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ICレコーダーがないと不安になる

7.5「女性への思い」

 7.5「女性への思い」は女性に振っています。宇宙の旅人として独我論を全面的に出すけど、やはり、女性とのつながりは持っていたい。

 そこに在るのは、女性への思いです。これで全体を変えていきます。これが「家庭を変える」の後にあるのは違和感があります。

 7.5.4「歴史のシナリオ」としては、未来をどう描くのか。女性主体の社会として、日本型の新しい循環を作っていく。内の世界から仕事を変え、家庭を変え、歴史を変えていくというシナリオです。この部分は「歴史を変える」にしてもいい位の話になります。

無限次元空間を生きていく

 独我論も宇宙の旅人のおかげで、無限次元空間を生きていく存在として、考えていくから、フリーです。その為に、情報を得るけど、内側の世界の人間として、外側での魅力は女性しか居ない。女性と本を仲介して、つながっていく。

書き起しサービス

 ICレコーダーに入れ込んだものから、書き起して、ツイッターに持って行くのか。その時間的な速さを競わないといけない。どうしても、躊躇して遅くなります。書き起こしをもっと、簡単にできるシステムを作ると同時に、書き起しサービスをコミュニティに作っていく。皆が同じことをやっていてはしょうがない。

アマゾンの世界

 アマゾンは配達に夢中になっています。ドローンで配達、半日で自分たちで配達。モノの世界と情報の世界をつなげていく。バーチャルとリアルをつなげることは本の世界で散々、経験してきた。それが強みになっていく。

 そこで重要なのは、リアルな世界でモノをどうつなげていくのか、それが生活を思い切って変えることになるし、従来の概念を否定することになる。

 空を使えば、モノの配達は楽になります。配達するということは集約しないといけません。ハブである限り、それは重要です。

 タブレットの集約では、アマゾンは郵便屋さんを使いました。一日に2回は家を訪れる郵便屋さんが集約しました。コンピニも中間の存在になります。

 その時に、トラック便を使うことは活かした話ではない。混乱を増すだけです。郵便屋はスーパーカブです。コンビニの集約では、ハブに集めて、一日に三回で済むようにして、セブン-イレブンは成功しました。

7.6「未唯空間を構築」

 7.6「未唯空間を構築」。ここで「家庭を変える」が出てきます。

 如何に内側の世界で、自分の考えをベースにしていくのか。それで初めて、家庭は変えられる。そうなると家族はバラバラです。どうやって連駅取るのかの答えは出ていません。奥さんに聞いてほしい。

 家庭のカタチは変わります。わが家はリクを通じて、最低のコミュニケーションを行っています。

 社会との関わりとして、私は図書館を通じています。公共図書館でよかったのは、「知の世界」のイメージができたことです。

 未唯空間の意味は思いを残すことです。他者に対してではなく、自分に対して、絶対的な存在に対して、思いを残すことです。これは錯覚な世界です。自分の中でイメージを作っていかないといけない。報告するわけではないけど、報告することを想定します。

7.7「全てを知る」

 そして、生活の目的は何かというと、7.7「全てを知る」ことです。これは知の世界から来ています。また、存在から来ています。「全て」は自分の内のすべてです。

 7.7.3「全てを表す」。これは「全てを知る」ことに対して、全てを表すことでなく、聞かれたら、表す。すべてに見解を持つということです。コーランにしても、全てを表していないでしょう。ムハンマドはよく、記述したもんです。

 全てを知ることで、未来を知ることになります。これは歴史編の方で考えます。

7.8「存在の無」

 最後が7.8「存在の無」。これは答そのものを書いています。いいかどうかわからないけど、存在と無という、相対するものが同じところに在る所から、存在自体を無にすることで終わります。これは日本的な感覚が非常に強いです。

 それまでにやることとしては、得たものをカタチにしていく。新しい数学を作り、社会の位相化のカタチを示す。最後に歴史の変革の予言をしていく。未来学者としての答を出すとともに、自分がやることではないとして、存在の無を出していく。

民間防衛の対象は図書館だろ!

