『公共政策学の基礎』より 価値の対立と政策の判断基準
パターナリズム--自由と安全・安心のトレードオフ?
ここまで述べてきたことは、それぞれの規範・価値についてはいろいろな定義がありうること、アクターはさまざまな定義をもって政治に参加し、その議論・交渉の中で規範・価値の再定義も行われていること、である。
1つの価値の「真の定義」をめぐって衝突があるだけでも十分に「悪構造」であるといえるのに、さらに追求される価値の間にも衝突がありうる。特に重要なのが、1つの価値を追求すればするほど、もう1つ別の価値の達成が難しくなるというトレードオフの場合である。
例えば、パターナリズムは、安全・安心という価値を優先するか、個人の自由を優先するかの問題として定式化することができる。パターナルという言葉は父の、父のような、という意味を表すが、パターナリズムとは政府や国家が親代わりに、温情主義的に干渉を行う、というような意味で使われている。よくいえば親心、悪くいえばおせっかいな政策を行うのである。
例えば、車の運転中にシートべルト、バイクの運転中にヘルメットの着用を義務づけることが、これに当たるといえる。事故にあってけがをするのは運転者本人である。他人に危害があるのならともかく、この場合は、自由の議論のときに見たように政府の介入が正当化される)、損をするのは本人だけである。にもかかわらず、シートベルトやヘルメットを着用したほうがあなたにとって安全ですよという理由で運転手に義務づけている。ただ単に説得するだけではなく、しない場合に罰則を設けるなどまでして、着用させている。これは個人の選択の自由よりも、安全・安心という目標を上位に置いて実現しようとしていると考えることができる。親が子供を思ってヘルメットを着用させているならともかく、政府がそのほうがあなたにとってもよいことだといって大の大人に強制するのはどうかという問題である。安全・安心と自由という2つの価値の間でトレードオフが起こっていると考えられるのである。
この場合に、どちらの価値を優先するべきかが、公共政策において重要な問いとなる。一方では、自由を重視する自由主義者はパターナリズムを原則的には認めてはいけないという。シートペルトをすべきかどうかは個人の自由に任せられるべき問題であって、政府は介入すべきではない。そのほうがよいですよといって強制したり、それはよくないですよといってそれを行うことに罰則を与えたりするのは、おせっかいにすぎない。個人の選択の自由が尊重されるべきであり、個人の自己責任に任せたほうがいいというのが、その議論である。『自由論』の著者であるJ.S.ミルは、この立場からパターナリズムを否定する。
もっともそのミルも例外を認めている。それは、「自らを奴隷とする契約」に入ることは止められるべきであるとしているのである。そもそも自由を尊重するのであるから、その自由が失われるような契約は許されない、というわけである。この場合、「自由でなくなる自由はない」、あるいは人は「自由であることを強制されている」というような逆説的な状況となる。自由を否定するような団体に自由を与えるべきか、という自由主義にはつきもののジレンマと似た状況がここには見られる。
さらには、このように「自由でなくなるというのに等しい状況」というものも考えられるのではないかということになる。例えば、安楽死をする自由があるのか、宗教的な価値観から手術における輸血を拒否する自由が認められるのか、などの状況に対しては、ミルの例外と同様に扱うべきものであるから、それらの自由については認められない、ということになるのであろうか、という問題である。
麻薬についても、実際には他人に危害が加わるおそれがあるが、本人の選択の自由という側面もある。シャーロック・ホームズがコカインの7%溶液を注射している描写が原作には登場するが、彼のような理性あふれる人が限度を知って行うのであれば、かまわないという意見も十分ありうる話である。麻薬はあなたにとってよくないですよという意味でパターナリスティックに禁止するのか、将来の自分の自由が奪われることになるから、すなわち奴隷契約と同じようなものであるから例外的に禁止するのか、結果は同じでも考えてみる必要があるのである。
麻薬ならともかく(他人への害の可能性がかなり高い)、これが喫煙や飲酒ということになると、さらに判断が難しくなってくる。政府はどこまで、国民の安全・安心のために、政策を講じるべきか。その際に、個人の選択の自由をどれだけ尊重するのか、これらは難しい政策問題である。個人の選択の自由を重視する自由主義の国においても、実際にはいろいろな形でパターナリスティックな政策が採用されている。具体的な事例の中で、どちらの価値をどの程度重視するかについての議論が行われて、政治過程の中で安全・安心と自由との間のバランスが決められていく。ここに合理的な意思決定の要素を見つけるのは難しいといえるだろう。
2つの自由--自由と平等のトレードオフ?
