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中間者の存在

スタバでの本を処理する風習

 三週間に一度のサンロードがなくなって、残っているのは、土曜日の朝の元町での本の処理だけです。7時には、来ています。これだけは続けないと。

 今日は、7時過ぎから10時半までの15冊片付けました。駅前と異なり、本当に人がいないから助かります。特に、このソファー席には人は誰も来ないし、トイレが近いので助かります。

中間者の存在

 中間者は上に対してと下に対しての思いから成り立つ。ほとんどの人は中間者の役割と末端としての存在です。マーケティングを変えるには、この中間者の意識から変わっていく。サービス業のほとんどが、この中間者ですから。

 パートナーの存在も仕事も中間者としての自覚で変わってくる。そこでは、三段ステップも聞いてきます。仕事で販売店とか店舗のシステム設計してきたものを中間者としての役割から再構成していく。

マクドナルドの居心地の悪さ

 元町のスタバの隣がマクドナルドです。様子を見に行くようにしています。マクドナルドの応対には慣れないですね。誰がカウンターなのか分からない。タイム・コントローラーとか店内の整理を行う人も分からない。ナゲットとかバンズの操作をしている人しかわからない。皆が機械を向いていて、お客を見ている人がいない。居心地が悪すぎる。

リアルな「トルストイの家出」

 森鴎外の「椋鳥通信」のなかに、新聞に「トルストイの家出」の記事が紹介してあった。リアルタイムなんですね。ちなみに、本の索引で「トルストイ」の関係するページが挙げられている。参考記事で役に立つのは、この類です。

 ドイツの国鉄で迷子になった時に、私の夢が「トルストイの家出」であることを痛感した。それを奥さんに言ってから、海外旅行がなくなった。

新しいものを作り出すエネルギー

 日本の宗教も数学も西洋の哲学も、今、新しいものがない。未唯空間には「新しい数学」をトポロジーの次として、上げている。その中には哲学との融合もあります。私の存在から作り上げましょう。承認は求まないから、余分なエネルギーは不要です。
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問題は全体主義なのか

『ブラッドランド』より 人間性 流血地帯にて ⇒ どうしてもハンナ・アーレントが出てくる

ナチスとスターリン主義者の体制はぜひとも比較しておかなければならない。それぞれを理解するためだけではなく、われわれのいまの時代と自分自身を理解するためにも必要なことだ。ハンナ・アーレントは一九五一年にそう主張し、ふたつの政権を「全体主義」というカテゴリーでくくった。彼女は十九世紀のロシア文学から「余計な人」という着想を得た。パイオニア的存在のホロコースト歴史学者、ラウル・ヒルバーグはアーレントに、二十世紀の官僚国家がいかにしてこのような人々を撲滅しうるかを示した。アーレントが描いてみせた現代の余計な人の肖像は、いまも生きる。彼らはまず、大衆社会の圧力により、のちには進歩と喜びの物語に平然と死を位置づけることのできる全体主義政権により、自分が余計者であるという感覚を植えつけられるというのだ。彼女の手になる殺戮の時代の描写はいまも力を失わない。人々は(被害者も犯罪者も同様に)最初は大衆社会の匿名性の中で、やがては強制収容所の中で徐々に人間性を失っていった。このイメージは強烈だ。しかし、ナチスとソ連の大量殺人を歴史的に比較する前に、まずはこのイメージを正しておかなければならない。