 日本には民間防衛が必要だと書いてあるけど、守るべきものがあっての防衛だから、図書館防衛は考えるけど、日本の防衛は考えない。

未唯へ

 心の旅を続けましょうという気になります。

 次世代のパチンコとしては、発射スピードを身体にシンクロさせる。

「存在の無」を遡る

 サルトルに「存在と無」があるけど、私の「存在と無」は別物です。ブログを見ると、2009年5月21日の既述に「存在と無の間にグループがある」とあります。この時点で、本人からすると全てなのに、相手からすると無になっている。これを「存在と無」として表現しています。

 「存在と無との間に宗教とかマーケティングが挟まります」。これは今と同様ですね。中間の存在が全て、そこに入り、核になるのがコミュニティ。同じブログに、二年間の豊田市図書館協議会の委員に選ばれたと書かれている。ちょうど、色々やった時です。同時に、受付の中野さんとの出会い、50m先から笑顔を掛けてくれる人のことも書かれています。一万冊達成時点ですね。それから今までに、328件の「存在と無」があります。

 1989年の雑記帳で、「存在と無」と東富士の中野さんへの思いが載っています。この時点から感じていた。長いですね。しつっこいですね。

赤いモスレキンのダイアリー

 今年の赤いモレスキンのダイアリーを使うのは止めましょう。居ない以上は。来年の黒のダイアリーから再出発です。だって、書く計画そのものがないから。

働き方が変わる

 働き方が変わるとは、本来の働くこと自体を変えることです。どこからお金をもらってくるとかではなく、お金は順繰りに回すものにしていく。だから、入社とか、家のあり方が変わってくる。

 今後の図書館にしても、私のアイデアになった時には、新しい働き方、新しい企画、新しい家庭、新しい日本、新しい歴史の姿が全てに絡む形に自然に持って行こうという話です。

 そこから、共有の意識をどうもってくるのか、高度サービス化がどういうカタチになっていくのか、同時に、所有するのではなく、シェアすることに変えていく。資本主義がいつの間にか変わってしまう。

 「働くを通して、人々に笑顔」。これは高度サービスそのものです。そして、笑顔がお金になる。順繰りになる。

ICレコーダーがないと不安になる

 新しい方のICレコーダがない。どこへ行ったのか? こういう時は本当にこころが不安定になる。持ち歩くときの場所は固定しないといけない。胸ポケットがないときにどこに入れるかを決めないといけない。

 やはり、ユニクロのウォームパンツを買いましょう。ICレコーダーを入れるのに、閥のポケットがありました。ボーナスがない、年金生活者としては、奥さんに買ってもらいたい。

 タケがどうにも長いけど、ユニクロが言うには、身体を合わせろということです。

『判例六法』も読書対象

 『判例六法』を読んでいるけど、これも読書なのかな? ブログに「事件は判決で起こっている」と書いた。この見出しは気に入っています。
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事件は著作権法の判例の中で起きている

『判例六法』より 著作権法(二条)総則 一 一項一号(著作物)⇒ これも読書なんでしょう。ちょっと分厚いけど。

1 本条一項一号にいう「思想又は感情」とは、人間の精神活動全般を指し、「創作的に表現したもの」とは、厳格な意味での独創性があることや他に類例がないことが要求されているわけではなく、「思想又は感情」の外部的表現に著作者の個性が何らかの形で現れていれば足り、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する」というのも、知的、文化的精神活動の所産全般を指す。(東京高判昭62・2・19無体一九・一・三〇〈当落予想表事件)著作百選三版六)

2 創作性は、表現の内容である思想について要求されるのではなく、具体的表現について要求されるものであり、公知の事実又は一般常識に属する事柄についても、これをいかに感得し、いかなる言語を用いて表現するかは各人の個性に応じて異なり得るから、書籍の記述中に公知の事実等を内容とする部分か存在するとしても、その具体的表現に創作性が認められる限り、著作物性は肯定される。(東京地判昭53・6・21無体一〇・一・ニ八七〈日照権事件)著作百選二版九八)