もう1つ、自由と平等の間にもトレードオフの関係があるといわれることが多い。例えば、自由を重視すると、個人の自由な活動を認める結果、格差が拡大する。そのため、不平等な状態がもたらされるというわけである。逆に、平等を実現しようとすると、富裕層の人の行動を規制したり、彼らから税金を累進課税で取り上げて、それを貧しい人に対して渡したりしなければならない。ここでは、彼らの行動の自由や自分のお金を好きなように使う自由が制限されていることになる。
しかし、これに対する反論も存在する。この対立は、自由とは何かについての2つの異なる見解があることによっている(バーリン、2000)。一方では、「制限がない」ことをもって自由と考える。これを消極的な自由という。これも確かに自由と考えることができる。私たちを拘束する手錠であるとか、自由を奪う窮屈な服を思い浮かべればよいであろう。これらがなければ自由に両腕を振り回すことができる。
他方、自由を「意味のある選択ができること」ととらえることもできる。好きな職業が選べたり、住むところを決めたりできることは、自由のありかたい点である。選べるといっても、銃で撃たれるかお金を渡すかを選べ、という選択では自由があるとはいえないであろう。意味のある選択というのはこのような状況ではないことを意味している。これを積極的な自由という。
前者の消極的な自由の場合は、自由と平等の間にトレードオフの関係があるといえる。平等を実現するためには、多くをもつ人からそうでない人への金銭の移転が必要である。これは、前者の富裕な人にとっての制限となり、彼らがもつ自由が奪われることになる。他方、積極的な自由の場合、平等を実現することによって貧しい人の「意味ある選択をする自由」が増えることになる。これらの人々は移転前には、ニーズから自由ではない、すなわち自由に使えるお金がなかったからである。
こうして自由と平等との間にトレードオフがあるかないかという問いに対しては、自由を消極的にとらえればトレードオフがあるが、積極的な自由という意味ではトレードオフはないということができるのである。
ここでも、規範的概念の定義の仕方が重要であることが明らかとなったであろう。政治的な争いは、規範的な概念を定義したり、再定義したりすることによっても行われるのである。
パターナリズム--自由と安全・安心のトレードオフ?
ここまで述べてきたことは、それぞれの規範・価値についてはいろいろな定義がありうること、アクターはさまざまな定義をもって政治に参加し、その議論・交渉の中で規範・価値の再定義も行われていること、である。
1つの価値の「真の定義」をめぐって衝突があるだけでも十分に「悪構造」であるといえるのに、さらに追求される価値の間にも衝突がありうる。特に重要なのが、1つの価値を追求すればするほど、もう1つ別の価値の達成が難しくなるというトレードオフの場合である。
例えば、パターナリズムは、安全・安心という価値を優先するか、個人の自由を優先するかの問題として定式化することができる。パターナルという言葉は父の、父のような、という意味を表すが、パターナリズムとは政府や国家が親代わりに、温情主義的に干渉を行う、というような意味で使われている。よくいえば親心、悪くいえばおせっかいな政策を行うのである。
例えば、車の運転中にシートべルト、バイクの運転中にヘルメットの着用を義務づけることが、これに当たるといえる。事故にあってけがをするのは運転者本人である。他人に危害があるのならともかく、この場合は、自由の議論のときに見たように政府の介入が正当化される)、損をするのは本人だけである。にもかかわらず、シートベルトやヘルメットを着用したほうがあなたにとって安全ですよという理由で運転手に義務づけている。ただ単に説得するだけではなく、しない場合に罰則を設けるなどまでして、着用させている。これは個人の選択の自由よりも、安全・安心という目標を上位に置いて実現しようとしていると考えることができる。親が子供を思ってヘルメットを着用させているならともかく、政府がそのほうがあなたにとってもよいことだといって大の大人に強制するのはどうかという問題である。安全・安心と自由という2つの価値の間でトレードオフが起こっていると考えられるのである。
この場合に、どちらの価値を優先するべきかが、公共政策において重要な問いとなる。一方では、自由を重視する自由主義者はパターナリズムを原則的には認めてはいけないという。シートペルトをすべきかどうかは個人の自由に任せられるべき問題であって、政府は介入すべきではない。そのほうがよいですよといって強制したり、それはよくないですよといってそれを行うことに罰則を与えたりするのは、おせっかいにすぎない。個人の選択の自由が尊重されるべきであり、個人の自己責任に任せたほうがいいというのが、その議論である。『自由論』の著者であるJ.S.ミルは、この立場からパターナリズムを否定する。
