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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインについて

『哲学と対決する!』より

--サッカーは勝者と敗者、チーム、ボールがあるゲームです。野球も同じです。そこにはたくさんの類似性があります。しかし、たった二人で壁に向かってボールを投げ、それをキャッチするというゲームもあります。それには勝ちも負けもありません。ですから、私たちがゲームと呼ぶものには、たくさんの異なった特徴があります。これらのものをすべてゲームにする単独の本質もゲームの本質も存在していません。

 B:ええ、その通りです。子供たちがするリング・アラウンド・ザ・ロージー(訳注‥日本のかどめかどめに似た遊び)は一種のゲームですが、勝ちも負けもありません。何度もやっているうちにだんだんうまくなるというものでもありません。一定の活動を何度も反復するだけのように思えます。ゲームに本質がないという考えは、ウィトゲンシュタインを言語の本質についての議論に導きます。というのも、彼が興味を抱いている道徳は言語に本質がないという事実だからです。『論理哲学論考』の中で、彼は言語を、完璧に整理された論理的な機能システムとみなしていました。ここでは、たくさんの異なった使用法が言語に託されているのが見られますが、それらが共通して持っているものは一つもありません。言語に通低する本質はないのです。彼はまた、どうして言語が二つの有機物なのかについての素晴らしい隠喩を持っています。彼は都市の中にいて、公園から出発し、さまざまな区域に移動し、それらの一部をよく知り、いろいろな方向からそれらに再度出くわすことについて語っています。そして、都市が同じ時期の建物を持っておらず、新しい建築様式によって度々建て替えられていること、これらのさまざまな時代と空間に入り込む道を見出すのは、言語の有機的な成長とその成果を見ることに等しいと気づいたことについて語っています。

--同じに見えるけど、さまざまな紐を引っ張るメカニズムが異なるレバーのイメージもあります。これらのイメージはウィトゲンシュタインが哲学をした尋常ならざる方法に特徴的なものです。

 B:それはきわめて独特です。彼は何よりも実例によって作業する傾向があります。しかし、吉六の哲学はその実例が何を意図しているかを理解しようとします。言語がどう働くとわれわれが信じるかではなく、言語がどう働くかを思い出さなければならないと彼は考えます。バートランド・ラッセルやおそらく初期の彼は、言語の真の本質は、言葉が物体を表すこと、名づける関係、名前と物との関係--これがすべての言語の基盤だと考えました。ところが、彼の死後の一九五三年に刊行された『哲学探究』を見ると、言葉が単に物体を表す以上の用法を持っていることが分かります。言葉は活動を描写することもできるのです。『哲学探究』の冒頭で、彼は大工とアシスタントを想像します。大工はアシスタントにもっと材料を持ってくるよう頼み、「slab(広い厚板)」と言います。「slab」は彼が求めるコンクリートのかたまりの名称でもありえますし、slabを持ってきてくれというリクエストであるかもしれません。あるいは、slabがもう残っていないので、アシスタントがそれを持ってこなければならないことをほのめかす合図だということもありえます。まったく同じ言葉がさまざまな機能を果たしうるのです。それが物語の一面です。もう一つの側面は、表面上、言語が同じに見えるゆえ、実際に同じ機能を果たしているとは考えないことです。時々、われわれは現実のあり方を表現する文章を書きます。それはこの部屋にあるたくさんの本を描写することかもしれませんし、家具の配置を描写することかもしれません。だけど、同じように叙実的に見えるけれども、実際には出来事の状態の叙述ではない文章もあります。

--例を挙げてもらえますか?

 B:分かりました。われわれは心の状態を述べるために心理学的な述語を用いる時、たとえば、頭痛がする、痛みがある、ニコラス・サルコジが次の選挙で選ばれるかどうか心配していると言う時、それらは叙事的な文章のように見えます。鉄道の時刻表や天候や家具の配置を述べる方法と同じように見えます。けれども、ウィトゲンシュタインにとってはそうではありません。それらの文章は、事柄の状態を、あたかも私が吟味し、それについてコメントできる対象であるかのように表現してはいません。実際のところ、それらは私の心の状態を表現しています。そのような文章は自分で観察したものについての報告ではありません。文字通り自分の心を語り、他人のために公にするものだとウィトゲンシュタインは考えます。

--今、おっしゃったようなことはすべて『哲学探究』の中にあります。その本の中で、ウィトゲンシュタインはまったく新しい哲学の見解を述べています。哲学の核心は、言語を誤って使ったり、無理にひねり出したりすることで、人々がはまり込む問題を解決することです。哲学は一種のセラピーになりました。彼は、ハエ取り壷にはまったハエに出口を教えることについて語っています。

 B:セラピーの考えはすでにトラブルに巻き込まれ、助けを必要としている人たちの助けになるのではないかと思います。哲学をセラピーとみなすウィトゲンシュタインは、まず第一に、困難に陥った人々をおだてて、哲学者のように考えることがなぜ魅力的なのかを理解させます。次に、言語の誤った使用がなぜ偽りの問題を引き起こすのかを人々に説明します。もし彼らが自分たちの陥っている状況や自分たちがしていること、また、自分たちが没頭している活動を正しく理解すれば、問題に悩まされなくなるからです。でも、問題を理解するにはまず過ちを犯さなければなりません。そのためウィトゲンシュタインは独特の文体を駆使して巧みに過ちを犯すようわれわれをそそのかします。そして、問題にがんじがらめにされている自分を感じるよう促します。それを感じられるようになれば、その時こそ、そこから脱出する真の哲学をすることができるのです。

--哲学者がどのようにして言葉に魅了されるかの実例はありますか?

 B:ウィトゲンシュタインの学生で遺作管理者であるエリザペス・アンスコムから受けた質問に答える時に彼が持ちだした良い例があります。アンスコムはウィトゲンシュタインにこう言います。「あなたは、太陽が地球の周りを回っていると人々がなぜ考えたか理解できます」。「本当かい? どうして?」と彼は言います。「そのように見えるからです」とアンスコムは応じます。「もし地球が太陽の周りを回っていたらどう見えるだろう?」とウィトゲンシュタインは言います。この例は全体像が見えないと、われわれの思考が誤った方向に向かう可能性があることを示しています。そして、事実の変化ではなく、見方を変えることで、問題は消え去るのです。

--私たちは二一世紀にいます。ウィトゲンシュタインは二〇世紀の哲学者でした。後続の哲学者たちに彼はどんな影響を与えたのですか?

 B:ワィトゲンシュタインは実に良い問題を提起してくれたと多くの哲学者が思っています。いまだにわれわれはそれらの問題につきまとわれ、試されています。これらの問題を抵抗すべきもの、あるいは解決する必要があるものとみなすのが公式のウィトゲンシュタインの道徳だったかもしれませんが、哲学者たちはそれらが重要な難問であることに気づき、取り組み続けています。けれども彼の永遠に消えることのない遺産は、おそらく哲学を超えたもので、すべてを説明し尽くしたいという欲求を諦めようとする考え方だと思います。現在、われわれは、科学が多くの物事、たとえば脳や感情の状態を解明するだろうと確信しています。ウィトゲンシュタインは説明が必要でないことや、助けにならないこともあるのだということを、大変詩的に、そして上手に思い出させてくれます。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』を引き合いに出して彼はこう言っています。「恋に落ちた人間に、助けになるのは何だろう? 説明だろうか?」。それは明らかに次のような答えを誘う質問です。「いや、説明ではない。説明なんか必要ないし、助けにもならない」。
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