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国民国家か民族国家か

『「日本国憲法」まっとうに議論するために』より ⇒ 未唯空間の歴史編は「国民国家」から始めることにした

「Nation」とは?

 そうした混同をあらかじめ避ける整理をしておくためには、日常ふだんの言葉として私たちが「国民」と言うとき、何を思い浮かべるのかを、ふりかえってみる必要がありましょう。

 日本国憲法は、近代憲法のいわば嫡流の系譜をふんでいます(これに限らず説明がどうしても前後することが多くなりますが、のちにとりあげます)。その近代憲法の単位となってきたのは、国民国家 Nation State とよばれてきた結合です。その State =国家を成り立たせている Nation=国民とは、どんな性質のものなのでしょうか。抜き書きで紹介しながらも少々長くなりますが、ある芝居のやりとりが、答えを示唆してくれます。「民本主義」の首唱者・吉野作造を主人公にした、井上ぴさしの芝居『兄おとうと』からです。いろんな登場人物との問答ですが、ゴシックの部分が吉野役の台詞です。

  ……「国もおにぎりと似ている。なにを芯にして一つになるのか、そこが大切なんだよ。」

  ……「わが国は大和民族で一国を形成しています。」

  「ちがう。」「世界のどこを探しても純血な民族など存在しない。わが国もまたしかり。」

  ……「国語を話すから日本人、それで決まりだ。」

  「ちがう。」「……スイスには三つも四つもちがうことばがあるのに、それでも一つの国だ。……」

  ……「いらざる問答はもう無用にするがいい! この日の本の国を一つに束ねているのは、国家神道、と決まっているのだから」

  ……「すると、明治以前の日本は、国ではなかったのだろうか。」「国家神道ができたのは明治になってからだが。」…………

  ……「民族、ことば、宗教、文化、歴史、全部だめ。ほかになにがあるの?」

  「ここでともに生活しようとする意志だな。」「ここでともによりよい生活をめざそうという願い、それが国のもとになる。」「そして、人びとのその意志と願いを文章にまとめたものが、憲法なんだ。」(『兄おとうと』新潮社)

国民国家か民族国家か

 ひとことでいえば、ひとりひとりの個人の意思を出発点においてひとつの公共社会の成り立ちを説明する考え方です。トマス・ホッブズからジョン・ロック、そしてルソー。

 --これらの名前を思い出して下さい。共通しているのは、神のおぼしめしとか、血のつながりではなく、個人の意思から出発する契約というフィクションで、近代国家の成り立ちを説明する、ということです。そのような説明があってこそ、全体としての主権者としての国民と、人権の主体となる個人とを、かりに両方とも「国民」と呼ぶにしても、明確に区別することができるでしょう。それに対し、民族とか、一体としての宗教集団が国をまとめる単位だと考えると、そこでは、ぴとりひとりの人間は、個人として識別される前に、そのまとまりの中に吸収されてしまっているでしょう。

 そういう意味で、近代 Nation State を「民族国家」と訳すのは不適訳どころか誤訳といわなければなりません。本気で「民族国家」をつくろうとしたらどうなるでしょうか。その民族に属さない人たちを追い出そうということになるでしょう。出てゆかない者は殺すという、あってはならない悲劇が、その帰結となってしまうでしょう(一九九〇年代のバルカン諸国での民族紛争)。そこでは、いわば、ぴとつの民族が国家をのっとり、他の諸民族の存在そのものを追いつめているのです。

 近代国家の憲法は、だからこそ、民族については語らないか、語るとしたら複数形でのべるという節度が求められてきたのです(その点で、日本の改憲案のなかに民族を単数形で規定するものがあることには、きびしい注意が必要です)。