この枠組みにほぼあてはまる殺戮場は、ドイツの戦争捕虜収容所だ。それは(ドイツ、ソ連を通じ)殺害を目的として人を集中的に収容した唯一の施設であった。何万人ものソヴィエト人捕虜がIカ所に閉じ込められ、食物も医療も与えられずに短期間のうちにばたばたと死んでいった。その数はおよそ三〇〇万人。大半はわずか二、三ヵ月のうちに死亡した。だがこうした集中収容による殺害は、アーレントが考えた現代社会の概念にはあてはまらない。彼女の分析はわれわれの関心をベルリンとモスクワに、つまり全体主義体制を敷いて自国民に手を下した特異なふたつの国家の首都に引きつける。しかしソヴィエト人捕虜は、ふたつの体制の相互作用の結果、命を落としたのである。アーレントの全体主義論が焦点としたのは、現代の産業・大衆社会における人間性の喪失であって、両国の野望と力の行使が重なった歴史的状況ではない。兵士の運命は、捕まった瞬間に決まった。ソ連軍の上官とNKVDの監督下から、ドイツ国防軍とナチス親衛隊の手に身柄が移されたそのときにすべてが決定してしまったのだ。彼らが悲惨な最期を迎えたのは、ひとつの現代社会の中で疎外が段階的に進んだせいだとは考えられない。ソ連の領土で敵対関係にあった二国が遭遇し、ドイツが犯罪的政策を実行した結果だったのだ。

ほかの地域では、集中収容は必ずしも殺害を最終目的とはしておらず、思想矯正と労働力確保の手段として使われていた。ドイツの戦争捕虜収容所は重要な例外であり、ドイツもソ連も意図的に集中収容によって人を殺してはいなかったのだ。収容所は処刑を前提とした施設ではなく、多くの場合は選択肢のひとつたった。ソ連の大テロルでは、宣告される刑に二種類の可能性があった。死刑かグラーグ行きだ。前者ならうなじに銃弾を撃ち込まれる。後者なら、遠隔地の暗い炭鉱や凍えるように寒い森や茫漠と広がる大草原で厳しい労働に従事することになった。しかしそれは通例〝生〟を意味した。ドイツの統治下では、強制収容所と死の工場は異なる方針によって運営されていた。ペルゼン強制収容所への送致と、ペウジェツの死の工場への移送とは、まったく質のちがうものだったのだ。前者は空腹と労働を意味したが、生き延びられる望みがあった。後者は即座に確実にガスによって窒息死することを意味した。皮肉にも、それゆえにベルゼンは人々の記憶に残り、ペウジェツは忘れ去られてしまったのだ。

また、絶滅政策は集中収容政策の延長線上に誕生したわけでもなかった。ソ連の強制収容所システムは、政治経済政策に必要なものとして、存続を前提に作られた。グラーグは一九三〇年代前半の飢饉より以前にも、そのさなかにも、あとにも存在したし、一九三〇年代後半に大量銃殺作戦がおこなわれた時期より以前にも、そのさなかにも、あとにも存在した。このシステムが最大規模に達したのは一九五〇年代はじめ、ソ連が自国民の大量処刑をやめてからだ。殺害をやめたこと自体も規模が拡大した理由のひとつだった。ドイツがユダヤ人の大量殺害をはじめたのは、一九四一年の夏のことだ。場所は占領下のソ連で、すでに八年前から使っていたある強制収容所から遠く離れた土地だった。そこでは穴の上で射殺する方式がとられた。一九四一年後半、東方では、ドイツの強制収容所の囚人全員を合わせたよりも多くのユダヤ人が、わずか数日のうちに銃殺されていた。ガス室は、強制収容所のためではなく「安楽死」プログラムに使う医療殺害施設のために考案された。やがて占領下のソ連に移動式のガス車が現れ、ユダヤ人の殺害に使用された。その後、ドイツに併合されたポーランドでも、ヘウムノの収容所にもガス車がとまるようになり、ほどなく、総督府のベウジェツ、ソビブル、トレブリンカに永久的なガス殺施設が建設された。ガス室の開発は、占領下ソ連で進めたユダヤ人大量殺人政策をモロトフ=リッペントロップ線以西でも継続することを可能にした。ホロコーストで殺害されたユダヤ人のほとんどは、強制収容所など目にしたこともなかったのが。