3 新たに創作されたスポーツ競技に関し、その競技の仕方のうち、どの部分をいかなる形式、表現で競技規則として抽出、措定するかは著作者の思想を抜きにしてはおよそ考えられないことであるなどとして、ゲートポールの競技規則書の著作物性を肯定した事例(東京地八王子支判昭59・2・10無体一六・一・七八〈ゲートポール規則書事件〉著作百選二版三六)

4 本条一項一号は、思想又は感情そのものは著作物ではなく、その創作的な表現形式が著作物として保護の対象となることを明らかにしたものであるとした上で、城の定義につき、学問的思想そのものであって、その表現形式に創作性は認められないとして、著作物性を否定した事例「璽只地判平6・4・25判時」五〇九・一三〇〈日本の城の基礎知識事件〉著作百選四版二)

5 誰が著作しても同様の表現となるようなありふれた表現のものは、創作性を欠き著作物とは認められない。休刊又は廃刊となった雑誌の最終号において読者宛てに書かれた挨拶文のうち、読者に対する感謝の念、休廃刊後の再発行や新雑誌発行等の予定の説明など、性質上当然に記事の内容となるものをありふれた表現で記述しているにすぎないものについては、創作性を認めることはできない。(東京地判平7・12・18知的裁二七・四・七八七〈ラストメッセージ in 最終号事件)著作百選四版三)→二章三節五款1

6 文章表現に係る作品において、ごく短いものや表現形式に制約があり、他の表現が想定できない場合や、表現が平凡で、ありふれたものである場合には、筆者の個性が現れていないものとして、創作的な表現であると解することはできない。(東京地判平11・1・29判時一六八〇・一一九〈古文単語語呂合わせ事件〉)

7 表現一般について、ごく短いものであったり、ありふれた平凡なものであったりして、著作権法上の保護に値する思想ないし感情の創作的表現がみられないものは、そもそも著作物として保護され得ないものであることや、交通標語の作成に当たっては、その昆さ及び内容において内庄狗に大きな則約があることなどに鑑みると、交通標語には、著作物性(同法による保護に値する創作性)そのものが認められない場合も多く、それが認められる場合にも、その同一性ないし類似性の認められる範囲(同法による保護の及ぶ範囲)は、一般に狭いものとならざるを得ず、ときには、いわゆるデッドコピーの類いの使用を禁止するだけにとどまることも少なくない。(東京高判平13・10・30判時一七七三・一二七〈交通標語事件〉)

8 一般に、ニュース報道における記事見出しは、報道対象となる出来事等の内容を簡潔な表現で正確に読者に伝えるという性質から導かれる制約があるほか、使用し得る字数にもおのずと限界があることなどにも起因して、表現の選択の幅は広いとはいい難く、創作性を発揮する余地が比較的少ないことは否定し難いところであり、著作物性が肯定されることは必ずしも容易ではないが、ニュース報道における記事見出しであるからといって、直ちに全てが著作権法一〇条二項に該当して著作物性が否定されるものと即断すべきものではなく、その表現いかんでは、創作性を肯定し得る余地もないではないのであって、結局は、各記事見出しの表現を個別具体的に検討して、創作的表現であるといえるか否かを判断すべきである。(知財高判平17・10・6【平17ネ一○○四九】〈ヨミウリ・オンライン事件控訴審〉著作百選四版四……著作物性を否定して著作権侵害を否定しつつも、前記記事見出しの無断使用について不法行為を肯定している。なお、原審の東京地判平16・3・24判時一八五七・一〇八は、前記記事見出しの著作物性を否定した上で、同記事見出しの無断使用について不法行為を否定していた)→一〇条2

9 裁判傍聴記につき、証言内容を記述した部分は、証人が実際に証言した内容を聴取したとおり記述したか、又は仮に要約したものであったとしてもごくありふれた方法で要約じたものであるから、原告の個性が表れている部分はなく、創作性を認めることはできず、項目分けについても、ごくありふれたものか、表現方法に選択の余地が乏しいため、創作性を認められないとして、著作物性を否定した事例(知財高判平20・7・17判時二〇一一・一三七〈ライブドア傍聴記事件控訴審判決〉著作百選四版五)