統合型と多元型

 近代 Nation State は、「国民」国家なのです。そういう大前提を置いたうえで、そのあり方は、大きく二つに分かれます。

 ひとつは、「ここでともによりよい生活をめざそうという願い」と「意志」を結集しようとする人びとが、それぞれの民族的出自や歴史的な記憶、属する宗教集団や言語単位などの相違をこえた自分自身である個人として公共社会の一員となろうとする、という型です。もうひとつは、そのような多様な帰属単位がそれぞれのまとまりとして、公共社会の構成要素となる、という型です。前者を統合型、後者を多元型、と呼んでおきましょう。

 統合型のもとでも、もとより、個人が身にまとっているそれぞれの要素は、尊重されるのが当然の大前提です。そのうえで、典型的な場合をあげれば、公立学校の門を入るときは各人の出自や信仰を持ち込むことなく、自分で自分自身を律する個人が公共をつくるという訓練を自分に課すのだ、という構図がえがかれます。ちざっどフランス革命後二〇〇年にあたる年にフランスの公立学校で、イスラーム教のシンボルと見られてきたスカーフを着用したまま授業を受けようとした女子中学生の取扱いと政教分離制度との関連をめぐって、大きな議論が起こりました(議論の末に制定されたのが公立小:甲学校での「目立つ宗教的しるし」め着用を禁ずる、二〇〇四年三月一五日法律)。ここでは、しかし人ぴとが公共空間に統合されている自分を実感できるかどうかの度合が、問題となります。それに加えて、統合されること自体が自分を失うことになる、という問い直しにどう答えるかという難問があります(二〇〇四年法制定の翌年秋、フランスの都市郊外で移民系の少年たちによる自動車一斉放火があった。さらにその一〇年後の二〇一五年、戯画評論週刊紙シャルリ・エブド本社での襲撃殺害事件が世界に衝撃を与えた)。

 一方、多元型のもとでは、公共社会そのものが、多様な単位社会の連結体としてとらえられます。そのことによって、それら単位社会に属する人びとのアイデンティティ感情を尊重し、同時に、単位社会相互のあいだでの平和共存を目ざす、という見取り図が構想されます(連邦化されたベルギーでの、フランス語・カトリック圏とオランダ語・プロテスタント圏の自立性強化)。ここではしかし、帰属集団の拘束から解放されて自分自身の選択をつらぬきたいという個人の処遇が、問題となります。また、単位社会のあいだでの「相違への権利」を強調することによって相互の無関心、さらにはある種の単位社会の「ゲットー」化をもたらさないかが、問われます(二〇〇五年八月、ロンドン地下鉄テロ事件をきっかけとして、イスラーム指導者たちのもとに一定の自主管理をみとめてきた「ロンドュスタン」方式は結局、解決にならないのではないか、あらためて問題とされた)。

 多元型が単位社会の「ゲットー」化と個人の囲込みになってしまうことを警戒する立場から、それを批判する含意をこめて名づけるとき、フランス語でコミュノータリスムcommunautarismeという言葉が使われます。「それはいけない」と言う文脈でのことです。他方で、統合型があくまで個人として公共社会に入って来いと言うだけでは、「意志」と「願い」をまとめあげる結び目となるのだろうか、と心配する人たちは、しばしば、「それが必要だ」という脈絡で、英語で自分たちをコミュニタリアン communitarian と名のって議論しています。対応するフランス語と英語が、正反対の文脈で使われています。ついでながら、フランス語で否定の評価とともに用いられるコミュノータリスムに当たるものは、英語では、それを使う人にとっては肯定的な含意で文化多元主義 multiculturalismと呼ばれていることをも、つけ加えておきましょう。それはともあれ、フランス語でいうコミュノータリスムを拒否する立場をとる論者の中には、だからといって英語でいうコミュニティの精神を軽んずるのではないとして、「共同体を持たぬ者たちの共同体」communnaute des sana-communaute つまり個人を囲い込むような性質の共同体には属さない者たちのコミュニティ、あるいは「市民たちの共同体」communaute des citoyens、つまり個人たる公共社会構成員のコミュニティ、という言葉づかいが示されています。
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日本の対外イメージ