もっともそのミルも例外を認めている。それは、「自らを奴隷とする契約」に入ることは止められるべきであるとしているのである。そもそも自由を尊重するのであるから、その自由が失われるような契約は許されない、というわけである。この場合、「自由でなくなる自由はない」、あるいは人は「自由であることを強制されている」というような逆説的な状況となる。自由を否定するような団体に自由を与えるべきか、という自由主義にはつきもののジレンマと似た状況がここには見られる。
さらには、このように「自由でなくなるというのに等しい状況」というものも考えられるのではないかということになる。例えば、安楽死をする自由があるのか、宗教的な価値観から手術における輸血を拒否する自由が認められるのか、などの状況に対しては、ミルの例外と同様に扱うべきものであるから、それらの自由については認められない、ということになるのであろうか、という問題である。
麻薬についても、実際には他人に危害が加わるおそれがあるが、本人の選択の自由という側面もある。シャーロック・ホームズがコカインの7%溶液を注射している描写が原作には登場するが、彼のような理性あふれる人が限度を知って行うのであれば、かまわないという意見も十分ありうる話である。麻薬はあなたにとってよくないですよという意味でパターナリスティックに禁止するのか、将来の自分の自由が奪われることになるから、すなわち奴隷契約と同じようなものであるから例外的に禁止するのか、結果は同じでも考えてみる必要があるのである。
麻薬ならともかく(他人への害の可能性がかなり高い)、これが喫煙や飲酒ということになると、さらに判断が難しくなってくる。政府はどこまで、国民の安全・安心のために、政策を講じるべきか。その際に、個人の選択の自由をどれだけ尊重するのか、これらは難しい政策問題である。個人の選択の自由を重視する自由主義の国においても、実際にはいろいろな形でパターナリスティックな政策が採用されている。具体的な事例の中で、どちらの価値をどの程度重視するかについての議論が行われて、政治過程の中で安全・安心と自由との間のバランスが決められていく。ここに合理的な意思決定の要素を見つけるのは難しいといえるだろう。
2つの自由--自由と平等のトレードオフ?
もう1つ、自由と平等の間にもトレードオフの関係があるといわれることが多い。例えば、自由を重視すると、個人の自由な活動を認める結果、格差が拡大する。そのため、不平等な状態がもたらされるというわけである。逆に、平等を実現しようとすると、富裕層の人の行動を規制したり、彼らから税金を累進課税で取り上げて、それを貧しい人に対して渡したりしなければならない。ここでは、彼らの行動の自由や自分のお金を好きなように使う自由が制限されていることになる。
しかし、これに対する反論も存在する。この対立は、自由とは何かについての2つの異なる見解があることによっている(バーリン、2000)。一方では、「制限がない」ことをもって自由と考える。これを消極的な自由という。これも確かに自由と考えることができる。私たちを拘束する手錠であるとか、自由を奪う窮屈な服を思い浮かべればよいであろう。これらがなければ自由に両腕を振り回すことができる。
他方、自由を「意味のある選択ができること」ととらえることもできる。好きな職業が選べたり、住むところを決めたりできることは、自由のありかたい点である。選べるといっても、銃で撃たれるかお金を渡すかを選べ、という選択では自由があるとはいえないであろう。意味のある選択というのはこのような状況ではないことを意味している。これを積極的な自由という。
前者の消極的な自由の場合は、自由と平等の間にトレードオフの関係があるといえる。平等を実現するためには、多くをもつ人からそうでない人への金銭の移転が必要である。これは、前者の富裕な人にとっての制限となり、彼らがもつ自由が奪われることになる。他方、積極的な自由の場合、平等を実現することによって貧しい人の「意味ある選択をする自由」が増えることになる。これらの人々は移転前には、ニーズから自由ではない、すなわち自由に使えるお金がなかったからである。
こうして自由と平等との間にトレードオフがあるかないかという問いに対しては、自由を消極的にとらえればトレードオフがあるが、積極的な自由という意味ではトレードオフはないということができるのである。
ここでも、規範的概念の定義の仕方が重要であることが明らかとなったであろう。政治的な争いは、規範的な概念を定義したり、再定義したりすることによっても行われるのである。