10 本条一項一号にいう表現の創作性については、厳密な意味で、独創性の発揮されたものであることが求められるものではなく、制作者の何らかの個性が表現されたものであれば足りる。この点は、プログラム等を用いて、コンピュータのディスプレイ上に表示された画面が、著作権法上の保護の対象となる著作物といえるか否かを判断するに当たっても、何ら変わることはない。ただ、コンピュータのディスプレイ上に表示される両面にっいては、①所定の目的を達成するために、機能的で使いやすい作業手順は、相互に似通ったものとなり、その選択肢が限られること、ューザーの利用を容易にするための各画面の構成要素も相互に類似するものとなり、その選択肢が限られること、②各表示画面を構成する部品も、既に一般に使用されて、ありふれたものとなっていることが多いこと、③特に、既存のアプリケーションソフトウェア等を利用するような場合には、設計上の制約を受けざるを得ないことなどの理由から、表示画面の創作性の有無を判断するに当たっては、これらの諸事情を勘案して、判断する必要がある。(東京地判平16・6・30判時一八七四・一三四〈コンピュータソフトウェア「Pro」esWeb」事件〉)

11 数学の代数や幾何あるいは物理の問題とその解答に表現される考え方自体は、アイデアであり、これを何らかの個性的な出題形式ないし解説で表現した場合は著作物として保護され得るとしても、数学的ないし物理的問題及び解答に含まれるアイデア自体は著作物として保護されない。このことは、パズルにおいても同様であり、数学の代数や幾何あるいは物理のアイデア等を利用した問題と解答であっても、何らかの個性が創作的に表現された問題と解答である場合には、著作物としてこれを保護すべき場合が生じ得るし、これらのアイデアを、ありふれた一般的な形で表現したにすぎない場合は、何らかの個性が創作的に表現されたものではないから、これを著作物として保護することはできない。(東京地判平20・1・31【平18ワ一三八〇三】〈パズル事件〉)
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山川哲学 哲学と思索

『もういちど読む 山川哲学』より 用語篇 哲学と思索

哲学 philosophy

 世界や人生が全体として何であるか、どのような意味や目的をもつものかという根本的な問題を考える学問。哲学は、日常生活で自明の前提とされている一定の世界秩序や価値体系を主題とし、それらを自覚的・批判的に考察する。科学が様々な領域の対象を実証的に研究する専門的・部分的な知であるのに対して、哲学はそのような対象を包み込み、我々がその中に生きている世界や人生についての全体的・包括的な知を求める。我々は世界の中に生きているから、外から世界を1つの固定的な対象として考察することはできない。哲学はつねに対象的なものをこえて、対象があらわれる地盤となる世界や人生の根源に迫りゆく思索の中で遂行される。哲学は、概念的に固定できる対象の真理をこえ、各自がそのっど哲学する主体的な働きの中で、世界や人生の全体的・包括的な真理を探究するのである。哲学は古代ギリシアで誕生し、智恵(ソフィアSophia)を愛すること(フィロス philos)という意味でフィロソフィアと呼ばれ、日本では明治時代に啓蒙思想家の西周によって哲学と訳された。

哲学すること

 カントは『純粋理性批判』の「純粋理性の建築術」の章で、「人は哲学を学ぶのではなく、哲学することを学べるだけである」と述べている。哲学は過去の哲学の知識の単なる集積ではなく、1人1人が自ら理性によって哲学する行為そのものである。過去に形成された哲学は、哲学することがあらわれた一定の歴史的形態であり、絶対的なものとして固定されると非真理に陥る。哲学は、過去の哲学を手引きにしつつ、それにとらわれずに各自が真理を主体的に思索する行為の中にある。