『対立深まる南シナ海 進む日米越比協力』より

中央アジアの対日観

 中央アジアでは、対日感情は概して良好に推移してきた。

 旧ソ連中央アジアのウズペキスタンの首都タシケントでは日本人抑留者たちが国立ナヴォイ劇場の建設に1945年から46年にかけて従事した。この建設に従事したのは、タシケント第4収容所での生活を送りながら、朝8時から午後5時までの労働に従事した永田行夫氏率いる「永田隊」たった。労働を休むことができたのは、日曜日、メーデー、元日、11月7日のソ連の革命記念日の連休だけだった。食事は、穀物は籾つきで、羊肉は骨ばかり、またラクダの肉は硬くて噛みきれないほどで、じゃがいもは半分腐っていたものもあって食事の状態は決してよくなかった。

 このような過酷な環境で労働を強いられたのにも関わらす、永田隊には航空技術関係者が多く、その技術力は確かで、完成した国立ナヴォイ劇場は、1966年の大地震で夕シケント市内の多くの建造物が倒壊したが、ナヴォイ劇場はビクともせす、現地の人から日本人の技術が評価されることになった。

 2001年にナヴォイ劇場を訪問した永田氏は日本のオペうの「夕鶴」を観劇することにな0、「自分らの仕事が、たまたま後生に残るこういうものだったというのは幸運だった。もっともっとひどい仕事で苦しんだ人たちがたくさんいるのに」と語っている。

 中央アジアで最大の面積のあるカザフスタンでも日本人抑留者たちが、ウスベキスタンと同様に、カザフスタンのカラガンダ(カザフスタン北東部にある都市)にオペラ劇場「リェットニー・テアトル(夏の劇場)」を造った。 2004年に取り壊される際に市民が反対し、保存を求めたために、現在は市内の公園に一部が残されている。

 カザフスタンでも日本人抑留者たちの現地での評判はよく、勤勉で実直、礼儀正しく、仕事もできるなどの評価を得ていたようだ。また、日本人元軍医が負傷した少女を手術で救ったり、あるいは日露戦争で日本に抑留されたことがある老人が日本人に親切にされたことを収容所に語りに来たりしたというエピソードもある。

 旧ソ連での日本の先人たちのこのような努力が、この地域での日本に対する評価を高め、経済や文化を含めた日本との交流の礎を築いたという「業績」を忘れないようにしたいものだ。

 カザフスタンでは、2010年に開学したナザルバエフ大学の学長に勝茂夫・元世界銀行副総裁が就任し、理工系を中心とするこの大学は東工大など日本の大学との学術交流を進め、いずれカザフスタンの発展に寄与していくだろう。ウズベキスタン日本人材開発センターはウズベキスタンの対外経済協力センターが日本国際協力機構(JICA)と共同で2000年10月に創設された。このセンターは、日本に関心を持つウズベキスタンの経済発展に貢献する人材を育成するのが目的で、日本のビジネスマネージメントや日本語教育、また聴覚障害者たちへのコンピュータートレーニングなどが行われ、茶道などの日本文化を紹介する教室なども催されている。こうしたソフトパワーによる交流が日本と中央アジアの『絆』を強めていくことは間違いない。

大洋州地域における対日世論の現状と課題

 2014年は日本の大洋州地域外交において記念すべき年となった。安倍首相はア月にニュージーランド(NZ)、オーストラリア及びパプアニューギニア(PNG)を訪問した。日本の首相としては、オーストラリアはア年ぶり、NZは12年ぶり、PNGは29年ぶりであった。安倍首相の訪問は、大洋州の主要国との間で、安保・防衛面ならびに経済面での関係強化を打ち出す姿勢を強く示すものとなった。

 日本と大洋州地域とは、戦後長きにわたり友好関係を築き上げてきており、いずれの国も日本に対する好感度は極めて高い。NZでの各国国民イメージに関する世論調査によると、ここ10年間日本人がアジアの中で最も好感度が高く、インドや中国、韓国などに約5 - 10%の差をつけている。一方で、語学留学などを通じて急増している中国人や韓国人と比べ、日本人のNZ訪問者数は伸び悩んでおり、その高い評価と裏腹に現地での存在感は急激に低下している。