ドイツの強制収容所が国民社会主義の最悪の部分だと思うのはまちがっている。それは、見知らぬ砂漠に出現した暗い蜃気楼のようなものだ。ドイツという国家が崩壊していった一九四五年はじめの数カ月、親衛隊の強制収容所では、おもに非ユダヤ人の囚人たちが多数、死に瀕していた。それは一九四一年から四三年にかけてソ連のグラーグの囚人たちが直面した運命と似ている。当時のソ連の政治体制はドイツの侵略と占領によるストレスを受けていた。イギリス、アメリカはドイツの強制収容所で餓死寸前の人々をフィルムに撮影した。これらの映像を見た西欧諸国やアメリカの人々は、ドイツのシステムについて誤った認識を持つことになった。確かに、戦争が終わるころには何十万人もの人々が強制収容所で命を落としたが、こうした施設は(殺害施設とはちがって)大量殺人そのものを目的とはしていなかった。政治犯として収監されたユダヤ人もいたし、労働力として連れてこられたユダヤ人もいたが、ユダヤ人をおもな対象とした施設でもなかったのだ。強制収容所送りとなったユダヤ人の多くは殺されることなく、生き延びた。それもまた、強制収容所がよく知られるようになった理由のひとつである。働きづめに働いて、いずれは死んでいたであろう人々が、終戦と同時に解放されて体験を語ったからだ。ヨーロッパ・ユダヤ人を皆殺しにするというドイツの政策が実行された場所は強制収容所の中ではない。穴の上、ガス車の中、そしてヘウムノ、ペウジェツ、ソビブル、卜レブリンカ、マイダネク、アウシュヴィッツの殺害施設だったのだ。

アーレントも認識していたように、アウシュヴィッツは、いくつかの強制労働施設とひとつの殺害施設とを組み合わせた特殊なシステムだった。今日では集中収容と絶滅政策の象徴となっているが、それがある種の混乱を招いている。当初、この収容所にはポーランド人が送り込まれてきた。その後、ソヴィエト人捕虜が収容され、やがてはユダヤ人とロマが収容されるようになった。ここに死の工場が建設されると、到着したユダヤ人の中から何名かが選ばれ、疲れ果てるまで働かされたあげく、が殺された。つまりアウシュヴィッツでなら、アーレントが描いたような、段階的に疎外が進んで死にいたるというイメージにあてはまる実例が見つかるのだ。この図式は、タデウシューボロフスキ[ポーランドの詩人]やプリーモ・レーヴィ[イタリアの化学者、作家]、エリーヴィーゼル[アメリカの作家]などの生還者によるアウシュヴィッツ文学にもしっくりとなじむ。しかしそれは例外なのだ。当のアウシュヴィッツもふくめ、ホロコーストが通例たどった経過をとらえたことにはならない。アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人は、ほとんどが到着してすぐにガス殺され、収容所内で時間を過ごすことはなかった。収容所に入れられたユダヤ人がガス室へ移動させられたケースは、アウシュヅィッツの歴史の中ではほんの小さな一部でしかない。そのようなエピソードをホロコーストや大量殺人全般の理解を助ける道しるべにすれば、誤解を招く恐れがあるだろう。
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地方分権のメリットとデメリット

『政治学の第一歩』より 連邦制と地方制度 地方分権とその帰結 政治的分権・行政的分権・財政的分権

地方分権のメリットとデメリット

 地方分権で期待されるメリットとしては、これまで述べてきたように、国家によって提供される画‐的な公共サービスとは異なり、地方政府ごとに多様性が確保されることが挙げられる。国家の定める事業のうち不必要なものを排除して、地方政府ごとに必要だと判断される事業に集中できれば、資源を効率的に利用することも可能になるだろう。そのためには地方分権の中でも政治的分権が重要であり、単なる行政的分権では多槍匪の確保が実現できるとはいえない。また、財政的分権を進めれば、人口や資源が集中する地方政府では、拡大した財源を用いて多様な政策を実現できる可能性は高まるが、そうでない地方政府ではむしろ必要な事業ができないという問題が生じる。

