途、角度を変えて詳述することにしたい。

あるいは、アメリカ国外に約七百あるとされる米軍基地のネットワーク。日本にとっても抜き差しならないテーマであり、基地内の生活を描いた作品も少なくない。米軍の友人や知人もおり、私の自宅や職場からそう遠くないところにも基地はある。しかし、核心的な情報へのアクセスが著しく制限されるなか、紋切り型の視点を超えて如何なる考察が可能か、突破口を見出すのは容易ではなかった。

このような今回取り上げることのできなかったテーマを含め、さまざまな角度から選定作業を行なう中で感じたことは、アメリカの文化的な影響力というのはI―-少なくとも規範や制度の世界的拡張という点に関しては--世間で言われているほど普遍的でも圧倒的でもないのではないかということである。

あるテーマ・コミュニティに関して、世界各地にどれほど伝播・拡張しているか調べてみると、例えば、中南米やアジア、中東、アフリカ、あるいはョーロッパやオーストラリアでさえ、ほとんどその影響が見られないというケースは決して少なくなかった。もちろん他国と比べると、検討に値するテーマは多く、その点ではアメリカの影響力は強いとは思うのだが、「アメリカナイゼーション」という言葉から連想される、世界があたかもアメリカの色一色に染上げられているかのようなイメージはかなり大袈裟な印象を受けた。世界はそれほど単調でもなければ単純でもない。

各テーマについての詳細はそれぞれの章に記述した通りだが、どの章とどの章を比較するかによって、似たような展開やパターン、問題を抽出することも可能であろう。

例えば、セサミストリートとヒップホップはアメリカのパブリック・ディプロマシー(広報文化外交)の一環として活用されている点で共通している。そのセサミストリートを政治コンサルティングと比べれば、どちらも視聴者や有権者の反応を緻密に計算している共通点に気付く。

そうした個々の比較を超えて、私が全体を俯瞰して感じるのは、どのテーマに関してもアメリカ社会の理念型とも言うべきものが反映されている、少なくともそれと無縁ではないということである。

第八章(ヒップホップ)でアメリカの大衆文化を例に少し述べたことだが、アメリカはョーロッパ流の「保守主義(貴族主義)」と「社会主義」の伝統を持だない。君主や貴族による専制を排し、巨大政府による圧政を否定し、あくまでデモス=市民を主体とする(ヨーロッパで言うところの)「自由主義」に立脚した社会である。つまり、広い意昧での「右」と「左」のバネが弱い。たしかにアメリカでも「右」(=保守主義計共和党)と「左」(=リベラリズム≒民主党)は存在するが、それらは、所詮、「自由主義」という狭い枠のなかでの「右」と「左」の違いに過ぎない。

そして、そのデモス=市民へのこだわりは今回扱った七つのテーマにも広く通底しているように思われる。

例えば、専門化の度合いを深めていったョーロッパの学部教育に比べると、アメリカでは、依然、リベラル・アーツ重視の伝統が根強く残っている。第一章で記したように、そもそもりベラル・アーツの起源は、宗教的権威や国家的権力、あるいは伝統・因習・偏見から「精神と知性」を解放することにある。

「毎日低価格」をモットーとするウォルマートの経営理念の根底に「節約したお金で人びとは人生をより豊かにすることができる」という「道徳的ポピュリズム」があるとすれば、メガチャーチには、階層化し、形式化したキリスト教をより人びとの現実やニーズに沿ったものにしようとする「宗教的ポピュリズム」の精神が見て取れる。さらに政治コンサルティングは、市民と政治家のコミュニケーションを促そうとする点において、あるいは大衆心理や世論の誘導という点において、まさに今日の「政治的ポピュリズム」を支え、かつそれに支えられた制度と言えよう。

ロータリーやライオンズのような奉仕クラブは、アメリカにあっては、富豪のみならず、いわばプチ・ブルジョアとしてのミドルクラスもまた奉仕や慈善において大きな役割を担っていることの象徴でもある。

セサミストリートは、「お上」ではなく、民間のイニシアチブによって誕生し、かつ人種・民族・宗教などを超えた、市民の共生の作法を促す番組として革新的だった。

ヒップホップもまた、ストリートに起源を持つ庶民文化の代名詞であると同時に、貧困のなかを生きる人種・民族が共存するための「共通言語」としての側面を有していた。リベラル・アーツやセサミストリートには善良なデモス=市民を育成しようとする啓蒙的意志が色濃く反映されているが、他のテーマに関しても、アメリカという民主主義社会を生きる人びとの葛藤や創意工夫が原動力になっていることが分かる。
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ブダペストの泣き柳

