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未唯空間歴史編・数学編のコメント追加

数値が悪いですね

 加藤内科の結果、8.3だって。検査の前は気をつけよう。とりあえず、体重を図ることにしましょう。84.9Kgから84.35Kgです。水中歩行とお風呂。水中に戻らないといけない。そこには宇宙がある。

歴史編 4.1「政治形態」

 たとえば、グローバル化だったらどうなるか。グローバルから対象と対策の問題点。そういう大雑把な流れになります。多様化だったら、分化と統合をどういうバランスでやっていくのか。分化そのものは別の所でやります。多様化の所は、それだけを狙います。

4.2「歴史認識」

 そういう歴史の要素が重なって、どういうカタチになるかは、その上の次元で行います。補助線として、何を付け加えるかというシンプルなものです。言葉にすると簡単です。図式にすることで意味を持つ。それで要素が重なる。

4.6「歴史哲学」

 哲学は変わるというのは変なことだけど、存在の哲学に変わってきます。それによって、人が変わるか。哲学というものはそんなものか。今あるものをしっかり説明し、崩せるようにするものが哲学なんでしょう。哲学が前面に出る時代になって来るでしょう。

 ソクラテスが目指したものはそういうものなんでしょう。いかにして、自明なものを明確にすることで、人間が変われるか、それによって、民主主義ができるのか。

内なる世界でのできごと

 未唯空間は内にあります。だから、家に閉じ籠ってやればいいです。存在の力から分化が始まり、そして、分化を統合していく。ハイアラキーではなく、配置することで統合する。

 本質的なことを考える場としての内なる世界。そして、外なる世界。内なる世界でまとめたのが未唯空間であり、未唯宇宙。それらが「全てを知りたい」につながる。そして、それが目標。

 4.4「歴史の動き」

 この辺で方向性を入れていけば、とりあえず、次につながるから。それが何を意味するかは、その次です。多分、存在の力そのものに戻るんでしょう。生きている理由そのものに。それは対象を変えて、社会とか歴史とか、同じような経路を辿る。二つのモノがあった時に、それらの関係性をシェアする。全体の構造は毎回異なってくる。

2.1「数学で考える」

 2.1「数学で考える」ではなく、「数学とは何か」になる。この題名は大学1年の全学ストの時の特別講座のテーマです。

 数学は不変であるということと全体を示すモノ、あるいは全体を作り上げるもの。数学で考えるということは、不変は何で、全体がどうなっているかを考えること。つまり、未来を考えること。そして、今の論理の世界では、空間を用いても、多様体が限度です。

2.2「空間配置」

 思考が合って、行動がある。その時の行動は次に思考するための取り掛かりに過ぎない。それがサファイアになる。思考としての世界、知の世界が次のカタチになる。なぜならば、思考には多様性があるけど、行動には多様性がないから。

2.3「数学の歴史」

 数学の歴史にとって、一番大切なのは、数学のための数学ができたということです。それによって、数学は未来を見ることができた。アインシュタインよりも先に行ける。道具ではなく、目的になった。トポロジーの次の世界、社会にとっては、次の次の世界を想定しうる。

 それが故に、数学はすべてのモノのベースになる。抽象的であるからでなくて、数学のための数学を持っているから。

2.4「社会に展開」

 数学を社会に展開すると言っても、数式ではないです。部分から全体を作り上げる力、不変を見出す力、そして、未来を予測する力。未来方程式もそのようにして、作り上げてきた。現実的なカタチとしては、システムというものの見方もあるし、空間で全体を見ていく見方。

2.5「サファイア」

 サファイアは部分と全体、思考と行動の循環を示す。それはトポロジーの近傍と位相、それを拡大するもの、チェーン付けするものに当たります。そして、重要なのは、配置で見ていくことです。

2.6「社会の位相化」

 そこから、社会の位相化が出来てきたが、これは自分篇でも述べたように、分化と統合のプロセスが入ります。これに姿そのものは、第9章とか第10章で展開します。数学編はあくまでも、理論に持って行きます、数学に持って行きます。

2.7{新しい数学」

 それによって、「新しい数学」というカタチで、数学に戻ります。部分と全体が関係します。哲学で問題になっている、言葉という曖昧なもの、自分のすべてという問題が「新しい数学」に入り込みます。あくまでも、局所で考えて、全体に拡げる。拡がるところは拡がるし、拡がらないところはそのまま別の空間になるところもある。そういう空間を相手にする数学になる。そういう数学をめざします。

2.8「先の先」

 それを基にして、トポロジーの次の数学を作り上げていく。その空間は「存在と無」のように、あることとないことが同居するせかいになる。「存在と無」という、本来、両端のモノが、私の中で一緒になっている空間が究極な姿として、ここに出てくる。

 当然、歴史もその形になっていくと予見している。だから、私は未来学者として成り立つ。
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