存在論 ontology

 あれやこれやの特定のものではなく、一般にあらゆるものの存在することの意味や根拠を探究する学問。存在論は、個々のものが何であるのかではなく、なぜ一般にものが存在するのかという、存在すること自体の意味を探究する。アリストテレスは、生物や政治など特殊な領域についてではなく、万物を一般に存在するものとして探究する学問を第一哲学・形而上学と呼んだ。ハイデッガーは、存在するもの(存在者)とそれが存在することの区別を存在論的差異と呼び、存在することの意味や根拠を探究することが、哲学の本来の使命であると説いた。

理性

 物事を筋道を立てて論理的に正しく考え、真理と虚偽、善と悪を判断する能力、古代ギリシアから人間は理性的動物と定義され、理性はすべての人間に共通した普遍的な思考能力とされた。近代哲学の祖デカルトは、「良識(理性)はすべての人に平等に与えられている」と説いた。カントは理論理性と実践理性に分け、理論理性は客観的世界についての真理を追究し、実践理性は善を実践して道徳的世界を建設すると説いた。人間は理性によって自然の客観的な法則を発見し、法や道徳をっくって人間社会を形成し、自然の威力や神への服従から独立して、自ら思考・判断し、自己の責任で行動する自律的で自由な人格となる。

真理 truth

 理性的なすべての人間が認める、普遍的な知識や判断。真理の特徴としては、第一に、それが主観的な思い込みや独断ではなく、個人の好悪や感情、時代や民族の違いをこえて人類に普遍的に妥当し、すべての人を納得させる普遍性をもつこと、第二に、理性に基づいて考えれば誰もが理解できる明晰な論理性・合理性をそなえていること、第三に、客観的な事実に裏づけられた実証性をもつこと、などがあげられる。哲学においては、古代から真理の規準を外界の現実におき、人間の認識が外の世界と一致することが真理であるとする伝統的な真理観があったが、近代になると真理の規準を人間の認識方法に求め、理性的な思考法則に一致することが真理であるとする合理的な真理観が生まれた。また、真理の規準をその判断がもたらす有益な成果におくプラグマティズムの真理観などもある。宗教では、超自然的な神の啓示に基づく信仰の真理が説かれる。

観念論 idealism

 物質よりも精神的・観念的なものを世界の根源的な実在とする立場で、物質を根源的実在とする唯物論と対立する、(1)理性によってとらえられる永遠の理念的な原型(イデア)があらゆる感覚的なあらわれの模範になるというプラトンのイデア論、(2)あらゆる現実の底には精神的な実在があり、それが理念となって歴史を通して実現されるとするヘーゲルなどのドイツ観念論、(3)物質的実在を否定し、すべてのものは知覚されたものにすぎないというバークリーの思想や、さらに自我さえ知覚の束と考えてその実在を否定したヒュームらの思想、(4)仏教におけるすべての世界は心のあらわれとする三界唯心の考えや、世界を心(識)の生みだしたものとする唯識の思想がある。

自由

 自らに由るという意味で、他者からの拘束を受けず、自らの意志に従って行為すること。好き勝手や気ままという意味に使われることもあるが、近代ではすべての人に生来そなわる人権とされ、他者に危害を加えない限り、自己の意志に従って行為することができるという, J.S.ミルの説いた「他者危害の原則」が前提とされる。カントは、自然界を支配する必然的な因果法則とは別に、自発的に行為を始める能力とし、自らの理性が自己立法する道徳法則に従う自律的な行為に自由を求めた。
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山川哲学 ハンナ=アーレント

『もういちど読む 山川哲学』より 用語篇 ⇒ やはり、ハンナ=アーレントが好き

ハンナ=アーレントHannah Arendt 1906~75

 ドイツで生まれ、アメリカに亡命した政治学者。ユダヤ人家庭に生まれ、大学で哲学・神学を学ぶが、反ナチスの運動に協力し、1941年にアメリカに亡命した。51年に『全体主義の起源』を出版し、帰属意識を失って孤立した大衆が、空想的な人種的イデオロギーに所属感を求め、全体主義の組織に吸収される過程を分析した。61年には、イスラエルで元ナチスの親衛隊のアイヒマンの裁判を傍聴し、静かで平凡な人間がユダヤ人虐殺を遂行する指導者になったことに関心をもった。主著『全体主義の起源』『人間の条件』。