 さらに地方分権のメリットとして強調すべきは、アカウンタビリティの向上である。地方政府が執政に失敗したとしても、地方政府が国家の介入を強く受けていれば、その責任を地方政府だけに求めるのは難しい。実際に事業を行った地方政府に問題があるのか、介入する国家に問題があるのかについて判断することが、容易ではないからである。しかし、国と地方政府の役割を明確に分けて、特定の業務については地方政府として執政を行うことになれば、住民が地方政府の責任を問いやすくなる。これによって、国家に割り当てられる執政の責任の明確性が向上することにつながる。ただし、それぞれの政府が与えられた責任を果たそうとすることで、サービスの内容が重複する二重行政が生じやすくなることには注意が必要である。

 反対に行政的分権は、地方政府が行うサービスの種類を増やすことで、その責任を問いにくくする。例えば教育など、単一の公共サービスだけを割り当てられていた地方政府が、行政的分権によって割り当てられる機能を増やすと、住民は複数の公共サービスについて地方政府を同時に評価しなくてはいけなくなる。特にそれまで地方政府が行ってこなかったような公共サービスを新しく増やすと、地方政府の果たすべき責任についての判断は著しく難しくなる。

 地方分権によるデメリットは、財政的分権とかかわるところが多い。すでに述べたように財政的分権によって人口や資源が集中する地方政府では恩恵を受けるが、そうでない地方政府はむしろサービス水準が切り下げられるだけにとどまる可能性がある。人口や資源に乏しい地方政府では、増税によって公共サービスを運営しようとしても限界があるので、同じ国家の中で地方政府間の格差が大きくなってしまうという問題が発生する。

 人口や資源が集中する地方政府では何の問題もないというわけでもない。地方分権が進んで自律的な地方政府同士の競争が激しくなると、集合行為問題が発生することがある。特に懸念されるのは、地方政府間で囚人のジレンマに陥って、お互いに税を生み出す人口や資源を奪い合うという問題である。例えば、法人税を納める企業を増やすために企業への規制を緩めたり、法人税率を引き下げたりすることで、企業誘致を図る地方政府が出てくると、他の地方政府もそれに対抗して規制を緩めたり法人税率を引き下げたりする租税競争が生じることがある。中央政府が地方政府の行動を統制する権力を失い際限のない引き下げがつづく底辺への競争が生じると、地方政府として行うべき規制ができなくなったり、必要な財源を集めることができなくなったりする。このようなことは、人口や資源が集中する地方政府にとっても、深刻なデメリットとなりうる。

日本の地方分権

 先進国で高度経済成長が終焉レ福祉国家が批判される中で、日本を含めた多くの国で地方分権が実践されてきた。そのような実践を通して、地方分権の帰結を、どのように評価することができるだろうか。政治学的には、地方分権によって政府のアカウンタビリティが向上したかどうかを確認することが重要な課題となる。

 日本で行われてきた地方分権改革で、最も強調されてきたのは、行政的分権を中心とした国から地方政府への権限移譲である。1990年代には、地方分権委員会のもとで第1次地方分権改革が実現し、それまで国家が責任をもつとされていた公共サービスが、基本的に地方政府の責任で行われるようになった。例えば、低所得者に対して現金の給付を行う生活保護は、全国民に一定水準の生活を保障することをめざすものであり、福祉国家として最も基本的な公共サービスの1つである。しかし、このようなサービスも地方政府が責任をもって実施することになり、国はそれに関与するという形式をとることになったのである。

 とはいえ、地方政府が自らの責任のみで生活保護を提供することはできない。生活保護の負担が重い地域では、自分か保護を受けるわけではなく、しかしそのための税金を払わなければならない人々が、先に述べた足による投票で、負担の軽い地域へ移動してしまう可能性が高いからである。そのため、生活保護の実施にあたっては、依然として国からの補助金が不可欠のものとなっているし、補助金の交付とともに細かい規制が残されている。地方政府は、補助金や規制という制約のもとで効率的にサービスを提供し、その成果によって評価されるべきだろう。しかし、アカウンタビリティの確保という観点からは、国が強く関与することによって、誰の責任を問うべきかがわかりにくくなる。