 オーストラリアでは、2013年に就任したトニー・アボット首相が、日本を「アジアにおける最良の友人」と評したように、政府レべルでの日豪関係は極めて良好である。一方、2014年に実施された世論調査では、アジアにおける最良の友人はどこかという質問に対して、最も高かったのは中国で31%を占め、次いで日本が28%であった。この数字からは、オーストラリアにおける国民レベルでの経済成長著しい中国への接近と、それに伴う日本離れの兆しが窺える。

 PNGをはじめとした太平洋島嶼国も、対日感情は極めて良好である。その背景には、ミクロネシアを中心とした戦前の委任統治時代から続く歴史的な関係や、第二次世界大戦後の独立間もない島嶼国に対して社会・経済インフラ整備を支援したODA外交が挙げられる。

 他方で、この友好関係を今後も続くものと当然視することには注意が必要である。オーストラリアやNZと間には、捕鯨問題など簡単には解決できない課題が存在している。また太平洋島嶼国に対しては、近年中国が急激に進出し、経済面や軍事面での関与を強めている。

 2015年も、4月の天皇・皇后両陛下によるパラオ訪問や、5月の第7回太平洋・島サミット開催など、大洋州地域が注目されている。日・大洋州地域間の交流の活発化を通じて、両者の友好関係が益々深化し、互いを真に信頼できるパートナーとして認め合える関係となるまでに発展することを切に願ってやまない。
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資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか

『我々はどのような生き物なのか』より 資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか

最後に、この講演のタイトルの中で提起された問題、すなわち、現存の資本主義的民主制の下で人類は生き残っていけるのか、について考えてみましょう。再度言いますが、現存の資本主義的民主制は、真の民主主義とも、古典的リベラリズムとも、あるいは市場システムとも非常にかけ離れたものです。市場は、こういった現存の社会においては極めて制限されていますが、それでも全く機能を失っているわけではありません。市場が存在していないわけではないのです。ただ、市場というものには--その本質の一部として--知られた内在的な諸問題がついてまわります。そのうちの一つとして、市場システムにおいては、経済学者が「外部性」と呼ぷものが無視されているということがあります。二者が商取引を行なっているとき、彼らはお互いに自分の利益のみを求め、二者だけの利害を考えて行動します。それ以外の他者に対する影響は無視する。これが外部性と呼ばれるものです。商取引を行なっている二者が大企業の場合、無視されている影響は極めて重大なものになる可能性があります。例えば、ゴールドマン・サックスがリスクの高い取引をしたとしましょう。そのとき、ゴールドマン・サックスは自社のリスクに対しては何とか対処しようとするでしょうが、「システミック・リスク」と呼ばれるもののことは考慮しないのです。つまり、もし取引のうちの一つでもうまくいかない場合、全体のシステムが壊れてしまうというリスクですね。こういうリスクのことは考えもしません。事実、この前の金融危機の時に劇的な例がありました。アメリカン・インターナショナル・ダループ(AIG)と呼ばれる巨大な保険会社が経営危機に直面し、もしそれが破綻したら経済全体が破壊されてしまう事態になったのです。このときは、現存する資本主義の原則に従って政府がAIGに対する救済に乗り出し、経済の破壊を何とか防ぎましたが。

外部性の無視によって引き起こされる、さらに深刻な問題があります。共有資源(コモンズ)の破壊、環境の破壊です。これらも経済的取引において考慮されていない外部性です。正確な情報を持ち、理性的な判断が出来る人ならば、短期的利益ばかりを追い求めていると深刻な環境上の脅威に直接的に繋がっていってしまうという事実をもはや誰ひとり否定することは出来ないでしょう。環境破壊は差し迫った脅威であり、このことは無視されている外部性の一つです。そしてこの場合、先に述べた事例と異なり、犯罪実行者を--さらには、彼らによってその生存が大きな危機にさらされている、後世の人びとを--救済することは誰にも出来ません。