全体主義〈ハンナ=アーレント〉

 個人よりも全体を優先する政治思想をさす。独裁者への絶対的服従のもとに、国家優先のイデオロギーが強制され、思想的統一が徹底され、反自由主義・反民主主義・人種主義・排外主義などの政策がとられる。アーレントはナチズムに加え、スターリンの独裁も含めて全体主義と呼び、全体主義を帰属意識を失ってアトム化され、孤立させられた個人からなる大衆組織と考えた。個人が共通の利益で結ばれた一定の階級や社会集団に属している時は、その集団を代表する政党を通じて公共的な政治に参加する。しかし、いかなる社会集団にも属さない大衆は、孤立して無力感にとらわれ、所属感を与えてくれる空想的な人種主義にひかれ、ファシズムのイデオロギーの虚構の世界にたやすく吸収される。所属感をもたないアトム化された大衆が、全体主義の発生の条件である。

自由な行為〈ハンナ=アーレント〉

 政治の公共的世界で自由に話し合い、共同の活動に参加する行為。アーレントは人間の活動を、労働(labor)〈ハンナ=アーレント〉・仕事(work)〈ハンナ=アーレント〉・活動(action)〈ハンナ=アーレント〉の3つに分けた。「労働」は生命を維持するために食糧を得、「仕事」は自然を加工して使用するためのものをっくり、文化的世界を形成する。「活動」は私的利害の束縛から解放されて、政治の公的な空間で自由に話し合い、言葉で相手を動かして、共同体を形成する。

公共性(公共的空間)〈ハンナ=アーレント〉

 アーレントは古代ギリシアのポリス(都市国家)で、アゴラ(広場)に集まった市民が自由にポリスについて議論したことをモデルに、人々が共通の課題に関心をいだき、政治や社会のあり方について自由に議論する公共的な場、公共的空間こそが政治であると説いた。特定の個人や集団の利益を離れた対話こそが、社会的存在としての人間の本来の自由な活動(アクション)である。政治は私的利益に縛られない自由な言語活動のための公共的な活動空間であり、それを通じて公共性が形成される。
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山川哲学 ことば篇

『もういちど読む 山川哲学』より

「人は哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぷことができるだけである。」(ドイツの哲学者 カント『純粋理性批判』)

「死はだれとも代わることのできない、我われの最も固有の可能性である。この死の可能性へとかかわることが、我われの最も固有な存在しうることを明らかにする。」(ドイツの哲学者 ハイデッガー『存在と時間』)

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」。(オーストリア出身、イギリスの哲学者 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

「我われは目を見開いて限界状況へと入り込むことによって、我われ自身へと生成するのである。」(ドイツの哲嘆者 ヤスパース『哲学』)

「『持つ』存在様式は、財産と利益を中心とした態度である…『ある』様式においては、幸福は愛すること、分かち合うこと、与えることの中にある。」(社会心理学者 フロム『生きるということ』)

「誰もが他者であって、誰ひとりとして自分自身ではない…そのようなただの『ひと』に自分を引き渡してしまっている。」(ドイツの哲学者 ハイデッガー『存在と時間』)

「現実的なものは、真なるものが肯定され、偽なるものが否定されて消えゆく生成消滅の運動であるが、その生成消滅それ自身は、生成も消滅もせずに、それ自体で存在し、真理の生命の現実と運動を形成している。真理とは酒の神バッカスの祭りの陶酔であり、そこにいあわせた人は、誰一人として酔わぬことはない。」(ドイツの哲学者 ヘーゲル『精神現象学』)

「全体性が真理である。」(ドイツの哲学者 ヘーゲル『論理学』)

「生も一時の位なり、死も一時の位なり。」(鎌倉時代曹洞宗の開祖道元『正法眼蔵』)

「自分へのとらわれを除いて、世界が空であると観察せよ。されば、死を渡るであろう。」(ブッダ『スッタニパータ(経集)』)

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