 2000年代に入って、日本の地方分権改革の大きな障害となったのは、財政的分権である。国・地方政府、ともに債務が膨張していく中で、国から地方政府へ財政的分権を行うときには、それまでに地方政府へと交付されていた補助金の削減を一緒に議論される傾向が強かった。そのため、税が移譲されてもほとんど歳入が増えず、反対に補助金の削減によって歳入が大きく減るような地方政府が非常に多く、このような地方政府は財政的分権に反対したのである。それでも2000年代に、三位一体改革と呼ばれる補助金削減と税の移譲が行われたが、その後、地方政府間の格差が拡大したとして、財政的分権への反発がさらに強まるようになった。

 日本では、第二次世界大戦後の地方制度改革によって、地方政府のリーダーが選挙で選ばれることになったため、選挙という意味での政治的分権については注目されにくい。しかし、国が定める立法の制約を減らし、地方政府がより自由に執政を行うことができるように、法律による「義務付け」や「枠付け」を減らすような改革も行われている。このような改革は, 2000年代の第2次地方分権改革の中心的な成果であり、その効果がこれから現れてくる可能性があるだろう。

 福祉国家が行き詰まる中で、国家への権力集中を批判するかたちで地方分権を称揚し、その行き着く先に連邦制の採用を提唱する政治家も少なくない。しかし、本章で見たように、地方分権といってもその内容をひとまとめにして議論できるわけではない。具体的な分権化の内容を精査したうえで、期待される効果を検討しながら、地方制度を検討していくことが必要なのである。
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国家と国民

『政治学の第一歩』より 国家という枠組み 国家をめぐる概念

国家の定義

 20世紀の初頭に活躍した社会科学の巨人、ヅェーバーによると、近代国家とは、国境で区切られたある一定の地理的領域内で、物理的強制力の行使を正当に独占する組織である。この定義の中には国家を構成するいくつかの要素が簡潔に述べられている。順番に見ていこう。

 1つ目は、領域性である。つまり、他国の支配に服さないで統治する、すなわち主権を有する領土がなければ国家とはいえない。例えば、イギリスのスコットランドやスペイン・フランス国境地域のバスク地方には、民族独立運動が存在する。その意味で、スコットランド人やバスク人は国民(nation)にはなりうる。しかし、彼らが他国の于渉を排して排他的に自らの法律を適用し、税金を徴収する対象となる領土を、戦争か交渉でイギリスやスベインから奪取しない限り、スコットランド国家やバスク国家は存在しない。

 2つ目は、物理的強制力の独占である。ここでいう「物理的強制力」とは、戦車や戦闘機といった軍事力、警視庁や海上保安庁といった警察力、税関や裁判所執行官といった法執行機関などを指している。国家はこうした実力組織を独占しているからこそ、それが管轄する領土内でその意志を貫徹することができる。例えば、国家が課した所得税を意図的に支払わなかったとすれば、税務署職員がやってきて資産を差し押さえようとするだろうし、それに猟銃で応戦しようとすれば警察が反撃し、最終的には刑務所に放り込まれて身体の自由を拘束されるだろう。人々が不承不承ながらも国家の命令に従っているとすれば、根源的なところでは、国家が暴力を用いて強制することができることを知っているからである。

 3つ目は、正統性である。国家による支配の正統性の由来は、その支配者の選出過程があらかじめ定められた選挙や議会のルールに基づいているといった手続き的なものから、支配者が代々その領土を統治しているといった歴史的なものまで、さまざまなものがありうる。重要なことは、そうした理由を背景に、国家が管轄を主張する領域内に住む人々が、自発的に国家の定めたルールに従うことである。国家の権力行使が妥当性をもつと人々に認識され、自発的な服従を得る権威が成立している状況といいかえてもよい。