『病いと癒しの人間史』より プラハのマリオネット劇場 ドナウのくさり橋 ⇒ ブダペストの図書館を10年前に飛行機の中で、ハンガリーの大学教授から紹介された。行かないと。

ブダペストで滞在したホテルは、ペストの中心地からバスで小半時も登った小高い山の中腹にあった。バスは旧型で、道は左右に大きくカーブし、それをかなりのスピードでうねるように上がっていく。いっせいに右に左に体を揺らす乗客に混じって、窓の外の大きな木々の茂る森を、私は一心に見つめていた。時々、木々が途絶えると遥か下に、ペストの街並みが見え、また緑の木立に隠れる。

途中に鉄道の小さな駅があって、一両か二両のマッチ箱のような車両に人が乗り降りしている。その駅の前に、アザレアの花が美しく咲いたベランダに丸テーブルを出したカフェがあった。数人の客が、新聞や本をひろげて、コーヒーを飲んでいる。滞在していたホテルも、森の中にあって、外テーブルでの食事には、風が吹くたびに木々がざわめき、ちょうど羽子板の追羽根のような羽つきの種が、カツンカツンと固い音をたてて、テーブルに落ちてきた。

今日は自由橋を渡って、パウロ会の洞窟教会にあるコルベ神父の遺影に会いに行くことにしている。コルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所で他人の身代わりになって、殺されてしまった。ペスト地区まで降り、地下鉄を乗り継ぎ、雑然とした街中をひたすら歩く。車が歩行者などさして意にも介さないかのように乱暴に行きかう。ひび割れたアスファルト、国会議事堂の近くの農業省の建物の壁面には、たくさんの銃弾の跡があった。1956年の民主主義を求めたハンガリー動乱の惨劇の記憶である。随一の繁華街では、化粧品やブティックのブランドショップが軒を並べ、外資のファストフードもあって、観光客が繰り出している。その観光客に子連れの婦人が、コインをせがんで手をのばしていた。

公共施設の美しい曲線のファザード、青や緑のセラミックを貼り付けた鮮やかな屋根、壁に散りばめた同種のセラミックのモチーフ。どこか東洋的な雰囲気を感じながら、私はベストの街を歩き回っていた。

中央市場を通り過ぎて、自由橋を渡ると、目の前に灰色の岩肌を見せながらゲッレール卜の丘が威圧するように見えた。そのすぐ下には、洞窟をさらにくり抜き、岩を打ち砕いて造られた洞窟教会がある。激しい車の往来のある交差点を越えて、石段を上るとぽっかりと岩穴があき、鉄格子のような扉がはめ込まれてあり、その奥にオレンジ色の灯りが見えた。天然の洞窟を利用した小さな洞穴の小部屋が、それぞれ小さな礼拝堂となり、マリア像が見守っている。一番奥の主祭壇にはキリストの十字架の像が淡く照らし出されていた。そして、コルベ神父の遺影も見つけることができた。洞窟教会の神秘的な雰囲気に捉われながら、いつもヨーロッパの壮麗な大教会を目の当たりにしてきた私は、この教会に宗教の根源を考えさせられ、その信仰の深さに驚かされる思いがした。

小さな椅子にたたずみ、岩肌そのままの天井を見上げると、ステンドグラスの薔薇窓とは違う、別の心の安らぎが降りてくる。そもそも、このゲッレールトの丘もアジアにルーツを持つ人々の多いこの地で、キリスト教を布教しようとしたゲッレールト宣教師が、ワイン樽に押し込められ、丘の上からドナウ川に突き落とされて、殺された場所であった。民族の違いを越えて、ヨーロッパとアジア、大陸で互いを尊重して生きるということをアウシュビッツで訴えたコルベ神父がこのゲッレールトの丘の下の洞窟教会にいたことも、偶然ではないように思える。

そのコルベ神父とともにナチスの犠牲となったユダヤの人々のシナゴーク(ユダヤ教教会)がこの街には残っている。ブダペストは、第二次世界大戦の最中、ナチスが侵攻している。ハンガリーにいた74万人のユダヤ人のうち60万人が殺され、戦後に生存確認ができたのは、たった7万人だった。そのシナゴークに行かねばならない。私は、地下鉄を乗り継ぎ、球体ののった二本の塔のある横縞模様の愛らしい学校を思わせるシナゴークにたどり着いた。まだ開いている時刻だろうか、丸いアーチ型の入り口から入って、入場券を手にすると、私はほっと息をついた。シナゴークの内部は、美しく色とりどりの煌びやかな装飾で、まるで別世界のようだ。天井から星雲を思わせる電球のだくさんついたシャンデリアが下っている。エキゾチックな配色、幾何学模様、黄金の祭壇、二階三階の女性用のパルコニー。何もかもが、さっきまでの洞窟教会とは対極にあるように思えて、私は目がくらむようで、そっと中庭にでた。明るい日射しの下で、木々の緑が風に揺れている。