現存する資本主義の制度的構造は、大きな破綻が来ることを事実上約束しているのです。どうしてそういうことになるか、目の前で起こっていることを見ればわかります。例えば、アメリカでは、我々が「二一世紀のサウジアラビアになる」ことによって「一〇〇年間に亘るエネルギー自足」を勝ち取ることが出来る、という興奮が渦巻いています(現在の政策が続けば、二一世紀が人類文明最後の世紀になる可能性は非常に高いのですが)。オバマ大統領の最近のスピーチを聞くと、まるで人類の死を告げる鐘を鳴らしているかのようです。彼は--大きな拍手に包まれて--誇り高く告げます。「私の政権下において、今やアメリカは過去八年間で最大の石油生産量を達成しています。これは重要な事実です。この三年間に亘って、私は政権の行政機関に対して、二三の州においてガスおよび石油資源の開発を進めるように指示しました。我々が持つ潜在的海底油田の七五パーセント以上を開発中です。掘削装置の稼働率も四倍に高めました。記録的な高稼働率です。そして地球を一周以上できるくらいの石油・ガスのパイプラインを新たに敷設しました。」

企業はもちろん大喜びです。そして、実際、プロパガンダ・キャンペーンを展開すると堂々と宣言しました。つまり、気候変動などは、実際には起きていないか、あるいはもし仮に起きているとしても、それは人間が起こしているものではない、という風に民衆に思い込ませるためのキャンペーンです。二日前に福島の被災者から聞いたばかりの話を思い出します。政府は放射線なとは発生していないと言っていると学校で教えられたそうです。ある女性が話してくれましたが、彼女の小さな娘さんが学校から帰ってきて、水仙だって放射線を出しているのだから、福島原発から数マイル離れたところに居るからといって、何も怖がる必要なんかないんだよ、と説明してくれたそうです。これは、アメリカで企業が堂々とやっていることと同じです。こういった活動は民衆が持っている「余計な理性」を何とか抑え込もうとしてなされるのです。民衆の理性は、圧倒的多数の科学者たちが深刻で確実で不気味なものと見なしている脅威をずっと心配し続けているからです。はっきり言ってしまえば、現存の資本主義における道徳計算法によれば、明日、よりたくさんのボーナスをもらうことの方が、孫の世代の運命などよりも重要なのです。つまり、「卑しい格言」が実行されているということです。

今述べてきたようなことは全て、現行の支配的イデオロギーと制度的構造の下ではごく自然なことなのです。なぜなら、人類の支配者の「卑しい格言」に従って行動するために、現存の資本主義は構成されているからです。

この講演のタイトルに戻って、こういった現存の資本主義的民主制の下で人類が生き残れる見通しはあるのか、と問うてみましょう。見通しは明るくはありません。しかし、啓蒙の時代の理想は未だ死に絶えてはいませんし、決して死に絶えることはないでしょう。そして、何世紀にも亘って自由と正義を求めて闘ってきた人びとが威し遂げてきたことは、我々が受け継ぎ前進させていくべき遺産として残されています。もし人類に生き残る希望があるとしても、受け継いだ遺産を我々が直ちに前進させなければそれは実現しません。我々人類がどのような生き物であるのかについて、その結末は雄弁に物語ってくれることでしょう。
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人類に科学を与えたのに

胸の違和感

 胸の違和感がなくならない。1時まで寝転がっていた。足がだるい。歩かないためなのか、歩くからなるのか分からない。昨日から適用した「薬」の副作用なのか、ぐうたらになっている。3時からの新刊書収拾のために外出。月末に近いので、内容・冊数ともプアー。出て来た新刊書の半数位をゲット。

他者の存在を信じない

 他者の存在を信じないというのは、これほど楽で、これほどきついものはないかもしれない。

人類に科学を与えたのに

 人類は、こんなにも科学を使いこなすとは思いもよらなかった。原子力もあ員スタインにヒントを与えたが、まさか、自分たちを破壊させるための爆弾を作るとは想定外です。

 太陽のように、水素との核融合に行くと思っていたのに、そこに行く前に滅亡してしまうつもりなんでしょう。エネルギーがあるから幸せにあるものでないと理解できなかったみたいです。