 こうした自発的な服従は、必ずしもルールからの逸脱の不在を意味しない。いかなる国家の支配下においても、殺人や詐欺や脱税は起こるだろう。そうした逸脱があくまでも例外的である限り、国家の所有する実力組織で対応できる。しかし、ひとたび国家が正統性を失い、人々が一斉に国家の定めるルールに従わなくなったとき、国家の所有する警察組織や軍事組織で無理矢理ルールを守らせることは不可能だろう。ある程度、人々が自発的に服従する権威を有していることが国家を構成する重要な要素なのである。

 ここまで述べてきた国家の定義から示されるように、国家(state)とは地理的な領域やそこに住む人々とは区別された概念である。人々とは概念的に区別された組織であるからこそ、日本では裁判で訴えることもできる。国家の形態はさまざまであり、先進民主主義諸国のように人々が選挙や社会運動を通じて国家の意思決定に参加できるような場合もあれば、独裁国家のように人々が国家の意志を一方的に押しつけられる場合もある。だが、民主主義諸国にも独裁国家にも共通するのは、国家とは警察や軍隊といった物理的強制力を背景に領土とそこに住む人々を統治する組織だということである。

国民とは何か

 では、国家(state)とは対比される意味での国民(nation)とは何であろうか。国民とは、言語・宗教丿貫習といった文化的要因の共通性を基盤として、アイデンティティを共有する人間の集団である。その意味で、日本語でいう「民族」の語感に近い。そして、国民国家(nation state)とは、1つの「国民」が1つの国家を構成している状態を指している。「1民族1国家」が規範化している国際社会では、旧東西ドイツや韓国と北朝鮮のように同じ民族であるにもかかわらず2つの国家が存在している状態は悲劇ということになる。また、スコットランド人やバスク人が独自の言語や慣習をもつ集団であるならば、それに対応する国家をもつべきだということになり、彼らが独立運動を推進する論拠となる。

 「1つの民族は1つの国家(だけ)をもっべきだ」という考え方をナショナリズムという。その起源は、歴史的にみると比較的新しい。例えば、11世紀のスイスに起源をもつハプスブルグ家の領土は、オーストリアやハンガリーだけでなく中・東ヨーロッパに広く及び、第一次世界大戦(1914~18年)の敗戦を受けてオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊するまで、チェコ人、クロアチア人、スロバキア人など、さまざまな民族をその支配下に置いていたし、16~17世紀にかけての一時期はスペインも一族の支配下に置いていた。 17世紀から20世紀初頭にかけてロシアに君臨したロマノフ王朝は、ロシアだけでなくフィンランドやポーランドを支配していた時期もある。

 また、高校の世界史で学んだように名誉革命において国王ジェームズ2世を追い出したイングランドの貴族たちは、オランダからオラニエ公ウィレム3世を国王に招いても平気であった。つまり、歴史的には国家の領土の境界と民族の境界とが一致することは稀であったし、国家を運営するエリート支配層とその領土に住む領民の民族性は一致するべきだという意識も薄かった。

 19世紀にはナショナリズムが各地で勃興するが、20世紀初頭の第一次世界大戦終結に際しアメリカ大統領ウィルソンが「14ヵ条演説」(1918年)において民族自決をあらためて提唱しなければならなかった背景には、こうした国家と国民が必ずしも一致しない現実があったといえよう。

 他方、国際秩序が中世の封建的秩序から近代の主権国家を中心的なアクター、すなわち意思決定の主体とした秩序へと変わり、経済社会も資本主義的編成が発展していく中で、国家という枠組みが積極的に国民を形成していったという側面もある。そもそも、国境を隔てた隣人よりも、一度も顔を合わせたことのない同国人心 より強い同胞意識を感じるというのは奇妙な現象である。このような奇妙な現象が可能となった背景には、近代資本主義経済の発展によって情報通信産業が発達し、印刷物を通じて国家の領域内で人々の間に時間や空間を共有しているという意識が形成されたことがある。つまり、出版文化とともに形成された「国語」で書かれた新聞や書籍を読むことを通じて、人々は同じ国に住むアイデンティティを共有する同胞として「国民」を想像するようになったわけである。