庭の奥に石造りの四角いものがある。何だろうと思って近づくと、それはなんと墓標の群れであった。ふと、不思議に思った。ユダヤ人はシナゴークの中には、墓地を造らないと聞いている。しかし、このシナゴークには、たくさんの墓石が立ち並んでいるではないか。近づいてよく見ると、重なり合う墓石には、名前と没年が刻まれている。そこには、1943、1944、1945という数字ばかりが記されているのだ。第二次世界大戦末期、ナチスの殺戮によって、ここに夥しい遺体が運び込まれたのだろう。そして、このシナゴーク内に同胞の遺体を埋葬し続けたに違いない。このシナゴークの真実は、このユダヤ人墓地にあるのではないか。

立ちすくむ私に、庭を掃除していた女性が手を休めて、さらに奥の庭の一隅を指差した。銀色の金属の噴水のようなモニュメントがある。「あそこに行ってごらん」。彼女の目に強いメッセージが込められているように感じて、私は小石の砂利を踏みしめて、その銀色の柳のモニュメントに近づいた。「ああっ」と、私は声をもらした。夥しい柳の葉の一枚一枚にナチスによって虐殺されたユダヤの人々の名前と死亡年が克明に刻まれていたのだ。ここにも1942、43、44、45の数字が並んでいる。この名前の刻まれたリーフの柳は、「泣き柳」というのだという。明るい日差しの中で泣き柳が、銀色に輝いている。忘れてはならない真実を目の前にして、私は長い間呆然としていた。
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サラエボヘ、ようこそ!

『ぼくたちは戦場で育った』より サラエボヘようこそ!

サラエボの暗い時代も輝ける時代も、サラエボの発展にっねに貢献してきた。残酷な過去を持ち、よりよい時代を待ち続けたこのちいさな町は、ふたたび、言いあらわせないほどの魅力で訪れる者の心をつかみはじめている。あたらしい時代、あたらしい文化の影響で世のなかがどれほど変わっても、この町は変わらない。山々を越え、黄金の渓谷と、広大な包容力を持っこの町だけは。

水の町

 「ここならいつでも生きていけそうだ、あちらこちらに泉が湧き出るサラエボ、ぃのちの水」とうたったのは、17世紀のサラエボの詩人、ネルケシヤである。

 見た目質素だが、サラエボ市内のあちこちにある泉(水飲み場)は、博愛精神のあらわれであり、まちがいなく町全体のシンボルである。神の慈悲として建てられたこれらの泉は、空腹を満たし渇きを癒やすという、神の精神を受け継ぐ遺産であり、待ち合わせ、会話、友情の場とされ、初恋が生まれることも少なくない。

墓地

 中心から遠く離れたところに建てられた、暗く寒々しいヨーロッパ各国の墓地とは異なり、サラエボの墓地は生活のすぐそばにある。

 標準的な古い墓地はシンプルで、たぃていは白い二つの石柱が埋葬場所を示すために地面に立てられている。時間の経過とともに石は傾き、地中へと沈んでいき、次の埋葬者のために場所を譲る。訪問者は、こうして生きているかのような墓地は、サラエボにふさわしいと記述している。たとえばズーコ・ジュムフルはこう書いている。

 「・‥わたしは陽気な墓地をずっとさがしてきたが、世界じゅうのどこにもそんなものは見っからなかった。唯一この町の斜面では、死者が生者と近所づきあぃをしながら生き続けている。死者たちはその目印である石標となり、よろよろと起き上がったり、倒れたりしながら、ふたたびわたしたちとともに生きたいと願っているのだ…」