図書館ウォッチャー

 図書館ウォッチャーとして、「一目惚れ読書会」に参加しようか。豊田市の文化ではないけど。「猫町倶楽部」ということで猫です。猫は嫌いです。犬もわが家の「リク」だけが好きです。好き嫌いは重要。どういうつもりなのかということよりも、参加する人の気持ちを観察したい。

 併せて、豊田市図書館を変えるきっかけ作りにしていきたい。あまりにも、変わっていない。

豊田市図書館の新刊書争い

 3時から新刊書争いに参加したが、冊数が少なくて、出された本の半分ぐらいをゲットした。

 他の禿鷹たちは、あまりの少なさに早々、別の階へ移動していった。
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豊田市図書館の30冊

月末でもないのに、新刊書はプアー

 身体の調子は悪いみたい。1時まで寝転がっていた。昨日から適用した「薬」の性なのか、ぐうたらになっている。3時からの新刊書収拾のために外出。月末に近いので、内容・冊数ともプアー。出て来た新刊書の半数位をゲット。

一目惚れ読書会

 図書館ウォッチャーとして、「一目惚れ読書会」に参加しようか。豊田市の文化ではないけど。「猫町倶楽部」ということで猫です。猫は嫌いです。犬もわが家の「リク」だけが好きです。好き嫌いは重要。

 私が薦める本は相手に拠りますが、池田晶子『考える日々』です。わざわざ、買って、渡した本は少ないです。内容をOCRするので、そのテキストを渡してきたが、この本だけは買いました。

豊田市図書館の30冊

 280.4『世界史の10人』

 335『クラウドワーキングで稼ぐ』時間と場所にとらわれない新しい働き方

 320.91『判例六法』

 336.48『うつになる職場 ならない職場』香山リカのメンタルヘルス

 377.25『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者奉行』

 135.34『嘘の思想家 ルソー』

 496.35『図解 白内障と緑内障の正しい知識と最新治療』「中高年」からの失明原因No.1!

 338.15『ウォール街のアルゴリズム戦争』

 C23.1『道路管理を支えるシステム』

 493.7『こころの健康診断』Newton 最新診断基準にもとづく、心の病気--症状・原因・治療法

 100『もういちど読む 山川哲学』ことばと用語

 674.6『戦後新聞広告図鑑』戦後が見える、昭和が見える

 C53.1『世界最強のソーラーカー』オーストラリア大陸縦断3000Kmの挑戦

 453.9『温泉の平和と戦争』東西温泉文化の深層

 509.66『新QC七つ道具活用術』こんな使い方もある新QC七つの道具

 913.68『小説集 真田幸村』

 291.63『ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行く前に知っているとお得な70の知識』

 292.37『バンコク』

 702.1『図像学入門』疑問符で読む日本美術

 336.1『超図解 「デザイン思考」でゼロから1をつくり出す』

 188.82『一休 虚と実に生きる』別冊太陽

 165『図説 ゼロからわかる三大宗教の読み方』宗教がわかれば世界が見えてくる

 019.9『反知性主義に陥らないための必読書70冊』

 338.18『資産運用のカラクリ 2016』投資と税金篇 ホントは教えたくない 

 290.93『アメリカ西海岸 2016-17』地球の歩き方 ロサンゼルス サンティアゴ サンフランシスコ ラウベガス シアトル ポートランド

 504『世界を変えるデザイン2』スラムに学ぶ生活空間のイノベーション

 913.6『小説・新聞社合併』うごめく〝だら幹〟たちの素顔

 010.8『情報の評価とコレクション形成』わかる! 図書館情報学シリーズ

 783.47『FIFA 腐敗の全内幕』

 342.1『【図説】日本の財政 平成27年度版』
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