 また、国家が中央集権化していく中で、国民意識を涵養していったプロセスも見逃せない。例えば、19世紀頃からヨーロッパでは初等学校教育が普及し始めるが、そこで初めて公定の「国語」が教えられ、そうした言語を共有する人々として国民が形成されていった側面もある。日本でも、1868年の明治維新まで一般民衆が「日本人」という意識を共有していたかどうかは疑問である。そもそも、例えば、その話し言葉の違いを考えれば津軽藩と薩摩藩の農民を同室に押し込めたとき、円滑に意思疎通できたとは思えない。つまり、言語もアイデンティティも共有の度合いが低かったのである。だが、明治維新の後に新政府は小学校を義務教育化し、標準語を教え、統一された「日本人の物語」を刷り込んでいった。公教育という近代国家に特有の装置が国民形成に大きく寄与したことは明らかであろう。

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奨学金問題に警告を発する大学教授

『女子大生風俗嬢』より 貧困の沖縄を行く

沖縄は酷いことになっていた。2泊3日の取材で何度溜息をついたかわからない。母子家庭などで親の世帯収入が低く、奨学金とアルバイトで生活を支える沖縄の大学生の経済的貧困は、想像を絶したものだった。

ところで、東京と神奈川、そして沖縄で現役女子大生や女子大生風俗嬢の取材をして、話に必ずといっていいほどでてきたのが日本学生支援機構の〝奨学金〟という制度だった。

筆者は今回の取材で大学生を取材するまで、〝奨学金〟とは親の世帯収入が低いという経済的事情を抱えた成績優秀な学生への給付と思っていたが、実態はまったく違うようだ。

2004年、日本育英会が整理・統合されて独立行政法人・日本学生支援機構が誕生している。そこから〝奨学金〟は変貌した。学費の高騰と同じく、文部科学省や財務省が深くかかわる国の政策である。公的機関であるはずの日本学生支援機構は民間からの資金を導入し、奨学金制度を金融事業として展開した。年利は上限3%、奨学金とは名ばかりで、利子で利益をあげる金融ビジネスとなった。

年利上限3%となれば、銀行の株式会社への融資と変わらない。多くの大学生たちと連帯保証人となる親は、金融業者の顧客なのだ。まだ何者でもない高校卒業したばかりの未成年に、多額の負債を負わせるという常識を逸脱した制度が、大学進学率の上昇の波に乗って全国に浸透していたのだ。

将来、なんの職業に就くかわからない高校卒業したばかりの未成年に有利子のお金を貸しつけるのは、どう考えても無謀だ。返済の一時猶予や返済期間延長の仕組みこそあるが、実質上、救済制度はほとんどない。大学卒業後から始まる月々の返済には容赦がなく、3か月間延滞をしたら一般の金融業者と同じく、ブラックリストと呼ばれる個人信用情報機関に登録される。そして、債権回収の専門会社からの取り立てが始まる。クレジットカードやサラ金と同じなのだ。

実態は単なる学生ローンであり、〝奨学金〟という「支援や給付を想像させる」歴史ある聞こえのいい単語がビジネスに利用されている。実態と名称に乖離のある、いわゆるポエムビジネスといえる。日本学生支援機構の〝奨学金〟は国と金融業者がタッグを組み、低所得世帯をターゲットにした貧困ビジネスなのだ。