コーヒーハウス

 サラエボでは、コーヒーを飲む習慣が500年近く、つまり町の歴史と同じくらい長いあいだ続いている。この町の暮らしからコーヒーとコーヒーハウスを外すことはできない。サラエボでは、老いも若きも同じくコーヒー(カファ)を飲む。年配者はたいていコーヒーを、とりわけボスニアスタイルのコーヒーのことを「カフバ」と呼ぶ。コーヒーを飲む時間はとくに決まってぃない。いつでもどんなときでも--起床後、朝食後、出勤後、休憩除昼食時、午後、夕食前、夕食中、夜中ですら、みんなコーヒーを飲む。コーヒ一の飲み方も、多くの他の都市とは異なり、その場で急いで飲むようなことはしない。コーヒーは片手間に飲むようなものでもないし、テイクアウトもしない。

 サラエボのコーヒーハウスやカフェは就業時間帯でもたいてい混んでいるが、だれがこれをいいとか悪いとか言えるだろう。たしかなことは、コーヒーを飲んでゆったりと時間を過ごすことは、現代的な生活スタイルに対抗する、まれな習慣のひとつだとぃうことだ。

学生たちの町

 「世界はキラリティに満ちている、シンメトリをさがしてたのしもう」と言ったのは、キラリティの研究でノーベル化学賞を受賞しかサラエボ生まれのウラディミール・プレローグである。この有名立科学者の生家から1キロメートルも離れていない場所にサラエボ大学の校舎がある。現在サラエボには5万人の大学生が住んでいるが、これは町の住民1O人にひとりという割合である。ふつうの大学都市ならあるはずのメインキャンパスも学生寮もないが、それでもサラエボは学生の町である。

スポーツ都市

 サラエボはまた、スポーツ都市でもある。バスケットボールでは、ほかに本格的なチームがないので町はこぞって「ボスナ」のサポーターである。ボスナは、ミルザ・デリバシッチが率いていた黄金時代、1979年に欧州チャンピオンを勝ち取った。

 サッカークラブでは「ジェリェズニチャル」と「サラエボ」のライバル争いが有名である。このふたつのチームの対戦では、町が二色に塗り分けられる。ブルーとワインレッドだ。

 そのほか、有名なスポーツクラブには、ボスニアチェスクラブ(欧州大会で複数回優勝)を含め、ボスナハンドボールクラブ、ファントム・アンド・スピード(障害者ネットボール欧州大会で何度も優勝)などがある。

包囲下のサラエボ

 ようこそ、水も電気も、食べものも薬もない町へ。

 ようこそ、1990年代のサラエボヘ。

 この町とこの町の人々は、歴史上、戦争も侵略も征服も、何度も経験してきた。けれども1992年にはじまったこの前の戦争ほどサラエボを残忍に襲ったものはなかった。前の日までは同じ市民であった人々が、町を囲む丘にのぼり、そこに他のボスニア・ヘルツェゴビナや隣国から援軍が加わった。そのとき最強だとされていたユーゴスラビア人民軍の武器を持って。

 町では、戦車、迫撃弾、機関砲、狙撃銃などによる計画的な大量殺戮がはじまった。サラエボ包囲は1,425日続いた。近代の歴史のなかで最長の包囲戦である。学校、病院、図書館、博物館、宗教施設が破壊され、世界じゅうが見ているなか、出勤途中の人々や公園で遊ぶ子どもたち、産科病院の乳児までもが殺された。攻撃者はえり好みをしなかった。目的は明白--町を破壊すること。この破壊攻撃の痕跡は、建物にも、人々の顔にも今なお残っている。旧市庁舎(当時は国立サラエボ大学図書館)も、ほかの多くの重要な建物もまだ修復されてぃない。破壊された建物と殺された市民のことをもっともよく伝えるのは、「サラエボのバラ」だ。路上の砲弾痕を赤く塗って印したものだ。

 川で洗濯をする女性たち、墓地と化したサッカー場、地下室で行われた授業--どれも理解に苦しむ光景だが、包囲下の町では日常だった。絶え間ない砲撃のもとでも、コンサートヤ演劇、展覧会が開かれた。暗闇のなかでも本は書かれた。

 かつて幾度もそうしてきたようにサラエボは今、再生という挑戦に立ち向かっている。町を包囲してにらみ続けていた邪悪な闇は、20世紀末に民主化の移行という暗雲に変わった。戦争終結への願いは、永遠の平和への願いに変わったようして今、サラエボは笑顔の都市となった。
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「私たち」ではなく、「私」の課題

13日の金曜日のフランス・テロ

 フランスに対して、アメリカが反応している。ドイツはほとんど発信していない。

「私たち」ではなく、「私」の課題

 「私たち」はどこから来て、どこへ行くのか? ではなくて、「私」はどこから来て、どこへ行くのか? 「私たち」と言えるほど、親近感は持っていない。
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