驚愕するのは、その利用者の比率の高さだ。「平成24年度学生生活調査」によると、全学生のうちの奨学金を受給する者の割合は大学昼間部で52・5%、大学院修士課程で60・5%、大学院博士課程で66・2%と過半数を大きく超えている。教育を受ける立場である大学生の過半数が、利子を利益とする金融業者の顧客となるとは、とんでもないことだ。大学生の半数以上が数百万円の負債を背負って社会にでるという現実は異常としか言いようがなく、歴史的にも前例のない事態だ。

「水しか飲まない」「一切の消費をしない」と語る大学生たちに、いったいなにが起こっているのか。それを知るために、奨学金や大学生のブラックバイト問題を追及している中京大学・大内裕和教授に会いに行くことにした。予定を変更して那覇空港から名古屋へ向かった。

浅田真央や安藤美姫、室伏広治などを輩出していることで有名な中京大学は、地下鉄八事駅前にある。閑静なキャンパスに華やかな校舎が建っていた。大内教授の研究室で話を聞いた。

 「おっしゃる通りです。今の大学生は経済的に大変なことになっているし、性風俗でアルバイトをする女子学生も、それはたくさんいるでしょう。経済的に破綻しているのだから、当たり前の話です。今の学生たちは日本学生支援機構が仕掛ける〝奨学金〟という貧困ビジネスの被害者といえます」

大内教授に『女子大生風俗嬢』という書名を言いづらかったが、表情を変えることなく、すぐにそう答えた。

 「今は学生の半分以上が一般的なサラリーマンの年収以上の借金を背負っている。90年代後半あたりまで、奨学金の受給者は大学生全体の2割程度だったけど、今は52・5%となって少数派ではなくなってしまいました。

受給率の上昇は、そのまま日本の社会が反映されています。まず、雇用の変化ですね。90年代後半までは年功序列型の雇用が存続して、子供が大学生になる頃には父親の賃金は上がっていた。子供の大学の学費は、家庭で捻出できていたのです。バブル世代と呼ばれる我々の世代は、バイトしなくていい学生もたくさんいたし、学費を親が払うのは当たり前だった。アルバイト代とは基本的に自由になるお金で、稼いでも稼がなくてもなんとかなる気楽さがあったじゃないですか。たとえバイトを辞めても、単に遊ぶお金が減るだけだったわけですね。

高度経済成長期から学費+αが親から出ていた時代が長く続きましたが、90年代後半に年功序列型の雇用が壊れて状況が変わってきます。あらゆる企業でリストラの嵐が吹き荒れて、98年から顕著に日本全体で世帯収入の下落が始まりました。それと比例するように、大学の学費を自分で稼ぐ学生が激増した。親から学生への給付はだんだんと減って、奨学金を利用しなければとても進学させられないという状況になったのです」

かつては大企業も積極的に高校新卒を受け入れていた。

高校新卒の就職率は90%台が続き、ずっと高いまま推移をしていたが、世帯収入と同じく、90年代後半をピークに減少している。高卒の新卒求人数は90年代前半の160万人台から、現在は20万人台という急激な下落を示している。世帯収入の下落と高校新卒採用の減少、その社会変動が大学生たちの経済的貧困の背景にあった。

 「地域によっては高卒の正規雇用は消滅している。正規の雇用で働こうと思えば、もう高卒ではダメですね。特に北海道、四国、九州は普通科の高校では正規の就職はほとんどないです。沖縄も就職はひどい状態だったでしょう。

 それと四年制大学が増えていることも、現状を生んだ原因の一つです。今の40代、50代の女性は四年制の2倍以上が短大卒だった。だんだんと短大では学生を集めることができなくなり、短大が四大へと移行した。短大の四大化ですね。そうなると年間の授業料は同じでも、費用と時間が2倍かかる。女子を持った家庭は短大ではなく、四大に進学させないとならないので負担が倍に増えたわけです」

世帯収入が下がっているのに大学にかかる費用と時間は倍増、さらに理科系は修士課程までの進学が一般化している。他にも薬学部やロースクールになると6~7年間となる。

経済的に追い詰められる理由が揃い過ぎているのだ。
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